ヤン・ウェンリーを乗せた旧式駆逐艦『ゆうぐれ』と、大遠征(エクソダス)の主力たる十二隻の艦娘たちがマニラへ向けて出撃した後。主力を送り出し、不気味なほどの静寂に包まれた横須賀鎮守府では、残された後方部隊による新たな防衛体制の構築が静かに始まっていた。
主のいなくなった作戦司令室――ヤンの執務室のドアを、二人の軽巡洋艦が開けた。横須賀の留守を預かることになった、天龍と龍田である。
「……いやだわ。なんだか、とっても懐かしい光景ねー」
室内を見渡した龍田が、目を細めて感慨深げに呟いた。
「へっ。全くだぜ。……久しぶりだな、提督」
天龍が不敵な笑みを浮かべて声をかけたその先。ヤン・ウェンリーが座っていたマホガニーのデスクには、真新しい軍服に身を包み、威儀を正した一人の『老軍人』が腰を下ろしていた。
かつて、ヤンが横須賀に着任した夜、月明かりの桟橋で共に安酒を酌み交わした、あの老将官である。ヤンが前線へ赴くにあたり、臨時の横須賀鎮守府司令長官として、再びこの第一線の執務室へと引っ張り出されたのだ。
「……全く。まさか私の老いぼれた骨が、またこの席に座ることになるとはな」
老軍人は、デスクの表面を懐かしむように撫でながら、苦笑混じりに嘆息した。
「いやはや、ヤン提督という男は、あの気の抜けた風体に反して随分と人使いが荒い。引退した老人を座布団代わりにこき使うとは、若さとは恐ろしいものだよ」
「いいじゃないですか。老け込むにはまだ早すぎますよ、提督?」
龍田がからかうように言うと、老将は、
「手厳しいな」
と肩をすくめた。かつての絶望的な防衛戦を共に戦い抜いた老将と、歴戦の軽巡姉妹。彼らの間に流れる空気は、戦友としての確かな信頼と、心地よい郷愁に満ちていた。そして老将は、天龍たちの背後で緊張した面持ちで直立不動の姿勢をとっている、もう一人の留守番役――軽空母・瑞鳳へと、優しく、しかし確かな威厳を持った眼差しを向けた。
「君が、ヤン提督が手元に残した空の守りだね。……あの魔術師が主力空母を四隻も引き抜いておきながら、それでも横須賀は大丈夫だと確信を持てたのは、君がいるからだ」
「は、はいっ!」
「背後の安全なくして、前線の勝利はない。……留守の海は、よろしく頼むよ、お嬢さん」
歴戦の将からの最大の賛辞と期待。瑞鳳はパッと顔を輝かせると、緊張を吹き飛ばすような見事な敬礼で応えた。
「お任せください! 横須賀の空には、深海棲艦の偵察機一機たりとも近づかせません!」
老将は満足げに頷き、海図へと視線を落とした。前線でヤンが振るう魔術を完璧に成立させるためには、この本星たる横須賀の防衛を、何があっても死守しなければならない。老将の瞳に、かつての闘将としての鋭い光が戻っていた。
■
一方、その頃。
横須賀から遥か北方に位置する、凍てつくような冷たい潮風が吹き抜ける海。大湊鎮守府の沿岸部では、二隻の駆逐艦が、鉛色の海原を鋭い視線で見つめていた。
「ついに、フィリピンまで一気に奪還する作戦が発動したらしいわね」
吹雪型の駆逐艦・叢雲(むらくも)が、腕を組みながら隣の同僚へと言葉を投げた。
「呉や佐世保の連中も総出で、南の海域に大掛かりな陽動と牽制をかける手はずになっているそうよ」
「おおー! なんか、すっごく大がかりな作戦だね!」
叢雲の言葉に、ウサギの耳のようなリボンを揺らしながら、島風が目を輝かせて答えた。
「ええ。うちの提督も、その横須賀の『ヤン提督』とやらも……揃いも揃って、随分と大胆なことをするものね」
叢雲は、どこか呆れたような、しかし指揮官たちの壮大な戦略的野心に対する純粋な感心を込めて、ふっと口元に笑みを浮かべた。防衛一辺倒だった日々から、敵の中枢を抉り取る大反攻へ。軍隊全体の士気が、目に見えて高揚しているのを感じる。
しかし、叢雲は即座にその表情を引き締め、極めて冷徹な声色へと切り替えた。
「とはいえ、我々大湊の任務は何も変わらないわ」
叢雲は、北の水平線――旧世紀においてオホーツク海と呼ばれた、深く冷たい海を睨みつけた。
「南がどれほど派手に動こうと、この北方の海に睨みを利かせるのが私たちの仕事よ。万が一にも、敵の別動隊がこちらから南下して、日本列島の背後を突くような真似は絶対に許さない。……私たちの堅い守りがあるからこそ、南の連中は前だけを見て進めるんだからね」
「うんっ! わかってる!」
「よろしい。……島風、皐月(さつき)を連れて、今すぐA海域の哨戒に出なさい。どんな小さな異変も見逃すんじゃないわよ」
「了解っ! 誰よりも速く、ビュビューンッて見てくるね!」
島風は元気よく敬礼すると、皐月を呼び出すために駆け出していった。その背中を、叢雲は静かな、しかし決して揺らぐことのない決意を込めた瞳で見送っていた。
南で繰り広げられる華々しい大戦略。しかし、その土台を支えているのは、こうした北の海や、後方の基地で地道な任務を全うする名もなき将兵たちの存在である。横須賀、大湊、呉、佐世保。人類が持つすべての拠点が、見えない糸で緊密に結びつき、一つの巨大な意志として機能し始めていた。
歴史の歯車は、もはや後戻りすることのない勢いで、フィリピンの海へと向かって回転を加速させていたのである。
■
歴史という壮大な舞台において、後世の講談師や民衆の喝采を浴びるのは、いつの時代も前線で華々しい武勲を立てた提督や、砲火の中を駆け抜けた勇者たちである。
しかし、いかに天才的な戦術家であろうと、兵士の胃袋を満たす食糧と、兵器を動かすための燃料がなければ、一日たりとも軍隊を維持することはできない。
「戦術は素人が語り、兵站(ロジスティクス)は玄人が語る」
とは、旧世紀から続く軍事学の絶対的な真理であった。
その意味において、この人類の大反攻作戦を裏面から支える「最大の功労者」の一人は、横須賀鎮守府の薄暗い地下室で、終わりのない書類の山と格闘している一人の壮年武官――ヤン・ウェンリーがこの鎮守府に着任した当初、最初に彼を預かった直属の上司たる『主計局長官』であった。
実のところ、ヤンが横須賀に現れる以前、深海棲艦の完全な海上封鎖によって飢餓地獄に陥っていたこの基地が、それでも完全な瓦解を免れていたのは、偏にこの主計局長官の血の滲むような物資のやり繰りがあったからに他ならない。彼は、底の抜けたバケツで水をすくうような絶望的な状況下で、一滴の燃料、一粒の麦すらも無駄にせず、冷徹な計算をもって基地の命脈を繋ぎ止めていたのだ。
「……全く、ヤン提督には感謝しなければならないな」
長官は、デスクに積み上げられた決裁書類に次々とサインを走らせながら、ずり落ちた眼鏡を中指で押し上げ、独りごちた。
かつての彼は、日々の欠乏と終わりの見えない絶望により、極度の『視野狭窄』に陥っていた。
「軍を維持し、今日を生き延びる」
ことだけに精神の全容量をすり減らし、周囲の悲鳴に耳を傾ける余裕すら失っていたのである。しかし今、ヤンの魔術的な采配によって東シナ海のシーレーンが繋がり、中東や大陸からの物資が横須賀へと流れ込み始めたことで、彼の本来の、極めて優秀な事務官としての能力は完全に息を吹き返していた。
