《あいう》は書いた文字を示します。
頬を伝う涙。その涙で濡れた頬に、薄青色の鱗が広がっていく。
涙を拭おうと頬に触れる度、鱗がぽろぽろと落ちていく。
いつの間にかわたしの頬は、透明と赤の液体が混ざり合っていた。
モニター越しの勝己くんは、はじめて見る顔をしている。
怒りと、焦りが混ざり合って、叫んでいるみたい。
建物の中を歩き回って、探した相手は緑谷くん。
そして、またふたりが、対峙する。
ゆっくりと、真っ直ぐに、勝己くんの左手が緑谷くんへ向かう。
「(だ、め)」
首がふるふると横に動く。
身体が、心が、勝己くんを止めたいと願ってる。
「(か、つ、き、く、ん)」
わたしの声は出ないのに。
勝己くんの声は聞こえないのに。
モニタールームからは、誰の声も届かないのに。
勝己くんの左手から放たれた、火柱に似た爆発。
建物には、穴。その衝撃で建物全体が揺れて、バランスが崩れる。
「授業だぞコレ!」
「緑谷少年!」
モニターに映る、爆煙の奥。
怯えた顔の緑谷くんの姿。そして、勝己くんの顔は、笑っているように見えた。
「先生、止めた方がいいって!爆豪あいつ相当クレイジーだぜ、殺しちまうぜ!?」
止めようとする赤髪の人。
わたしだって、止めたいはずなのに――わたしの手は、その人の手を掴んでいた。
手についていた血が、その腕に伝っていく。
わたしの知ってる勝己くんなら。
いくら緑谷くんのことを嫌っていたとしても、殺す、なんてことは絶対にしない。
だって、勝己くんは、勝ちたいひと、だから。
「(だ、い、じょ、う、ぶ)」
ハンカチをポケットから取り出して、手に移った血を拭った。そして、そのまま、自分の頬に当てる。
「(こ、ろ、さ、な、い)」
音の出ない口の動きが伝わらなくて、赤髪の人は困ったような顔をする。
その顔を見て、わたしは慌ててスケッチブックに文字を書き込んだ。
《勝己くんは》
《そんな人じゃない》
生まれた時から、ずっと隣にいた。
ずっと一緒にいて、見続けてきた。
だから、わたしは勝己くんのことを信じてる。
「おめー、その血……」
《わたしの個性》
《変なの》
何も聞かないでほしい。
その想いに、心配そうにこちらを見る目の前の男の子を拒絶するような言葉しか書けなかった。
***
くるり、とモニターに目を向ける。
爆破の勢いでジャンプした勝己くん。そのまま、攻撃、と見せかけて反撃を躱して後ろから一撃を放った。
「目眩しを兼ねた爆破で軌道変更。そして即座にもう一回…考えるタイプには見えねえが意外と繊細だな」
「慣性を殺しつつ有効打を加えるには左右の爆発力を微調整しなきゃなりませんしね」
「才能マンだ、才能マン。ヤダヤダ」
勝己くんを分析するクラスメイトたちの声。
その冷静な言葉たちが、わたしの背中を押すみたいに聞こえる。
背中を向けている緑谷くんに対して、勝己くんは右手を大きく振り上げて攻撃する。動けない緑谷くんを掴んで、爆発の勢いごと吹き飛ばした。
「リンチだよコレ!テープを巻き付ければ捕えたことになるのに!」
「ヒーローの所業に非ず…」
「緑谷もすげえって思ったけどよ…戦闘能力に於いて爆豪は間違いなく、センスの塊だぜ」
悪評と好評が同時に飛び交う。
勝己くんは、勝つためなら、自分が納得するためなら、なんだってする。そんな勝己くんがすごいと思っていた。
だけど、彼の前にいるボロボロの緑谷くんを見て、わたしは目を逸らしたくてどうしようもない。
緑谷くんは勝己くんに背を向けている。
「逃げてる!」
「男のすることじゃねえけど仕方ないぜ。しかし変だよな…」
壁に背中をついて、勝己くんの方を見る緑谷くん。
激しく動く勝己くんの口。
それにつられるように、緑谷くんの口も大きく動いた。
「爆豪の方が余裕なくね?」
