しおりの連勝は、止まらなかった。
大会に出れば勝つ。
決勝まで進めば、たいてい最後に御門凛々花がいる。
そして、毎回のように苦しめられながら、最後にはしおりが勝つ。
最初のころは「強い子がいる」という程度の話だった。
それが二度、三度、四度と続くうちに、周囲の見方は変わっていった。
あの子はまた優勝した。
また御門さんに勝った。
また負けなかった。
そういう話が、教室の保護者たちのあいだでも自然と交わされるようになった。
しおり自身は、その変化を嬉しいとは思わなかった。
勝てば勝つほど、周囲は「次も勝つ子」として自分を見る。
その視線は誇らしくもあるが、同時に重い。
一局一局は、そんな簡単なものではない。
何度も危ない目に遭っている。
何度も盤上で息が詰まり、あと一手間違えれば終わっていた。
なのに、外から見えるのは結果だけだ。
無敗。
その言葉は美しい。
けれど、内側からすれば、無敗とは休めないということだった。
◇
やがて春が来て、しおりは小学校に上がった。
真新しいランドセル。
少し大きすぎる制服。
まだ固い教科書の匂い。
校庭を走る子どもたちの声。
天羽しおりは、形式の上では、どこにでもいる新一年生になった。
入学式の日、母の真紀は何度も写真を撮った。
玄関の前で一枚。
校門の前で一枚。
桜の木の下でも一枚。
「ほら、もう少し笑って」
「わらってる」
「ちょっと顔が固いかなあ」
「かたい?」
「緊張してるんだよな」
父の恒一が笑う。
しおりは内心で少しだけむっとした。
緊張していないわけではない。だが、棋士人生を一度やり直している身としては、小学校の入学式よりもっと別のことで頭がいっぱいだった。
この生活の中で、どう将棋の時間を確保するか。
学校に通うことで、これまでのように毎日好きなだけ考えるわけにはいかなくなる。
宿題もある。
行事もある。
集団生活もある。
そして何より、周囲から“普通の子ども”として振る舞うことを求められる時間が増える。
それは、しおりにとって将棋より難しい課題だった。
教室に入ると、同じ学年の子どもたちがきらきらした目で話していた。
「ともだちいっぱいつくる!」
「ぼく、サッカーやるんだ!」
「ほうかご公園いく?」
そういう会話が、自然に飛び交う。
しおりはそれを聞きながら、自分が少しだけ別の世界にいる感覚を覚えた。
友達。
放課後。
遊び。
言葉の意味は分かる。
楽しさだって想像できる。
でも、自分の心はそこへ向かわない。
放課後に考えるのは、次の大会のこと。
凛々花の指し回しの変化。
この前の終盤で読み切れなかった分岐。
最近流行っている速い攻めへの対処。
将棋教室で試したい新しい形。
気づけば、学校は通う場所であっても、心の中心ではなくなっていた。
◇
最初に違和感を覚えたのは、五月の終わりごろだった。
授業が終わり、子どもたちがわっと教室を飛び出していく。
鬼ごっこをする子。
砂場へ向かう子。
誰かの家に遊びに行く約束をする子。
しおりはランドセルを背負い、ひとりで静かに靴を履き替える。
「しおりちゃん、一緒にあそぶ?」
同じクラスの小柄な女の子が声をかけてきた。
たしか、三枝結菜という名前だったはずだ。明るくて、休み時間にはよく他の子の輪の中心にいる。
しおりは一瞬だけ迷った。
ここで断ると、また普通から離れる。
けれど、応じたところで心から楽しめる自信がない。
しかも今日は、家に帰ったらこの前の大会の棋譜を頭の中で並べ直したかった。凛々花が中盤で見せたあの切り替えは、きちんと整理しておかなければ次に間に合わない。
「……ごめん。きょう、かえる」
「そっかー」
結菜は悪気なく笑い、「また今度ね」と手を振って駆けていった。
その背中を見送りながら、しおりは小さく息を吐いた。
また今度。
きっと、その“今度”はあまり来ない。
家に帰ると、真紀が玄関で迎えた。
「おかえり。学校どうだった?」
「ふつう」
「お友達できた?」
「……いる」
「遊ぶ約束とかは?」
「ない」
真紀の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
それは一瞬だったが、しおりには分かった。
ああ、心配している。
母親としては当然だろう。
小学校に入っても、娘が誰とも遊ぼうとしない。
休日も将棋。
放課後も将棋。
頭の中まで将棋。
