新任教師――イリーナ・イェラビッチさんが担当する英語の時間。黒板には「自習」の二文字が書かれている。その彼女の態度から、授業するつもりがないと明白だった。
「なー、ビッチねえさん授業してくれよー」
そこに、前原くんが声を上げる。
それを皮切りに、教室内で「ビッチねえさん」が連呼された。
「そーだよ、ビッチねえさん」
「一応、ここじゃ先生なんだろ、ビッチねえさん」
カルマくんが付けたあだ名がもう定着している、と言い出しっぺである彼をちらり、と見るとニヤニヤと愉しそうに微笑んでいた。
そして、暗殺経験も豊富で多くの死戦を越えてきた彼女も"ビッチ"と連呼されてイライラがピークを迎えたようで。
「あーーー!!ビッチビッチうるさいわね!!」
そう盛大に突っ込んでいた。
「まず正確な発音が違う!!あんたら日本人はBとVの区別もつかないのね!」
発端であるカルマくんは区別出来てて、わざと言っているんだろうなと、眉を下げる。ハッキリとしたBの発音。
それは、明らかにスラング的な意味を含んでいた。
「正しいVの発音を教えてあげるわ!まず歯で下唇を軽く噛む!!ほら!!」
わたしは言われた通りに、歯で下唇を軽く噛んだ。
「……そう、そのまま1時間過ごしてくれれば静かでいいわ」
授業にもならないこの時間に、わたしは下唇を噛むのをやめて、黒板に書いてある文字の通りに自習を行うことにした。
確か、前の授業で殺せんせーが課題を出していた、とわたしはそのプリントを机の上に広げた。
「秋ちゃんってホント真面目だよね〜。俺なら寝るけど」
「カルマくんはもう少し真面目に授業聞いた方がいいですよ。授業中、いないこともありますし」
「だってつまんないし。ほら寝ようよ。秋ちゃん、朝眠そうにしてたし、ね?」
う、と言葉が詰まる。
今朝の醜態を思い出して、わたしはふいっとそっぽを向いた。
「なんなら肩貸してもいいよ」
からかうような声色に、わたしは机に突っ伏すように顔を隠した。
カルマくんの考えてることが全然分からなくて。だけど、今はわたしに優しくしてくれるカルマくんが、本当のわたしを知ればきっと離れるって思うから。だから、わたしはその優しさに慣れてしまうことが、ひどく怖いと感じてしまうの。
***
6時間目は烏間先生の体育の授業。
身体を動かすと、余計なことを考えなくて済む。
いつの間にか平常心に戻っていたわたしは殺せんせーに見立てた板に向かって銃を構えていた。
ふう、と一息吐いて、引き金を引いた。
狙い通りの場所に穴が空いていて、ほっと一息吐いてから、腕を下ろした。
「花宮さんって、ナイフも銃も上手だよね。なんか意外」
「そうそう、花宮さんって、ぽよよ〜んな雰囲気なんだよね。こう、守ってあげたい!って感じの」
わたしの射撃を見ていた茅野さんがそう言って、中村さんがそれに続ける。
周りにいた他の女子からも「確かに」「わかる」と声が続いて。どう返したらいいのか分からないわたしは、言葉に詰まって、眉を下げた。
「……おいおいマジか。2人で倉庫にしけ込んでくぜ」
そこに、三村くんの声が聞こえて。わたしに注がれた視線は、倉庫の方へ向けられる。わたしもそちらを見ると、そこには殺せんせーとイリーナ・イェラビッチさんの姿があった。
「なーんかガッカリだよな、殺せんせー。あんな見え見えの女に引っかかって」
「…烏間先生、私達……あの女の事、好きになれません」
そこに、片岡さんの声が響いた。
学級委員である彼女が告げる、クラスメイトからの拒絶の声。
「…すまない。プロの彼女に一任しろとの国の指示でな。だが、わずか1日で全ての準備を整える手際。殺し屋としては一流なのは確かだろう」
殺し屋としては、一流。
わたしたちの知らない場所で、彼女は殺し屋として生きてきたことは、その手腕を見れば痛いほどに分かる。きっとわたしよりも、悲しくて辛い目にあったこともあるんだろうとズキリと胸が痛む。
