産声は、思っていたよりも長く世界に残った。
自分の喉から出ているはずのそれが、ひどく他人事に聞こえる。甲高く、弱々しく、そして一切の威厳がない。かつて大盤解説会で、数百人の前でも平然と感想を述べていた人間の声とは、とても思えなかった。
だが、威厳などどうでもいい。
泣き声が肺を開き、血を巡らせ、身体に「生きろ」と命じているのだとしたら、いまの私に必要なのは面目ではなく生存だ。
私は何度目かの泣きを終え、くたりと静かになった。するとすぐ、周囲の声が近づいてくる。
「落ち着きましたね」 「ほんとだ……びっくりした」 「あなたが先に泣かないでよ」 「だってさ、いや、だって……」
父らしい男が、ひどく情けない顔で笑っていた。三十代に入ったばかりだろうか。髪は少し跳ねていて、目の下には寝不足の影がある。きっとこの数時間、あるいはもっと前から、まともに眠っていないのだろう。
一方、母らしい女性は汗で前髪を頬に貼りつけたまま、それでも柔らかく笑っていた。疲れているはずなのに、その目は不思議と強い。こういう目を私は知っている。勝負の目ではない。もっと根源的な、生き物の目だ。失うまいとする目。守り抜く目。
その視線を真正面から受けて、私は一瞬だけ目を逸らしたくなった。
前世の私は、こういう真っ直ぐな期待に弱かった。
盤上の期待はいい。勝て、という期待は分かりやすい。応えられるか、裏切るか、そのどちらかだ。だが家族の期待は違う。元気に育ってほしい、幸せでいてほしい、笑ってほしい――そういう期待には勝敗がない。だからこそ、どう返していいのか分からなくなる。
「しおり」
母が、確認するようにもう一度その名を呼んだ。
天羽しおり。
名が人を規定するのか、それとも人が名を育てるのか。棋士の世界では、名前は肩書きに上書きされがちだ。何段、何冠、どのタイトル保持者。そういう札が、時に本名よりも先に人間を説明してしまう。
だが今の私は、肩書きを持たない。
ただの、天羽しおり。
そのことが、少しだけ心地よかった。
◇
気づけば、私は透明なケースのようなものに寝かされていた。
新生児室――おそらくそういう場所なのだろう。視界はまだ曖昧だが、白を基調にした清潔な空間で、同じような小さな塊がいくつも並んでいる。ときおり泣き声が上がり、看護師らしき人が慣れた手つきであやしていた。
他人の赤ん坊を見るのは奇妙な感覚だった。
将棋界には変わった比喩が多い。玉は王様であり、飛車角は大駒、歩は兵隊。盤は戦場、あるいは宇宙。棋士はときに、人間を駒のように見てしまう。自分の位置、相手の位置、利き、圧力、関係性――何もかもを配置で捉える癖が染みついている。
そんな私の目からすると、並んだ赤ん坊たちは不思議だった。誰もまだ、何者にもなっていない。勝者でも敗者でもない。将来有望でも凡庸でもなく、ただそこにいる。
もし神がいるなら、この時点では誰にも肩入れしていないのかもしれない。
――いや。
私は内心でかぶりを振る。
そんな甘いものか。人生は最初から不平等だ。家、金、健康、容姿、環境、縁。盤上の初形が揃っているからといって、盤外まで平等なわけではない。前世でそれは嫌というほど見てきた。
だが同時に、はっきり言えることもある。
この身体は、まだ何も失っていない。
それは大きい。とてつもなく大きい。
前世の末期、私は「もう戻せない」という感覚にずっと苛まれていた。鈍った反応速度、固定化した読み筋、若手が当然のように吸収している新発想への遅れ。一つひとつは致命傷でなくとも、積み重なれば逃れようのない傾斜になる。
しかし今の私は、ゼロから始められる。
肉体の未熟さはある。だが、老いはない。衰えもない。少なくとも、これからしばらくは。
問題は、時間だ。
赤ん坊という時期は、長いようでいて短い。だが将棋を差せる年齢までには、気が遠くなるほどの猶予がある。たった数年――そう言えば短いが、前世の私からすれば、数年も自由に積み直せるのは破格だ。
何をするべきか。
まず、観察。
次に、記憶の整理。
それから、この時代の情報収集。
盤に触れられない以上、いま出来ることは限られている。限られているからこそ、無駄なく進める必要がある。
そう考えていた矢先、私は盛大にむせた。
自分の唾液で。