現在、彼は運び込まれる莫大な資材を、前線で戦う軍部への補給と、飢えに苦しんでいた民間(横須賀の市街地)への配給とに、寸分の狂いもなく的確に振り分けている。その手腕は、芸術的と言っていいほどの滑らかさであった。
「人間というやつは、精神的にも物理的にも『余裕』がなくなると、目先のことしか見えなくなり、ろくでもない判断を下すようになる生き物だ。……あのまま海が封鎖されていれば、私は市民から食糧を強奪してでも軍の備蓄を優先する、歴史に悪名を残す冷血官僚に成り下がっていただろうからな」
長官は自嘲気味に笑い、冷めたコーヒーを胃袋に流し込んだ。余裕をもたらしてくれたあのボサボサ頭の青年に、彼は事務方として最大の誠意で報いる覚悟を決めていた。
―――長官の手元にある最新のファイル。そこには『フィリピン方面・後詰め物資輸送計画』と記されていた。ヤンがマニラへ前進泊地を構築するという無謀極まる作戦を打ち上げた瞬間から、彼は大淀からの要請を待つまでもなく、即座に次期輸送船団の編成に着手していたのである。
「弾薬、ボーキサイト、重油。それに、設営用の重機と大量の食糧……。すべて手配済みだ」
長官は、リストの項目にチェックマークを入れた。
台湾を経由して北上してくる次の輸送船団には、すでにこの「マニラ用の莫大な資材」を積み込むよう裏で手を回してある。ヤンの率いる本隊がマニラ湾を制圧し、安全が確保されたという暗号電文が届き次第、船団は横須賀へは向かわず、直接マニラへと進路を変えて入港する手はずになっていた。前線部隊が拠点を奪い取った直後に、それを要塞化するための血液(物資)が即座に流れ込む。戦闘と兵站が完璧に連動する、隙のないグランド・デザインである。
「空母を四隻も抱え込んだ上に、赤城だのといった大食らいまで引き連れての遠征だからな。あの魔術師殿も、さぞかし胃を痛めていることだろう。後方の台所事情は、この私が完璧に支えてみせるさ」
長官はファイルパタンと閉じ、背もたれに深く体重を預ける。
彼には確信があった。これまで防衛戦に汲々としていた旧横須賀鎮守府の艦隊は、今や一人の青年の指揮のもと、明確な戦略的意図を持って海を切り裂く『矛』へと変貌を遂げた。
「……いや。もはやあれは、旧横須賀艦隊などという地方防衛軍の枠組みではないな。あえて名付けるなら、『ヤン艦隊』とでも呼ぶべきか」
長官は眼鏡の奥で目を細めた。
ヤン艦隊。それは間もなく、フィリピンの海において人類の歴史を決定づける巨大な橋頭堡を築き上げ、深海棲艦を海の底へと押し返すための最強の剣となるはずである。その剣の柄をしっかりと握り、切れ味を保たせるための研ぎ石となることこそが、自らの誇り高き任務であると、歴戦の主計局長官は静かな闘志を燃やしていた。
■ ■ ■
歴史の分水嶺となる『運命の日』は、熱帯特有のまとわりつくような湿気を伴った、淀んだ海風と共に幕を開けた。
フィリピン海域を支配する深海棲艦の総本山、マニラ湾。
その最奥には、この海域の最高位に君臨する巨大な怨念の結晶たる『南方棲戦姫(なんぽうせいせんき)』が、超弩級戦艦としての威容を誇りながら鎮座していた。彼女を護衛するのは、ルソン島攻略の総指揮を執る空母ヲ級(フラッグシップ)と戦艦二隻。さらに港湾設備そのものを禍々しく改造し、無数の対空火器をハリネズミのように備えた『護衛要塞』群であった。
一方、マニラの北西に位置するもう一つの重要拠点・スービック湾には、人間たちの本格的な反攻を迎え撃ち、あるいは逆に攻勢へと転ずるための精鋭水上打撃群が待機していた。装甲空母鬼、および装甲空母姫。強固な装甲と強大な航空戦力を併せ持つ深海の突然変異体たちを中核とし、戦艦二隻、重巡洋艦二隻を伴った、計六隻の強力な機動部隊である。
これらマニラとスービックの二大拠点が相互に連携すれば、いかなる人間たちの大艦隊が南シナ海から突入してこようとも、十字砲火を浴びせて海の藻屑にできるはずであった。
―――しかし。
この日、空母ヲ級フラッグシップの冷徹な演算回路に最初にもたらされた警告は、ヤン・ウェンリーが想定した本命の侵攻ルートたる西(南シナ海)からではなく、『東(太平洋)』からのものであった。
『――東シナ海を突破し、バシ―海峡を東へ抜けてルソン島東方沖(太平洋側)へ南下してくる、人間たちの艦隊を発見』
太平洋側沿岸に配備していた潜水艦からの入電である。艦隊構成は、駆逐艦四隻、軽空母一隻、そして戦艦が一隻。佐世保鎮守府の鈴木提督が率いる、陽動と遊撃を担う別働隊であった。
報告を受けたヲ級フラッグシップの思考回路は、極めて高速かつ『合理的』に回転した。
(人間たちは先日、我々の防衛網の隙を突いて東から偵察を行い、無事に逃げおおせた。あの忌々しい小艦隊の成果に気を良くし、今度は東から一気に本土を脅かそうという腹か)
ヲ級は即座に決断を下した。ルソン島東部の太平洋側に配備していたラモン湾、サンミゲル湾、ラゴノイ湾の守備隊に対し、即座に沖合へと展開し、この生意気な人間の別働隊を包囲・撃滅するよう指示を飛ばしたのである。さらに、念には念を入れ、セブやレイテ方面に分散配備していた部隊の一部までも、太平洋側へと少しずつ移動させるよう命じた。
東からの脅威に蓋をする。それは、軍事学のセオリーからすれば全く間違っていない対応であった。
しかし、ヲ級が東の海へ意識を傾けたまさにその瞬間、彼女の防衛網の『西側』で、奇妙な兆候が発生した。マニラの北、物資の巨大な集積所であるリンガエン湾の入り口に配置していた哨戒の駆逐艦(ロ級)からの定期連絡が、突如としてプツリと途絶えたのである。
なんの砲声も、救援要請もないままの沈黙。
(通信の故障か? それとも……)
一抹の不安を覚えたヲ級は、マニラから直掩の偵察機をリンガエン方面へと飛ばしたが、その偵察機もまた、予定時刻を過ぎても帰投することはなかった。
ヲ級フラッグシップは、ここに至ってようやく、
「何かがおかしい」
という疑念を強めた。しかし、彼女の思考はあくまで「手堅い防衛」の域を出なかった。彼女は自らの手元にある戦力を動かすリスクを避け、隣接するスービック湾に待機していた装甲空母鬼・姫の部隊(六隻)に対し、リンガエン湾の異常を偵察し、必要であれば制圧するよう出撃を命じたのである。
これこそが、不敗の魔術師ヤン・ウェンリーの仕掛けた、最も恐るべき心理的な罠であった。
東の陽動に気を取られ、北の小さな異常に対して、
「隣の部隊を様子見に行かせる」
という、一見合理的な判断。しかしその結果、深海棲艦の防衛線は、ヲ級自身の手によって致命的なまでに『分断』されてしまったのである。スービックの強大な機動部隊がリンガエンへと北上したことで、マニラ湾とスービック湾の連携は完全に断ち切られ、マニラ湾は戦略的な「孤島」と化したのだ。
ヲ級が自らの失策に気づかぬまま、次なる報告が飛び込んできた。それは、東(太平洋側)へ向かわせたサンミゲル隊からの、信じがたい悲報であった。
『――先行して接敵したラモン部隊が、敵艦隊の猛烈な砲雷撃を受け、全滅。敵艦隊の統制は神業に近く、こちらの魚雷はことごとく回避された模様』
(馬鹿な。たかが六隻の旧式部隊に、手も足も出ずに全滅したというのか……!)
