真新しい部屋に、ベッドがひとつだけ。
防衛省が用意してくれたのは、生きるために必要な最低限が用意された生活感のない部屋。必要なものがあれば連絡してくれと渡された携帯電話も電源が入ることはなく、放っておいたままだった。
そして、退院してから椚ヶ丘中学校に編入するまでの間、防衛省の方に料理などの生活に関わることとリハビリという名のある程度の特訓を受けていた。
そのお陰か、動くだけで軋むようだった身体は、今では軽く動けるようになっていて。骨と皮で構成されていたような身体も、防衛省の指導のもと、規則正しい食事と運動で、他の同年代の体格に近付いていた。栄養が足りなくてあまり伸びていない身長を除いては。
「今回も異常は見られません。ただやはり、背中の痣は異常というか、奇怪ではあると思います。それに、……」
防衛省で受ける検査。それはわたしの安全を保証してくれると同時に、わたしの身体に不思議な痣があることを発見していた。それはまるで触手が絡み付くような痣だった。
「花宮さん。君はこの痣に覚えはないのか」
烏間さんに聞かれた問いに、わたしはすぐに応えられなかった。それは覚えがないと言えば嘘になってしまうし、覚えがあると言っても嘘になるからだ。
幾度となく繰り返された実験のうちの、どれか。そのどれかの副作用なのだろうとしか、わたしは答えられないのだから。
もしくは、度重なる暴力の末か、――いつ、どこで、この痣ができたのか、わたしも分からない。
「鏡が、なかった、ので、分かりません」
それに、痣や傷痕は、背中だけではないから。
***
ある日、防衛省から支給された携帯電話が部屋に鳴り響いた。おそるおそるそれを取ると烏間さんからで、編入の手続きが完了し、明日から椚ヶ丘中学校3年E組に通うとのことだった。
わたしは、新品の制服を抱えながら着ている自分を想像する。だけど白以外の服を身にまとう自分がうまく想像できなくて。わたしは、制服をハンガーにかけて戻した。
次の日、新品の制服に身を包まれて、烏間さんの後ろを追いかけた。
私立椚ヶ丘中学校。この辺りの地区では一番の名門校であり、設備も充実、進学校として名を馳せている。
……と、烏間さんに聞かされて連れてこられたのは、名門校とは思えない木造の、古びた建物で、たどり着くための道も過酷な山道だった。
そして、その職員室の中にいたのは――。
「はじめまして。私が月を爆った犯人であり、E組の担任です。生徒の皆さんからは"殺せんせー"と呼ばれています」
目の前にいるのは、黄色いタコに似た生物。
烏間さんから事前に資料を見せてもらっていたので、この姿であることを知っていた。知っていたけれど、わたしの知る優秀なモルモットの時と雰囲気が異なっていて、同一人物だと結びつかない。
「……はじめ、まして。では、ないですよね。わたしを呼んだのは、あなたです」
「驚かないんだな」
日頃、鉄仮面のような烏間さんにそう言われて、わたしは思わず顔を顰める。
驚いてはいない、けれど、異様だとは思ってる。
これが本当に、あの人なのか、想像が付かないのだから。
「随分、健康的になりましたね」
むに、と触手が頬に触れる。
あの頃は痩けていた頬も、今はほんの少しふっくらとしていた。
「行きましょう。はやくしないと、授業が始まりますよ」
ほぼ関わりのなかったわたしと彼の間に、感動的な再会、のようなものはない。
わたしと彼の間には、あぐりさんというピースだけ。それもないわたしたちふたりは、特に話すこともない。
無機質に告げた言葉とは裏腹に、わたしの足は鉛のように重くて、動かなかった。
人と関わる、それは、また傷付く可能性があることを示唆していて。身体全体が拒絶反応を起こすみたいに動かない。
だって、わたしにとって他人は、わたしを傷付ける人がほとんどだったから。
わたしの足が動かないのに気付いたのか、頭から声が降ってくる。
「大丈夫ですよ。皆さんいい子たちばかりですから」
頭に、ふにゅん、と触手が触れる。
初めて触れるはずなのに、わたしはこのあたたかさを知っているように感じた。
***
"殺せんせー"に連れられてやってきたのは、3-Eというプレートがぶら下がっている教室。
「おはようございます、皆さん。今日は転校生がいます」
