《あいう》は紙に書いた文字を示します。
歌うことが好きだった。
友達とおしゃべりすることが好きだった。
雨の日、水溜りに映る世界が好きだった。
しとしとと降る雨が好きだった。
――全部、あの日までは。
この世界には、『個性』と呼ばれる力がある。
両親の持つ個性のどちらか、あるいは複合的個性が4歳までに発現する世界。
そんな世界でわたしが持った個性は『人魚』。
『歌姫』の個性を持つ母と、『魚人化』の個性を持つ父から生まれた『人魚』。それがわたしだ。
「聖。早くしないと遅刻するわよ。今日から3年生でしょ」
母の声に、こくりと首を縦に振る。
手にはスケッチブック。背中にリュックを背負って、わたしは挨拶もなしに家を出た。
玄関を出ると、幼馴染が立っていた。
くわあ、と大きな欠伸を漏らしたと思えば、こちらに気が付いて「おせぇ」と悪態を吐く。そして、「行くぞ」とさっさと背中を向けてしまった。
そんな彼の背中を追いかけて、わたしは隣を歩いた。
ぐいっと制服の袖を掴んでから、「おはよう」と書かれたスケッチブックを見せる。もう何度も開いたそのページはボロボロで、少し汚れていた。
「……」
チラリとこちらを見たはずの幼馴染から返事はない。何度も繰り返されたこの挨拶を面倒だと思われてしまうのは多分、仕方がない。
個性が発現したあの日から、わたしの声は失われた。話そうとしても、わたしの口からは何の音も出なくなってしまった。
《面倒なら》
《一緒じゃなくても》
《いいよ》
歩きながら書いた所為か、歪んだ文字がスケッチブックに連なる。それを幼馴染の顔面に近付けた。
それを読んだ幼馴染の顔が、みるみると凶悪になっていく。そして、幼馴染の個性である『爆破』で、ボン、とスケッチブックが焼かれた。
その衝撃と驚きで動きが止まる。
ぽかん、と口が開く。そんなわたしを怖い顔で見下ろす、幼馴染。
「てめェ、頭沸いてんのか」
スケッチブックが完全に燃えないように、手を叩きつけて、こちらを睨みながらそう言った。
所々黒く焦げたスケッチブックに、わたしは文字を書く。
《勝己くん》
《いつも不機嫌》
《だから》
《それにわたしと話すの》
《めんどうくさいでしょ?》
勝己くんの眉間に皺、額に血管が浮き出ている。
しまった、と思ったけれど、それはもう遅い。
「いい加減黙っとけ」
そう言ってわたしからスケッチブックを取り上げる。一言も声を発してないわたしに、「黙れ」は変だと思いながら、奪われたスケッチブックを見つめる。
睨みつけるように、スケッチブックを見る勝己くん。短いため息が漏れる。
勝己くんは躊躇なく「面倒なら一緒じゃなくていい」と書かれたページを乱雑に破いた。そしてすぐに爆破で跡形もなく燃やされてしまった。
「勝手に俺の気持ち決めてんじゃねェ」
ページが少なくなったスケッチブックが、わたしの胸に押し付けられる。
「生まれた時から一緒にいンだ。今更面倒臭えなんて思うかよ」
その言葉に、顔が緩んでいく。
声が出せないわたしから、みんな、離れていった。スケッチブックを通してのおしゃべりは、相手を待たせてしまうから。わたしが言葉を書いてる間に、話題はどんどん進んでいく。それが面倒だと思う人の方が多いのは理解しているつもりだった。
勝己くんは嫌な顔もするけれど、わたしの言葉を待ってくれる。
それが嬉しくて、わたしは勝己くんと離れがたくて仕方ない。
上がった口角を隠せないまま、わたしはスケッチブックをぎゅっと握りしめた。
***
放課後。勝己くんを待っていると、上から何かが落ちてきた。
ハラリと風に舞いながら、それはポチャリと鯉が棲む貯水槽へと落ちる。
それを覗き込むと、黒焦げになったノート。
その焦げ方はわたしのスケッチブックによく似ていた。
スマホを取り出して、ポチポチとメッセージを打つ。
送信ボタンを押すと、すぐに「どこにいる」と返事がくる。だけど、それを見ない振りして、スマホをポケットにしまい込んだ。
「あ、え…っと、魚尾さん、…?」
こちらに来る元気のない男の子。
