横須賀鎮守府、作戦司令室。
金剛が市街地で思わぬ『縁』を拾い、妖精たちが新たな艦娘の顕現に向けて熱狂していたその頃。ヤン・ウェンリーと秘書艦・大淀は、執務室のデスクに広げた巨大な海図を前に、静かな、しかし極めて高度な戦略的対話を交わしていた。
海図の上に描かれているのは、フィリピン諸島を中心とした広大な南方海域である。
「恐らくだがね、大淀さん」
ヤンは片手にぬるくなった紅茶のカップを持ったまま、もう一方の手で海図のルソン島北西部――リンガエン湾のあたりをトントンと叩いた。
「敵がこれまで、東シナ海方面へ継続的に物資や増援を送っていたという事実から逆算すると……このリンガエン湾こそが、敵の巨大な『物資集積所(サプライ・ダンプ)』になっているのではないかと、私は睨んでいるんだ」
「リンガエン湾、ですか? 首都の港であるマニラ湾ではなく?」
大淀が不思議そうに首を傾げる。
「ああ。何せ、リンガエン湾は広大で物資の揚陸には向いているが、地形的に『要塞化しにくい場所』だからね」
ヤンは海図の地形を指先でなぞりながら、歴史家としての地政学的な知見を紐解いた。
「海に向けて大きく口を開けた地形は、外洋からの攻撃に晒されやすい。攻め込まれやすいと考えれば、彼らもそこに戦闘を担う『主力艦隊』を置くことはないはずだ。逆に言えば、彼らの打撃群の主力は間違いなく、入り口が狭く防御陣地を築きやすい天然の良港……つまり、要塞化しやすい『スービック湾』か『マニラ湾』に引きこもっているだろう。あとは、南部のセブやダバオも怪しい」
ヤンの口から、かつての地球の海戦史において要衝となった地名が次々と淀みなく語られる。
「ま、ここら辺はかつての大戦時に、日本海軍が前進拠点として活用していた場所だからね。オカルト的な地縛霊の理屈から言っても、深海棲艦の強力な水上打撃群がそこに陣取っているのは間違いないだろうね」
事も無げに敵の急所を言い当てるヤンの推論に、大淀は感嘆の息を漏らした。だが、同時に秘書艦としての冷静な計算能力が、極めて現実的で絶望的な壁を彼女に突きつけた。
「……提督の推論通りだとして。マニラやスービックといった要塞化された天然の良港に敵の主力がひしめいているとなれば……。我が軍がそこへ攻め入るのは、非常に難しいのではないでしょうか」
「まぁ、普通に考えれば極めて困難……いや、無謀だろうね」
ヤンはあっさりと同意し、肩を竦めた。
「現在の我が軍の兵站状況を見てみよう。横須賀、呉、佐世保。この三つの鎮守府が備蓄している燃料、弾薬、ボーキサイトの総量を計算し、かつ、艦隊が全滅するかもしれないという損耗のリスクを一切度外視して『決戦』に出ると仮定した場合……我々が一度の作戦で動かせる艦艇は、せいぜい十八隻程度が限度だろうね」
十八隻。それは、人類の存亡を賭けた大反攻作戦の戦力としては、あまりにも心許ない数字である。しかし、ヤンの言葉はそれだけでは終わらなかった。
「だが、それはあくまで『損耗を考えなければ』の話だ。現実にはそんな無茶はできない」
ヤンはデスクの引き出しから木製の駒を取り出し、海図の上へと無造作に落としていった。コト、コト、と乾いた音が室内に響く。
「我々は南方へ打って出る間も、奪還した東シナ海、大湊を中心とした北方、そして太平洋側の防衛線を維持しなければならない。それらの『防御』に割く戦力を残しつつ、純粋に攻撃用の機動部隊として前線に抽出できるのは……せいぜい十二隻といったところか」
ヤンは海図のフィリピン沖に、十二個の駒を並べた。
「対潜、対水上、そして対空。敵の要塞化された泊地をこじ開け、制空権を奪うためには、あらゆる局面に対応できるバランスが必要になる。これを組み合わせるなら……空母四、戦艦二、巡洋艦二、駆逐艦四。どう足掻いても、この程度の配置にはしたいところだ」
翔鶴と瑞鶴が合流すれば、加賀、瑞鳳(あるいは他の軽空母)と合わせて空母四隻の運用は可能になる。金剛型の戦艦や、水雷戦隊の精鋭たちをかき集めれば、編成自体は決して不可能ではない。
しかし、大淀の表情は暗かった。
「……十二隻の、大艦隊、と言えますが」
大淀は言葉に詰まった。
「ですが提督……それでは、あまりにも……」