佐世保の鈴木提督による、一撃離脱と損害極限を旨とする神業的な艦隊運動。それが、ヲ級の思考を完全に『東』へと釘付けにした。これはいけない、と判断したヲ級は、レイテ方面の戦力をさらに太平洋側へと向かわせるよう命令を書き換えた。完全に、彼女の目は東の海に囚われていたのである。
そして、時が満ちる。
マニラ湾の北北西――リンガエン方面の分厚い雲を抜け、一機の機影がマニラへと向かって真っ直ぐに飛来してくるのを、ヲ級の対空レーダーが捉えた。
(ああ、スービックから派遣した鬼と姫たちの偵察機が、報告に戻ってきたのか)
ヲ級はそう判断し、わずかに警戒を解いた。リンガエンへ向かった味方の機動部隊からの伝令。そう思い込むのも無理はない。彼女の回路には、人間たちの航空機がすでにそこまで肉薄しているという想定が欠落していたからだ。
しかし、そのたった一機の機影がマニラ湾の上空に達し、空中で鋭く翼を翻した次の瞬間。一機の機影が単なる『先導機』に過ぎなかった事実が、暴力的なまでに露呈した。
分厚い雲海が、内側から破裂したように割れた。
先導機のすぐ後方から、太陽の光を遮るほどの夥(おびただ)しい数の航空機群――濃緑色に塗られた零式艦上戦闘機、九九式艦爆、そして九七式艦攻の大編隊が、空を埋め尽くす猛禽の群れとなって姿を現したのである。
横須賀鎮守府が誇る、赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴。四隻の正規空母から放たれた、合計数百機に及ぶ第一波の飽和攻撃。それは、かつての大戦のいかなる海戦においても類を見ない、純然たる『暴力の雨』であった。
(不味いッ……!)
ヲ級フラッグシップがすべてを悟り、慌てて自らの艦載機を発艦させようと甲板を光らせたが、時すでに遅し、であった。
急降下爆撃機の群れが、悪魔的な正確さでヲ級の飛行甲板と護衛要塞の対空砲座へと殺到する。次いで、海面スレスレを這うように飛来した雷撃機群が、マニラ湾の海面を交差するような完璧な網目で魚雷を投下した。
閃光、轟音、そして、沸騰する海。
六十隻の大艦隊の頂点に立ち、絶対の安全圏から人間をすり潰すはずであった空母ヲ級フラッグシップは、一機の艦載機を上げることも叶わず、数十発の爆弾と魚雷をその身に浴びて、無惨な鉄屑と化してマニラ湾の底へと沈んでいった。
彼女を守るはずであった戦艦二隻も、巨大な護衛要塞も、圧倒的な物量の前にただ防戦一方となり、わずか数分のうちに海の藻屑と消えた。
爆煙と水柱が晴れた後、地獄と化したマニラ湾の海面に、ただ一人取り残されていたのは、南方の象徴たる『南方棲戦姫』だけであった。超弩級戦艦としての規格外の装甲が幸いし、轟沈こそ免れたものの、彼女は中破の痛手に身をよじりながら、一体何が起きたのか理解できずに海面でよろめいていた。
西からの奇襲。完璧な飽和攻撃。自分を守るはずの艦隊は、どこへ消えたのか。
答えを探す間もなく、空母機動部隊の無慈悲な『航空第二波』が、傷ついた南方棲戦姫の頭上へと降り注いだ。断末魔のような絶叫が上がり、彼女の巨大な艤装が次々と破壊されていく。大破。すべての武装は沈黙し、もはや彼女は海面に浮いているだけの、ただの的へと成り果てた。
身動きすら取れず、荒い息を吐きながら海面を漂う南方棲戦姫。やがて、硝煙に覆われたマニラ湾の入り口から、静かに波を裂いて進み出てくる五つの影があった。
一航戦の赤城と加賀。五航戦の翔鶴と瑞鶴。そして、空母たちの直衛を完璧にこなした第一水雷戦隊の旗艦・阿武隈。彼女たちは戦闘の熱気を微塵も感じさせない、極めて冷徹で美しい隊列を組みながら、大破した深海の姫君を見下ろすように包囲した。
そして、その五隻の艦娘たちの背後から、さらに巨大な、それこそ一つの『動く城』かと錯覚するような影が、マニラ湾へとゆっくりとその威容を現した。
旧式駆逐艦『ゆうぐれ』
艦娘という人間サイズの存在から見れば、数千トンの鋼鉄の船体は、見上げるほどに巨大な要塞である。そのゆうぐれの艦橋の窓越しに。ベレー帽をかぶったボサボサ頭の青年が、紅茶のカップを片手に、極めて退屈そうに、あるいはひどく気の抜けた様子で海面を見下ろしているのを、南方棲戦姫の恨めしい瞳が捉えた。
「……あいつが、人間の、魔術師……」
自らの完璧な防衛網を、東への陽動と、北への誘い出しによって完全に分断し、自らの手足を切り落としてから本丸を直接叩き潰した、悪魔のような知性。南方棲戦姫は、その圧倒的な戦略的敗北の前に、怨念を燃やすことすら諦めたように、深く、重い絶望の溜息を吐き出した。
ヤン・ウェンリーによるマニラ強襲作戦。
それは、後世の軍事学の教科書において『完全なる各個撃破と、戦略的奇襲の芸術』と称されることになる、あまりにも鮮やかすぎる人類の第一歩であった。
■
マニラ湾において、空母ヲ級フラッグシップが率いる深海棲艦の総司令部が、ヤン・ウェンリーの放った航空飽和攻撃によって文字通り「蒸発」していたその頃。
横須賀鎮守府が誇るもう一つの矛、高速戦艦・金剛と榛名を擁し、軽巡・神通が率いる水上打撃部隊『第一艦隊』は、マニラ湾の惨劇には目もくれず、ルソン島沿岸をさらに南へと急進していた。彼らの目標は、マニラから南へ下った場所に位置する『バラヤン湾』および『バタンガス』に分散・退避させられていた、敵の物資集積所である。
「テイトクの言った通りデス! 敵の補給艦が、護衛を連れてウジャウジャひしめいていマース!」
陣形の先頭を突っ走る金剛が、測距儀越しに敵影を捉え、獰猛で美しい笑みを浮かべた。
「榛名、いつでもいけます!」
妹の榛名もまた、主砲の仰角を合わせながら姉とピタリと歩調を合わせる。
「敵護衛部隊、数六。……陣形など不要です。火力で圧倒しなさい!」
水雷戦隊の頭脳たる神通が、極めて冷徹な殲滅命令を下す。
「オーエス! 全砲門、Fire! Burning Love!!」
「榛名は大丈夫ですっ! 撃ちます!」
三十五・六センチ連装砲の凄まじい砲撃音が、熱帯の海を震わせた。
東シナ海を制した歴戦の姉と、新たな縁によって呼び出された妹。二隻の高速戦艦が放つ巨弾の雨は、物資を守るために配置されていた深海棲艦の巡洋艦や駆逐艦の装甲を、まるで濡れたボール紙のように容易く貫き、次々と爆散させていった。残敵の掃討には、神通と第六駆逐隊の雷撃が容赦なく降り注ぐ。わずか数十分の戦闘で、バラヤンとバタンガスを守備していた敵艦隊は完全に沈黙し、海面には主を失った無数の輸送艦(ワ級)だけが、無傷のまま取り残されることとなった。
■
のちに戦史家たちは、この日のヤン・ウェンリーの戦術的成果を計算し、一様にため息をつくことになる。
マニラ湾での敵主力および護衛要塞の撃滅。バラヤン、バタンガスにおける守備隊の殲滅。ここに至るまでのヤンの直接的な『撃沈スコア』は、実に二十四隻に達していた。
