真っ白な壁と天井に囲まれた無機質な部屋。
わたしは白衣のような服を着て、ベッドに縛り付けられていた。
「あ゙ぁ゙…いっ……いや、…嫌ぁあ゙…あ…ぁあ゙」
背中が、燃えるように痛い。
痛い。いたい。イタイ。
――お前は、何を望む?
痛みで遠のく意識の中、問いかけるような声が聞こえた。
何を望む、って、何を?
「……なに、も゙……いらな、い……」
例えば、逃げる力があったって、抗う力があったって。わたしには、何もないのだから。
この場所から逃げても行く場所はないし。抗えばもっと酷い目に合う。なにも思わなければ、こんな世界だって、生きていけるはず。
だから、何もいらない。何も望まない。
望んだら望んだ分、傷付くのはわたしなのだから。
「あ゙ぁ゙……っ、」
プツリ、とゲーム機の電源が切られるみたいに、わたしの意識は黒に染まった。
目が覚めた時、わたしは床に横たわっていた。
全身が痛く、少しでも動けばその痛みが増していくように思えて、動くことができなかった。
「お前はモルモット以下の使えん虫けらだな!何のためにお前を買ったと思っている!!」
頭から怒号が降ってきて、目の前の男はわたしを蔑む目でこちらを見ていた。
どうやら、彼が行おうとしていた実験が失敗したらしい。ネズミで成功した実験の次のフェーズは人間での実験だ。親から捨てられ、ここにいるわたしは実験ネズミにすらなれなかったらしい。
「……ごめんね、……ごめん、なさい」
男が出て行った直後。男の隣にいた女性が、わたしをふわりと包み込んでそう言った。その温もりは、感じたことのないもので、これを"優しさ"と呼ぶのだろうと漠然と思った。それに対して、わたしはどう反応すればいいか分からなかった。
「あぐり、さん……泣かな、いで、ください」
わたしの世界はとても歪で、不安定だ。
暴力と暴言に支配された世界に出口はなくて。わたし自身もそんな世界からの出方を知らない。そして、それ以外の生き方を知らない。
わたしへの実験が失敗した数日後、わたしとは違って優秀なモルモットが手に入ったらしい。
日頃の鬱憤を撒き散らすような暴力の中、男は「お前とは違う」と嬉しそうに言っていた。
たまたまその姿を見る機会があった時、わたしはその優秀なモルモットにこう尋ねた。
「あなたは、一体、何?」
人間の皮を被ったナニカ、のように思えたその人物は、わたしの質問に答えずにただ微笑んだ。それはやっぱり、どこか人間らしくない表情に思えた。
あの優秀なモルモットが来てからどれくらい過ぎただろうか、冷たい床で蹲っていると、けたたましいサイレン音が鳴り響く。
真っ白だった部屋が、サイレンの赤に塗り潰されていく。そして壁が、天井が軋む音。少しずつ、見えてくる外の世界に、この世界の終わりを悟った。
崩れていく壁の外に、どす黒い闇が見えた。その闇を照らしてくれる月はもういない。わたしは、終わりを受け入れるように目を閉じた。
逃げる体力もないわたしは、その場でただただ終わることだけを祈る。全部、ぜんぶ終わってしまえばいい。この生命も、なにもかも全部。
***
目が覚めると、見知らぬ白がわたしを包んでいた。
たくさんの管に繋がれた、ボロボロのわたし。看護師の目がそれを憐れむように見ていて。わたしと目が合った瞬間、驚いた表情を浮かべていた。
「! 先生!意識を取り戻しました!!」
あの日、月が三日月になったらしい。
誰かが、もう満月を見ることはできないと言っているのが、断片で聞こえた。
「あ、の……あぐり、さんは……」
絞るような声で、そう尋ねた。
返ってきた言葉は、そんな名前の患者は来ていないということだった。
「まずは自分の身体を労りなさい」
奇跡的に欠損なく見つかった身体に、君は運がいいと目の前の医者は言っていた。
わたしからしてみればそれは真逆で。死ねなかった不幸を、心のうちに隠した。
目を覚ましてから数日後、誰もお見舞いに尋ねてこないわたしを、看護師が怪訝そうに見ていた。
ひとりぼっちのわたし。
どうしてわたしは生きているのだろう。
もしも神様がいるのだとしたら、きっと意地悪だ。逃げたいと願うわたしの願いすら叶えてくれないひどい神様。
ねえ、神様。どうしてわたしはまだ生きているの?
