翌日のこと。
ヤン・ウェンリーは、横須賀鎮守府の中枢である地下司令部へと足を運んでいた。
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分厚い防爆扉の向こう側に広がる空間は、かつて彼が自由惑星同盟軍の統合作戦本部で幾度となく味わった、あの重苦しく、ひどく淀んだ空気で満たされていた。
無数の通信機器が放つ電子音、換気扇の低いうなり、そして質の悪いタバコと煮詰まったコーヒーの匂い。いつの時代、いかなる世界であっても、軍隊の中枢というものはかくも不健康な空間になり下がる運命にあるらしい。
長大な作戦テーブルを囲むようにして座っていたのは、この鎮守府、ひいてはこの国の海上防衛を担う最高幹部たちであった。
彼らの視線が、案内されて入室してきた冴えないボサボサ頭の青年に一斉に注がれる。その中の一人、最も上座に座る提督――、階級章によれば大将である老齢の男が、重々しく口を開いた。
「……なるほど。君が、あの作戦を立案したという臨時文官か」
男の声音には、威圧感よりもむしろ、深い疲労と安堵が入り交じっていた。
「見事な采配であった。我々の硬直した思考では、到底思いつかない発想だ。あの一撃がなければ、我々は一ヶ月後には間違いなく干上がっていたであろう」
「恐縮です。ですが、私はただ書類上の数字をいじり、少しばかりの『思考実験』を口にしたに過ぎません。実際に血を流し、作戦を成功させたのは前線の彼女たちです」
ヤンは無難な謙遜で応じたが、幹部たちは首を横に振った。
「その謙遜は不要だ。我々はこれまで、ただいたずらに戦力をすり潰すことしかできなかったのだからな。……頼むぞ、ヤン・ウェンリー。我々では、もうどうにもならなんだ」
「……」
「前線はおろか、後方の参謀本部ですら、君ほどの柔軟な発想を持つ者は最早残っていない。君はまさに、絶望の淵に現れた『魔術師』だ」
魔術師。その単語を聞いた瞬間、ヤンの背筋に極めて不快な悪寒が走った。
「奇跡のヤン」「不敗の魔術師」。
かつて彼を英雄の座に縛り付け、終わりのない戦争の泥沼へと引きずり込み、最終的にはその命を奪うことになった呪いの言葉である。この世界に来てまで、またその名で呼ばれることになろうとは、運命という名の三流劇作家はよほど引き出しが少ないらしい。
ヤンは反射的に「お断りします」という言葉を喉まで出しかけた。しかし、彼の視線が幹部たちの顔を真っ直ぐに捉えたとき、その言葉は声帯を震わせることなく霧散した。
(……なるほど。そういうことか)
ヤンは内心で小さく息を吐いた。
かつて彼が対峙してきた自由惑星同盟の上層部――ヨブ・トリューニヒトらの面々は、自己の保身と権力欲にまみれ、丸々と太り、血色の良い顔で前線の将兵を死地へと追いやっていた。彼らの無能は、私利私欲と結びついた「悪意のある無能」であった。
だが、目の前にいるこの世界の将官たちは明らかにそれらの無能とは違った。
彼らの顔には、一様に色濃いクマが刻まれ、頬はこけ、軍服は手入れされているものの、その下にある肉体が限界まで痩せ細っているのが見て取れた。彼らは決して、安全な後方で私腹を肥やしていたわけではない。深海棲艦という理解不能の怪物に対し、人類の生存圏を守るために、彼らなりに文字通り不眠不休で、血を吐くような努力を続けてきたのだ。
ただ単に、彼らの能力の限界を超えた事態が起きているというだけのこと。
人材不足というのは、政治的な言い訳ではなく、真の意味で「知恵を絞り出せる人間の枯渇」を意味していたのである。彼らは自分たちの凡庸さを自覚し、その上で恥を忍んで、昨日までの一介の臨時雇いに頭を下げているのだ。
