横須賀鎮守府の地下司令室での重い戦略会議を終え、幾分かの疲労と共に自らの執務室へ戻ったヤン・ウェンリーを待ち受けていたのは、二つの影であった。
一人は、いつものように理知的な眼鏡の奥に冷静な光を宿す秘書艦・大淀。
そしてもう一人は――戦闘用の艤装を解き、シックなトレンチコートと落ち着いた色合いのワンピースという見事な「私服」に身を包んだ戦艦・金剛であった。
「おや……」
ヤンはベレー帽を取りながら、目をパチクリと瞬かせた。
「金剛。今日は君の貴重な休日(オフ)のはずだが。街へ買い食いに出かけていたのではなかったのかい?」
「ノープロブレム! テイトクの顔が、無性に見たくなったんデース!」
ヤンが部屋に入るなり、金剛は満面の笑みを浮かべて突撃を敢行した。
「おわっ!?」
ヤンが避ける間もなく、金剛のしなやかな腕が彼の首に絡みつき、豊かな髪の香りと共にその胸へとダイブしてきたのである。
「こ、金剛。少しばかり落ち着きたまえ。私はただの人間だからね、戦艦の突進を真っ向から受け止める装甲は持ち合わせていないんだが……!」
「落ち着いてマース! テイトクの体温、とってもベリー・グッドですねー!」
ヤンは両手をどうしていいか分からず宙に浮かせたまま、大日本帝国海軍が誇る高速戦艦の、極めて物理的かつ情熱的なスキンシップに翻弄されていた。自由惑星同盟の軍事史において、一軍の最高司令官が執務室で部下の戦艦にホールドされるなどという珍事は、後にも先にもヤン・ウェンリーくらいのものだろう。
「……金剛さん。今日はその辺りでおしまいにしてください」
パン、と小気味よい音が執務室に響いた。大淀が手にしたバインダーの角で金剛の頭を軽く、しかし的確なスナップを効かせて叩いた音である。
「エー? ケチですねー大淀。テイトク、とっても良い抱き心地デスよ? 大淀も一緒にどうデスか?」
「結構です」
金剛の悪びれない誘いを、大淀は極めて冷淡に、しかし頬に微かな朱を差しながら一刀両断に切り捨てた。大淀の有無を言わさぬ迫力に押され、金剛は「チェッ」と唇を尖らせながらも名残惜しそうにヤンから離れた。
「やれやれ……助かったよ、大淀さん。これで私の頸椎は無事に元の位置を保つことができた」
ヤンは乱れた軍服の襟を正し、ボサボサの頭を掻きながら自らのデスクへと向かった。平和な、あるいは平和すぎる一幕であったが、ヤンが椅子に腰を下ろすと同時に、彼の纏う空気が「司令官」のそれへと切り替わった。大淀と金剛も即座に空気を読み、居住まいを正す。
「さて、本題に入ろう。先ほど、地下の司令部で今後の方針について承認をもらってきた」
ヤンは二人の顔を交互に見つめ、静かに告げた。
「我々の次なる戦略目標は、フィリピン諸島だ。……そして、私はマニラへ向かう」
「……ワッツ!?」
「提督が、ですか!?」
二人の声が重なった。金剛は目を丸くし、大淀は眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
「反対です、ヤン提督」
大淀が一歩前に進み出た。
「前線の指揮であれば、私たちにお任せください。提督は横須賀の安全な後方から、大局的な指示を出していただければ十分です。最高司令官がわざわざ敵のど真ん中へ赴くなど、軍の指揮系統としてあまりにもリスクが高すぎます」
「イエス! 大淀の言う通りデス!」
金剛も大きく頷き、身を乗り出した。
「前線で暴れ回るのはワタシたち艦娘の仕事デス! テイトクはここで、美味しい紅茶を飲んで待っていてくだサイ! 必ず、マニラの化け物どもを追い払って見せマース!」
二人のヤンを案じる強い思い。それは彼を一個の人間として敬愛するが故の、真っ直ぐな言葉であった。
「……ありがとう。君たちのその言葉だけで、胃の痛みが少し和らぐ思いだよ」
ヤンは苦笑しながら、しかし首を横に振った。
「だが、ただ敵を追い払うだけでは意味がないんだ。私がマニラへ向かうのは、そこに『前進泊地』……ひいては、この横須賀に匹敵する『前線司令部(鎮守府)』の機能を構築するためなんだよ」
ヤンの意図を聞かされ、大淀と金剛は一瞬言葉を失った。
「……マニラに、泊地を設置する、と?」