その声に、息を呑む。
そこから息の仕方を忘れたみたいに苦しい。
お互い大きく振りかざす右手。
勝己くんの手のひらにはパチパチと小さな火花が見えた。
「先生!やばそうだってコレ!先生!!」
赤髪の人の声に、オールマイトが反応する。
だけど、ふたりを止める声は起こらない。
勝己くんの右手は緑谷くんに。
緑谷くんの右手は、天井に向かっていた。
その手の先。ビルに穴が空いた。
下から突き上げる、とても強い力。
「ヒーロー…ヒーローチーム……WIIIIIN!!」
オールマイトが、勝者の名を告げる。
土煙の中、緑谷くんが倒れていく。その奥に、勝己くんの姿が見えた。
彼の目には今、何が映っているのだろう。モニター越しでも、その目が揺れ動いていることが分かって、わたしは初めてモニターから目を逸らした。
「負けた方がほぼ無傷で、勝った方が倒れてら…」
「勝負に負けて、試合に勝ったというところか」
「訓練だけど」
勝己くんが、緑谷くんに、負けた。
こんな場面、想像も、想定もしていなかった。だから、どうすればいいのか分からない。
わたしの知っている勝己くんは、勝ち気で、強気で、ただ真っ直ぐに上だけを見ていたひとだから。
どうすればいいか分からなくて。身体が動かない。
***
講評の時間。
モニタールームに勝己くんたちが戻ってくる。
緑谷くんはボロボロになってしまったため、保健室に行ったらしい。
「まあ、つっても…今戦のベストは飯田少年だけどな!」
ベストに選ばれた飯田くんが「なな!?」と驚きの声を上げる。
その隣にいる勝己くんは静かだ。静かすぎて、気味が悪いくらいに。
「勝ったお茶子ちゃんか緑谷ちゃんじゃないの?」
その問いにオールマイトは答えず、わたしたち生徒に回答を促した。
「ハイ。オールマイト先生。それは飯田さんが一番状況設定に適応していたから。爆豪さんの行動は戦闘を見た限り私怨丸出しの独断。そして先程、先生も仰っていた通り、屋内での大規模攻撃は愚策。緑谷さんも同様の理由ですね。麗日さんは中盤の気の緩み。そして最後の攻撃が乱暴すぎたこと。ハリボテを『核』として扱っていたらあんな危険な行為、出来ませんわ」
挙手をして答えた彼女の口から、冷静で、的確で、正しいことだけが連なっていく。
まるで、鋭い刃のように、その言葉は勝己くんに刺さっていくみたい。
「相手への対策をこなし、且つ、"『核』の争奪"をきちんと設定していたからこそ、飯田さんは最後対応に遅れた。ヒーローチームの勝ちは『訓練』だという甘えから生じた反則のようなものですわ」
そう言い終わると、場がシン…と静まる。
みんなの前に立つ勝己くんたち。少し俯いた勝己くんの、表情が見えない。
「ま…まあ、飯田少年もまだ硬すぎる節はあったりするわけだが…まあ…正解だよ、くう…!」
「常に下学上達!一意専心に励まねばトップヒーローになど、なれませんので!」
ピクリ、と勝己くんの身体が僅かに動いた。
勝己くんは、彼女の言葉に何を感じたのだろうか。
場所を移して、第二試合が行われた。
けれど、それはほぼ一瞬で終わる。身体の半分が氷に覆われた――轟くんの"個性"で、ビル全体が凍り付く。
その冷気はモニタールームにまで届いていて、ぶるりと身体が震えた。
「ヒーローチーム、WIN!」
あっという間に勝負がつく。
さらに轟くんは熱を操れるようで、自分で凍らせた全てを溶かしていった。
第三試合、第四試合……全ての試合が終わる。
「お疲れさん!緑谷少年以外は大きな怪我もなし!しかし真摯に取り組んだ!初めての訓練にしちゃ皆、上出来だったぜ!」
そのまま、オールマイトは緑谷くんに講評を伝えると言って、ものすごいスピードで出て行く。
ぞろぞろとみんなが戻ろうとする中、勝己くんは動かない。
「(か、つ、き、く、ん)」