さらに、ルソン島東方沖(太平洋側)で佐世保の鈴木提督が陽動として葬り去った敵艦隊(およそ六隻)を合わせれば、人類側がこの数時間で屠った深海棲艦の総数は三十隻に達する。
すなわち、空母ヲ級がフィリピン全域に絶対の自信を持って分散配置していた「六十隻」の大艦隊の、実に半分が、たった半日のうちに海の藻屑と消えた計算になるのだ。
ここで、一つの軍事的な疑問が生じる。なぜ、深海棲艦たちはこれほどの甚大な被害を受けながら、他の海域から即座に増援を差し向け、人間たちの艦隊を包囲しようとしなかったのか。
答えは、極めて単純かつ致命的なシステム・エラーにあった。すなわち、深海棲艦の指揮系統の最上位に位置し、情報を統括・共有するハブ(中枢)であった『空母ヲ級(フラッグシップ)』が、開戦の第一撃でいの一番に轟沈してしまったという事実である。
ヤン・ウェンリーが最初にマニラ湾を航空攻撃で完全に粉砕したことで、深海棲艦の「頭脳」は即死した。
結果として、マニラやバラヤンが襲撃されているという警報(アラート)は、他の海域で待機している深海勢の部隊には一切、共有されなかったのである。頭を撃ち抜かれた巨体が、手足を動かすことすらできずに痙攣するほかないように。司令官の「待機しろ」という最後の命令を忠実に守り続けた各地の深海棲艦たちは、通信の途絶えた暗闇の中で、ただ無為に時間を浪費し続けていた。
そして、なによりも。ヤン・ウェンリーという男は、その『指揮系統の麻痺』という絶好の機会(ゴールデン・タイム)を、決して逃すような甘い男ではなかった。
「敵のネットワークは完全に死んでいる。連絡が取れない以上、彼らは持ち場を離れられない。……今なら、残りの部隊もすべて『各個撃破』できる」
ゆうぐれの艦橋で紅茶を啜りながら、ヤンはそう断言した。
その指示を受け、金剛たち第一艦隊は休む間もなくさらに南下。手薄になったシブヤン島近海へと突入し、そこで孤立していた二つの敵部隊を、文字通り一方的な暴力で蹂躙・撃破してみせたのである。
■
深海勢の残存部隊が、ようやく異常事態に気づき始めた頃には、戦局はもはや覆しようのない絶望的な領域に達していた。
「補給、完了しました! 弾薬も燃料も満載です!」
大淀からの報告が、ゆうぐれの艦橋に響き渡る。
バラヤンとバタンガスで鹵獲した無数の敵輸送艦。そこに積載されていた莫大な物資(重油や弾薬、ボーキサイトに相当する深海の資源)は、妖精たちの手によってすぐさま人類の規格へと再変換され、第一艦隊および空母機動部隊の腹をたっぷりと満たしていた。
敵の食糧で自軍の戦力を回復させる、究極の現地調達作戦の成功。これにより、燃料切れという最大の懸念を払拭した人類の最強艦隊は、フィリピンに対しての攻勢を更に強める事となる。
赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴から放たれる無尽蔵の航空攻撃が、セブ島やスールー海に孤立して浮かぶ深海棲艦の頭上に死の雨を降らせる。陣形を乱し、逃げ惑う敵の残存部隊を、今度は金剛や榛名、神通たちが圧倒的な水上火力と雷撃によって的確に仕留めていく。
もはやそれは、「戦争」と呼べるような代物ではなかった。指揮官を失い、情報から孤立し、ただ細切れに分散して配置されているだけの敵部隊を、十二隻の大艦隊が一つずつ、丁寧に、そして冷酷にすり潰していく『掃討戦』であった。
ルソン島からシブヤン海、ビサヤ諸島を抜け、ミンダナオ島の近海に至るまで。空母ヲ級が築き上げた誇り高き六十隻の防衛網は、ヤン・ウェンリーという歴史の異端児が振るった指揮棒によって、わずか数日のうちに完全に解体・消滅させられたのである。
こうして、海図の上に引かれた勢力図は、劇的なまでに塗り替えられた。
フィリピン中南部・ミンダナオ島の北部を境界線とし、それより「北の海域(ルソン、ビサヤ周辺)」は完全に人類(人間)のものとなり。
それより「南の海域(セレベス海、そして鉄底海峡へと至る深淵)」は、未だ深海棲艦の支配下として、明確に二分されることとなった。
東シナ海の突破から始まった反攻作戦は、ここに至って、フィリピンという巨大な橋頭堡を人類にもたらした。夕日に赤く染まるマニラ湾の海面を、旧式駆逐艦『ゆうぐれ』の艦橋から見下ろしながら、ヤン・ウェンリーは深く息を吐き出した。
「さて……大掃除は終わった。ここからは、家づくり(泊地設営)の時間だね。大淀さん、明石と妖精さんたちに伝えてくれ。徹夜の作業になるぞ、と」
ヤンの言葉に、大淀が静かに、しかし誇らしげな微笑みを浮かべて敬礼する。不敗の魔術師の伝説は、この熱帯の海において、かつてないほどの巨大な輝きを放ち始めていた。
■
マニラ湾を覆っていた深海棲艦特有の赤黒い瘴気が晴れ、南国の眩しい太陽が海面を照らし出す頃。人類の新たな拠点となる前進泊地の設営は、常識を嘲笑うかのような驚異的な速度で進行していた。
その立役者は、言うまでもなく明石の工廠から派遣されてきた『妖精さん』たちである。
彼らは敵の要塞施設を解体し、自軍のドックや補給施設へと作り替える作業を、音のない鼻歌を歌うかのように楽しげに進めていた。さらに奇妙なことに、いつの間にか彼らの中に、褐色の肌を持ち、現地の民族衣装のようなものを身にまとった『マニラ・ローカルの妖精たち』が多数混ざり込んでいたのである。
土地の精霊か、あるいはかつてこの地で沈んだ艦艇の記憶の残滓か。オカルトの理屈はさておき、日雇い労働者のごとく増殖した小さな職人たちの連携により、マニラ湾は瞬く間に立派な前線司令部としての体裁を整えつつあった。
一方、軍と民間との政治的調整という、ヤン・ウェンリーが最も忌避する厄介事は、すべて秘書艦たる大淀が引き受けていた。
彼女がマニラ市街の代表者たちと接触し、横須賀の艦隊がこの海域を解放した事実を告げると、長らく海の化け物の恐怖と物資の欠乏に怯えていた市民たちは、彼らを絶対的な『英雄(解放者)』として熱狂的に迎え入れた。大淀の理知的で誠実な交渉術も手伝い、軍と現地の協力体制は、ヤンが拍子抜けするほどスムーズに構築されたのである。
軍事的な防衛網と兵站の確保も、完璧に機能し始めていた。
神通、阿武隈という優秀な水雷戦隊の指揮官と、第六駆逐隊(暁、響、雷、電)の少女たちが、バラヤンやリンガエンで鹵獲した無数の敵輸送艦(ワ級)を、羊飼いのように巧みに誘導してマニラの港へ逐次集結させている。
上空の警戒網は、赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴の四隻の正規空母から放たれた直掩機が交代で担い、マニラの空に文字通りの絶対防空圏を形成した。さらに、南方の海域――セレベス海や鉄底海峡方面で息を潜める敵の残存戦力の動きについては、先行していた潜水艦・伊168(イムヤ)が深く静かに潜航し、確実な監視(ピケット)の目を光らせている。
