ヤン・ウェンリー提督の艦これ日誌   作:灯火011

42 / 43
本当は怖い電ちゃん

 ルソン島沖の死地を駆け抜け、完全な闇夜に包まれた海を、九隻の艦娘たちは北上していた。フィリピン諸島という、敵の絶対防衛圏からの離脱。全軍の無線を封鎖し、ひたすら海風と波の音だけを友として進む隠密航行である。

 

 殿(しんがり)を務める第六駆逐隊の電(いなずま)は、後方の暗闇を油断なく睨みつけながら、安堵とも疲労ともつかない小さな吐息を海風に溶かした。

 

「……潜水艦は、いなかったのです。運が、よかったのです」

 

 苦笑交じりの彼女の呟きは、偽らざる本心であった。広大な太平洋を大回りしてきたこの数日間、彼女たちはついに一度も、海中に潜む見えない暗殺者からの雷撃を受けることはなかった。ヤン・ウェンリーが立案した「敵の論理の隙間を突く」という極端な航路選択と、時速二十ノットから二十八ノットの全力機動が、潜水艦部隊に照準を合わせる暇を与えなかったのである。

 

 だが、軍事の歴史において、兵士が自らの「幸運」を口にした直後ほど、運命の女神が冷酷な手のひら返しを見せる瞬間はない。

 

■

 

 深夜。艦隊が、フィリピンと台湾を隔てる最大のチョークポイント――『バシー海峡』へと差し掛かった時のことである。

 

 ここは、黒潮の分岐点にあたり、海底の地形も相まって極端に海流が乱れる難所である。波は荒れ、潮流のノイズがソナーの音響探知を著しく阻害する。深海陣営の指揮官(フラッグシップ)が、太平洋の広大な海原で彼女たちを見失った後、論理的な帰結として「待ち伏せ(アンブッシュ)」の網を張るとすれば、この海峡以外にあり得なかった。

 

「……ッ!? 右舷前方、距離近し! 雷跡多数!」

 

 先頭を走っていた阿武隈が、夜の闇を切り裂いて海面を滑り寄ってくる『幾筋もの白い航跡(ウェーキ)』を肉眼で捉え、悲鳴のような警告を発した。完全なる無音からの奇襲。荒れ狂う海流のノイズに隠れ、敵の潜水艦群は艦隊の至近距離にまで肉薄し、必殺の魚雷の扇を放っていたのである。

 

「全艦、回避ッ!」

 

 神通の号令が飛ぶ。九隻の艦娘たちは、反射的に舵を限界まで切り、波を蹴り立てて魚雷の軌道から身を捩った。しかし、待ち伏せ側が放ったゼロ距離からの雷撃網は、あまりにも濃密であった。最後尾から二番目の航跡が、先頭を走る第一水雷戦隊旗艦、阿武隈の横腹へと無慈悲に吸い込まれた。

 

 ドゴォォォォォンッ!!

 

 闇夜のバシー海峡に、巨大な水柱とオレンジ色の爆炎が立ち上がった。

 

「阿武隈さん!!」

 

 吹雪と五月雨が悲痛な叫びを上げる。爆発の衝撃波で海面が揺れ、阿武隈の身につけていた艤装の一部がひしゃげ、装甲板が吹き飛んだ。

 

 中破(ちゅうは)

 

 ――戦闘継続は可能だが、機関部へのダメージにより、これ以上の最高速の発揮は不可能な手痛い損害である。

 

「くっ……! 私にかまわないで! 陣形を崩すな! 駆逐隊前へ!」

 

 阿武隈は顔を黒く煤けさせ、痛みに顔を歪めながらも、旗艦としての意地で海上に踏み止まり叫んだ。敵の潜水艦が初弾を命中させたということは、次弾を装填される前に沈めなければ、速度の落ちた艦隊は次々と海の底へ引きずり込まれることを意味する。

 

 だが、見えない暗殺者たちにとって今宵、相手が悪すぎた。一隻の巡洋艦を手負いにした代償として、彼らは暗闇の中で怒り狂う『六隻の猟犬たち』を解き放ってしまったのである。

 

「阿武隈さんによくも……、ウラーッ!!」

「絶対に逃がさないわ!」

 

 響と暁が、一切の躊躇なく魚雷の航跡を逆算し、敵の潜む海域へと猛然と突進を開始する。そして、その猟犬たちの群れの中で、最も冷徹に、最も研ぎ澄まされた殺意を海中へと向けていたのは、最後尾にいた駆逐艦・電であった。

 

「…………」

 

 電の表情から、いつもの温和で心優しい少女の面影は完全に消え去っていた。

 

 荒れ狂うバシー海峡の潮流。波が船体にぶつかる音、味方のスクリュー音、そして阿武隈の被弾による海水の乱れ。ソナーのヘッドフォンからは、耳をつんざくような激しいノイズが絶え間なく流れ込んでいる。

 

 並のソナー員であれば、この騒音の中で敵の微かな駆動音を聞き分けることなど不可能だ。だが、電はヘッドフォンを両手で強く押さえつけ、目を閉じ、自らの魂の奥底にある『記憶』と同期した。かつて、自分を暗い海の底へと沈めた見えない敵。その忌まわしいスクリューの回転音、海水を掻き分ける金属の軋み。