人間としての格が、地の底まで落ちた気がした。
「はいはい、大丈夫ですよー」
看護師が手際よく体勢を整えてくれる。私はそのあまりの手際の良さに、内心で少しだけ感心した。なるほど、職人技というのはどの世界にもある。詰ます技術だけが技ではない。
しかし、むせたついでに痛感する。いまの私は、本当に何もできない。
読めても、動けない。
考えても、言えない。
誓っても、駒を持てない。
この不自由さをどう耐えるか――それが、二度目の人生の最初の課題になるらしかった。
◇
入院中の日々は、時間の感覚を奪った。
眠る。起きる。泣く。飲む。眠る。
周囲の声を拾い、わずかな変化を数え、体の制御を試みる。将棋の一局で言えば、永遠に序盤の手待ちをさせられている気分だった。こちらは頭の中で何十手も先まで読みたいのに、現実は「首を少し横に向けられた」程度の進展しかない。
それでも、得るものはあった。
父――天羽恒一。
母――天羽真紀。
名字はさすがに既に分かっていたが、名前は二日目あたりに確定した。看護師との会話、書類、親族への連絡。断片的な情報を繋げていけば、すぐに拾える。
恒一は会社員らしい。職種まではまだ判然としないが、電話口で「有休をもう少し延ばせるか」と相談しているのが聞こえた。真紀はしばらく育休に入るのだろう。二人とも豪奢とは無縁だが、悲壮感もない。ごく普通の、しかしきちんと暮らしてきた夫婦という印象だった。
一般家庭。
自分で望んだ条件ではないが、悪くない。
将棋一家ではないことは、ある意味で好都合ですらある。血筋に頼らず、名前に守られず、自分の力で上がる。その方が、二度目の人生には似合っている気がした。
もちろん、楽ではないだろう。強豪道場へのアクセス、師匠との縁、研究環境、どれを取っても専門家庭の方が恵まれている可能性は高い。だが逆に言えば、私はまたしても「整っていない側」から頂点を目指せる。
前世の自分は、しばしば美談を嫌った。
不利な境遇から這い上がる話は、観客には受ける。だが当人にとっては、ただきついだけだ。
それでも。
きついからこそ、乗り越えたときに物語になる。
――などと、少し芝居がかったことを考えている時点で、私はまだ前世の職業病を引きずっているらしかった。
◇
退院の日、私は初めて「外」に出た。
いや、正確には病院の外気に触れただけだ。ほとんど布に包まれ、抱きかかえられたまま、移動手段も自力ではない。それでも空気が違った。病院特有の消毒の匂いではなく、街の匂いが混じっている。アスファルトの熱、排気、遠くの草木、通りすぎる人の香水。
夏の終わりか、あるいは初秋だろうか。陽射しはまだ強いが、風にはほんのわずかに乾きがある。
「チャイルドシート、ちゃんとつけた?」 「つけたよ、三回確認した」 「三回も?」 「いや、五回かも」 「それは心配性すぎるって」
車の中で、母が笑う。父は真剣だった。冗談ではなく、本当に五回確認したのだろう。
私はその会話を聞きながら、揺れに身を任せた。
窓の外を流れる景色は速い。建物の看板はまだまともに読めないが、色彩や形状だけでも前世より新しい時代であることは伝わってくる。広告のデザイン、行き交う車種、街に溶け込んだガジェット類。スマートフォンが完全に生活の中心にある時代であることも、両親の仕草からすでに明白だった。
前世の晩年にもスマホはあった。配信も、ネット中継も、将棋ソフトも、棋譜サイトも、全部あった。だが、それらを使いこなす側の速度が違う。この夫婦にとって、情報端末は特別な機械ではなく身体の延長だ。
この環境で育つ子どもは、最初から情報に怯えない。
それは将棋においても決定的な差になる。
盤を前にした直感だけでは、もう足りない。
膨大な棋譜、評価値、局面比較、オンライン検討、動画講座。
現代将棋は、頭脳だけの勝負ではなくなっている。いや、頭脳の外部化をどう自分の血肉にするかの勝負と言うべきか。
私は車の揺れの中で、かすかに身震いした。
怖いのだ。
転生できたことが嬉しくないわけではない。むしろ僥倖だろう。
だが、もう一度同じ轍を踏むのではないかという恐怖が、早くも喉元に触れている。
私は前世で、古くなった。
では次はどうか。
次は、古くなる前に変われるのか。