わたしと勝己くんと同じ幼稚園からの幼馴染の緑谷出久くんだった。
このノートは緑谷くんのだろう。勝己くんはどうしてか緑谷くんに当たりがキツい。
貯水槽に手を入れて、ノートを拾う。
水に濡れた皮膚が、みるみるうちに鱗へ変わっていく。
両手で、そのノートを緑谷くんに手渡す。
塞がれた両手で、わたしは何も伝えることができないけれど。
音の出ない口で「みどりやくんの、のーと」と唇を動かして伝える。
緑谷くんの眉間に皺が寄る。
食いしばったような、その表情で、緑谷くんは小さく「ありがとう」と言った。
「でも、その、手…大丈夫?かっちゃんが、もし、見てたら、」
まだ少し濡れた手で、スケッチブックに文字を書く。
水滴が紙に移って、インクが滲んだ。
《勝己くん》
《先帰ったから》
《大丈夫》
むん、と突き出して緑谷くんに見せる。
突き出した衝撃で、鱗が1枚剥がれてピリっとした痛みが走った。
《わたしも》
《帰るね》
《緑谷くん》
《また明日》
リュックからハンカチを取り出して、手を包み込む。早く乾くように、ぎゅっと押さえつけた。
ポロポロと剥がれる鱗。その度に、激痛が走って、顔が歪んだ。
緑谷くんから逃げるように、走って校門を出る。
勝己くんはきっともう、帰っただろう。
勝己くんはわたしが水に触れるのを、ひどく嫌がる。それはわたしの個性『人魚』によるものだろうか。
はやく皮膚が乾くように、はーっと息を吹きかける。
鱗を纏った皮膚が、徐々に人間のものになっていく。
数分経って、ふう、とため息を吐く。
ほとんど乾いた手の甲を見つめながら、ぱくぱくと口だけを動かした。
「(か、つ、き、く、ん)」
そこに、ボン、と大きな爆発音が聞こえた。
その音に、手の甲を見ていた視線が上がる。爆発音に惹かれるように、わたしの足が動きだした。
***
「おおォオオオ!!!こぉんのおおおおお」
着いた場所で見たものに、わたしはどうしたらいいのか分からなくなる。
今朝見た幼馴染の顔を思い出す。その幼馴染が、まるで泥のような何かに捕らわれていた。
「っ、……!」
勝己くんの元へ走り出す。なんの力もないのに、なにもできないのに。
それでも、彼だけは、失いたくないと思ったから。
だけど、それは突如現れた木の根っこのようなものに阻まれる。
離してほしくて、その根っこを何度も叩く。
「~っ!、!」
音の出ない声で、何度も叫ぶ。
出ないのに、無理に出そうとして、喉がヒリヒリと痛くなる。
「落ち着け!」
すぐ傍で、何度も何度も爆発音が聞こえる。
勝己くんが抵抗して、爆破を起こしている。だからこそ、迂闊に手を出せなくなってる。
……なんで、わたしの個性は『人魚』なんだろう。
操れる水はコップ1杯程度で、声は失って、水に濡れたら鱗が出て、そして――。
「っ、~~!」
爆破で藻掻く勝己くんの顔が、ドロリとした隙間から見える。
その顔は苦しさからか、泣きそうな顔をしていた。
刹那、わたしの隣を誰かが走って通りすぎる。
それは、もうひとりの幼馴染である緑谷くんだった。
「馬鹿ヤロー!!止まれ!止まれ!」
なんで、緑谷くんが、そこにいるの。
なんで、勝己くんを助けに行くのが、わたしじゃないの。
瓦礫と炎の中、緑谷くんが走っていく。
そして、目くらましをするように、背負っていたリュックを投げつける。
「かっちゃん!!」
「なんで!てめェが!」
「足が勝手に!なんでって…わかんないけど!君が、救けを求める顔してた」
自分を掴む木の根に抵抗していた手の力がスッと抜ける。
腕がダラリと下がっていく。もう、勝己くんも、緑谷くんも、何も見られない。
「もう少しなんだから、邪魔するなあ!!!」
「無駄死にだ。自殺志願かよ!!」
ヒーローたちが、緑谷くんの元へ駆け出した。
それよりも早く、勝己くんと緑谷くんの腕を掴む人物が現れる。
「君を諭しておいて己が実践しないなんて!プロはいつだって命懸け!!!!!」
そこに現れたのは、No.1ヒーローのオールマイト。
彼が拳を振りかざす。その瞬間、勝己くんにまとわりついていた泥のような敵が吹き飛んでいく。
