歴史とは、常に後知恵によって語られるものである。
のちに戦史研究家たちが、この「フィリピン強行偵察作戦」の航跡図を海図の上に引いた時、彼らは一様に、横須賀鎮守府の若き司令官が描いた作戦の極端なまでの「大胆さ」と、それを可能にした九隻の艦娘たちの「頑健さ」に驚嘆の息を漏らすことになる。
出撃から一夜が明けた太平洋。
「天気晴朗なれども波高し」
という古の海戦の言葉を体現するように、空は高く澄み渡っているものの、海面には白い波頭が立ち、決して穏やかとは言えない海況であった。そのうねりの上を、九つの影が時速二十ノットを維持したまま、一直線に南西へと疾走している。
艦隊の陣形は、極めて理にかなった『輪形陣(りんけいじん)』を構築していた。
先行し、艦隊の刃(前衛)として波を切り裂くのは、歴戦の水雷戦隊旗艦である軽巡洋艦・阿武隈。そして艦隊の最後尾(後詰)には、第六駆逐隊の電(いなずま)が索敵の目を見開きながら殿(しんがり)を務めている。中央の安全地帯には、情報収集の要であり艦隊の「目」たる軽空母・瑞鳳と、艦隊運動の統率を担う軽巡洋艦・神通が配され、その周囲を、暁、響、雷、吹雪、五月雨といった優秀な駆逐艦たちが円を描くように取り囲んでいた。
対潜・防空の双方において一切の死角を排除した、ハリネズミのような陣形。四方八方、そして海の底からいつ見えない魚雷が迫り来るか分からない絶対的な敵の支配水域にありながら、この九隻の陣形の中には、不思議なほど『平和』で、安定した空気が漂っていた。
熟練した水雷戦隊の阿吽の呼吸と、機関の振動が一定に保たれた巡航。それは、死地に飛び込む決死隊というよりは、完璧に統制されたアスリートたちがグランドを駆け抜けているような、機能美すら感じさせる光景であった。
■
一方、その頃。
ヤン・ウェンリーが送り出した九隻が、太平洋の海原を南西へと切り裂いていたのと同時刻、彼らの目標である南方海域の深淵においても、歴史の地殻変動は確実に起きていた。
――深海棲艦。
人類を海から駆逐し、圧倒的な暴力と恐怖で七つの海を支配してきた怪物たち。彼らは決して、無知蒙昧な獣の群れではない。彼らの中にも明確な指揮系統が存在し、情報を分析し、戦略を構築する「知性」が存在する。
現在、深海勢の南方方面における主戦力は、遥か南のソロモン海域――旧世紀に多くの鉄が沈んだ通称『鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)』から、フィリピン中部の『レイテ島』方面へと、大規模な集結を図りつつあった。
その理由の第一は、先日の東シナ海における局地的な敗北、そして何より、彼らにとって絶対的な武力の象徴であった『戦艦レ級』が、人類の手によって轟沈させられたという、痛撃とも言うべき事実であった。レ級の喪失は、深海陣営の首脳部(そのようなものが存在するとすればだが)に、深刻なパラダイムシフトをもたらした。『人間たちは、いまだ完全に死に絶えてはいない』。その認識の改めが、彼らの戦略をより冷酷で、より大規模なものへと転換させたのである。
「人間たちの再起を許してはならない。彼らの補給線(シーレーン)を完膚なきまでに叩き、干上がらせ、その抵抗の力を根本から削ぎ落とす」
それが、南方方面の指揮を預かる深海陣営の責任者――『空母ヲ級(フラッグシップ)』に与えられた命題であった。ヲ級は、無言の思索の中で、巨大な海図を自らの意識下に広げていた。彼女の冷徹な有機回路は、人間たちが次にどこから、どのように動くかを論理的に予測し、的確な防衛線を敷き詰めていた。
現在、彼女の警戒の「目」は、台湾とフィリピンを隔てるチョークポイント――『バシー海峡』方面へと強く向けられていた。
東シナ海を制した人類が、次なる戦略目標として東南アジアへの海上輸送路の確保に動くのは、
では、