心配しないほうがおかしい。
「学校、楽しくない?」
真紀が慎重に聞く。
「たのしいよ」
嘘ではなかった。
勉強は嫌いではない。知らないことを覚えるのは、将棋の研究に似ていて案外好きだ。
ただ、それ以上に将棋があるだけだ。
「でも、みんなと遊んだりはしないの?」
しおりは少し考えてから答えた。
「……あそぶより、しょうぎしたい」
真紀は優しく笑おうとして、少しだけ困った顔になった。
「そっかあ」
その返事は肯定でも否定でもなかった。
受け止めようとしている。けれど、そのままでいいのか迷っている。
しおりはそれ以上何も言わず、手を洗いに向かった。
◇
不安を抱えていたのは母だけではなかった。
ある夜、しおりが自室で布団に入ったあと、リビングでは父と母が小さな声で話していた。
ドアの向こうから、断片的に聞こえる。
「……悪いことじゃないんだけどさ」
「うん」
「将棋が好きなのはいい。でも、好きすぎるっていうか……」
「友達と遊ばないのが、ちょっとね」
「学校では大丈夫なのかな」
「いじめとかじゃないならいいけど」
しおりは布団の中で目を閉じた。
聞こえてしまう。
そして、親の心配が正しいことも分かる。
将棋だけで生きていける人間は少ない。
前世の自分はたまたまその少数側にいた。だが、それがどれだけ特殊かも知っている。
普通の親なら、子どもがひとつのことに偏りすぎていたら不安になる。
けれど、どうにもならない。
自分は将棋をやめられない。
やめるという発想自体がない。
呼吸を少し控えろと言われるようなものだ。
むしろ問題は別にある。
学校で友達と遊ばないことより、将棋教室ですら、だんだんまともに指せる相手が減ってきていることだった。
◇
それはある意味、単純な現象だった。
誰も、しおりに勝てないのだ。
最初は皆、普通に対局してくれた。
年下の小さな子が強いからといって、子どもは案外まっすぐ勝負してくる。
勝てると思っているうちは、なおさらだ。
だが、何度やっても勝てない。
自分の得意な形に持ち込んでも勝てない。
攻めても受けられる。
受けても崩される。
詰みを逃したと思えば、もっと深い詰みを返される。
そういう経験が重なると、子どもたちの反応は変わっていく。
「えー、しおりちゃんとかあ……」
「またやるの?」
「どうせ負けるし」
「先にあっちの子とやりたい」
露骨な悪意ではない。
ただの本音だ。
勝てない相手とばかり指しても、面白くない。
その気持ちは、しおりにも分かる。
分かるが、困る。
教室でのある午後、藤枝先生が組み合わせを考えていると、何人かの子が明らかにしおりとの対局を避けた。
その場の空気が少しだけ重くなる。
「じゃあ、今日は先生と指してみようか」
藤枝先生がそう言ってくれたが、それはもう半分、特別扱いだった。
しおりは盤の前に座りながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
勝つほどに、相手が減る。
前世でも似た感覚はあった。
上へ行くほど、気安く指してくれる相手は少なくなる。勝負には利害が生まれ、研究は閉じ、皆が互いを警戒する。
でも今の自分はまだ子どもだ。
友達の輪に入り、同年代と遊び、教室でわいわい駒を並べる年齢のはずなのに、その場所ですら盤上では孤立していく。
「天羽さん」
対局後、藤枝先生が静かに言った。
「最近、少し困ってますか」
しおりは黙った。
四角い盤面の上でならごまかしようがないが、人の言葉には曖昧な逃げ道がある。
けれど、この先生にはたぶん通じない。
「……みんな、やりたがらない」
「そうですね」
先生は否定しなかった。
「勝てないと、怖くなるんです」
「こわい?」
「うん。子どもにとって、勝負って思ってるより大きいから。負けるって分かってる相手に向かうのは、勇気がいるんです」
しおりは盤を見つめた。
勇気。
たしかにそうかもしれない。
凛々花が何度負けても向かってくるのは、それだけで特別なのだ。
「でも」
藤枝先生は続けた。
「天羽さんが悪いわけじゃありません」
「……うん」
「強くなったら、強くなったぶんの悩みが出ます」
その言葉は、妙に胸に残った。
強くなったぶんの悩み。
それは前世でも、今でも変わらないのかもしれない。
◇
家に帰ると、その日のしおりは珍しく口数が少なかった。