「……あ、えと、花宮 秋、といいます。みなさん、よろしく、お願いします」
こちらを見る様々な視線に、わたしはたじろんで、思わず下を向いた。
「花宮さんの席は、奥田さんの後ろの席ですよ」
知らない名前に、わたしは"殺せんせー"の方を見る。すると、「はい!」と可愛らしい声が聞こえて、そちらを見ると眼鏡をかけた三つ編みの女の子が席を立っていた。
「こ、こちらです!!」
「あ、……は、はい」
少し冷静になったわたしは、席に向かう最中、クラス全体を見回した。そして、そこで見たものに、ひゅ、と喉の奥が鳴る。
あぐりさんが嬉しそうに話している姿が、鮮明に思い出されるくらい、わたしは彼女の写真をよく見せてもらっていた。
写真の中の彼女が、髪色や髪型、そして雰囲気まで変えて、このクラスにいる。
「だ、大丈夫ですか!?」
フリーズしたかのように、動かなくなったわたしを心配そうに覗き込む少女を見て、ハッと足を進めた。
そして、授業開始のベルが鳴った。
"殺せんせー"は普通に授業をしている。3年E組の生徒たちもごく普通に授業を受けていて、異様だけど、それが当たり前の日常であるように思えた。
そしてなにより、この授業……とても分かりやすい。あぐりさんに勉強を教わっていたけど、比べものにならないくらいだ。見た目、タコなのに。
新品のノートに板書する。当たり前の中学生の日常が、ひどく新鮮で、どこか不安になってしまう。
本当に、わたしは、ここにいていいのかと。
授業終了のベルが鳴るやいなや、生徒たちがこちらに集まってきた。大人数に慣れていないため、少しだけ萎縮してしまう。
「私は片岡メグ。学級委員よ。なにか分からないことがあれば言ってね」
「同じく、学級委員の磯貝悠馬。よろしく、花宮さん」
片岡さんは、キリッとしていてカッコいい感じだ。
磯貝くんは、優しそうな雰囲気をまとっている。
「……あ、え、えと、よ、よろしくお願い、します」
たどたどしく返事をして、口角を上げる。
明らかな作り笑顔に、片岡さんと磯貝くんは少し困ったように眉を下げた。
「で、こんな時期に転入ってもしかして……殺し屋だったり?」
明るい髪をした男の子が磯貝くんの隣から顔を出す。
こんな時期にこんな場所へ来るのだから、そう疑われても仕方がないだろう。あの研究所での出来事は国家機密で、絶対に漏らさないよう口酸っぱく言われている。
「い、いえ、……その、わたし、たまたま、見てしまって。あの、タコのような生物を」
そう言って、"殺せんせー"を指差した。
「そ、それで、あの烏間さんに、……ここに、連れて、来られて、ました」
限りなく本当で、事実だ。
大事なことは何一つ言ってないけれど、嘘も言ってはいない。
「そうなんだ!あんなの見てびっくりしたでしょ?」
片岡さんは疑わない笑顔でそう言った。
まあ、本当のことを言ったところで信じてはもらえないだろう。あの超生物を生み出した研究所にわたしもいました、なんて。
「前原!いきなり変な質問するなよ」
磯貝くんが、質問をした男の子に注意をしていた。彼は、前原くん、と言うのだろうか。悪意のなさそうな屈託のない笑顔をこちらに向けた。
「悪い悪い。おれは前原陽人。よろしく」
「い、いえ。よろしくお願いします」
好奇心が過ぎるのかも知れない。あの質問も、本当に興味本位だったんだろうと思う笑顔だ。
「あ、あの……わたしも聞いていいですか?」
授業中、ずっと気になっていたことがある。
それは隣の空席だった。
「わたしの、お隣の方は、本日は、お休みなんでしょうか」
自分の隣の空席を指して、そう聞いた。
その問いに、片岡さんも磯貝くんも、困ったような表情を浮かべる。
「停学中なの」
停学とは、何か問題を起こす人が受ける処罰だ。
「……そ、う、なんですね」
問題を起こすような怖い人、なんだろうか。
「根は、いい人だと思うよ。カルマくんは」
まるでわたしの不安を吹き消すように、突然、会話に入ってきたのは中性的な顔をした男の子。男の子だと分かったのは、制服が男子用だったからで。スカートが似合いそうな、可愛らしい顔をしていた。
「僕は潮田渚。僕のことは渚って呼んでほしいな。花宮さん」
笑っているように見える渚くんの表情は、どうしてか読めない。それは、どこかあの人に似ていた。