ヲ級フラッグシップは、太平洋という広大な空間に対しても、決して無防備であったわけではない。彼女はポイントごとに、見えない暗殺者たる『潜水艦』を的確に配備していた。マリアナ諸島からグアムを経て、日本列島へと至る航路。その列島から
さらに、フィリピンの東側、太平洋に面した海岸線から約六十キロの近海には、足の速い『駆逐艦(ロ級・ハ級など)』の部隊を遊弋(ゆうよく)させ、近海への接近を物理的に阻む網を張っていた。
極めて理にかなった、二段構えの防衛網である。しかし、いかなる完璧な理論にも、必ず「例外」という名の死角が生じる。
この時、ヲ級フラッグシップの海図において、日本列島とフィリピンの中間地点に位置する『沖ノ鳥島』の周辺海域には、潜水艦も水上艦も、一隻たりとも配置されていなかった。完全な空白地帯(ブランク)であった。
なぜか。それは、ヲ級フラッグシップの極めて「常識的」で「合理的」な軍事的判断によるものであった。
―――人間たちは先日、多大な犠牲を払って東シナ海を奪還した。ならば、彼らが次に南下作戦を行うとすれば、自軍の制海権が及ぶ東シナ海を経由して、台湾方面からアプローチするのが最も安全で、かつ補給の理にかなっている。わざわざ制海権のない太平洋へ飛び出し、補給基地の存在しない沖ノ鳥島を経由して、数千キロを無補給で大回りしてくるような真似は、兵站学的にあり得ない。
空母ヲ級のその判断は、かつての地球の海戦史に照らし合わせても、士官学校の教科書に照らし合わせても、一〇〇パーセント正しい「正解」であった。
だが、ヲ級フラッグシップは知らなかった。いや、経験したことが無かった。何せ、今まではずっと戦術的、戦略的有利を保ってきたのだ。攻め込まれる経験は、艦娘以上に深海棲艦は持っていない。
そして何より。
横須賀で采配を振るうあのボサボサ頭の青年提督が、敵が合理的であればあるほど、その常識の盲点(裏)を突くことを至上の戦術とするという、極めて性質(たち)の悪い歴史の異端児であるという事実を。
■
「……なんだか、拍子抜けするほど敵に会わないわね」
陣形の最前列で波を蹴立てながら、阿武隈が首を傾げた。出撃から半日以上が経過し、彼女たちはすでに伊豆七島を抜け、広大な太平洋の深みへと突入している。しかし、ソナーには波のノイズ以外の人工音は一切響かず、上空を警戒する瑞鳳の偵察機からも「敵影なし」の報告が続いている。
「油断は禁物ですよ、阿武隈さん。敵がいないということは、我々が敵の予測の裏を突けているという証拠でもありますから」
中央を走る神通が、冷静に釘を刺した。
「ヤン提督の読み通りです。敵の潜水艦は、日本列島の近海か、あるいはマリアナ方面の航路に集中しているのでしょう。このまま速度を維持し、沖ノ鳥島の空白地帯を突き抜けます」
「了解っ! このまま突っ走るわよ、みんな!」
阿武隈の快活な号令に、第六駆逐隊と吹雪、五月雨の少女たちが力強く応じる。
深海棲艦の極めて合理的な防衛網であるマリアナから伸びる潜水艦のピケットラインの「内側」をすり抜け、フィリピン沿岸に張られた駆逐艦の哨戒網の「外側」を駆け抜ける。
ヤン・ウェンリーが引いた一本の赤い線は、空母ヲ級が構築した分厚い防衛線の、ほんのわずかに存在する論理の隙間を、縫い針のように正確に、かつ猛烈なスピードで貫こうとしていた。
歴史の皮肉とは、常にこうした双方の「合理性」のすれ違いから生まれるものである。強行偵察部隊が沖ノ鳥島を無事に通過し、フィリピン・ミンダナオ島の東方海域――敵の懐深くへその姿を現すまで、残された時間はあとわずかであった。
■
後世の軍事史家たちが、人類の反攻作戦における転換点として「フィリピン強行偵察作戦」を紐解く時、彼らは横須賀鎮守府の司令官ヤン・ウェンリーの戦略眼を称賛すると同時に、現場でそれを成し遂げた九隻の艦娘たちの超人的な胆力と、いくつかの「天の配剤」に驚嘆することになる。