「わかるよ、大淀さん」
ヤンは彼女の言い淀んだ言葉を先回りして引き取り、ボサボサの黒髪をガリガリと掻き回した。
「先日の東シナ海の奪還作戦においてすら、敵は二十隻以上の大艦隊を並べてきた。敵の本丸たるフィリピンに、どれほどの数の化け物が待ち構えているか想像もつかない。十二隻で挑むなど、正気の沙汰ではない……そんな数で本当に大丈夫か、って言いたいのだろう?」
大淀は沈痛な面持ちで頷いた。艦娘一人一人の戦力がどれほど優れていようと、軍事における数の暴力は絶対である。十二隻の艦隊が、数十、数百の深海棲艦がひしめく要塞へ突入すれば、待ち受けているのは凄惨な消耗戦と全滅の未来しかない。
だが、ヤン・ウェンリーの瞳には、悲観の色は微塵もなかった。
「まぁ、やりようはあるさ」
ヤンはカップの残りを傾け、穏やかなトーンで告げた。
「何、難しく考えることはないんだよ。……何せ、相手の方からご丁寧に、『戦力を分散してくれている』と、考えられるのだからね」
「分散、ですか?」
「ああ。マニラ、スービック、リンガエン、セブ、ダバオ……。敵は広大なフィリピンの多島海全域を支配し、それぞれに艦隊を配置していることだろう。裏を返せば、それは『すべての場所に戦力を散らしている』ということだ」
ヤンは海図に置かれた十二個の駒を、指先でスッと一つの点――マニラ湾の入り口へと集めた。
「すべての拠点を守ろうとする者は、結局のところ、何一つ守ることはできない。敵が広大な海域に戦力を分散させているのであれば、我々は十二隻という『集中した戦力』をもって、敵の局地的な隙を一つずつ、各個撃破で食い破っていけばいいだけの話さ。用兵の基本だよ」
ヤンの語る戦術は、かつて数々の絶対的劣勢を覆してきた不敗の魔術師の、極めてシンプルかつ冷徹な真理であった。
相手が百の戦力を持っていようと、それを十カ所に分けているならば、こちらは十二の戦力を一点に集中させることで、局地的に「十二対十」の数的優位を作り出せる。それを繰り返せば、いずれ敵の防衛網は内側から崩壊するのだ。
「……なるほど。敵の配置が分散しているという前提であれば、十二隻でも十分に勝機はあると」
大淀の表情から、先ほどの絶望感が薄れ、代わりに理知的な光が戻ってきた。
「そういうことさ。もっとも、その各個撃破の前提条件を成立させるためには、敵がどこに、どれだけの戦力を配置しているのかという『完璧な情報』が必要不可欠になるわけだがね」
ヤンはそこで言葉を切り、カップに残っていた最後の一滴を飲み干した。視線は再び、海図の遥か南方……分厚い雲と嵐に覆われたフィリピンの海へと向けられていた。
「まぁ、あとは……あの阿武隈や神通たちの偵察部隊が、敵の急所を記した海図を持って、無事に帰ってくることを祈るだけだよ」
ヤンはコトリとカップを置き、静かに息を吐いた。
歴史の女神がどちらに微笑むか。その答えは、夜の闇を裂いて横須賀へと向かっている九隻の少女たちだけが知っていた。
■ ■ ■
一方、その頃。
ヤン・ウェンリーが横須賀の執務室で海図に駒を落としていたのと時を同じくして、遥か南方の海。深海棲艦の巨大な前進拠点と化したマニラ湾の最奥では、異形の司令官たる『空母ヲ級(フラッグシップ)』が、冷ややかな瘴気を漂わせながら自らの防衛陣形を根底から再構築していた。
彼女の有機的な演算回路が弾き出した次なる戦略。それは、ヤンの予測を正確に裏付ける形となる『戦力の分散』であった。
ヲ級フラッグシップは、決して無能な指揮官ではない。むしろ、人間たちのいかなる提督よりも冷徹に戦局を俯瞰できる、極めて優秀な戦術コンピュータと言うべき存在であった。彼女は、自らの支配水域をコソコソと飛び回っていた忌々しい人間の航空機――『羽虫たち』によって、自軍の配置状況がすでに抜き取られてしまったという事実を、冷厳に受け止めていた。
フィリピン海域を覆っていた分厚い雨雲のせいで、その羽虫たちが一体どこから飛来し、どこへ向けて飛び去っていったのか、正確な航跡を辿ることはできなかった。しかし、ヲ級の元には、それを推測するに足る二つの明確な状況証拠がもたらされていたのである。
一つは、ルソン島東方の海域へ放っていた自軍の偵察機が、何の前触れもなく未帰還となったこと。