(これでは、毒づく気にもなれないではないか)
「……私のような怠け者に、その重責が担えるかどうかは甚だ疑問ですが」
ヤンはボサボサの黒髪をゆっくりと掻き回し、彼らに向かって深々と、かつてないほど諦めの境地に達したため息を吐き出した。それは不敗の魔術師が、再び歴史の表舞台に引きずり出されることを受け入れた、降伏の儀式でもあった。
「給料分の仕事はさせていただきましょう。……それに、どうやら私は、休む間もなく働く人々の顔を見るのが、あまり好きではないようですから」
その言葉に、疲れ切っていた将官たちの顔に、一筋の光明のような安堵が広がった。
ヤンは軽く一礼をすると、これ以上「英雄」として祭り上げられる前に、そそくさと司令室を後にした。分厚い防爆扉が背後で閉まる音を聞きながら、彼は自分がとんでもない貧乏くじを引いてしまったことを改めて自覚し、天を仰いだ。
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「やれやれ。これで私の年金生活は、またしても遥か遠くの星の彼方へ吹き飛んでしまったというわけだ。フレデリカが聞いたら、呆れて笑うだろうな」
「ヤン提督。お疲れ様でした」
通路の壁に寄りかかっていた大淀が、ヤンの姿を認めるなり姿勢を正し、澄んだ声で呼びかけた。「提督」という響きにヤンは顔をしかめたが、大淀の表情はどこか晴れやかであった。
「その呼び方は、まだ少し胃が痛むのだがね。まぁいいだろう。それで、大淀さん。私はこれからどこへ向かえばいいのですか? まさか、あの埃っぽい第四倉庫へ戻れとは言わないでしょう」
「もちろんです。ヤン提督には、本庁舎の二階にある専用の執務室をご用意しております。さ、ご案内いたします」
大淀は微笑みながら踵を返し、先導を始めた。
鎮守府の長い廊下を歩きながら、ヤンは周囲の空気が一ヶ月前とは微かに、しかし決定的に変化していることを感じ取っていた。すれ違う軍人や、遠くに見える艦娘とおぼしき少女たちの顔から、あの死を待つような悲壮感が薄れ、代わりに「まだ戦える」という静かな熱気が宿っている。自らが立案した作戦がもたらした勝利の余波を肌で感じながら、ヤンは複雑な心境であった。
「……大淀さん。一つ聞いておきたいのですが」
ヤンは歩調を合わせながら、前を歩く大淀の背中に声をかけた。
「まず、先日の反攻作戦、お見事でした。敵の『様子見』の隙を突き、修復を終えた大型艦による一点突破。理屈の上では可能でも、実際にあの重圧の中で決行し、見事に敵主力を粉砕したのは現場の力です。
それでその……、最後の一撃を決めたのは、どこのどなたですか?」
大淀は足を止めずに、少しだけ振り返ってヤンに微笑みかけた。
「それは、これから向かう執務室で、提督ご自身の目でお確かめください。彼女が、提督の最初の直属の部下――『秘書艦』として、すでに待機しておりますから」
「秘書艦……ね。私としては、書類整理が得意で、紅茶を淹れるのが上手く、そしてできれば私が昼寝をしていても怒らない寛容な方だとありがたいのですが」
「ふふっ。書類整理はともかく、紅茶の淹れ方なら、彼女は鎮守府でも一、二を争う腕前ですよ。提督の好みに合うかはわかりませんが」
「ほう、それは素晴らしい」
ヤンは少しだけ現金な表情を見せた。美味い紅茶が飲めるのであれば、この理不尽な世界での労働環境もいくらかはマシになるというものだ。もっとも、彼が好む「紅茶の淹れ方」が、極めてアルコール度の高い邪道なものであることを、大淀はまだ知らないのだが。
