小学校に上がって最初の夏、しおりはまた大会会場にいた。
冷房の効いた市民会館の大ホール。
受付の前には、ランドセルではなく小さなリュックや手提げ袋を持った小学生たちが並び、保護者たちがその後ろで名前の確認や参加費のやり取りをしている。
壁には手書きの案内が貼られていた。
【第○回 小学生将棋大会】
【オープンクラス 1年生~6年生】
【初心者クラス 1年生~6年生】
しおりはその紙を見上げながら、胸の奥に小さな熱が灯るのを感じていた。
小学生だけ。
しかも、学年で分かれないオープンクラス。
つまり今日は、上級生とも当たる。
「しおり、ほんとにこっちでいいの?」
真紀が少し不安そうに尋ねた。
「初心者クラスじゃなくて、上の子たちもいるほうだよ?」
「いい」
しおりは即答した。
むしろ、そこにしか用はない。
同学年や近い学年の子どもたちを圧倒して勝つだけでは、もう足りない。
勝てるからこそ、苦しい相手が欲しい。
盤上で追い詰められ、息が詰まり、それでも最後にひっくり返すような将棋でなければ、自分はもう満足できないところまで来ていた。
危険だとは分かっている。
そんな勝ち方ばかり求めるのは、どこか壊れているのかもしれない。
けれど、ぬるい勝負は成長を止める。
そして今日の相手たちは、少なくとも見た目だけなら、これまでよりずっと大きかった。
背の高い五年生。
落ち着いた雰囲気の六年生。
腕を組み、いかにも自分は強いという顔で盤の並ぶホールを見渡している上級生たち。
しおりの小さな体は、その中に入ると一段と小さく見えた。
「なんか、場違いじゃないか?」
恒一が苦笑する。
「ちっちゃすぎて、受付の人に確認されてたぞ」
「でも本人は全然平気そう」
真紀の声には半分あきれ、半分感心した響きがあった。
しおりはそれには答えず、会場の中を見回した。
見知った顔がいくつかある。
教室や地域大会で当たった子どもたち。
そして――少し離れた場所に、御門凛々花もいた。
凛々花もまた、こちらに気づいたらしい。
目が合う。
それだけで、言葉はいらなかった。
またいる。
また勝ち上がってくるつもりだ。
しおりもそうだ。
なら、会う場所は一つしかない。
決勝。
◇
一回戦の相手は五年生の男子だった。
体格がいい。
駒を並べる手つきにも慣れがあった。
しおりが向かいに座った瞬間、相手は一度だけ眉を上げた。
「……一年生?」
小声だったが、聞こえた。
「うん」
しおりは短く返す。
相手は少しだけ気まずそうにしながらも、すぐに盤へ視線を戻した。
油断してくれるなら、それでもいい。
だが、油断だけで勝てる相手なら上級生のオープンクラスには来ていないだろう。
「お願いします」
「お願いします」
初手から、相手の将棋は堅実だった。
年上らしく、焦らない。
子ども特有の衝動的な攻めではなく、駒組みをある程度整えながら、こちらの出方をうかがってくる。
しかも、ところどころに教科書的な正しさがある。
(うまい)
しおりは数手でそう判断した。
感覚だけではない。
ちゃんと本や教室で学び、対局数もこなしてきている。
小学生の中ではかなり強い部類だろう。
だが同時に、読みの重心が見えやすい。
この相手は、形の良さを信じている。
それは悪いことではない。むしろ強さの土台になる。
ただ、形が良いことと、いまこの局面で最速かどうかは別問題だ。
しおりは中盤でわざと少し形を乱した。
普通の子なら嫌がって手を止める。
この相手は違った。乱れた形を咎めに来る。
正しい。
だからこそ、その“正しさ”に寄りかかる。
しおりはそこから一気に速度を上げた。
受けと見せて反撃の種を蒔く。
相手の美しい陣形に、小さな棘を残す。
一見損でも、数手後に効いてくる傷を作る。
相手は気づいたときには、もう主導権を握り返されていた。
「……っ」
初めて相手の手が止まる。
しおりは動揺しない。
ここからが危ない。
年上で、地力がある相手ほど、一度崩れても立て直しが利く。
案の定、相手は最善に近い受けを選んできた。
強い。
そしてしぶとい。
最後は、しおりも一手間違えれば逆転される終盤になった。
会場の音が消え、盤面だけが浮かび上がる。
(ここ)
細い一手を通す。