だけど、ここは。
血に濡れた彼女の世界じゃなくて、暗殺教室だから。わたしも、彼女にその一員になってほしいと思った。
そこに、突然、ものすごい音の銃声が鳴り響く。
それは爆発にもよく似た強烈な音で、わたしたちは皆、一様に倉庫へ視線を向けた。
「いやああああ!!」
銃声から少しの間の静寂。そして聞こえたのは、女性の悲鳴とヌルヌルという効果音だった。
「な、なに!?」
「銃声の次は、鋭い悲鳴とヌルヌル音が!!」
何があったのか、とみんなが倉庫へ向かって行く。わたしもそれを追って、倉庫に近付くと、そこには晴れやかな表情をした殺せんせーが立っていた。
「いやぁ…もう少し楽しみたかったんですが、皆さんとの授業の方が楽しみですから。6時間目の小テストは手強いですよぉ」
そして、その後ろからふらふらになったイリーナ・イェラビッチさんが現れる。体操服にハチマキ、という健康的でレトロな姿になって。
「まさか…わずか1分であんなことされるなんて…肩と腰のコリをほぐされて、オイルと小顔のリンパマッサージされて…早着替えさせられて…」
流石は殺せんせー。マッハ20で動ける殺せんせーの1分は有限じゃなくて、無限だ。
「……その上まさか……触手とヌルヌルであんなことを……」
……あんなこと、ってどんなこと、だろう。渚くんも、気になったのか殺せんせーに聞くと、うまくはぐらかされているみたいだった。
その奥に見えるイリーナ・イェラビッチさんの顔は、怒りに狂ったような表情をしていた。
***
翌日の英語の時間。教室には、タン、タンとタブレットを強く打つ音だけが響いていて、それ以外は何も聞こえない――そう、思った時。
「あはは、必死だね、ビッチ姉さん。あんなことされちゃ、プライドズタズタだろうねー」
隣から聞こえる楽しそうな声。それは、挑発が混じっていた。
「先生、授業してくれないなら殺せんせーと交代してくれませんか?一応俺ら、今年受験なんで…」
磯貝くんが、そう声をかける。それに対して、彼女はわたしたちを馬鹿にしたように、笑った。
「聞けばあんた達E組って…この学校の落ちこぼれだそうじゃない。勉強なんて今さらしても意味ないでしょ」
喉の奥で、ひゅ、と音がなった。
教室の空気が、変わる。
「じゃあこうしましょ。私が暗殺に成功したら、ひとり500万分けてあげる!あんたたちがこれから一生目にすることない大金よ!無駄な勉強よりずっと有益でしょ。だから黙って私に従い…」
タン、と黒板に何かが当たる。
「…出てけよ」
冷たい誰かのその声が、教室に突き刺した。
それが合図のように、みんなの「出てけ」の声と、飛び交う教科書や文房具。
「出てけくそビッチ!!」
「殺せんせーと変わってよ!!」
彼女は教師じゃなくて、ただの殺し屋。
だけど、クラスのみんなにとって、それは関係ない。教師としてこの場所に来た以上、みんながそれを求めるのは仕方ないだろう。
「なっ…なによあんた達、その態度っ、殺すわよ!?」
「「上等だよ!殺ってみろコラァ!!」」
イリーナ・イェラビッチさんにとって、殺せんせーはただの標的。けれど、わたしたちにとってはそうじゃない。殺す対象、だけど、わたしたちを導く先生なんだ。
この学級崩壊は、授業終了のベルが鳴るまで続いた。
3年E組のみんなは、自分の現在地を自分自身で分かってる。落ちこぼれと笑われて、蔑まれてきた弱者。それを彼ら自身が痛いくらいに理解している。
――だからこその、学級崩壊だ。
だけど、この学級崩壊に参加することも、止めることも、目の前の殺し屋に異論を唱えることもできない、無力なわたし。
それでも、彼女にこの場所を知ってもらいたい。
だって、この場所はこんなわたしを迎え入れてくれたあたたかい場所だから。このあたたかさを知らないまま、みんなを嫌いになって、ほしくない。
