最初の優勝から、しおりの週末は変わった。
土曜か日曜のどちらかに、将棋教室。
ときどき練習会。
そして、参加できる大会があれば、できる限り出る。
もちろん毎週大会があるわけではない。
子ども向けの小さな地域大会、教室同士の交流戦、商業施設のイベント併設大会、市民センター主催の初心者大会。規模はさまざまだったが、しおりは出られるものにはほぼ全部顔を出した。
理由は単純だ。
数を指したかった。
今の時代の将棋を、幼いうちから体に染み込ませたかった。
そしてなにより――御門凛々花が、そこにいることが多かった。
最初は偶然だと思った。
だが二度、三度と顔を合わせるうちに、それは偶然ではなくなっていった。
凛々花のほうも、出られる大会にはかなり積極的に出ているらしい。教室も複数の大会情報を共有しているようで、同じ子どもたちがいくつかの会場を巡っていた。
そのたびに。
決勝か、あるいは決勝に準ずる一番大きな山で。
しおりは凛々花と当たった。
◇
一回目は、地区交流大会だった。
会場は公民館の大会議室で、長机を並べただけの簡素な設営。
参加者も多くはない。けれどそのぶん、近い距離で緊張が伝わる大会だった。
しおりは順当に勝ち上がった。
一回戦、詰みを読み落としそうになった相手にぎりぎりで逆転。
二回戦、棒銀の勢いに押し潰されかけながら、受けの継ぎ歩で粘り切って勝ち。
準決勝、穴熊もどきに潜られ、王手が続かない悪夢みたいな中盤を耐えて、終盤の一手勝ち。
どれも楽ではない。
むしろ、毎回「次の一手を間違えたら終わる」という局面ばかりだった。
だがしおりは負けない。
苦しくても。
息が詰まっても。
相手の勢いが盤いっぱいに広がってきても。
最後の最後で、相手より一枚だけ深く読む。
そうして辿り着いた決勝で、向かい合ったのが凛々花だった。
「またですね」
凛々花はきちんと座布団に正座し、そう言った。
「まただね」
しおりも座る。
子ども同士の対局にしては、妙に空気が引き締まる。
見ている大人たちも、もう二人を“よく当たる子たち”くらいには認識しているらしかった。
「御門さんと天羽さん、また決勝なんですね」
「この前もだったでしょう?」
「すごいわねえ」
そんな声が、少し離れたところから聞こえてくる。
しおりは心の中で苦く笑った。
また、か。
自分は昔から“また”の中に生きてきた。
タイトル戦でまたこの相手。
リーグでまたこの相手。
番勝負で何度も顔を合わせ、相手の癖も呼吸も分かってくる。そうやって勝負の因縁は積み上がる。
けれど四歳や五歳の子どもが、その入口にもう立っているのは、やはり少しおかしい。
「お願いします」
「おねがいします」
駒を並べる。
初手から、前より速かった。
凛々花は大会のたびに変わってくる。
以前嫌がっていた形を修正し、攻め急ぎだったところを少しだけ我慢し、我慢しすぎて重くなっていたら今度は切り替えを早くしてくる。
しおりは指しながら、軽い戦慄を覚えていた。
(この子、ちゃんと毎回強くなってる)
しかも、前の負けを引きずるのではなく、負けた内容を素材にして次の将棋へ持ってくる。
それができる子は強い。
中盤、しおりは一度はっきり失敗した。
手厚くいこうとして、一手ぬるい。
その一手の遅れを、凛々花は見逃さなかった。
盤の左辺から一気に圧力がかかる。
攻め駒が連動し、こちらの玉の周辺だけ空気が薄くなる。
(しまった)
見た瞬間、分かる。
ぬるい一手だった。
四歳の対局だから許される、などという甘えは、凛々花相手にはもう通用しない。
会場の隅で見ていた藤枝先生が、かすかに身じろぎしたのが見えた。
大人の目にも危なく映ったのだろう。
しおりは息を整える。
終わっていない。
まだ即詰みではない。
細いが、受けの筋はある。
一手受ける。
二手受ける。
さらに、相手に決めに来させる。
凛々花は迷わず踏み込んできた。勝ち切れると見たのだろう。
それが当然の局面だった。
しおりはそこで、前世の癖みたいな一手を打った。
表向きは消極的な受け。
だが実際には、次の局面で盤の遠く離れた場所に利きを通す布石。
子どもの大会でそんな遠回しな手が必要なのか、と言われれば、普通は必要ない。
だがこの一局は普通ではない。
凛々花が初めて、わずかに長く考えた。