相手が受ける。
さらに踏み込む。
最後、相手の玉に詰みが生じた瞬間、ようやく勝ちが確定した。
「……負けました」
「ありがとうございました」
一回戦から、冷や汗が背中を伝っていた。
やはり上級生は違う。
これまでの大会より、一局の密度が重い。
しおりはむしろ、口元が少し緩むのを止められなかった。
面白い。
◇
二回戦。
三回戦。
しおりは勝ち進んだ。
二回戦の相手は四年生の女の子で、序盤研究をきれいに外してきた。
教室将棋ではなく、ちゃんと大会で勝つための組み立てをしてくるタイプだった。しおりは一時、完全に攻めを封じられ、持久戦の果てに玉形の差で押し切るしかなかった。
三回戦の相手は六年生。
今日ここで当たった中で、ここまで一番強かった。
駒を持つ指が大きい。
礼もしっかりしている。
盤の前に座った瞬間、相手の空気が変わる。何度もこういう大会で勝ち上がってきたのだろう。
しおりを見る目にも、年下だからといった侮りがほとんどなかった。
「天羽さん、だよね」
相手が言った。
「うん」
「聞いたことある。ちっちゃいのに強いって」
しおりは少しだけ眉を動かした。
噂が回っている。
それはもう仕方がない。
「でも、今日は勝たせないよ」
「やってみて」
その返しに、相手が少しだけ笑った。
「生意気だな」
そう言いながらも、不思議と不快な感じはなかった。
むしろ、勝負として見てくれているのが分かる。
この将棋は、序盤から最悪だった。
相手はしおりの得意な乱戦を避け、重い将棋に引きずり込んできた。
簡単に手を作らせない。
攻めさせてはくれない。
かといって、こちらから無理に動けば形が悪くなる。
(上手い)
しおりは内心で舌を巻いた。
派手さはない。
けれど、こういう相手が一番厄介だ。
派手な攻めは受け切れば終わる。
だが、じわじわと良くしてくる相手には、こちらから危険を冒して動く必要が出てくる。
そして、その危険を待っているのだ。相手は。
中盤、しおりは勝負に出た。
損か得かで言えば、見た目は損。
だが、このまま均衡を保っても、終盤でじり貧になる未来が見える。
ならば盤を歪めるしかない。
一枚切る。
二枚働かせる。
自玉も薄くなる。
相手も当然、そこを狙ってくる。
会場の周囲で見ていた子どもたちが、ざわりと動いた気配があった。
どちらが良いのか分からないまでも、危ない空気だけは伝わったのだろう。
しおりの玉は、あと数手で詰み筋が見えてしまうほど追い詰められた。
相手の六年生も、ここで勝ったと思ったはずだ。
(まだ)
まだ終わっていない。
しおりは相手玉の薄さを一点だけ見ていた。
見た目には安全でも、駒の位置関係が一度狂えば、一気に崩れる場所がある。
その一手を打った瞬間、相手の表情が変わった。
読んでいなかったわけではない。
ただ、“この局面で本当に来るのか”と思っていたのだろう。
来る。
こちらが死ぬ前に、相手を先に捕まえられるなら。
終盤は、ほとんど綱渡りだった。
受けを誤ればこちらが詰む。
攻めを急ぎすぎれば抜けられる。
でも、しおりは一手ずつ正確に積み上げた。
最後、相手が静かに頭を下げる。
「……負けました」
「ありがとうございました」
礼を返したあとも、しおりの鼓動はなかなか落ちなかった。
六年生。
上級生。
体も大きく、経験も多い相手。
それでも勝った。
だが圧倒ではない。
紙一重だ。
ほんの少しでも読みが鈍れば、自分が負けていた。
無敗は、今日もぎりぎりのところで繋がっている。
◇
昼休み、しおりは保護者席の隅で小さく座り、おにぎりを食べていた。
「大丈夫?」
真紀が心配そうに聞く。
「つかれた?」
「ちょっと」
素直に答える。
実際、疲れていた。
小学生になったとはいえ、まだ体力は十分ではない。
上級生相手の長い将棋は、それだけで消耗が激しい。
「無理しなくていいからね」
「うん」
とはいえ、ここで止まる気はない。
しおりは水筒のお茶を飲みながら、鞄の中に入っているタブレットの存在を思い出した。
最近は、少しでも時間があればそれを開いていた。
登校前の短い時間。
宿題を終えたあとの三十分。
大会の移動中、父か母が見ていられるとき。
ちょっとした空白があれば、盤面に触れる。