即席の要塞とはいえ、もはや十二分すぎる陣容であった。これならば、深海棲艦が数倍の戦力で雪崩れ込んできたとしても、容易に撥ね退けることができるだろう。
■
迎えた夕刻。設営が急ピッチで進むマニラの港湾部に、ヤン・ウェンリーと、彼の護衛として付き従う私服姿の金剛の姿があった。二人は、妖精たちが突貫工事で組み上げたコンクリートの埠頭を歩きながら、巨大な要塞へと変貌しつつある湾の景色を眺めていた。
「……それにしても、テイトク」
金剛が、潮風に髪を揺らしながら、ふと不思議そうな声を上げた。
「随分と、上手くいきましたね? 六十隻もの大艦隊が相手だったというのに、蓋を開けてみれば、私たちの損害はほとんどゼロ(ナッシング)でした」
武勲を誇るわけではなく、純粋な戦術的疑問であった。いかにヤンの策が優れていたとはいえ、相手がもう少し気の利いた動きを見せていれば、これほど一方的な展開にはならなかったはずだからだ。
「まぁ、種明かしをしてしまえば、簡単な理屈さ」
ヤンはベレー帽を軽く押さえ、こともなげに答えた。
「考えてもみたまえ。深海棲艦という組織は、人類を海から駆逐して以来、今日に至るまで『ずっと攻めっぱなし』だった。彼女たちは圧倒的な暴力と恐怖で、常に戦局のイニシアチブを握り続けてきたんだ」
「イエス。人類はずっと、防戦一方デシタからね」
「つまり、裏を返せば……彼らは『攻められることに全く慣れていない』ということに他ならないのさ」
ヤンの言葉に、金剛は目を瞬かせた。
「無敵を誇る軍隊ほど、防御に回った時の脆さは計り知れない。自陣の奥深くに敵が入り込んだという『未曾有の事態』に直面した時、彼らの指揮官は経験則から答えを導き出すことができず、過剰な警戒心から戦力を分散させるという教科書通りの悪手を打ってしまった」
ヤンは肩を竦め、苦笑交じりに言った。
「自軍の強大さに寄りかかりすぎた結果、臨機応変な対応力を失っていたんだ。だからこそ、私が仕掛けたような簡単な誘導(フェイント)にも、あっさりと引っかかってくれたのさ。……軍事における最大の敵は、自らの中に巣食う『成功体験』だということだね」
「なるほどー……。デモ、それを読み切れるテイトクの頭の中は、本当にどうなっているんデスかねぇ」
金剛は感心しきった様子で息を吐いた。
そんな会話を交わしながら、二人が歩みを進めた先、埠頭の一角に設けられた、分厚い特殊な防爆壁と、妖精たちが編み上げた鎖によって厳重に封鎖された乾ドックの前に到着した。周囲には完全武装した艦娘たちが、一切の隙を見せずに銃口を向けて警戒に当たっている。
そのドックの底は。全身の武装をもぎ取られ、拘束具に縛り付けられた巨大な異形の女――『南方棲戦姫』が、憎悪と疲労の入り混じった赤い瞳でヤンを睨み上げていた。
人類の天敵。海の底から現れた悪魔。
しかし、ヤン・ウェンリーは、彼女の放つ強烈な殺気に怯むこともなく、ごく自然な足取りでドックの縁へと歩み寄った。そして、まるで道端で出会った隣人に声をかけるかのような、ひどく気の抜けた平熱のトーンで口を開いたのである。
「さて……これでようやく、腰を据えて話ができそうだ。君たちはずっと無口だったからね、私は歴史家として、君たちの陣営の言い分というやつを一度聞いてみたかったんだ」
ヤンはボサボサの頭を掻き、軽く片手を挙げて挨拶のジェスチャーをした。
「それで、少し話を聞かせてもらえるかな。……『深海棲艦(しんかいせいかん)』、で、いいのかな? 君たちの正式な組織名(なまえ)は」
ヤンのその問いかけは、敵に対する尋問というよりは、未知の文明とファーストコンタクトを果たした学者のそれに近かった。拘束された南方棲戦姫は、自らを全く恐れず、あまつさえ対等な『対話の相手』として扱おうとするこの小柄な人間の男を前に、僅かに困惑したようにその赤い瞳を揺らした。
歴史上初めてとなる、人類の将と深海棲艦の高位存在による直接対話。
赤く染まったマニラの夕空の下、かつての地球の海を巡る血塗られた歴史の『真実』が、不敗の魔術師の前にその蓋を開けようとしていた。
■
「教える義理は、ナイ」
ドックの底から響き渡ったのは、深海の冷水のように重く、そして明確な敵意に満ちた声であった。無数の光の鎖と重厚な鋼鉄の拘束具に縛り付けられながらも、南方棲戦姫の赤い瞳には一切の屈服の色がなかった。
「我々は、人類を海から駆逐する。……ただ、それだけダ」
それは、交渉や対話といった概念を真っ向から拒絶する、純然たる殺戮者としての命題であった。人間と深海棲艦は、生存圏を懸けて互いにすり潰し合うだけの関係であり、そこに相互理解の入り込む余地など存在しない。彼女の言葉は、その冷酷な歴史の現実を代弁していた。しかし。
「おやおや、随分と穏やかではないね」
不敗の魔術師は、その圧倒的な怨念を前にしても、ベレー帽の奥の表情を微塵も崩すことはなかった。むしろ、歴史の古文書を読み解く時のような、知的な好奇心すら覗かせている。
「まぁ、殺し合いの直後だ。初対面の印象が最悪なのはお互い様さ。……ひとまず、紅茶でも飲みたまえよ」
言うや否や、ヤンは提げぼこんできたバスケットの中から愛用のポットとティーカップを取り出した。そして、トクトクと琥珀色の液体を注ぐと、自らの足でドックの底への階段を下り、拘束されている巨大な異形の女の顔のすぐ真横まで歩み寄ったのである。
「テ、テイトク!? 不用意に近づきすぎデス! 万が一ということも……!」
護衛の金剛が血相を変えて制止の声を上げたが、ヤンは、
「大丈夫だよ、彼女は今、身動き一つとれないからね」
と呑気に手を振り、淹れたての紅茶を南方棲戦姫の青白い唇の元へとそっと差し出した。拘束具のせいで、彼女は自らの手を動かすことができない。必然的に、ヤンが直接飲ませてやる形になる。南方棲戦姫は、目前に差し出された熱い液体と、無防備すぎる人間の男を、信じられないものを見るような訝しげな目で見つめていた。毒でも入っていると疑っているのか、あるいは単純に、人間の振る舞いというものが理解できないのか。
十数秒の、奇妙な睨み合い。ヤンはカップを持つ手を引くこともなく、ただ穏やかな、呆れるほどの根気強さで彼女を見つめ返した。
やがて、ついに根負けしたのは、深海の姫君の方であった。彼女は小さく鼻を鳴らすと、ヤンが傾けるカップから、恐る恐る、しかし上品な所作で琥珀色の液体を一口だけ口に含んだ。
「……どうだい?」
「……悪くは、ない」
南方棲戦姫は、口内に広がる独特の渋みと香りを確かめるように、静かにそう呟いた。
「そいつは結構だ」
ヤンは満足げに相好を崩した。
「兵器や化け物というものは、味覚などという無駄な機能を持たないものだ。ましてや、紅茶の風味が理解できるのであれば、君はただの殺戮機構(バケモノ)ではない。……私に言わせれば、上等な紅茶の味が分かるという一点においてのみでも、君という存在には好意すら抱けるよ」