その遅れが命綱になる。
しおりはさらにもつれさせ、相手の攻め駒に仕事をさせすぎた瞬間を狙って反転した。
終盤の入り口で形勢がねじれ、最後は一手違いで押し切る。
「……負けました」
凛々花が頭を下げる。
また勝った。
だが胸に残るのは快勝の気分ではなく、冷や汗の感触だった。
この子相手だと、毎回盤上で死にかける。
そして、それが少しも偶然ではないことが、しおりにはよく分かっていた。
◇
二回目は、ショッピングモールの催事スペースで開かれた子ども大会だった。
家族連れが行き交うざわざわした会場。
近くでは別のイベントもやっていて、ポップコーンの匂いまで流れてくる。静謐さとはほど遠いが、集中力を試すにはむしろ良かった。
その大会でも、しおりは勝ち進み、凛々花も勝ち進んだ。
準々決勝あたりから、もう周囲の子どもたちは二人の対局を見に来るようになっていた。
「あの子たちまた勝ってる」と噂されるのは、正直あまり気分がいいものではない。
勝って当然という空気は、甘やかしではなく重石だ。
少しでも取りこぼしたら、周囲の驚きはそのまま自分の敗北感を増幅させる。
しおりはそれを、幼いながらに感じ始めていた。
この日の凛々花は、いつもよりさらに積極的だった。
序盤から主導権を取りにくる。
しおりの好きそうなゆったりした組み方を許さず、早い段階で戦いを起こす。
悪くない。
いや、かなり嫌らしい。
現代の将棋らしい速度感。
前世の自分が苦しめられた“早い正解”の気配が、凛々花の手の中に少しずつ宿り始めている。
しおりは一度、完全に主導権を握られた。
自陣の薄いところを突かれ、受けに回らされ、持ち駒の活用でも後れを取る。
会場の雑音が遠のく。
目の前の盤だけがくっきりと浮く。
(負け筋が見える)
それが一番嫌だ。
ただ漠然と不利なのではない。
このまま相手の攻めを正確に継がれたら、数手後には受けが利かなくなる。そういう具体的な負け筋が見えてしまうのが、なにより怖い。
けれどしおりは、その“見えてしまう”感覚にも慣れていた。
負け筋が見えるなら、まだ終わっていない。
見えたということは、その周辺に逃げ道が残っている可能性もある。
しおりは盤の中心に手を入れた。
自玉の安全だけを見れば危うい。だが相手玉にも小さな傷を作れる。
凛々花はそれを嫌って予定変更を強いられた。
そこからは、互いに一手も緩めない終盤だった。
取る。
打つ。
逃げる。
縛る。
また逃げる。
追う。
最後、しおりはほとんど反射のように一手を置いた。
置いた瞬間に、勝ちを確信する。
それまで必死に堪えていた凛々花が、唇を噛んだ。
「……また」
かすかな声だった。
「また、届かない」
しおりは返す言葉を持たなかった。
簡単な慰めは違う。
この子に「惜しかったね」なんて言葉は似合わない。
惜しかったことくらい、本人が一番よく分かっている。
「ありがとうございました」
しおりはただ、いつも通り礼をした。
凛々花も、少し遅れて礼を返した。
◇
三回目の大会で、凛々花はしおりの年齢を知った。
その日も二人は決勝で当たっていた。
会場は市民文化センターの和室を改装した対局場で、受付の机には参加者名簿が置かれていた。対局の組み合わせ確認のため、保護者たちが何気なく覗き込み、そこから年齢や学年の話になるのはよくあることだった。
凛々花の母親らしき女性が、受付で係の人と話しているのが見えた。
少し離れた場所で、凛々花自身もトーナメント表を眺めている。
しおりは父と一緒に水筒のお茶を飲んでいた。
「しおりちゃんって、まだ年中さんなんですか?」
誰かの驚いた声がした。
「えっ、ほんとに?」
「だって御門さんのほうがひとつ上よね?」
「いや、もっとじゃない?」
ざわり、と小さな波が立つ。
しおりは嫌な予感がして顔を上げた。
凛々花が、トーナメント表からゆっくりこちらを振り向いていた。
その表情は、驚いているようでもあり、納得しているようでもあった。
数秒遅れて、彼女がしおりのそばまで歩いてくる。
「……天羽さん」
「なに」
「年下だったんですか」
責める声ではない。
純粋な確認だった。
「うん」
しおりは短く答える。
ここで子どもっぽく曖昧にごまかす理由はない。
隠していたわけでもないし、ただ相手が知らなかっただけだ。