その答えは、まだどこにもなかった。
◇
天羽家は、二階建ての小さな家だった。
築年数はそこそこ経っていそうだが、きれいに使われている。玄関先には鉢植えがあり、表札は既製品めいて控えめ。住宅街の中に自然に紛れ込む、ごく普通の家。けれど、これからの私にとっては世界の中心になる場所だ。
「ただいまー」
母の声に合わせるように、家の奥から別の女性の声がした。祖母だろうかと思ったが、どうやら近所に住む母の姉らしい。数時間だけ手伝いに来ていたらしいその人は、私の顔を覗き込んで「わ、ちっちゃい」と当たり前の感想を漏らした。
ちっちゃいに決まっている。
私は内心で不機嫌になったが、当然伝わらない。代わりに口元がもごもご動いたせいで、「あ、笑った?」と騒がれた。笑っていない。たぶん。
リビングへ運ばれた私は、そこで初めてこの家の生活音に包まれた。
冷蔵庫の低い唸り。
食器が触れる音。
テレビのワイドショーじみた軽薄な音楽。
洗濯機の終了を告げる電子音。
父が慌てて何かを落とし、母にたしなめられる声。
病院より、ずっと雑多だ。
だが、この雑多さは嫌いではない。
前世の家は、たいてい静かだった。私が静かにさせていたからだ。対局前、研究中、感想戦の反芻、敗局の処理。家の空気まで将棋の都合に合わせてしまっていた。家族が気を遣い、物音を忍ばせ、会話の温度を下げる。今思えば、息の詰まるような静けさだった。
その点、この家の音は遠慮がない。
人が生きている音だ。
それが、少し羨ましかった。
◇
数日が過ぎると、私はこの身体の扱いにほんのわずかずつ慣れ始めた。
首はまだ不安定だが、目線を合わせるくらいなら出来る。耳も思ったより働く。視界の焦点は甘いものの、近距離の顔は判別可能になってきた。指も、自分の意思とはずれるが、たまに布を掴める。
この「たまに」が重要だった。
将棋も同じだ。
読めない局面で、たまに筋が見える。
その「たまに」を増やしていくことで、局面は支配に近づく。
いまの私の人生は、そういう局面にある。
もっとも、支配などと格好つけた言い方をしても、出来ることの大半は泣くか寝るか飲むかだ。腹が減ればどうしようもなく不機嫌になり、眠気には抗えず、オムツの不快感ひとつで理性が吹き飛ぶ。精神年齢がいくら高くても、生理には勝てない。
これは想像以上に屈辱的だった。
しかし屈辱は、必ずしも悪い材料ではない。屈辱を受け入れられる者ほど伸びる。前世でそれを痛感したのは、あまりにも遅かっただけで。
私は泣きながら、時々そう思っていた。
泣きながら、というのが実に情けないが。
◇
ある夜、父が私を抱いてリビングをうろうろしていた。
「寝ないなあ……」 「さっき少し寝たからじゃない?」 「俺の抱き方が悪い?」 「たぶん、考えすぎ」
母はソファで半分眠りながら答えた。産後まもない身体なのだ、無理もない。父は「考えすぎって何だよ……」とぼやきつつ、ぎこちない手つきで私の背をぽんぽん叩く。
一定のリズム。
私はそのリズムに、妙に神経を奪われた。人間は、規則的なものに落ち着きを覚える。駒音もそうだ。一局を通じて相手の駒音が乱れない棋士は強い。呼吸、所作、視線、そのすべてに無駄がない。
父のぽんぽんは強者の駒音には程遠かったが、それでも不思議と安心感があった。少なくとも悪意がない。勝とうとも、奪おうともしていない手だ。
「しおり、将来なにになるかなあ」
父がぽつりと呟いた。
私は心の中で即答した。竜王だ。
「気が早いって」 「でもさ、なんか賢そうじゃない?」 「親バカ」 「いや、ほんとに。顔つきがさ、なんかこう……考えてる感じする」 「赤ちゃんが?」 「するんだって」
する。
大いにしている。
だが、母は笑って受け流した。父も自分で言いながら気恥ずかしくなったのか、耳を赤くしている。
「元気なら、それでいいよ」
母が目を閉じたまま言った。
その一言は、ひどく重かった。
元気なら、それでいい。
将棋で勝てなくても。
竜王になれなくても。
世間が褒めなくても。
元気で、笑って、生きていればいい。
前世の私が一番受け止めきれなかった種類の願いだ。
勝つことなら応えられる。努力もできる。
だが「幸せでいてくれ」という願いは、方法論に落ちない。
何をすれば達成したことになるのか、将棋の人間には分かりづらい。