夕食のときも、いつもなら大会や教室で起きたことを少しは話すのに、今日はほとんど黙ったまま白ごはんを食べている。
恒一がそれに気づかないはずがない。
「どうした? 教室でなんかあった?」
「……なんでもない」
「なんでもない顔じゃないぞ」
真紀も心配そうにしおりを見る。
「しおり、疲れた?」
しおりは少し迷ってから、小さく言った。
「みんな、あんまり、やりたくないって」
「将棋を?」
真紀が目を丸くする。
「しおりと」
その一言で、両親はだいたい理解したらしかった。
恒一が「あー……」と微妙な声を出し、真紀は困ったように眉を下げる。
「そっか」
「どうせ勝てないって」
「そんな言い方されたの?」
「……うん」
もちろん悪意一色ではなかった。
でも、子どもの正直さはときどき鋭い。
真紀は少し怒った顔になった。
「そんな言い方しなくてもいいのに」
「いや、でも子どもだからなあ……」
恒一はそう言いかけて、しおりの顔を見て言葉を選び直した。
「でも、しおりが傷つくのは嫌だよな」
傷つく。
その言葉に、しおりは少しだけ違和感を覚えた。
もちろん平気ではない。
でも、一番近い感情は傷ついた、というより、行き止まりにぶつかった、のほうだった。
もっと指したい。
もっと試したい。
もっと今の将棋を吸収したい。
なのに、目の前の盤が減っていく。
「先生とは指せるんだけど」
「でも同じくらいの子とはやりたいよなあ」
恒一が腕を組む。
真紀も考え込んだ。
「大会はあるけど、毎日じゃないし……」
「家で俺が相手するにも限界あるしなあ。最近もう普通に負けるし」
「普通にどころじゃないでしょ」
「うるさい」
いつものやり取りに少しだけ空気が緩む。
しおりは味噌汁をすすりながら、二人の会話を聞いていた。
そのときだった。
「あ」
真紀が小さく声を上げた。
「この前の大会でやってたやつ」
「ん?」
「会場の隅で、なんかネットで将棋できるっていう……ほら、ブースがあったじゃない」
恒一の目が少し開く。
「ああ、あったな。家でも対局できるとかいう」
「全国の人とできるって」
しおりの箸が止まる。
ネット将棋。
あのとき会場の隅で見た、画面の中の盤。
家にいながら、知らない相手といくらでも指せる世界。
両親がその話を持ち出しただけで、胸の奥に火がついた。
「たしかに……」
恒一が考え込む。
「家で練習相手が増えるなら、いいのか?」
「でもまだ小さいし、使い方ちゃんと決めないと」
「時間制限つければいいかもな」
「あと、知らない人と変なやり取りとかないように」
「対局だけなら、たぶん大丈夫じゃないか」
二人の会話が現実味を帯びていく。
しおりは顔に出しすぎないよう必死で抑えた。
ここで露骨に食いつくと、逆に慎重になられるかもしれない。
だが、心は盤上の終盤みたいに激しく脈打っていた。
くる。
次の手が、くる。
◇
それから数日後のことだった。
平日の夕方。
学校から帰ったしおりがランドセルを下ろすと、リビングのテーブルの上に、見慣れない箱が置いてあった。
薄くて四角い、家電量販店の袋。
そして、その上に小さなリボンまでかかっている。
「……なにこれ」
しおりが思わず立ち止まると、キッチンから真紀が顔を出した。
「おかえり」
「ただいま」
「先に手、洗っておいで」
「……うん」
手を洗って戻ってくると、今度は恒一も帰宅していた。
わざわざ少し早めに帰ってきたらしい。
「よし、じゃあ開けるか」
にやにやしている。
しおりは箱と父の顔を交互に見た。
嫌でも期待が高まる。
「これ、しおりに」
「わたしに?」
「入学祝い、っていうには少し遅いけどな」
恒一が箱をしおりの前に押し出す。
しおりは小さな手で慎重に包みをほどいた。
箱のふたを開ける。
中に入っていたのは、つるりとした画面のタブレットだった。
一瞬、言葉が出ない。
分かっていた。
たぶんそうだろうと思っていた。
それでも実際に目の前へ現れると、心臓が強く打つ。
「タブレット……」
「大会のときのやつ、気になってたろ?」
恒一が少し照れたように笑う。
「お父さんとお母さんで相談してさ。使い方のルールはちゃんと決めるけど、家で将棋の練習できるようにって」
しおりはゆっくりと画面に触れた。
冷たい。
軽い。
けれどこの中に、自分の知らない盤がいくつも詰まっている気がした。
「しかもな」
恒一が得意げに言う。