体力も回復してきた頃、気分転換になるだろうと医者に外出を勧められた。広い病院内を彷徨くだけでも気分が変わり、リハビリになるとも言っていた。
中庭のベンチに佇んで、ペットボトルの水を口に含む。
自由を知らないわたしは、どこにいたってきっと変わらない。どうすればいいのか、わたしにも分からないから。
この先、わたしはどうしたらいいのだろう。そういえば、あの優秀なモルモットはどうなったのだろうか。わたしと違って死ねていれば楽になれただろうか。
「あれ。君、寂しそうだね。俺も入院したばっかでつまんなくてさ、話し相手になってよ」
張り付いた笑顔が作り物だと思った。悪意を隠すための、笑顔。
あの場所で見た笑顔によく似ていて、すごく気持ち悪いと感じた。
「……、」
何も言わずそのまま去ろうとしたわたしの手を、その男はパシッと掴む。
掴まれた腕がゾワリ、と鳥肌を立てていて。わたしの腕が少しずつ震えていくのが分かった。
「……ゃ、」
言葉が出ない。
嫌なのに。離してほしいのに。
わたしの心はあの場所のまま。支配されるのが当たり前になったあの世界のままで。抗うことができない。
抵抗のしないわたしに気を良くしたのか、男のもう片方の手が腰に移る。
いやらしい触感に、わたしは肩をびくりと震わせた。
「……あ、……い、や……」
気持ち悪くて、吐きそうになる。
あの場所で何度も無理矢理身体を触られた感覚によく似ていて、息ができなくなりそうだった。
「あっれえ、何してんの?お兄さん。その子、嫌がってるじゃん」
凛、とした声。声の方を向くと、赤い髪の少年がつまらなそうな顔でこちらを見ていた。
「お前には関係ないだろ。クソガキはさっさと帰んな」
男がそう言った瞬間、わたしの隣にいたその男が吹き飛ばされた。赤髪の少年が、男を殴ったのだ。
そこからは少年の独壇場で。さっきまで余裕そうだった男がボロボロの姿で逃げていく。
「大丈夫?」
その声に思わずびくりと肩を振るわせる。
さっきまで人を殴っていたとは思えないほど穏やかな声に、目の前の少年がうまく重ならなくて、すぐに返事ができなかった。
「……あ、」
どうしよう。こういう時、何を言えばいいのだろう。何をしたらいいのだろう。
何も言わないわたしを不思議そうに少年は見ていて。
少しの沈黙。
それを破ったのは、他でもないわたしだった。
「……あなたの手、傷付けて、ごめんなさい」
ふわりと、赤く滲んだその手に触れる。
その赤が、この少年のものなのか、さっきの男のものなのかはわからないけれど。
「あの、……暴力は、良くないと……思います」
目の前の少年の瞳は、迷っているように見えた。
わたしをあの男から助けてくれたのはただの気紛れで、大層な理由はないんだと思う。
だけど、助けることができる目の前の少年は、きっとあぐりさんのように"優しさ"を持ってる人だと思ったから。
「……だって、あなたも、傷付いてるように、見えます」
そんなわたしの言葉に、少年は目をパチクリとして、その後、まるで玩具を見つけたように微笑んだ。
「あんた面白いね」
面白いことを言った自覚のないわたしは、首を傾げる。何がそんなに面白かったのだろうかと悩んでいると、そんなわたしの姿に少年は肩を振るわせながら笑っていた。
「じゃ、次からは気をつけなよ。まあ、また会えたら助けてあげてもいいけど」
そう言って、楽しそうに去っていく赤。
"また会えたら"という言葉が胸に刺さる。わたしに、"また"なんて、あるのだろうか。