「わたし、ずっと同い年くらいだと思ってました」
「ちいさい?」
「小さいです」
即答だった。
「でも、小さいからって弱いと思ったことはありません」
「……そっか」
「むしろ、なんでそんなに強いのか、前より分からなくなりました」
凛々花は本気で言っている。
その言葉に、しおりは少しだけ困った。
前世の記憶があります、などと言えるわけがない。
だから答えはひとつしかない。
「いっぱい、かんがえてるから」
凛々花はじっとしおりを見た。
「考えているだけで、ああはならないです」
その言い方に、しおりは思わず笑いそうになった。
ほんとうに真面目だ。
「御門さん」
「はい」
「年上でも、まけるよ」
挑発ではなかった。
事実として言っただけだ。
けれど凛々花の目が、ぱちりと大きく開いたあと、すぐに細く鋭くなる。
「……次は、年上らしく勝ちます」
「やってみて」
それで十分だった。
年齢差が分かったところで、二人の間にあるものは変わらない。
盤を挟めば、上も下も関係ない。
読む者が勝ち、緩んだ者が負ける。
その日の決勝も、もちろん地獄みたいな将棋になった。
凛々花は序盤から明らかに気負っていた。
年下に負け続けているという事実を、たぶん平然とは受け止められなかったのだろう。
しかし気負いは、悪い方にだけ働くとは限らない。思い切りを良くする場合もある。
この日の凛々花は、これまでで一番怖かった。
攻めが鋭い。
ためらいがない。
しおりの中途半端な受けには、即座に踏み込んでくる。
しかも、ただ強引なだけでなく、以前よりずっと“切れていない”。
(危ない)
しおりは中盤のある局面で、本気でそう思った。
こちらの玉は薄い。
相手の攻め駒は働いている。
自分の反撃はまだ遠い。
観戦していた父の息を呑む気配が、盤越しに伝わってきそうだった。
だがしおりは、こういう局面でこそ平静を保つしかない。
負けそうな局面で焦らないこと。
それだけは前世で嫌というほど叩き込まれた。
受ける。
受ける。
さらに受ける。
凛々花は攻める。
攻める。
決めに来る。
その瞬間を、待っていた。
相手が勝ちを意識して踏み込んだ一手に、しおりは一番細い反撃を通した。
派手ではない。
だが、盤上の重心がわずかに動く。
凛々花の攻めが、一手だけ空振る。
その一手の空白を、しおりは見逃さなかった。
数手後、形勢は逆転していた。
勝ったあと、凛々花は前より長く盤を見つめていた。
悔しそうだった。
でも泣かなかった。
「年下、関係なかったです」
感想戦の途中、凛々花がぽつりと言った。
「うん」
「次は、年齢じゃなくて将棋で勝ちます」
「それでいいよ」
しおりが言うと、凛々花は静かに頷いた。
◇
大会を総取りしていく、というのは言葉にすると簡単だ。
だが実際には、一つ勝つたびに、次の一つが重くなる。
教室で名前を知られる。
大会で顔を覚えられる。
「あの子がまた来た」と囁かれる。
優勝候補と見られる。
それは名誉でもある。
けれど同時に、逃げ道をひとつずつ消していく。
しおりはまだ子どもだ。
当然、疲れる。
負けそうになると怖い。
長い対局のあとには頭が熱を持ち、帰りの車でぐったりすることも増えた。
それでも大会に出たいと思うのは、勝ちたいからだけではない。
凛々花がいるからだ。
また会うたびに、少しずつ強くなっている。
少しずつ負け方を変えてくる。
少しずつ、自分の将棋を削ってくる。
それが嫌で、嬉しい。
そしてその頃から、しおりは会場の“盤の外”にも目を向け始めていた。
◇
ある大会の日。
体育館を借りた大きめのイベントで、対局スペースの外にはいくつかのブースが並んでいた。
将棋入門書の即売。
木駒や簡易盤の販売。
子ども向けの詰将棋プリント配布。
そして、会場の一番隅に、少し派手な色使いののぼりが立っていた。
【おうちでも全国の相手と対局!】
【ネット将棋入門キャンペーン】
【今なら初月おためし特典つき】
しおりは、その文字を見た瞬間、足を止めた。
ネット将棋。
その言葉自体は、もちろん知っている。
前世でもオンライン対局の存在は当たり前だったし、研究にも対局にも欠かせない時代が来ていた。
だが、いまの自分にとってはまだ遠いものだった。
家では父と指す。
教室で指す。
大会で指す。