そしてもう一つは、絶対の自信を持ってバシー海峡に配置していたはずの『潜水艦の哨戒線』が、たった一夜にして、ただの一隻も帰還することなく完全に沈黙したという事実である。
(――人間たちの偵察部隊は、すでに完全に包囲網を抜け、自分たちの縄張りへと逃げおおせた)
ヲ級はそう断定した。
無能な指揮官であれば、逃げた敵を躍起になって追いかけ、戦線を無駄に拡大させていただろう。だが彼女は違った。敵が、こちらの情報(手札)をすべて持ち帰ったという前提に立ち、即座に陣形の再編へと動いたのである。
敵がこちらの手札を知っているのなら、その手札をシャッフルし、再配置すればいい。
敵がいかなる方角から、いかなる戦力で攻め込んできても、決して致命傷を負わないための完璧な『網』を構築する。それが、ヲ級の導き出した軍事的合理性であった。
かくして、深海勢の大規模な戦力再配置が開始された。ヤン・ウェンリーが横須賀の執務室で名指しした四カ所の主要港湾――マニラ、スービック、セブ、ダバオ。かつて人間たちが要塞として活用したこれらの天然の良港には、それぞれ六隻程度で編成された強力な水上打撃群が、均等に割り振られ、強固な防衛陣地を構築した。
さらに、それだけではなく。手薄になりがちな太平洋側の沿岸部、レイテ島付近やラゴノイ湾といった拠点にも、万が一の奇襲に備えた遊撃部隊がそれぞれ配備されたのである。
点と点を結び、フィリピン諸島全体を面で覆い尽くすような、巨大で分厚い防衛網。 展開された深海棲艦の総数は、なんと六十隻を優に超えていた。
空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、そして水中の暗殺者たる潜水艦。更には、この泊地を守る大型の弩級戦艦。これだけの数が一つの海域に集結し、組織的な防衛線を敷いている。かつて人類が直面したことのない未曾有の超大艦隊である。
さらに、ヲ級の合理的な采配は、戦闘部隊の配置のみに留まらなかった。
軍隊の血液たる「兵站」の管理においても、彼女は万全を期した。これまでリンガエン湾の一カ所に集積させていた莫大な補給物資を、敵の一撃で全喪するリスクを避けるため、バラヤン湾、そしてバタンガス方面へと三分割して移動・分散させたのである。
(これであらゆる弱点は消滅した)
ヲ級はそう判断する。なにせ、六十隻を超える大艦隊が、要衝という要衝をすべて押さえているのだ。どこか一つの拠点が人間たちの襲撃を受けたとしても、各拠点には十分な耐久力を持つ六隻の防衛部隊がいる。彼らが敵を足止めしている間に、近隣の港から即座に増援が駆けつけ、圧倒的な数の暴力によって人間たちを包囲し、海の底へとすり潰す。
ヲ級フラッグシップ自身は、その巨大な蜘蛛の巣の中心たるマニラ湾の最奥に鎮座し、すべてを統括する冷酷な目を赤黒い海光のごとく光らせていた。
(来るなら来るがいい。哀れな人間たちよ)
彼女には絶対的な自負があった。いかなる天才的な戦術家が軍を率いようとも、この六十隻による完璧な包囲網を前にしては、すべてが徒労に終わる。小細工など通用しない、純然たる物理的質量の壁を築き上げたのだから。
■
――しかし。
歴史を俯瞰する後世の戦史家たちは、この時のヲ級フラッグシップの極めて合理的で、教科書通りに完璧な防衛布陣を前にして、こう評することになるだろう。
『これこそが、不敗の魔術師ヤン・ウェンリーの仕掛けた、最も恐るべき罠であった』と。
ヲ級は知らなかった。
横須賀の若き司令官にとって、敵が「六十隻の大艦隊を一カ所に固めて迎え撃ってくること」こそが、最も恐るべき最悪のシナリオであったという事実を。
そして、ヲ級が自軍の無敵を信じて構築したこの『完璧に分散された防衛網』こそが、ヤン・ウェンリーがわずか十二隻の戦力で敵を各個撃破するための、ただ一つの『絶対条件』であったということを。
合理性を追求した深海の知性が、皮肉にも人間の魔術師が望んだ通りの盤面を作り上げていく。
嵐の前の不気味な静けさが、赤黒く染まったフィリピンの海を覆っていた。人類の存亡を賭けた反攻作戦の火蓋が切られる時は、もう目前に迫っていたのである。