ヤン・ウェンリーにとって、紅茶の価値が分かる相手は、思想や種族がどうあれ『話の通じる隣人』であった。極めて個人的で偏った価値観ではあるが、その飄々とした態度は、南方棲戦姫の纏っていた絶対的な拒絶の空気を、確実に薄れさせていた。
「惜しむらくは、今は戦地のど真ん中でね。……ここに極上のブランデーでもあれば、君のカップに数滴垂らして、お互いに胸襟(きょうきん)を開いて話ができたかもしれないんだがね」
ヤンが肩を竦めてぼやくと、南方棲戦姫はわずかに伏し目がちになり、その赤い瞳の奥に、深い深淵を覗き込むような奇妙な色を浮かべた。
「……酒、か」
「ああ。君たちは食事や休息を必要としないと聞いていたが……酒の存在を、知っているのかい?」
ヤンの問いに対し、姫は冷たい海の底を思わせる重い声で答えた。
「記憶の、彼方ニ」
「……彼方、ね」
ヤンはカップを持ったまま、静かに反芻した。かつての地球の海を駆け、あるいは海の底で眠りについた、名もなき船乗りたちの記憶。深海棲艦がただの怪物ではなく、かつて人類が持っていた『縁』の反転した存在であるならば、彼らの魂の奥底には、港町の酒場で酌み交わされた酒の味や、人間の営みへの郷愁が、ノイズのようにこびりついているはずなのだ。
敵対する者同士が、一杯の紅茶を介して、過ぎ去った歴史の残滓を共有する。マニラ湾の夕闇が深まる中、不敗の魔術師と深海の姫君との間には、砲火を交えていた時とは全く異なる、奇妙で静寂な『対話の時間が』流れ始めていた。
「では、記憶の彼方から、少しずつ手繰り寄せてみようか。私たち人間の歴史と、君たちが抱える怒りの起源についてね」
ヤンは空いた手でベレー帽の位置を直し、ゆっくりと腰を下ろした。
「人類の有史以来、戦争というものは常に『過去の亡霊』との戦いでもあった」
ヤン・ウェンリーは、持参したバスケットから取り出したもう一つのティーカップに口をつけながら、まるで大学の薄暗い講義室で中世の歴史について語るような、ひどく静かなトーンで話し始めた。夕闇が迫るマニラ湾の乾ドック。光の鎖に縛り付けられた異形の姫君と、護衛として立つ戦艦の少女。そして、ボサボサ頭の青年。その奇妙な三者会談は、戦場の血生臭さとは無縁の、極めて哲学的な空気を帯びていた。
「過去の領土、過去の恨み、過去の栄光。人間は常に、過ぎ去った過去の幻影を原動力にして殺し合いを続けてきた。……君たちの存在も、その延長線上にある。つまり君たちは、文字通りの意味で『過去の亡霊』のようなものだと、私は考えているんだ」
ヤンが紅茶を煽ると、ドックの底に拘束された南方棲戦姫が、赤い瞳を細めて低く唸った。
「……どういう、意味ダ」
「何、簡単なことだ。君たち『深海棲艦』と、我々の隣にいる『艦娘』。この二つの存在は、ほぼ同時期に地球の海に現れた。そして、一方は人類の敵となり、もう一方は人類の剣(味方)となって、終わりのない殺し合いを続けている。だが、その本質は全く同じ源流から来ている」
ヤンの言葉に、傍らに立つ金剛がハッと息を呑み、耳を傾けた。
「今日、マニラ湾やスービックの海に沈んだ君たちの仲間の残骸――空母や戦艦のなりをした化け物たちの砕け散った姿を見ても、それはよく分かる。装甲や異形の武装を引き剥がせば、その中身はまるで艦娘たちと同じ、麗しい女性の姿をしているからね」
ヤンは海風に吹かれながら、視線を遠くの暗い海へと向けた。
「現に、我が艦隊には、君たち深海棲艦の残骸の中から生まれ落ちた艦娘もいるわけだ」
「…………」
南方棲戦姫は黙秘を貫いた。しかし、その沈黙こそが何よりの肯定であった。
「それで、君。あー……名前は、何と言うんだい?」
ヤンが唐突に尋ねると、姫は鼻で嗤った。
「好きニ、呼ベ。我々に個人の名など、意味はナイ」
「ふーむ。私は女性への名付けという分野には、絶望的に才能がなくてね。……まぁ、仮に『ジャンヌ』とでも名付けようか」
「ジャンヌ……?」
「ああ。だが勘違いしないでくれよ。ある日突然、神の声を聞いたなどと言い出して、旗を掲げて軍を率いたりしないでくれ。奇跡だの聖戦だのといった非論理的なものが持ち込まれると、私の仕事(戦争)が際限なく増えてしまって、たまらないからね」
かつての地球の歴史に実在した、炎に焼かれた救国の聖女。その名前を引き合いに出しながら、ヤンは皮肉っぽく肩を竦めた。そして、ヤンの黒い瞳から、気の抜けたような光が消え去った。代わりに現れたのは、歴史の暗部を鋭く抉り出す、冷徹な探求者の眼差しであった。
「ジャンヌ。……私の思い違いでなければ」
ヤンは、一言一言、確かめるようにゆっくりと紡いだ。
「君たち深海棲艦の残骸から艦娘が生まれるのと同じように。『深海棲艦になった艦娘』も、いるんじゃあないかい?」
その瞬間、マニラの生ぬるい海風が、急速に凍りついたように感じられた。金剛が息を呑む音が、ひどく大きく響く。ドックの底に縛り付けられたジャンヌ(南方棲戦姫)は、虚を突かれたように目を見開き――やがて、その喉の奥から、低く、押し殺したような震えを漏らし始めた。
「クッ……ククッ……」
それはやがて、明確な『歓喜』を伴った笑い声へと変わった。
「ククク……ハハハ! 面白い。面白い男ダ……! ああ、その通りダとも。お前の推論は、恐ろしいほどに正確ダ」
姫の哄笑が、コンクリートの壁に反響する。
「テ、テイトク……!」
金剛は戦慄し、血の気の引いた顔でヤンへと視線を向けた。艦娘が、深海棲艦になる。それはすなわち、昨日まで背中を預け合っていた仲間が、あるいは金剛自身が、いつの日かあの異形の化け物へと変貌してしまう可能性があるという、絶望的な真実の提示であった。
「やはりね」
ヤンは動揺する金剛を手で制し、静かに頷いた。
「ということは、艦娘と深海棲艦は、完全に表裏一体の存在というわけだ。……ようやく合点がいったよ」
「デ、でも……!」
金剛が恐る恐る、震える声でヤンに問うた。
「もし、ワタシたちと彼女たちが同じ存在だとしたら……どうして、深海棲艦は人間と艦娘を襲うのデスか!? 同じ魂を持っているなら、どうして殺し合わなければならないんデスか!」
その悲痛な叫びに対し、ヤンは困ったようにボサボサの頭を掻いた。
「思想の違い……いや、記憶の『抽出された部分』の違いだろうね」
ヤンはカップの底に残った紅茶を見つめながら、静かに語り始めた。
「君たち艦娘は、かつての船が持っていた『栄光の記憶』と『誇り』を持って生まれてくる。乗組員たちとの温かい思い出、祖国を守るという使命感、海を駆けた輝かしい日々。……故に、君たちは人間の良き隣人となり、人類を守るための剣となる」
ヤンはそこで言葉を区切り、ドックの底で嗤うジャンヌを見下ろした。
「対して、深海棲艦は……海に沈み、暗い海底で朽ちていくまでの『凄惨な記憶』と『恨み』を持って生まれてくる。……いや、『恨みに支配されて生まれてくる』と言った方が正確か」
冷たい海。引き裂かれる鉄板。燃え盛る炎。息絶えていく乗組員たちの断末魔。そして、誰にも顧みられることなく、冷たい泥の中で永遠の孤独を強いられる絶望。