艦娘たちが横須賀の桟橋を離れ、闇夜の海に溶け込んでから五日目の朝。
南洋の気候は、彼女たちの隠密行動を祝福するかのように、フィリピン諸島周辺に分厚い曇天と局地的なスコールをもたらしていた。空を覆う鈍色の雲は、高度数千メートルにわたって天然のカーテンを形成している。フィリピンの太平洋側沿岸を哨戒する深海棲艦の駆逐艦(ロ級やハ級)たちは、絶えず海面を睨みつけていたが、彼らの索敵網はついに、時速二十八ノットに増速し、フィリピン沿岸に接近する九つの小さな航跡を捉えることはできなかった。
艦船ほどの巨大な質量を持たず、海面を滑るように機動する艦娘の隠密性。それに加えて、気象条件という不確定要素が、深海勢の理にかなった防衛網を内側から無効化していたのである。
その遥か上空。分厚い雲海の中を、軽空母・瑞鳳が放った第一波の偵察隊が突き進んでいた。濃緑色に塗装された零式艦上戦闘機と艦上攻撃機の編隊。コックピットの中で操縦桿を握る妖精たちは、計器の数値と海図、そして自らの本能的な勘を頼りに、フィリピン諸島南端――ミンダナオ島の上空へと到達していた。
彼らは雲の底ギリギリまで高度を下げ、厚い雲の切れ間から眼下の海面を覗き込む。
そこに広がっていたのは、かつての地球の海とは全く異なる、異様にしておぞましい光景であった。ミンダナオ島の主要湾であるダバオ湾など、いくつかの天然の良港は、深海棲艦特有の禍々しい有機的な構造物によって完全に『泊地化』されていた。さらに妖精たちが双眼鏡を南方へと向けると、遥か彼方――赤道付近から南半球のソロモン海域、すなわち激戦地『鉄底海峡』方面から、複数の大艦隊が白波を蹴立てて北上してくるのが見て取れた。
視線を北西に転じれば、ビサヤ諸島を抱え込むレイテ湾の海面が、深海棲艦の浸食現象によってどす黒い『赤黒さ』に染め上げられている。それは、強大な軍事的プレッシャーがその海域に集中していることの何よりの証左であった。
■
妖精たちは、それ以上の深入りは危険と判断し、機体を反転させた。同日一三〇〇時。太平洋上を直進する本隊へ第一次偵察隊が帰還する。瑞鳳の飛行甲板に滑り込んだ妖精たちは、身振り手振りとスケッチブックを用いて、得られた情報を瑞鳳と旗艦の神通に伝達した。
「……ミンダナオ島周辺は泊地化。レイテ湾は浸食が進み、さらに南方から大規模な艦隊が続々と北上中、ですか」
神通は報告を受け、細い顎に手を当てて思案した。
「ヤン提督の読みは正しかったですね。敵は東シナ海の敗北を受けて、南方からフィリピン方面へ戦力を大集結させようとしている」
休む間もなく、瑞鳳の甲板から第二次偵察隊が空へと舞い上がった。次なる目標は、フィリピンの中枢をえぐる内海――レイテ湾、ダバオ、スールー海、そしてセレベス海に対する強行偵察である。今回は雲の恩恵を利用しつつも、高度をギリギリまで下げ、停泊している敵の『艦種』を正確に断定するという極めて危険な任務であった。
第二次偵察隊の発艦を見送った後、艦隊は予定通り進路を北西へと転じ、サマール島の東方沖――敵の懐を掠める最も危険な海域へと進軍を開始した。しかし、その機動の最中、完全無欠を誇っていた高速偵察部隊に、突如として致命的な危機が襲いかかった。
「……瑞鳳さん!? 速力が落ちています!」
後衛を務めていた電が、前方を走る軽空母の異変にいち早く気づき、声を上げた。見れば、瑞鳳の背部にある機関(ボイラー)から、不完全燃焼を示す黒煙が微かに立ち上っている。瑞鳳の限界速度である28ノットの全力航行へと切り替えた負荷によって機関部が悲鳴を上げ、ボイラーの一つが焼き付きを起こしたのである。
「ご、ごめんなさい……っ! 出力が上がりません!」
瑞鳳が顔をしかめ、荒い息を吐きながら必死に機関を回そうとするが、艦隊の巡航速度は容赦なく二十二ノットまで低下してしまった。