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やがて、二人は本庁舎の最奥にある、重厚な木製のドアの前に到着した。
真新しい真鍮のプレートには、これまた仰々しく『艦隊司令官室』などと刻まれてしまっている。ヤンは思わず眉間に皺を寄せた。
「こちらです。彼女には、提督がいらっしゃることを既に伝えてあります」
「了解しました。案内ありがとう、大淀さん」
ヤンは小さく息を吐き、無意識のうちに軍服の襟を正した。自分を「魔術師」たらしめた作戦を、最前線で完璧に実行に移した功労艦。そして、これから自分と共に、この絶望的な戦線を生き抜いていくこととなる最初の相棒がこの先に居るという。
(さて、どんな武闘派の少女が待っていることやら)
ヤン・ウェンリーはドアノブに手をかけ、ゆっくりと、その重い扉に体重をかける。未知の運命が待つ、新たな歴史のページをめくるように。そして、その重厚な扉が押し開げられた瞬間、彼の視界は突如として飛び込んできた「何か」によって完全に塞がれた。
「テェエエエイトクゥウーーーーッッッッ!」
凄まじい勢いと突風。次いで、華やかな茶髪と紅茶の甘い香り、そして肋骨が悲鳴を上げるほどの熱烈な抱擁が、ヤン・ウェンリーという無防備な青年を容赦なく襲った。
「……っ!?」
かつてイゼルローン要塞で幾多の危機を潜り抜けてきた不敗の魔術師も、この質量を伴う物理的な奇襲には完全に虚を突かれた。彼を取り巻く女性といえば、フレデリカのように礼儀正しく控えめなタイプが常であったため、この種の過剰なスキンシップに対する防御力は皆無に等しい。
背後で一部始終を見ていた大淀が、「やっぱり……」とひどく疲れたような苦笑を漏らした。
「あー、その、ひとまず落ち着き給え」
ヤンが呼吸を整えながらどうにか声を絞り出すと、相手は弾かれたように身体を離した。
「OH! ソーリー! テイトクのお顔を見たら、気持ちが抑えきれまセンでした! 改めて、戦艦金剛デース! よろしくお願いしマース!」
彼女は巫女服を異国風にアレンジしたような鮮やかな衣装を翻し、見事な姿勢でビシッと敬礼を決めた。その溌剌とした笑顔と底抜けに明るい声は、陰鬱な鎮守府の空気を一瞬で吹き飛ばすほどの強烈な陽の気配を放っていた。ヤンがボサボサの頭を掻きながらなんとか態勢を立て直すと、大淀が進み出て改めて両者を紹介した。
「提督、こちらが先日の反攻作戦で旗艦を務めた金剛です。最近ようやく『縁』が繋がり建造されたばかりの戦艦ですが……彼女の最大の特徴は、その脚にあります。十分な火力と装甲を備えながら、駆逐艦と肩を並べて航行できる高速戦艦なのです」
「……なるほど。それで合点がいった」
ヤンは顎に手を当て、深く納得したように頷いた。
「いくら敵の虚を突く作戦とはいえ、鈍重な巨艦では駆逐艦のパトロール隊と足並みを揃えて強襲をかけることは不可能だったはず。しかし、君のその機動力があったからこそ、あの限られた時間の中で敵の防衛線を突破し、主力を叩けたわけか」
戦術の要であった物理的なパズルが解け、ヤンが感心したように言うと、金剛は勢いよく首を横に振った。
「NO! それは違いマース!」
金剛はヤンの顔を真っ直ぐに見つめ、その瞳をきらきらと輝かせた。
「テイトクの素晴らしい作戦があったからこそ、突破できたのデス! アナタは、生まれたばかりのワタシを活躍できる戦場に立たせて、そして勝利に導いてくれた最高の大恩人デス! 本当にありがとうございマース!!」
感極まった金剛が再び両手を広げてヤンに飛びつこうとした瞬間、大淀が手にしたバインダーでその突進を物理的に、かつ冷静にガードした。
「金剛さん、提督が困っていますから、ハグは一日に一回までにしてください」