それでも足りないと感じていたところへ、盤の外から新しい扉が見えた。
「しおり?」
隣を歩いていた真紀が足を止める。
「どうしたの?」
「これ」
しおりはブースを指差した。
ノートパソコンらしきものが置かれ、画面には将棋盤が映っている。
係の若い男性が、親子連れに説明していた。
「ネットで指せるんですよ。家にいながら全国の人と対局できます。初心者向けの練習機能もありますし、短い時間で遊べるモードもあります」
「へえー」
父の恒一が感心した声を出す。
「今はそういうの、ほんと多いんだな」
多いどころか、もう将棋の世界そのものを変えている――と、しおりは心の中で思う。
現代将棋の速度。
研究の広がり。
序盤の洗練。
子どもたちが昔よりはるかに早く強くなる理由のひとつ。
その根っこに、ネット対局は確実にある。
しおりはブースにじっと見入った。
画面の盤は平面で、実物の木駒の感触はない。
だが、その代わりに膨大な数の相手と時間がある。
家でも指せる。
教室や大会の外でも、“今の将棋”に触れ続けられる。
欲しい。
その感情が、胸の奥から真っ直ぐ立ち上がった。
「しおり、興味あるの?」
真紀がしゃがみ込んで聞く。
「ある」
「そんなにはっきり」
恒一が笑う。
「家でもやりたいってことか?」
「やりたい」
「でもまだ小さいしなあ」
真紀は慎重だった。
当然だ。画面を使う時間のこともあるし、見知らぬ人とオンラインで対局するという響きに不安もあるのだろう。
係の男性が、その空気を察したようにパンフレットを差し出してきた。
「保護者の方と一緒に始められる初心者向けの案内もありますよ。短い対局や、コンピュータ相手の練習からでも大丈夫です」
「コンピュータ?」
しおりが食いつくと、男性は少し驚いた顔をした。
「うん。人と指す前に、練習もできるんだよ」
しおりの中で、何かがかちりと噛み合う。
対人戦だけではない。
反復できる。
何度でも試せる。
感覚の更新速度を上げられる。
前世の自分が最後に足りなかったものの一部が、ここにはあるかもしれない。
「おとうさん」
「ん?」
「これ、やりたい」
恒一と真紀が目を合わせる。
しおりは続ける。
「おうちでも、しょうぎしたい」
「そんなに好きなんだねえ……」
真紀は半分あきれ、半分感心したように笑った。
「好き」
しおりは迷わず答えた。
好き、という言葉で済ませていい感情かは分からない。
執着。
渇き。
生き直しの核。
そういうものを全部ひっくるめた先に、たぶん“好き”がある。
恒一はパンフレットを受け取り、料金や内容をざっと眺めた。
「すぐ始めるかは分からないけど、検討してみようか」
しおりの胸が少しだけ跳ねる。
「ほんと?」
「ほんと。ただし、お母さんと相談してから」
「時間とかルールとか、ちゃんと決めてね」
真紀も完全には否定しなかった。
そのことが、しおりには十分すぎる前進だった。
ブースの前を離れるときも、しおりは何度か振り返った。
画面の中の盤。
全国の相手。
家にいながら差せる将棋。
そこには、自分がまだ触れていない現代の深い流れがある気がした。
◇
その日の大会でも、結局決勝はしおりと凛々花だった。
もう驚く者は少ない。
むしろ「やっぱり」という空気のほうが強い。
それがしおりには少しだけ不快だった。
やっぱり、で済ませないでほしい。
毎回、こんなに苦しいのに。
毎回、盤上では綱渡りなのに。
自分は一度も楽に勝っていないのに。
凛々花もまた、その“やっぱり”を嫌っている顔をしていた。
「また決勝ですね」
「うん」
「でも、今日は違います」
しおりは凛々花の目を見る。
静かだ。
前みたいな焦りがない。
怒りでもない。
もっと研ぎ澄まされた、冷たい決意。
「どうちがうの」
「今日は、最後まで諦めません」
しおりは少しだけ眉を上げた。
「いつもあきらめてないでしょ」
「……それでも、今日はもっとです」
なるほど、と思う。
この子も、少しずつ言葉が変わってきている。
勝ちたい、負けたくない、悔しい――そういう感情の置き方が、以前より具体的だ。
「おねがいします」
「お願いします」
対局が始まる。
凛々花は本当に変わっていた。
序盤の運びが滑らかだ。
以前まであった“ここで迷う”が減っている。