カーディガンをぎゅっと握りしめながら、わたしはガタリと席を立った。
「秋、ちゃん……?」
不思議そうにこちらを向く目を、見ないふりして、わたしは教室を飛び出した。
目指したのは職員室。開いたドアの向こう側、そこにいた黒に駆け込んだ。
「か、烏間先生……あの、その、」
「花宮さん?どうした」
「あの人……イリーナ・イェラビッチさんに、この場所のこと、教えてあげてください」
わたしは、この場所がどういう場所なのか、彼女に分かってもらいたい。だけど、わたしにはその力もなくて、その方法も分からなくて。
だから、同じ暗殺者で、教師という立場の烏間先生なら、きっと彼女に伝えられると思うから。
「わたしには、できないけど、烏間先生なら、教えてあげられる、ので」
烏間先生の返事を待たないで「よろしくお願いします」と職員室から逃げるように出て行った。
***
翌日の英語の授業。
ざわざわと賑わう教室に、ガラリとドアの開く音が響く。イリーナ・イェラビッチさんがコツコツと黒板の前まで歩いて、スラスラと英文を書いた。
「リピート!!」
と、黒板を指差しながら、そう言った。
みんなは言われるがまま、その言葉を口に出す。
「アメリカでとあるVIPを暗殺したとき、まず、そいつのボディーガードに色仕掛けで接近したわ。その時、彼が私に言った言葉よ。意味は"ベッドでの君はスゴイよ……"」
この間の、自習を促すような態度とはまるで違う。
「外国語を短い時間で習得するには、その国の恋人を作るのが手っ取り早いとよく言われるわ。相手の気持ちをよく知りたいから必死で言葉を理解しようとするのよね」
今の彼女は、ただの殺し屋じゃない。
――まるで、教師のように見えた。
「私は仕事上必要な時……その方法で新たな言語を身につけてきた。だから私の授業では…外人の口説き方を教えてあげる。プロの暗殺者直伝の仲良くなる実際に外人と会った時に必ず奴立つわ」
たくさんの外国を渡り歩いた彼女の会話術。それは、今後、必ず役に立つだろう。
「受験に必要な勉強なんて、あのタコに教わりなさい。私が教えられるのは、あくまで実践的な会話術だけ。もし…それでもあんた達が私を先生だと思えなかったら、その時は諦めて出ていくわ」
強気な態度が、遠慮がちになる。
そしてさらに弱々しい声を出して、こちらを見る。
「……そ、それなら文句ないでしょ?…あと、悪かったわよ、いろいろ」
みんなは、ぽかんとした顔で彼女を見ると、一気に笑いが起きた。
一気に雰囲気が軽くなる。このクラスに、勇気を振り絞った彼女をもう、出てけなんて言う人はいないだろう。
「なんか、普通の先生になっちゃったな」
「もう、ビッチ姉さんなんて呼べないね」
「……!!あんた達…わかってくれたのね」
「考えてみれば、先生に向かって失礼な呼び方だったよね」
「うん、呼び方変えないとね」
「じゃ、ビッチ先生で」
誰かのその声に、みんなが納得したように頷いた。
言われた彼女だけが、納得していない顔を浮かべていて。
「えっ……と、ねえ、君たち、せっかくだからビッチから離れてみない?ほら、気安くファーストネームで呼んでくれて構わないのよ?」
「でもなぁ、もうすっかりビッチで固定されちゃったし」
「うん。イリーナ先生より、ビッチ先生の方がしっくりくるよ」
みんなは、声を揃えてこう言った。もちろん、わたしも。
「「そんなわけで。よろしく、ビッチ先生!」」
「授業始めようぜ、ビッチ先生!」
みんなで、ビッチビッチ言っていると、ついに彼女も怒りの表情に変わる。
「キーーッ!!やっぱりキライよ、あんた達!!」
ビッチ先生のその声が、校舎中に響き渡って。
苛つきはあるけど冷たさのないビッチ先生の感情に、わたしは口角を上げた。
ほら、ここはこんなにもあたたかい場所なの。それをあなたにも、知ってほしい――なんて、わたしの我儘だろうか。