 

(……見つけた、のです)

 

 雑音の海の中から、彼女の聴覚は三つの異質な駆動音を完璧に分離し、その三次元座標を脳内の海図へ正確にプロットした。

 

「数は、三。右舷二十度、距離八百……深度、浅いのです。全速で沈めるのです!」

 

 電は目を見開くと同時に、波を蹴立てて敵の頭上へと正確に滑り込んだ。彼女の指示に従い、吹雪と五月雨、そして雷たちが連携して退路を塞ぐように爆雷の包囲陣を敷く。そして、電自身も自らの背部に背負った爆雷投射機から、時間差を設定した漆黒の樽を、冷酷なまでの精度で次々と海中へと投下した。

 

 一秒、二秒、三秒。

 

 ズドォォォォン……ッ!!

 ドゴォォォンッ!!

 バゴォォォォォンッ!!

 

 海中から、連続して三つの重々しい爆発音が響き渡り、海面が内側から大きくドーム状に隆起した。次いで、真っ白な水柱とともに、深海棲艦の潜水艦が持つ禍々しい装甲の破片と、ドロドロとした真っ黒な重油が大量に海面へと噴き上がった。

 

 ソナーの反応が、三つとも完全に消失する。

 

 まぐれ当たりではない。電の放った爆雷は、潮流の計算すらも完璧に織り込んだ上で、敵潜水艦三隻の頭上にドンピシャリと直撃し、その耐圧殻を一瞬で圧壊させたのである。

 

 海面に広がる油膜と残骸を見下ろしながら、電はソナーのヘッドフォンを外し、氷のように冷たい、静かな声で呟いた。

 

「……潜水艦は、生きて帰さない、のです」

 

 それは、夜の海に蠢くすべての見えない敵に対する、死神の宣告にも等しい響きであった。

 

■

 

「……敵潜水艦、全隻の撃沈を確認。周囲に他の反応はありません」

 

 神通の冷静な報告が響き、艦隊にようやく張り詰めた糸が切れるような安堵の空気が流れた。しかし、潜水艦という脅威を排除するために払った代償は決して小さくはなかった。

 

「阿武隈さん、大丈夫ですか!?」

「ええ……なんとか。でも、缶(ボイラー)がいくつかイカれちゃったわね」

 

 阿武隈は工作兵の妖精たちに応急処置をさせながら、悔しげに唇を噛んだ。彼女の航行速度は、出せるとしてもせいぜい十八ノットまで低下していた。二十八ノットの高速を誇った偵察艦隊の機動力は、ここに来てついに失われたのである。

 

「十八ノットで構いません。黒潮に乗れさえすれば、二十ノットは出せますから。皆さん、陣形を再編し、阿武隈さんを中央へ。夜明けまでに、一気にバシー海峡を抜けて沖縄方面へ向かいます」

 

 神通の指揮のもと、九隻の艦隊は手負いの旗艦を庇うように密集陣形を組み直し、再び北を目指して進軍を再開した。速度が落ちたことで、敵の追撃部隊に捕捉される危険性は跳ね上がった。誰も口には出さないが、残りの夜の時間は、文字通り生きた心地のしない、胃を雑巾のように絞り上げられるような緊張の連続であった。

 

 しかし、深海勢の指揮官もまた、この闇夜の海峡で三隻の潜水艦が一瞬にして屠られたことで、待ち伏せが破られたという戦術的混乱に陥っていた。空母ヲ級が急ぎ放った追撃の水上部隊がバシー海峡に到達した時、すでに九隻の少女たちは海峡を抜け、東シナ海の周縁部へとその姿を眩ませていたのである。

 

 やがて、長く苦しかった夜が明け、東の空が白み始めた。沖縄方面の海域。夜明けの穏やかな波に揺られながら、疲労困憊の艦娘たちがふと天を仰ぐと。

 

 ブロロロロロ……ッ!

 

 朝日に照らされた雲の隙間から、二機の濃緑色に塗装された双発機が、彼女たちの頭上を親しげに翼を振りながら通り過ぎていった。ヤンの依頼により佐世保鎮守府が放った、長距離哨戒機であった。

 

「……味方よ」

 

 瑞鳳が、大きくため息を吐きつつ、涙声でポツリとこぼした。

 

 味方の航空機が飛んでいるということは、この海と空が、すでに人類の制海権・制空権の及ぶ『安全圏』に入ったことを意味している。

 

「終わった……、私たち……!」

「はい……! 無事に、帰ってこられたのです……!」

 

 暁が安心に視線を落とし、雷と響が抱き合い、電が安堵の涙を浮かべる。吹雪と五月雨も、阿武隈の手を握って歓喜の声を上げた。絶望的な距離と、敵の絶対防衛網。見えない暗殺者からの奇襲。すべてを乗り越え、九隻の艦娘たちは、一隻の欠落も出すことなく、すべての情報を抱いて生還を果たしたのである。

 

 歴史の分水嶺となる情報(インテリジェンス)が、横須賀の魔術師の元へと届けられるまで、あとわずかであった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。