だからこそ、私は少しだけ怖くなる。
もしまた将棋に人生を捧げたとき、この人たちの願いを裏切ることになるのではないか、と。
その瞬間、私は前世では考えもしなかった問いに直面した。
――私は、何のためにもう一度竜王を目指すのか。
意地か。
執念か。
誇りか。
あるいは、失敗したまま終わった自分を許せないだけか。
答えはまだ出ない。
だが一つだけ確かなのは、前世とまったく同じ理由ではない、ということだった。
◇
月日というものは、当事者の意識を置き去りにして進む。
私の世界は狭い。天井、壁、抱かれる腕、窓から差す光。
それでも、その狭い世界の中で少しずつ出来ることが増えていく。
首がいくらか安定した。
音の方向が分かるようになった。
父と母の足音の違いを聞き分けられるようになった。
父の方が、少しせかせかしている。
そして何より、テレビやスマートフォンから流れる情報を断片的に拾えるようになってきた。
芸能人。天気。事故。政治。通販。レシピ動画。猫。
世界は相変わらず騒がしい。
問題は、その雑多な情報の海の中から将棋の欠片を掬うことだった。
最初の機会は、ある夕方に訪れた。
「そういえば、この前の将棋すごかったね」 「将棋?」 「ほら、ニュースでやってたやつ。タイトル戦?」 「ああ、あれか」
母が夕食の支度をしながら話し、父がスマホを見ながら相槌を打つ。私はベビーベッドの上で、全神経を耳に集中させた。
「なんとか王?」 「竜王じゃなかった?」 「それそれ」
竜王。
その二文字が出た瞬間、心臓が跳ねた。
私は思わず手足をばたつかせる。すると父がこちらを見て、「お、しおりも気になるか?」などと笑った。気になるどころではない。私にとっては人生そのものだ。
「動画あるかな」 「あるんじゃない?」 「最近って配信いっぱいあるもんね」
父が何気なくスマホを操作する。数秒後、小さなスピーカーから聞き覚えのある種類の声が流れ始めた。将棋中継の、やや抑えたトーン。局面解説の声だ。
画面までは見えない。だが音だけでも十分だった。
『ここで△――と打ったのが厳しく、評価値も一気に……』 『AIの最善手順では――』 『この局面は人間にはかなり難しいですが――』
評価値。
最善手順。
人間には難しい。
胸の奥が、静かに冷えていく。
前世の晩年、何度も耳にした言葉だ。
そして私を盤外から追い詰めた言葉でもある。
評価値は残酷だ。
棋士がまだ形勢不明としている局面に、平然と数字で優劣をつける。
もちろん数字そのものが将棋ではない。だが、その数字を起点に研究が加速し、やがて「人間には難しい」の中身まで言語化されていく。
つまりこの時代では、昔なら勘と経験で曖昧にしていた領域が、すでに開拓済みかもしれないのだ。
怖い。
やはり怖い。
だが同時に、どうしようもなく胸が熱くなった。
竜王戦はまだそこにある。
名前は続いている。
あの舞台は、私が一度立ち、転げ落ち、いまなお届かない場所として存在している。
ならば、奪い返せる。
私はベッドの上で目を閉じた。
音だけの中継に、盤が浮かぶ。
聞こえてくる断片から局面を想像する癖は、前世の職業病だ。何手目あたりか、どの戦型か、終盤の寄せ合いか。情報は足りない。だが足りないなりに想像は回る。
そして想像が回るうちは、まだ終わっていない。
◇
生後三か月を迎える頃には、私は「この家の一日」をほぼ把握していた。
朝、父が出勤前に慌ただしく支度する。
母はそれを半分笑い、半分呆れながら見送る。
昼間は家事と私の世話。たまに祖父母や親戚が来る。
夕方になるとテレビがつき、夜には父が帰る。
将棋に直結する情報は多くない。だが、世界を知るには十分だった。
そしてもう一つ、気づいたことがある。
私は、前世よりも感情に振り回されていた。
赤ん坊の身体のせいだけではない。もちろん腹が減れば機嫌は悪くなるし、眠ければ泣く。だがそれとは別に、両親の表情や声色に対して、前世では考えられないほど敏感になっている自分がいた。
母が疲れていると、落ち着かない。
父が仕事で気落ちしていると、何となく空気が重く感じる。
二人が笑っていると、自分まで静かになる。
これは厄介だ、と思った。