中盤でも、相手の狙いに正面から付き合うのではなく、一度いなして形を変える発想が入ってきている。
(……まずい)
しおりは早い段階でそう感じた。
これはもう、単なる子どもの成長速度ではない。
強くなる人間の伸び方だ。
しかも、自分と何度も当たっているぶん、対しおり用の感覚まで育っている。
中盤、しおりは自分の得意なねじり合いに持ち込もうとした。
だが凛々花はついてこない。
無理に応戦せず、一段引いて別の圧力をかけてくる。
嫌な変化だった。
相手が付き合ってくれないというのは、それだけで難易度が上がる。
こちらの読みの土俵から一歩外されるからだ。
しおりは仕方なく組み替える。
一手遅い。
二手苦しい。
三手目には、またこちらが防戦になる。
盤上の熱がじわじわと上がる。
息が苦しい。
幼い手のひらに、汗がにじむ。
それでも、負けない。
しおりは負けない。
相手の一番強い流れを、真正面から止めるのではなく、ほんの少しずつ横へずらす。
受けるのではなく、急所だけ消す。
消しながら、自分の駒を一枚ずつ働かせる。
凛々花の攻めが、あと一歩で届く。
届きそうで、届かない。
そしてその“届かなさ”の正体に凛々花が気づいた瞬間、しおりは逆襲に転じた。
盤の中央を切り裂く一手。
続く攻防。
さらに一手。
凛々花の肩が、ほんのわずかに落ちる。
読めたのだろう。
もう逆転が難しいことを。
だが彼女は最後まで指した。
最後まで、少しでもこちらの精度が落ちる可能性に賭けた。
だからこそ、しおりも最後まで緩めない。
完全に詰みの形が見えたところで、ようやく凛々花が頭を下げた。
「……負けました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
勝った。
また、勝った。
優勝も、またしおりのものになった。
拍手が起きる。
父がほっとしたように息をつく。
母が小さく手を叩いている。
係の人が、表彰の案内をしてくる。
全部、ちゃんと現実だった。
なのに、しおりの胸に一番強く残っていたのは、凛々花の最後の目だった。
悔しさに沈んでいるのではない。
次に向いている目。
また強くなる。
次に会うときは、今日より危ない。
それが分かっているのに、しおりの口元は少しだけ緩んでいた。
◇
帰り道、車の中でしおりは大会のパンフレットと、ネット将棋の案内チラシを交互に見ていた。
「そんなに気になる?」
恒一が信号待ちのあいだに聞く。
「きになる」
「始めたら、もっと将棋ばっかりになりそうね」
真紀は苦笑していたが、声はもう最初ほど否定的ではなかった。
「でも、家で少しずつやるなら……ありなのかなあ」
「だよな。時間決めれば」
「目も悪くならないようにしないと」
「わかってる」
しおりは即答した。
本当は、分かっているのはそんなことよりもっと別のことだ。
現代将棋に追いつくために、これは必要だという確信。
凛々花に勝ち続けるためにも、いずれ奨励会で生きるためにも、ネットの盤は避けて通れない。
会場の片隅にあった小さなブース。
たぶん保護者から見れば、子ども向けの便利なサービス紹介でしかない。
けれどしおりにとっては、次の時代への入口だった。
凛々花と何度も戦い、全部勝つ。
大会は総取りする。
それでも満足はできない。
勝っているからこそ、もっと先へ行かなければならない。
無敗でいるためには、止まれない。
しおりはチラシを握りしめた。
家の将棋。
教室の将棋。
大会の将棋。
そして、まだ見ぬネットの将棋。
盤は増えていく。
戦う場所も増えていく。
そのぶん、自分も変わらなければならない。
窓の外に、夕焼けが流れていく。
赤く染まった空を見ながら、しおりは静かに思った。
凛々花は、次もきっと来る。
もっと強くなって。
もっと届きそうなところまで上がってきて。
それでも最後には、自分が勝つ。
勝って、勝って、勝ち続ける。
竜王に辿り着くその日まで。
そして、そのために必要なら、画面の中の盤にだって飛び込む。
しおりは小さく息を吐き、膝の上のチラシをもう一度見た。
【おうちでも全国の相手と対局!】
悪くない。
いや、たぶん――とてもいい。
次の一手は、もう見えていた。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!