その風圧が、わたしの身体を揺らした。
そして、風圧により巻き上がった気流が、ポツリポツリと雨を降らせた。
一気にザアアアと雨がこの場に降り注いでいく。
身体が雨に濡れて、全身が鱗に覆われていく。
立っていた身体が、ふらりと倒れて、下半身の身動きが取れなくなる。
「おい、大丈――」
「……あの、勝己、くんは、」
掠れた声。近くにいたヒーローに縋るように、そう尋ねた。
動けない身体。この姿になることで、この口に意味を持つ。なのに、情けない声が漏れた。
倒れた勝己くんの元に運ばれて、その顔を眺める。
その間、辺りに飛び散ったベトベトをヒーローたちが回収していた。
「……ん、」
勝己くんの目が、ゆっくりと開く。
それを覗き込んで、ホッと息を漏らした。
「勝己くん、よかった」
わたしの声を聞いて、勝己くんの目が見開く。
「は?」と小さく漏れた声を掻き消すように、わたしは勝己くんに抱き着いた。
「もう大丈夫?動ける?あ!覚えてる!?えと、あと、」
「…うるせェ。黙れ」
ぐっと身体を引き離されて、手で口を塞がれる。
勝己くんの視線が、わたしの下半身へ下がっていく。
勝己くんの口が開く、その瞬間に、周りをヒーローたちが取り囲んだ。
目的は勝己くんで、個性が褒められたり、相棒に誘われていたりしていた。
褒められているのに、勝己くんの顔は晴れてない。そして、ヒーローの言葉に返すことはなかった。
[newpage]
「ごめん、勝己くん。重くない?」
帰り道。身動きの取れないわたしは、勝己くんにおんぶされていた。
「あ?そう思うんだったら痩せろや」
その言葉にムッとして、おんぶされた身体の体重をぐっと勝己くんにかける。
「体重かけんな!クソが!」と文句を言いながらも、背負った手は固く離さない勝己くんに、尖った口元が緩んでいく。
「あ、緑谷くんだ」
わたしが、前を歩く緑谷くんの名前を呼ぶと、勝己くんから舌打ちの音が聞こえた。
首にまわした手に、思わず力は入る。
「デク!!!俺は…てめェに救けを求めてなんかねぇぞ……!救けられてもねえ!あ!?なあ!?一人でやれたんだ。無個性の出来損ないが見下すんじゃねえぞ。恩売ろうってか!?見下すなよ、俺を!クソナードが!!」
ブツブツと小さな声で緑谷くんに向けて文句を言っている。
勝己くんの悔しさが、背中から伝わってくるみたいで、尾びれにじんわり熱が移っていく。
それが鱗を剥がしていって、じわりじわりと痛みが増していく。
「…勝己くん。口悪いの、いや」
「黙れ」
勝己くんは、ぎゅるんと回り緑谷くんに背を向ける。
家とは遠回りだな、と思っていたけれど、もしかしたら緑谷くんを追っていたのかも知れない。
「勝己くん。顔、怪我、してる」
「……治そうと思ってんなら、今ここで捨ててく」
人魚の血は、治癒力を活性化する力がある。だけど、勝己くんはその力をわたしに使わせたことはない。
彼の性格から、人に頼ること、助けられることは負けだと思ってしまうからだそうと思うけれど。
わたしとしては、助けられてばかりだから、恩を返したいだけなのに。
「それにこれくらいの傷、唾吐けときゃ治るわ。なめんな!」
「……勝己くん、消毒はちゃんとした方がいいよ」
「うるせェ!物の例えだわ、クソが!」
勝己くんの頭に、コツンとおでこを当てる。
わたしに向けるその優しさをもっと他の人にも向ければいいのに。
「……かつ、き、くん。あり、がと」
声が掠れていく。狭まっていく声帯。
これが閉じたら、わたしはまた、言葉を発せなくなる。
ああ、もっと。本当の声で、勝己くんと話したかったなあ。
文字なんかじゃなくて、わたしの本当の声が、もっと届けばいいのに。
「っ、……」
詰まったように、何も出ない口。
尾びれだった部分が、少しずつ人間の足に戻っていく。鱗が、わたしを傷付けながら剥がれ落ちていった。
――これは、わたしが、人間として生きる物語だ。
人魚じゃなくて、たったひとりの人間として。大切な人のそばにいる。それを叶えるための、物語。