宇宙空間の艦隊戦であれば、速度の低下は陣形の再編によってある程度カバーできるかもしれない。しかし、海戦――とりわけ、いつ海底から潜水艦の魚雷が突き刺さるか分からない海域において、二〇ノット前半台への減速は、文字通り「死」を意味する。高速で走り抜けるからこそ潜水艦の照準を狂わせていた防御の前提が、ここで崩れ去ったのだ。
「全艦、対潜・対水上警戒を厳とせよ! 輪形陣を収縮し、瑞鳳を中央に隠しなさい!」
阿武隈の甲高い、しかし歴戦の水雷戦隊旗艦としての的確な号令が飛んだ。暁、響、雷、電の第六駆逐隊と、吹雪、五月雨の六隻の駆逐艦が、即座に瑞鳳を取り囲むように陣形を縮める。彼女たちの手には爆雷の安全ピンが握られ、ソナー員は文字通り耳から血が出るほどの集中力で海中のノイズを拾い集めた。もしこの瞬間に敵の潜水艦網に引っかかれば、艦隊は致命的な雷撃を受け、強行偵察作戦は海の底でついえていただろう。
だが、幸運の女神はここで横須賀の艦娘たちに微笑んだ。
彼らが減速を余儀なくされたその座標は、敵の空母ヲ級が『
「瑞鳳、機関の応急修理を急ぎなさい! 妖精たちを総動員して!」
神通の叱咤を受け、瑞鳳の艤装内部で妖精たちがハンマーとレンチを振るい、決死の応急処置を施す。地獄のような緊張の数十分間。やがて、黒煙が治まり、瑞鳳の足取りに再び力強さが戻った。
「……直りました! 二十八ノット、出せます!」
「上出来よ。では、二十八ノットの全力航行を維持、サマール島沖の回収地点まで急ぎます」
■
艦隊が再び死地を抜け出そうとしていた頃。
上空の第二次偵察隊は、文字通りの神業(アクロバット)を演じていた。妖精の操る艦載機は、厚い雲の隙間を見つけては急降下し、赤黒く染まったレイテ湾やスールー海に停泊する敵艦隊の頭上を掠めるように飛び抜ける。眼下に広がる戦艦、空母、重巡洋艦の数と艦容を、その小さな瞳に直接焼き付けた。
敵の対空砲火が火を噴き、迎撃の戦闘機が空母から飛び立つよりも早く、機体を鋭く引き起こして再び雲海の中へと姿を隠す。ヒット・アンド・アウェイの極致であった。
一七三〇時。サマール島東方沖、約百キロ地点。夕闇が迫る海上で、瑞鳳は命からがら帰還した偵察隊を全機回収することに成功した。妖精たちは、瑞鳳の甲板に降り立つなり、徹夜で書き上げたような手書きの地図とリストを提出した。そこには、『スールー海の奥深く』の様子、ビサヤ諸島(セブ島周辺)に新たに構築された深海棲艦の飛行場(陸上基地)の有無、そしてレイテ島周辺における艦種の明細が、驚くべき精度で書き込まれていた。
「……戦艦級が多数。正規空母らしき影も確認されています。加えて、鉄底海峡からの増援」
集められた情報を見た瑞鳳は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「間違いないわ。敵は、このフィリピン諸島を絶対防衛線として、全兵力を『集結』させている真っ最中よ」
ヤン・ウェンリーの最も恐れていた事態が、現実のものとして証明された瞬間であった。九隻の艦隊は、この致命的な情報を胸に抱き、夜の闇に紛れてさらに北――ルソン島方面へと、息を殺して進軍を続けた。
■
翌日。作戦開始から六日目の朝、〇六〇〇時。
夜明けとともに、艦隊はルソン島中部の東方沖――マニラの真東よりわずか北に位置するポリロ島の沖合約百キロの海域に到達していた。ここは、フィリピン最大の拠点であるマニラと、北のチョークポイントであるバシー海峡の、まさに中間地点である。
「最後の偵察よ。第一小隊は西の陸地へ向かい、マニラ周辺とリンガエン湾を。第二小隊は北方、バシー海峡の哨戒状況を確認しなさい」
瑞鳳の号令で、偵察機が二方向へと放たれた。しかし、ここへ来てついに、敵の哨戒網が彼女たちの存在を捉えた。
「……敵機発見! 北方より接近する、深海棲艦の偵察機です!」