白一色だったわたしの世界に、少しだけ色が付いたような気がした。
***
「君が花宮 秋さんか」
目の前に立つのは、威圧感のある真っ黒な大人たち。
看護師から慌てたように来客が来ていると通された部屋はシンと静まりかえっていて、白に包まれたわたしと黒い大人たちの息づかいだけが響いていた。
「防衛省の烏間惟臣だ。君に協力を求めたい」
防衛省、ということは国を守っている人たちなのだろう。彼らから協力内容を一方的に告げられて、わたしは黙ってそれを聞いていた。
どうやら、優秀なモルモットは生きていて。
さらには地球を爆破すると国を脅しているらしい。
「……生きて、たんですね、あの人」
正直なことを言えば、わたしはもうあれには関わりたくない。
けれど、無関係とは言い難いわたしの立場を、わたしは誰よりも理解しているつもりだ。
――月を、無惨な形にしたのは誰だ?
「奴が、君を呼んでいる。椚ヶ丘中学校3年E組。奴はそこで教鞭をとるらしい。君が生徒になることは、奴の要求だ」
椚ヶ丘中学校、3年E組。
あの世界で唯一あたたかかったあぐりさんから何度も話を聞いた、あぐりさんが大切にしようとしていた場所。
そして。教鞭を取るのが彼女ではないという意味。
「…………そう、なんですね」
その意味を、理解するのに時間はかからなかった。
あぐりさんが、死んだ。死んだから、あの人はあぐりさんの代わりになろうとしているのか。それとも、ただの気まぐれか。真意は分からないけれど。
黙ったまま、イエスと答えないわたしに、目の前の男性は苛立っているように見えた。
協力という名の命令に、わたしは未だどう答えたらいいのか分からない。
「我々には君が、必要なんだ」
必要、言われたことないその言葉に、下を向いていた目線が上がる。
伏せていた目が、目の前の人物を捉える。
この人は、こういう顔をしていたんだと初めて思った。真面目で、真っ直ぐな目がこちらを見ている。
今まで見たことのないその目に、わたしの目が吸い込まれていく。
わたしがノーと首を振れば、あの人はこの地球を爆破して、わたしの世界は終わるだろうか。
わたしがノーと首を振れば、きっと世界中の誰もがわたしのことを憎むだろうか。
ふと、過ぎる、赤。
ほんの少しだけ、知らない世界を知りたいと思えた。
「……わたしのこと、調べたんですよね」
防衛省ほどの組織が、何も調べないでこんなところに来るはずがない。
わたしの過去について、全部知っているのだろう。
その言葉に反応するように、真っ黒な大人たちは苦い表情をしていて。わたしは、それを見て、少し息を吐いた。
「ご存知の通り、わたしには何もありません。生きる術も、生きる手段も、生きる……勇気も、ないんです」
今まで、首を横に振ったことはなかった。
逆らえば、暴力で支配されるから。
今まで、何かをお願いしたことはなかった。
どうせ、わたしのことは誰も見ていないから。
そして、生きることに執着のなくなってきたわたしは、いつ死んでもいいって思ってた。
「君の衣食住は我々が保証する。君の安全もだ」
何もないはずのわたしが、まだ生きていていいんだろうか。
その疑問と表裏一体になるように、少しだけ、白以外の世界が見たくなった。
もしも。本当に、誰かがわたしを必要としてくれたら。そんなことを夢見てもいいだろうか。
「……わかり、ました」
わたしは口角をあげる。それが、笑顔に見えたらいいと思いながら。