勝負師として考えれば、情はノイズになることがある。背負うものが増えるほど、人は純粋に勝ちづらくなる。守りたいものは急所になる。
だが同時に、背負うものがあるから踏み込める局面もある。
前世の私は、最後の最後で「自分のために勝つ」だけの将棋になっていたのかもしれない。だから、時代に置いていかれたとき、支えが利かなかった。
この二度目の人生では、まだ結論を急がないでおこう。
家族が重荷になるのか、力になるのか。
それを決めるのは、今の私ではない。これから先の私だ。
◇
さらに時は流れ、私はようやく寝返りらしきものに成功した。
成功したというより、偶然ひっくり返っただけに近い。だが家の中は大騒ぎになった。
「見た!?」 「見た見た見た!」 「動画! 動画撮った!?」 「無理だって急すぎて!」
大仰すぎる。
たかが寝返りだ。
将棋で言えば一手目を指せるようになった程度でしかない。
けれど、その「一手目」がどれほど大きいかも、私は知っている。初手があるから二手目があり、三手目があり、やがて定跡も構想も戦いも生まれる。何も動けなかった身体が、自分の意志と偶然の混ざった一挙動で世界との関係を変える。寝返りとは案外、立派な初手なのかもしれない。
父は興奮のあまり、帰宅してすぐネクタイも外さず私の前に座り込んだ。
「しおり、すごいなあ」 「毎日見てれば、そのうちするって」 「でも初めて見たら感動するじゃん」 「それはそう」
母の声も弾んでいる。
私はというと、褒められて少しだけ気分を良くしていた。
単純だ。情けないが単純だ。前世でいくら修羅場をくぐっていても、褒められれば嬉しいらしい。
いや、違うかもしれない。
前世では、純粋に褒められることが減っていた。
勝てば当然、負ければ批判。名を成した後の人間は、成長ではなく結果でしか測られない。だが赤ん坊は違う。寝返りしただけで称賛される。息をしているだけで価値があるかのように扱われる。
それは甘やかしではなく、生の肯定だ。
この感覚に慣れすぎるのは危険だろう。
しかし、知らずにいるよりはいい。
◇
その夜、私は不思議な夢を見た。
盤がある。
だが駒がない。
升目だけが延々と広がり、どこにも飛車も角も王も見当たらない。私は盤の中央に立っていて、周囲から無数の声がする。
『その手は古い』 『評価値は下がっている』 『人間には見えない』 『もう終わった棋士だ』
聞き覚えのある声も、ない声も混じっていた。記者、解説者、若手、匿名の誰か。現代では誰もが盤外から将棋に参加できる。善意も悪意も、分析も雑音も、ひとつの波になって押し寄せる。
私は夢の中で、必死に駒を探した。
だがない。
どこにもない。
代わりに、小さな手が視界に入る。
赤ん坊の手だ。
その手で、私は空の盤にそっと触れた。
すると、一枚だけ駒が現れた。
歩だった。
たった一枚。
前に一つしか進めない、最弱の駒。
それでも私は、なぜか安堵した。
歩があるなら将棋になる。
最初の一歩があるなら、盤上は始まる。
目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。窓の外で鳥の声がする。私は静かに呼吸を整えながら、その夢を反芻した。
なるほど、と心の中で呟く。
私はいま、まさしく歩なのだ。
竜王だった記憶を持っていようと、現実には何者でもない。
盤上で最も弱く、最も数が多く、最も当たり前の駒。
だが歩は、敵陣に届けば変わる。
成ることができる。
その事実を、将棋を知る者なら誰でも知っている。
だから歩を侮る者はいない。
ならばいい。
いまは歩で構わない。
何度でも進めばいい。
一つずつ、一手ずつ、時代に遅れないように、置いていかれないように、最善を積み上げていく。
敗北した元竜王としてではなく、まだ何にも染まっていない天羽しおりとして。
私はまだ言葉を持たない。
駒も持てない。
将棋盤に向かって座ることすらできない。
それでも、戦いはもう始まっていた。
誰にも見えない場所で。
評価値もつかない、最初の最初の局面で。
天井を見上げながら、私は小さく拳を握る。
今度こそ。
今度こそ、負けない。
その誓いは、泣き声にもならず、ただ胸の奥で静かに熱を持った。
そして私は、次の一手を指すために、もう一度目を閉じた。