「エエッ!? そんな! 殺生デース!?」
騒がしくも活気に満ちた二人のやり取りを眺めながら、ヤンは再び、しかし今度は少しだけ口元に笑みを浮かべて、本日何度目かの長いため息を吐いたのだった。
■
「なるほど。これで今の我が鎮守府の主力というわけだ」
ヤン・ウェンリーは、執務室の前に整列した艦娘たちをぐるりと見渡し、ボサボサの頭を大げさに掻き回した。彼の目の前に並んでいるのは、この人類の命運を分ける最前線基地の全戦力である。
「一人前のレディとして扱ってよね!」
と背伸びをして胸を張る暁。
「司令官、よろしく」
と無表情にロシア語を交える響。
「はわわ、が、がんばります!」
と涙目で縮こまる電。
「提督、私のことを頼っていいのよ!」
と妙に母性を発揮してくる雷。
それに加えて、
「オレの出番か? 怖いもの知らずだな、提督!」
と物騒な獲物を振り回す天龍と、
「あらあら、死に急ぎたいのかしら?」
と妖しく微笑む龍田の軽巡洋艦コンビ。
さらにその後方には、未だ入渠待ちのため腕を吊った状態の正規空母・加賀が、冷たくも静謐な眼差しでヤンを見据えている。
その横には、先ほどからスキあらばハグを狙っている元気すぎる英国産(?)戦艦と、この理不尽な重責へと彼を引きずり込んだ張本人である、有能にして狡猾な参謀・大淀が控えていた。
「元気な子供が四人に、生意気な軽巡が二人、寡黙な空母に元気すぎる戦艦。そして頼りになるが私をこの泥沼に引き込んだ策士……。なるほど、これは
ヤンが正直すぎる感想をぼやくと、暁が「子供じゃないわよ!」と抗議の声を上げたが、ヤンはひらひらと手を振ってそれを制した。彼は少しだけ姿勢を正し、自分の配下となった少女たちの顔を一人ずつ、しかし決して重圧を与えないような柔らかい眼差しで見つめた。
「ヤン・ウェンリーだ。肩書は提督らしい。――まぁ、気楽にやろう」
ヤンの口から出たのは、軍司令官の訓示としてはあまりにも脱力感に満ちた、しかし彼らしい率直な言葉であった。
「
その言葉に、艦娘たちの間に微かな動揺と、新鮮な驚きの色が広がった。これまで彼女たちが聞かされてきたのは、「人類のために身を粉にして戦え」「轟沈を恐れるな」という精神論ばかりだったからだ。
「私の言う
ヤンはそこで少しだけわざとらしく言葉を区切り、ニヤリと笑った。
「美味い紅茶も
英雄らしからぬ、あまりにも不真面目な訓示。――しかし「君たちの命は決してすり潰さない」という彼なりの確かな誓いを受け取り、艦娘たちは顔を見合わせた。
やがて、誰からともなく小さな笑い声が漏れ始める。『たかだか人類の存亡』――その途方もない重圧を、この冴えない青年は紅茶一杯の軽さへと、鮮やかな手品のようにすり替えてみせたのだ。
だが、その安堵の余韻に浸る暇すら、この元気すぎる戦艦は与えてくれないらしい。
「Hey! テーイトクー! まず何をしまショーかー!?」
ビシッと元気いっぱいに挙手をした金剛が、満面の笑みでヤンに迫る。
「そうだな……。まずは、鎮守府でも一、二を争う腕前と噂の、金剛が淹れる紅茶を頂きたいね。ああ、もちろん、ブランデーはたっぷりと入れてくれ」
「……ワッツ? ブランデー? ティーにデースカ!?」
「おや、ダメかい? 紅茶とは美味しいブランデーを飲むための口実にすぎない、というのが私の持論なんだが」
「OH……! テイトク、それは紅茶への冒涜デース!!」
不敗の魔術師と、鋼の魂を持つ少女たち。
奇妙な縁で結ばれたこの小さな艦隊が、やがて世界の歴史を大きく塗り替えていくことになるのだが……それはまだ、ヤンが待ち望む「年金生活」よりもずっと先の話である。