「ああ。シーレーンを確保し、東南アジアから日本列島への大動脈を完全に防衛するためには、最前線に確固たる拠点が必要になる。ただの補給所ではなく、前線で傷ついた艦娘たちを即座に修復し、刻一刻と変わる戦況に対応して艦隊を動かせる、大規模な前線司令部だ」
ヤンは海図を広げ、マニラ湾の周辺を指で囲った。
「横須賀からの遠隔指示では、通信のタイムラグと現場の状況変化に対応しきれない。前進泊地を一から……あるいは敵の施設を奪い取って再構築し、それを機能させるためには、どうしても現場での高度な政治的・軍事的判断が必要になる。……つまり、私が直接行って指揮を執る以外に、方法がないのさ」
大淀は小さく息を吐いた。ヤンの提示した戦略的論理は完璧であった。ただ戦闘に勝利するだけでなく、占領し、維持し、機能させる。その全体設計(グランド・デザイン)を現場で組み上げられる頭脳は、この世界においてヤン・ウェンリーしか存在しない。
「……確かに、それほどの規模の泊地設営と運用となれば、提督がいらっしゃらないと話が進みませんね」
大淀は理屈を飲み込み、わずかにトーンダウンして頷いた。
「そういうことだ。だから……」
ヤンはデスクから立ち上がり、二人の部下へ向けて、どこか申し訳なさそうな、しかし強い信頼を込めた眼差しを向けた。
「マニラへ向かう際、君たちには一緒に来てほしいんだ」
その言葉に、大淀と金剛は顔を上げた。
「大淀さん、君の秘書艦としての処理能力と、通信指揮能力は、前線司令部の構築に絶対不可欠だ。君がいなければ、私は三日で書類の山に埋もれて餓死するだろうからね」
「……買い被りすぎですが、光栄です」
「そして金剛。前線で建設作業を進める間、私たちの頭上と海を守るためには、君のような強力で頼もしい戦艦の力がどうしても必要になる」
「テイトク……!」
金剛の瞳が、嬉しさにパッと輝いた。
「もちろん、工作艦の明石にも来てもらう。泊地の工廠を立ち上げるためには彼女の腕が必要だからね。あとで妖精さんたちにも相談するが、彼らの一部にも同行してもらえないかと頼み込むつもりだよ」
ヤンは肩を竦め、少し困ったように笑った。
「ただ、全員が横須賀を留守にするわけにはいかないからね。妖精さんや艦娘は、一部抜粋……限られた人員での遠征(エクソダス)ということになる」
背後の安全を確保しつつ、限られた手札で敵地のド真ん中へ前線拠点を打ち立てる。それは、かつてヤンがイゼルローン要塞を拠点に繰り広げたような、壮大かつ緻密な軍事行動の幕開けを意味していた。
「……ワタシは、絶対についていきマース!」
金剛が、右手を胸に当てて高らかに宣言した。先ほどのいちゃつきモードとは打って変わった、第一戦隊旗艦としての誇り高き顔であった。
「テイトクがどこへ行こうと、ワタシが絶対に守り抜いてみせマース! マニラだろうと、深海の底だろうと、この主砲が道を切り拓きますから!」
「頼りにしているよ、金剛」
ヤンが微笑みかけると、大淀もまた、静かに、しかし深い決意を込めて深く一礼した。
「ヤン提督。横須賀の事務処理から最前線の司令部構築まで、この大淀、全身全霊をもってお支えいたします。佐世保にあるという輸送艦の手配と、マニラ遠征組の選抜リストの作成、急ぎ取り掛かりましょう」
「ああ、頼む。……忙しくなるぞ」
ヤン・ウェンリーは、窓の外の南の空を見上げた。
偵察部隊が持ち帰るであろう決定的な情報を待つ間にも、不敗の魔術師の陣営は、着々と次なる一手へ向けてその形を変えつつあった。
歴史の潮目は、すでに大きく動き始めている。
■
マニラへの前進泊地設営という、人類の反攻作戦における極めて重要な戦略的命題について議論を交わしていた三人の前に、不意に小さな訪問者が現れた。
執務室のドアがわずかに開き、作業着姿の『妖精さん』が一人、ちょこんと姿を見せたのである。彼は普段のせわしない様子とは打って変わり、腰に手を当てて胸を反らせ、極めて誇らしげな態度でヤンたちに向かって「こっちへ来い」と手招きをしていた。
「おや、我が鎮守府の技術の英雄たちじゃないか。今日はどうしたんだい?」
ヤンがベレー帽を弄りながら尋ねると、妖精さんはさらに強く手招きを繰り返す。
「何か良い事でもあったのかね。……やれやれ、行ってみるとしようか」
ヤンは苦笑しつつデスクから立ち上がり、大淀と金剛を従えて妖精さんの後をついていくことにした。彼らが案内されたのは、横須賀鎮守府の地下深く――新たな艦娘をこの世に顕現させるための神聖なるオカルトの祭壇、『建造ドック』であった。