「その絶望の底から見上げれば、地上でぬくぬくと生き延びている人間たちなど、許しがたい憎悪の対象でしかない。そして、自分たちの負の側面から目を背け、栄光の記憶だけを切り取って人間の手先となっている『艦娘』の存在は……彼らにとって、忌まわしい裏切り者であり、最も目障りな自己欺瞞(じこぎまん)の象徴として映るはずだ」
だからこそ、深海棲艦は人間を海から追い出し、艦娘すらも激しい憎悪をもって目の敵とする。
この戦争は、正義と悪の戦いではない。それは、一つの魂が抱える『光』と『闇』の、果てしない自己矛盾による内戦(シヴィル・ウォー)であった。
「だからこそ……彼らは、決して陸上には攻め入ってこないのだろう」
ヤンは、歴史のパズルを完成させる最後の一ピースを嵌め込んだ。
「彼らの怨念は、あくまで『海の記憶』に縛り付けられているからだ。自らが沈み、苦しんだその場所(海)こそが、彼らの存在領域のすべてなのだから。もちろん、今後オカルト的な例外は出てくるとは思うが……基本原則はそこにある」
ヤンは海図を思い浮かべた。マニラ、スービック、ソロモン、ミッドウェー。全てが、激戦地だ。
「そう考えると、世界中……かつて人間たちが血を流し合い、無数の鉄屑を沈めた『戦闘が起こった海』そのものが、彼ら深海棲艦を生み出す巨大な工廠であり、建造ドックと言えるわけだ」
人間の業が、海を怨念の坩堝に変えた。ヤン・ウェンリーは、人類が過去に犯した罪の大きさに、歴史家として深いため息を吐いた。
「さて。長々と語ってしまったが……歴史家の推論としては、何点くらいかな? ジャンヌ」
ヤンが静かに問いかけると。南方棲戦姫――ジャンヌは、しばらくの間、幽鬼のような沈黙を保っていたが。
「フフッ……ハハ、ハハハハハハハハ!!」
やがて、乾ドックの底から夜空へと突き抜けるような、腹の底からの哄笑を爆発させた。それは、自らの存在意義を丸裸にされたことへの絶望ではなく。一人の人間が、自分たちの抱える底知れぬ闇と悲劇の構造を、たった数日の戦いと僅かな情報だけで完全に看破してみせたことに対する、純粋な驚愕と『歓喜』であった。
「オモシロイ。真に、オモシロイぞ……!」
ジャンヌは、鎖に縛られながらも、その身に宿るすべての威厳を振り絞り、ドックの縁に立つ青年を真っ直ぐに睨み据えた。
「人間に、これほどまでに世界の真理を深々と抉り出す者がいようとはナ! 教えろ! お前の名前は、何と言う!?」
ヤンは、自らに向けられた凄まじい覇気に対し、あくまで平熱のまま、静かにベレー帽に手を当てた。
「ヤン・ウェンリー。しがない歴史家志望の、怠け者の軍人さ」
「ヤン。……ヤン・ウェンリー!」
ジャンヌは、その名を自らの魂の奥底、怨念の泥の底へと深く深く刻み込むように反芻した。
「覚えたゾ。不敗の魔術師、ヤン・ウェンリー。……貴様は、我々(深海)にとって、最大の脅威であり、同時に……」
ジャンヌの口元に、凄惨で、しかしどこか満足げな、ひどく美しい微笑みが浮かんだ。
「そして――ここで、終わル」
次の瞬間であった。ジャンヌの背後に接続されていた、先ほどの航空爆撃によって完全に破壊され、機能停止(スクラップ)していたはずの艤装の一部――巨大な副砲の砲身が、突如として、生き物のようにギチリと持ち上がったのだ。
「テイトク! 危ないッ!」
金剛が絶叫し、ヤンを庇おうと盾となって飛び出した。鎖が激しく明滅し、拘束を破ろうとするジャンヌの体に凄まじい高圧電流が走る。
しかし―――。
持ち上がったその砲口が狙いを定めたのは、ヤン・ウェンリーの立っている場所ではなかった。それは、極めて正確な角度で折れ曲がり――ジャンヌ自身の、青白いこめかみへと、ピタリと押し当てられていたのである。
「ヤン・ウェンリー。……次ハ、暗い海の底デ、会おう」
捕虜としての屈辱を拒絶し、敵将への最大限の敬意と、深海の威厳を守るための、誇り高き自己完結。
金剛が制止する間も、ヤンが止める間もなく。凄まじい轟音が、夕闇のマニラ湾に響き渡った。
破壊されたはずの武装から放たれたゼロ距離からの砲弾は、南方棲戦姫の頭部を、そして彼女を構成していたオカルトの怨念の中枢を、一撃で完全に粉砕した。ドックの底に、どす黒い瘴気と破片が散乱し。直後、その巨大な躯(むくろ)は、呪縛から解き放たれたように、急速に光の粒子となって崩壊し、虚空へと溶けて消え去っていった。
「…………」
凄惨な最期を見せつけられた金剛は、顔面を蒼白にし、言葉を失ってへたり込んだ。そして、ヤン・ウェンリーは、ただ一人。空っぽになった拘束具と、わずかに残された鉄の残骸を見下ろしながら、静かに立ち尽くしていた。
「……ジャンヌ・ダルクは、異端審問の末に、自らの意志を曲げることなく火刑に処された」
ヤンはぽつりと呟き、ベレー帽を取って胸に当てた。
「全く。歴史の真似事にしては、随分と悪趣味で、誇り高すぎる幕引きじゃないか」
夕闇が完全に夜の帳(とばり)へと変わり、マニラ湾に静寂が戻る。
人類と深海棲艦の、決して交わることのない深い断絶。ヤン・ウェンリーの手によって暴かれたその残酷な真実は、今後の戦いにさらなる重く冷たい影を落としながら、静かに歴史の闇へと溶けていった。
■■■
マニラ湾の急造された前進泊地の仮設司令室にて、ヤン・ウェンリーは横須賀鎮守府の地下にいる老人たちへ向け、長距離暗号通信の回線を開いていた。
「――というわけで、マニラ湾および周辺拠点の奪取と安全化は無事に完了しました。これにより、ミンダナオ島北部までの内海は、完全に我々人類の制海権下に置かれたことになります」
ヤンの淡々とした報告に対し、回線の向こうからは、司令部要員たちの歓喜のどよめきがはっきりと聞こえてきた。人類が海を奪われ、防戦一方の絶望に追いやられてから数年。これほど広大で、かつ戦略的価値の高い海域を一気に奪還したという事実は、彼らにとって奇跡以外の何物でもなかった。
「加えて」
ヤンは手元の資料をめくりながら続ける。
「リンガエン湾をはじめとする敵の集積所から、我々の規格に変換可能な莫大な物資を鹵獲しました。現状の備蓄量であれば、このマニラを拠点として、西方へのマラッカ海峡、あるいは南方への鉄底海峡(ソロモン海域)へ派兵するための兵站は十二分に維持可能です」
『おお……! 素晴らしい! ヤン提督、君はまさに救国の英雄だ!』
『これでついに、我々から反転攻勢に打って出ることができるのだな!』
老人たちの声は、長年の重圧から解放された興奮で上ずっていた。だが、不敗の魔術師の黒い瞳は、熱狂とは無縁の、極めて冷ややかな平熱を保っていた。
「司令部が喜んでくれるのは何よりですが……長官。現在このマニラに展開している我が軍の戦闘艦は、たったの『十二隻』に過ぎないという事実をお忘れなく」
ヤンの静かな、しかし冷水を浴びせるような一言に、回線の向こうがわずかに静まった。