上空の直掩任務に就いていた瑞鳳の零戦隊からの発光信号を受けて、瑞鳳が叫ぶ。雲の切れ間から接近してくる禍々しい黒い機影――敵の索敵機を発見したのである。
「瑞鳳、直掩機でただちに撃墜しなさい! 本隊へ報告を上げられる前に!」
神通の冷徹な命令が飛び、瑞鳳が発光信号にて直掩隊に攻撃指示を送ると、すぐさま零戦が急降下して敵偵察機に襲いかかる。訓練を積み重ねた妖精たちの機動は敵を圧倒し、敵機は通信を発する間もなく火ダルマとなって海面へと墜落していった。
「撃墜確認しました!」
瑞鳳が安堵の声を上げるが、旗艦である神通の表情は全く緩まなかった。
「……いいえ。これで、私たちの存在は敵に『バレた』と判断すべきね」
「えっ? でも、直ぐに前に落としましたよ?」
「索敵機が『未帰還』となった事実そのものが、敵の司令部に異常を知らせる最大の警報になるのよ。敵の指揮官が有能であれば、索敵機の予定航路から逆算して、この海域に我々が潜伏していることに気づくはず」
神通の指摘は、戦術家として極めて正しいものであった。
「なら、急いで転進しますか!?」
阿武隈が問うが、神通は静かに首を横に振った。
「いいえ。敵に居場所がバレたとはいえ、敵の機動部隊や水上艦隊がこの海域まで急行してくるには、数時間のタイムラグがありますから。……ヤン提督の教えを思い出してください。『速さこそが最大の防御』です」
神通の瞳に、夜戦の鬼としての決死の光が宿る。
「瑞鳳、直掩機をさらに展開して上空の目を広げなさい。そして、偵察隊の帰還を待ちます。敵が網を絞る前に、すべての情報を奪い取ってここを駆け抜けます」
かくして、敵の追撃の影が忍び寄る中、二方向へ向かった偵察隊は命がけの情報収集を敢行した。マニラ湾の上空に到達した妖精たちが見たものは、絶望的なほどの軍容であった。海は赤黒く染まり、戦艦や重巡洋艦を含む十隻以上の主力艦隊が、いつでも出撃できる態勢で集結している。
一方、マニラの北に位置するリンガエン湾は様相が異なっていた。そこに戦闘艦の姿は少なく、代わりに巨大な輸送艦(ワ級など)が無数に停泊し、物資の集積を行っていたのである。
マニラが絶対防衛のための「軍事拠点」であるならば、リンガエン湾は前線を支える巨大な「兵站拠点」と化している。この二つの情報を切り分けたことこそが、のちの反攻作戦において決定的な価値を持つこととなる。
一七〇〇時。日没が間近に迫る頃。敵の追撃部隊が海域に迫る中、瑞鳳は帰還した偵察機を間一髪で全機回収した。
「任務完了! 全機収容しました!」
「上出来よ! 全艦、面舵いっぱい! 進路をバシー海峡の東側へ! 最大戦速で離脱するわよ!」
九隻の艦隊は、夕闇に紛れるようにして一気に北へと加速した。機関の不調を乗り越えた瑞鳳も、駆逐艦たちに庇われながら時速三十ノット近い機動力を発揮する。
それから数時間後。索敵機が撃墜された座標へ、深海棲艦の快速駆逐隊が殺到し、海面をサーチライトで照らし出していた。しかし、そこに残されていたのは、わずかな油膜と波の跡だけであった。戦艦や正規空母を中心とした重厚長大な大艦隊の常識では、敵がこれほど短時間で海域を完全に離脱しているとは想像もつかなかったのだ。
『犬は噛み付き、猫は引っ掻く』。
呉の井上提督が口にしたその比喩は、見事に証明された。大火力を投射して敵を撃滅するのが戦艦の喧嘩のやり方であるならば、敵の懐深くに潜り込み、見つかっても捕まらない機動力ですべてを盗み出すことこそが、水雷戦隊の喧嘩のやり方である。
■
夜闇に紛れた一九三〇時。
艦隊はバシー海峡の東端へと到達し、敵の防衛線を背後に置き去りにしていた。
明日の朝には、佐世保鎮守府の哨戒機が飛ぶ安全圏――東シナ海へと生還を果たすことになる。人類の未来を分かつ壮大な情報戦(インテリジェンス・ウォー)は、九隻の少女たちの奇跡的な生還と、横須賀の魔術師の完全な勝利によって、その幕を閉じようとしていたのである。