「おや? 何かあったのかい?」
ヤンが呟く。妖精たちは顔を見合わせてニシシと笑い合うと、仰々しい仕草で建造ドックの重厚な扉を開け放った。
すると、そこに広がっていたのは、熱気を孕んだ青白い光であった。横須賀鎮守府に備え付けられた複数の建造ドックのうち、なんと『二つの炉』に同時に火が入り、轟々と稼働していたのである。さらに、傍らに設置された制御コンソールには、次のような建造時間が刻まれていた。
第一ドック:4時間15分43秒
第二ドック:4時間05分34秒
「……おや?」
四時間以上という長大な建造時間。それは、駆逐艦や軽巡洋艦といった小型艦ではなく、極めて質量の大きな『大型艦』が顕現しようとしている絶対的な証明であった。
「妖精さん。もしかして……」
ヤンが問いかけると、案内してきた妖精さんは力強く頷いた。横須賀において、ついに二つ目のドックが稼働を始めたのだ。
「君たちのお眼鏡にかなう、強力な『縁(えにし)』を手に入れたということかい?」
ヤンの問いに対し、妖精さんはその通りだと首を縦に振り、次いで、小さな指をビシッとヤンの背後に立つ金剛へと向けた。
「……ワタシ?」
金剛が目を瞬かせる。
「金剛、君は何か知っているのかい?」
ヤンが振り返って尋ねると、金剛は「あ!」と何かに合点がいったように手を叩いた。
「今日、休日の散歩がてら古道具屋に寄ったんデス。そこで、空母『赤城』の甲板だったという曲がった鉄の欠片と、戦艦『榛名』で使われていたという桜の紋章のお皿を見つけまして。それを工廠にいた妖精さんたちに渡したら、目の色を変えて飛んでいってしまったのデスが……」
その経緯を聞き、ヤンの脳内で瞬時に推論が完了した。
「なるほど……。この世界における『縁』とは、そういうものか」
ヤンは顎を撫で、炉の熱気を見つめた。
「かつての艦艇の物理的な一部や、そこで使われていた備品などが、彼女たちの魂を呼び寄せる強力なアンテナになるわけだね。……妖精さん。そうした旧世紀の遺物は、無条件で『縁』として機能するのかい?」
極めて合理的な質問であったが、それを聞かれた妖精さんたちの間に、なんとも微妙な空気が流れた。彼らは顔を見合わせ、首を傾げたり、腕を組んで「うーん」と考え込んだりしている。まるでそれは、「そうとも言えるし、そうでないとも言える」といった、オカルト特有の極めて曖昧な反応であった。
「……謎は深まるばかりだな。物理法則で割り切れないというのは、つくづく歴史家泣かせだ」
ヤンはボサボサの頭を掻き回して苦笑した。この世界において、神学と科学の境界線は常に曖昧である。
「まぁ、理屈はともかくとして、
ヤンがそう口にすると、妖精さんたちはパッと顔を輝かせてバッチリと頷いた。金剛はといえば、
「榛名が来るんデスね!」
と歓喜の声を上げてぴょんぴょんと飛び跳ねている。大淀も、これ以上ない強力な戦力の増強に、安堵の笑みを浮かべていた。
「なるほど、これは吉報だ。フィリピンへの大反攻作戦を控えている今、大型艦の戦力はいくらあっても多すぎるということはない。……ん?」
ヤンは、そこではたと気づいた。確か呉には間違いなく『赤城』が主力として配備されている。以前、資料で読んだはずだ、と。
「確か……、呉にはすでに、赤城が顕現していたはずだな」
ヤンが独り言のように呟くと、大淀が不思議そうに、
「はい、第一航空戦隊として立派に戦果を挙げられていますよ」
と補足した。
「ということは……だ」
ヤン・ウェンリーは、コンソールに刻まれた四時間以上のタイマーを見上げながら、先日、地下の老人たちから叩き込まれたこの世界の形而上学のシステムを思い起こしていた。
「この横須賀鎮守府にとって、これは記念すべき初の出来事になるわけだね。……我々の艦隊に初めて、他所の鎮守府と同じ記憶と魂を持つ存在、二人目の『分霊(ぶんれい)』をお迎えするということか」
同じ顔、同じ記憶を持つ少女が、別の場所で同時に存在する。論理を破壊するその不条理なシステムを、ついに自らの足元で直視することになるのだ。ヤンは一抹の感傷と、来るべき大戦略への確かな手応えを感じながら、青白い炉の火を静かに見つめ続けていた。