腕に触れて、《教室戻ろう》と書かれたスケッチブックを見せる。
勝己くんはこちらを見ることもなく、俯いたまま、先に歩いていく。
いつも心強い背中が、今は寂しく感じた。
***
みんなが緑谷くんを待とうとする中、鞄を持った勝己くんがわたしの机の前に立つ。
「……帰ンぞ」
低い声に、思わずびくりと肩が揺れた。
視線が上がるのに、怖くてその目をすぐに下げてしまう。
「聞いとんのか」
乱暴に掴まれる腕。振り解けない。
ガタリと動く椅子。引っ張られて、立たされる。
帰ろうとする勝己くんをみんなが止めるのに、勝己くんはそれを無視して教室のドアを開いた。
掴まれた手が、ひどく熱い。
どんどん進んでいく勝己くんに足がもつれそうになりながらついていくことしか出来ない。
玄関を出た、ほんの少し後。
「かっちゃん!!!」
勝己くんを呼ぶ、声が聞こえた。
今は、聞きたくない、幼馴染の声。
「ああ?」
唸るような、低い声。
その声に、視線を下へとずらした。
「これだけは君には、言わなきゃいけないと思って…!」
君。それが指すのは、勝己くんだけだ。
この場から去らなければならない。そう思うわたしを、動かさないのは、強く掴まれた勝己くんの手だった。
「人から授かった"個性"なんだ」
人から、授かった、?
「誰かからは絶対言えない!言わない…でも、コミックみたいだけど本当で…!おまけにまだろくに扱えもしなくて……全然モノに出来てない状態の"借り物"で……!」
勝己くんの息が、短く漏れる。
「だから…使わず君に勝とうとした!けど結局勝てなくてソレに頼った!僕はまだまだで…!だから」
支離滅裂に下を向いて話していた緑谷くんの顔が上がる。
真っ直ぐ、勝己くんを見つめる目。
「いつかちゃんと自分のモノにして、"僕の力"で君を越えるよ」
まるで、宣戦布告だ。
息を呑む音。わたしの腕を掴む勝己くんの手が、震えている。
「何だそりゃ…?借りモノ…?わけわかんねえ事言って、これ以上コケにしてどうするつもりだ……なあ!?」
さっきまで静かだった勝己くんの声が、徐々に大きくなっていく。
震える手、震える声。わたしはそれを隣で見ていることしかできなかった。
「だからなんだ!?今日…俺はてめェに負けた!そんだけだろが!そんだけ……」
それだけ、と呑み込もうとしている。
本当は、すごく悔しいはずなのに。
「氷の奴見てっ!敵わねえんじゃって思っちまった…!クソ!ポニーテールの奴の言うことに納得しちまった…クソが!クッソ!」
悔しくて、腹が立っているんだ。
勝己くんはこれまでずっと一番だった。
一番強い存在だった。
だけど、今日、それが覆されてしまった。
「なあ!てめェもだ…!デク!!こっからだ!俺は…!!こっから…!いいか!?俺はここで一番になってやる!俺に勝つなんて、二度とねえからな!クソが!」
勝己くんの目に、涙が滲んでいた。
その涙は、わたしが誘拐されて、勝己くんと再会したあの日以来だった。
その涙に手を伸ばそうとする。
だけど、勢いよく現れた何かに、それは阻まれてしまう。
「爆豪少年!」
それは、オールマイトだった。
勝己くんの肩を掴んで、彼は言葉を続けた。
「言っとくけど…!自尊心ってのは大事なもんだ!君は間違いなくプロになれる能力を持っている!君はまだまだこれから…」
「放してくれよオールマイト。歩けねえ」
勝己くんが、涙を拭っている。
「言われなくても!俺はあんたをも越えるヒーローになる!」
乱暴だけど、真っ直ぐな言葉。
勝己くんの言葉はいつも、夢じゃなくて現実を叶えようと必死だと思った。
その日の午後、わたしは勝己くんと一度も言葉を交わすことはなかった。
こちらを見ない勝己くんに、掴まれた部分だけがひどく熱くて、火傷しそうだった。