「最初から将棋アプリ、入れてある」
しおりの顔が上がる。
「ほんと?」
「ほんと。初心者向けのも、ひとりで練習できるやつも入れてみた。対局だけじゃなくて、詰みを覚える機能とかもあるって店員さんが教えてくれて」
「あと、ネットで指すのは最初はお父さんかお母さんがいるときだけ」
真紀が指を一本立てる。
「長時間はだめ。夜はだめ。宿題や学校のことをちゃんとしてから」
「へんじ」
しおりはほとんど反射で答えた。
「はい、は一回」
「はい」
言い直す。
真紀が少し笑う。
「そんなに嬉しいんだ」
「……うれしい」
しおりはもう隠さなかった。
隠しきれない。
タブレットの画面が点く。
ホーム画面の中に、将棋盤のアイコンが見えた。
それだけで胸が熱くなる。
前世では、将棋ソフトもネット対局も、勝負のための当たり前の道具だった。
だが今のしおりにとっては、それは未来へつながる橋だ。
教室で相手が減ってもいい。
学校で遊び相手がいなくてもいい。
盤があるなら、まだ進める。
「いま、やっていい?」
しおりが聞くと、恒一と真紀は顔を見合わせた。
「宿題は?」
「おわってる」
「連絡帳は?」
「だした」
「明日の用意は?」
「した」
「完璧だな……」
恒一が苦笑する。
「じゃあ、三十分だけ」
「やった」
しおりはタブレットを両手で抱え、まるで宝物みたいにソファへ座った。
アプリを起動する。
画面の中に、盤が現れる。
整然と並んだ駒。
指先で触れれば、軽い音とともに動く。
木の匂いはしない。
駒の重さもない。
だが、それでも確かに将棋だった。
しおりは最初の一手を動かした。
画面の中で、相手がすぐに応じる。
速い。
実物の盤とは違う種類の速さだ。
相手の応手までの間が短い。
テンポが違う。
この速度で何局も指せるなら、感覚の更新量は一気に増える。
ぞくり、とした。
これは危険だ。
そして、強くなる。
盤の前でしか味わえない種類の興奮が、しおりの背筋を走る。
恒一が後ろから覗き込む。
「どう?」
「……おもしろい」
「そうか」
「すごく」
その声は、しおり自身が思っていたより低く、真剣だった。
真紀も少し離れたところから見ている。
娘がこれほど夢中になる姿を見れば、不安と同じくらい納得もするのだろう。
この子にとって将棋は、ただの遊びではないのだと。
しおりは二局目に入った。
画面の向こうには、まだ見ぬ相手たちがいる。
まだ知らない手筋がある。
まだ追いついていない“今”がある。
教室で誰も相手をしてくれなくなっても、終わりではない。
むしろ、ここからだ。
小学校に上がり、周囲は友達と遊ぶ年齢に入っていく。
そのなかで自分だけが別の道を歩いていることを、しおりは薄々理解していた。
それは少しだけ寂しいかもしれない。
両親が心配するのも分かる。
けれど、その寂しさよりずっと強いものがある。
勝ちたい。
もっと先へ行きたい。
凛々花に勝ち続けたい。
そして、かつて自分を置いていった時代そのものを、今度こそ置いていかれない側で追い越したい。
画面の盤面を見つめながら、しおりは小さく息を吐いた。
これで、まだ戦える。
いや。
これで、もっと戦える。
ソファの背に寄りかかって腕を組んでいた恒一が、ふと笑った。
「おい真紀」
「なに?」
「これ、たぶんプレゼントの選択、当たりだったな」
「ええ、見れば分かる」
「しおり、顔こわいもん」
「こわくない」
「本気の顔だよ」
真紀がくすっと笑う。
「でも、よかったね」
「……うん」
しおりは短く答え、もう一度盤を見た。
画面の中の相手が次の一手を待っている。
その向こうには、会場の隅で見つけた小さな入口から続く、広くて深い世界がある。
教室の外。
大会の外。
家の中からつながる、無数の対局。
連勝はまだ続く。
無敗もまだ途切れない。
そのかわり、一局一局はもっと過酷になっていく。
しおりはそのことを、むしろ歓迎していた。
強くなるためなら、苦しさは必要だ。
絶体絶命の局面こそ、自分を削り、磨く。
楽な勝ちでは足りない。
だから、次も勝つ。
画面の中でも。
大会でも。
凛々花相手でも。
その先に、まだ見えないもっと大きな盤があると知っているから。
しおりは指先で、静かに次の一手を置いた。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!