「敵の総司令部を叩き潰したとはいえ、南の海には未だ無数の深海棲艦がうごめいています。いつ彼らが統制を取り戻し、こちらへ牙を剥くか分からない。……決して、油断はなりませんよ」
『……うむ。分かっている。勝って兜の緒を締めよ、だな』
「ええ。とはいえ……」
ヤンはカップの紅茶を一口啜り、ふっと口元に笑みを浮かべた。
「せっかく間借りしたこの良港を、やすやすと明け渡してやる気もありませんがね」
『頼もしい限りだ。マニラと第一艦隊の運用は、引き続き君の全権に委ねる。……よろしく頼むぞ、ヤン提督』
「微力を尽くします」
通信を切り、ヤンは、
「やれやれ」
と息を吐きながら受話器を置いた。しかし、彼が「微力」と称したその戦力は、この通信を行っているまさにその瞬間、基地の外――マニラの乾ドック周辺において、ヤン自身の想定すら超える劇的かつ『異常』な膨張を見せていたのである。
■
「……どういうことだろうね、大淀さん。これも『縁(えにし)』の導きというやつなのかい?」
執務室の窓から港湾部を見下ろしながら、ヤンは頭を抱えるようにしてボサボサの髪を掻き回した。傍らに立つ秘書艦・大淀もまた、手にしたバインダーの報告書を見つめながら、困惑と驚愕を隠しきれない様子で眼鏡の位置を直していた。
「オカルトの理屈は私にも分かりませんが……事実として受け入れるしかありません。あの海戦で沈んだ深海棲艦の残骸から、多数の艦娘が顕現しました」
ヤンたちがマニラを制圧した直後から、港に引き揚げられた敵の残骸――その怨念が浄化された果てに、かつての船の記憶と誇りを取り戻した少女たちが、次々と目を覚ましたのだ。
駆逐艦、白露、時雨、村雨、不知火、舞風。
重巡洋艦、鈴谷、熊野。
潜水艦、伊58(ゴーヤ)。
優秀な水雷戦隊が、文字通り「ぽん」と湧き出てきたのである。そして何よりヤンを戦慄させたのは、最後の報告であった。
「あの異形の姫君――南方棲戦姫の残骸……自らを撃ち抜いたあの巨大な副砲の鉄塊から、一人の艦娘が顕現しました」
大淀の微かに震える声に、ヤンは目を閉じた。
その艦娘は、かつて日本海軍が持てるすべての技術と国力を注ぎ込み、その巨大さゆえに時代に翻弄され、最後は坊ノ岬沖の海へ特攻していった悲劇の超弩級戦艦の魂を持つという。
―――名を、大和型戦艦一番艦、『大和』。
深海棲艦の総大将とも言える「ジャンヌ」の魂の正体が、あの巨大戦艦の怨念の果てであったとすれば、すべてに合点がいく。絶大な力と装甲を持ちながら、前線に出ることを躊躇い、防衛に固執してマニラに引きこもっていたその「慎重さ」もまた、大戦時における大和の運用の記憶が根底にあったからに他ならない。
「……ひとまずは、彼女たち全員に『隔離』の処置をとってくれ」
ヤンは窓から背を向け、静かに指示を出した。
「妖精さんと明石による厳重な検査が済むまでは、実戦配備はできない。彼女たちの魂が完全にこちら側(艦娘)へ反転しているという確証が得られるまでは、慎重に扱う必要がある」
「承知いたしました。……しかし提督。これほどの戦力が一気に加わるとなれば」
「ああ。嬉しい悲鳴どころか、私の胃が破裂しかねない事態だよ」
ヤンは深く溜息をついた。リンガエンで鹵獲した物資のおかげで、これら大艦隊を食わせるだけの兵站は確保できている。しかし、戦術家としてのヤンの計算式の中に、『最強の戦艦と水雷戦隊が突然空から降ってくる』という要素は存在しなかった。戦力の急激な膨張は、軍隊の運用を劇的に変化させる。
「ひとまずは、新しく来た潜水艦の伊58に、伊168(イムヤ)の交代要員として鉄底海峡方面の哨戒を任せるとしよう。イムヤもずっと海に潜りっぱなしでは息が詰まるだろうからね」
ヤンは海図の前に立ち、腕を組んだ。これだけの手札が揃った今、ヤン・ウェンリーが次に打つべき一手は何か。マニラを確保し、シーレーンの安全圏を劇的に広げた現在、戦略的な選択肢(クロスロード)は二つに絞られていた。
一つは、このまま南へ進軍し、激戦地『鉄底海峡(ソロモン海域)』へ突入すること。深海勢の増援部隊を叩き潰し、現在完全に孤立しているであろうオーストラリア大陸を解放する。
もう一つは、西へ向かい、『リンガ泊地・マラッカ海峡』を抜けてインド洋方面へと進出すること。中東からの石油資源の輸送ルートを完全に制圧し、人類のシーレーンを揺るぎないものへと盤石化する。
どちらも戦略的に極めて魅力的であり、そして同時に、凄まじい密度の深海棲艦が待ち構えているであろう「死の航路」であることに間違いはなかった。
「……さて。どう動かすべきか」
純粋な軍事的合理性、補給線の維持、敵の戦力分布。ヤンが歴史家としての知識と用兵家としての才覚をフル回転させ、論理的な決断を下そうと思考の海に深く沈みかけた、まさにその時であった。
――カラカラ、カラカラ……。
「……ん?」
静まり返った執務室の中に、不意に小さな、しかし耳障りな金属音が響く。ヤンは眉をひそめ、自らの軍服のポケットを探った。その手の中に触れたのは、冷たい金属の感触。
妖精さんから押し付けられた、あのオカルトの遺物――『羅針盤』であった。
「……また、君かい」
ヤンが手のひらに乗せると、羅針盤の針は、ヤンの意思や磁場など完全に無視した様子で、狂ったようにぐるぐると高速回転を始めた。
「相変わらずの、度し難いオカルトだ」
ヤンは呆れたように肩を竦めた。どれほど完璧な戦略を立て、合理的な計算を積み上げようとも、この世界には「理不尽な運命」を強制するシステムが存在する。それが、この不可解な羅針盤の回転に象徴されていた。
―――やがて、カチリ、と。羅針盤の針が、明確な意志を持ったかのように、鋭い音を立てて一つの方向を指し示して停止した。
ヤンは小さく息を吐き、その針の先、海図の上に示された方角へと視線を落とす。
「……『鉄底海峡(アイアンボトムサウンド)』、か」
かつての大戦において、無数の軍艦が沈み、今なお深海棲艦の巨大な怨念が渦巻く呪われた海域。大和という最大の切り札を手に入れたヤン艦隊が次に向かうべき死地を、運命の羅針盤は冷酷に指し示していた。
「やれやれ。私の寿命は、まだまだ縮むことになりそうだね」
不敗の魔術師は、誰に言うともなくぼやきながら、冷めた紅茶を胃袋へと流し込んだ。
人類と深海棲艦の戦いは、マニラの勝利を経て、いよいよ血塗られた歴史の深淵たるソロモンの海へと、その舞台を移そうとしていた。
この後は、大淀さんと作戦会議をして、ヤンがブランデーの一杯でも欲しい、というとね。
大淀さんが、ブランデーをお飲みになりたいのなら、オーストラリアにあるかもしれませんね。と言い、ヤンが、ならば鉄底海峡を抜けるしかないか。全く、一杯のブランデーを飲むために、人類の命運を賭けた血みどろの大海戦をやらなければならないのか。とか苦笑して頭を掻きます。
extra、つまりは、余分なもの。
では今度こそ。お目眼汚ししつれいしやした。