最初は練習用のAIだけだった。
次第にオンライン対局にも慣れ始めた。
画面の中の相手は、容赦がない。
名前も顔も分からない。
年齢も分からない。
だからこそ、純粋に手だけがぶつかる。
速い。
軽い。
しかも、地域の教室では見ないような筋がいくらでも飛んでくる。
しおりはその感覚が好きだった。
好き、というより必要だった。
実際、タブレットを手にしてから、しおりの将棋は変わってきている。
読みの速度。
序盤の柔軟さ。
相手の発想の外から手をひねり出す感覚。
そういうものが、少しずつ現代の将棋に寄ってきていた。
「また後で使うの?」
恒一が鞄をちらりと見て言う。
「じかんあったら」
「ほんと好きだな」
「うん」
否定しない。
もう、そこをごまかす意味はない。
しおりは将棋が好きだ。
誰と遊ぶより、何をするより、盤の前にいたい。
それが親にとって健全に見えるかどうかは別として、少なくとも自分にとっては真実だった。
◇
準決勝も、しおりは勝った。
相手は五年生で、振り飛車を得意とするタイプだった。
これまでの相手と違い、最初から局面を動かすことを恐れない。
豪快で、速い。
しかも、攻めが切れても気にせず次を作る図太さがある。
しおりは一時、防戦一方になった。
相手の飛車が捌け、角筋が通り、自陣の要がぐらつく。
見ていた恒一が思わず腰を浮かせたのが視界の端に映る。
(まずい)
率直にそう思う。
このまま相手の気持ちよさに付き合えば終わる。
勢いのある相手に対して、受け一辺倒は敗北宣言に近い。
だから、受けながら戦いの場所をずらす。
相手が見ているのとは別の場所で、こちらも刃を研ぐ。
飛車を止める。
角を遊ばせる。
駒損を承知で、相手の攻め駒の連結だけを切る。
その積み重ねが、終盤で効いた。
勢いだけで来ていたように見えた相手も、終盤は強い。
だが、勢いで走ったぶんだけ、最後の一滴の精度が落ちる。
しおりはそこを逃さない。
最後は、受けなしを読み切って勝ち。
気づけば、決勝だった。
◇
そして、決勝の席に座っていたのは――やはり、御門凛々花だった。
「まただね」
しおりが言うと、凛々花は静かに頷いた。
「はい」
その声には、もはや驚きはなかった。
ここまで来れば当然、という顔でもない。
もっと硬い。
もっと切実な色がある。
「上級生、みんな強かったね」
しおりが小さく言うと、凛々花の目がわずかに細まる。
「でも、勝ちました」
「うん」
「天羽さんも」
「うん」
そこで少しだけ沈黙が落ちる。
凛々花が、しおりをまっすぐ見る。
「今日は、勝ちます」
「毎回いうね」
「毎回、本気です」
しおりは少し笑った。
「しってる」
礼をして、対局が始まる。
この日の凛々花は、明らかにこれまでで一番強かった。
上級生相手に勝ち上がってきた熱が、そのまま盤上に乗っている。
序盤から迷いが少ない。
しかも、ただ速いだけではない。
しおりが嫌がる形を覚えてきている。
(……嫌だな、ほんと)
強くなっている。
しかも、自分と当たるたびに。
凛々花は年上の相手を倒してきた勢いのまま、中盤で主導権を握りにきた。
しおりも応じる。
互いに退かない。
上級生たちを倒した二人の将棋は、会場の他のどの卓よりも熱を持っていた。
子どもたちも、保護者も、スタッフも、少しずつ視線を寄せてくる。
盤上は、すぐに修羅場になった。
凛々花の攻めは鋭い。
以前より、ひとつひとつの手に無駄がない。
しおりの受けの急所も、かなり正確に掴んできている。
しおりは一度、本気で負けを覚悟した。
自玉が薄い。
攻め駒が足りない。
相手の手番が続く。
詰み筋の影が見える。
(でも)
でも、まだだ。
しおりはタブレットで何百局も見た。
速い将棋。
乱戦。
無茶に見えて成立する受け。
薄い玉で粘り、相手の勢いだけを削る手。
会場の実戦と、画面の対局は違う。
けれど、その中で拾った“現代の速さ”は、確かに今ここに生きていた。
受ける。
かわす。
一見地味な手で、相手の連続性を断つ。
凛々花の攻めが、一手だけ止まる。
その一手で十分だった。
しおりは反転する。
守っていたはずの駒が、そのまま攻め駒へ変わる。
凛々花の表情が初めて揺れた。
「……っ」
読んでいる。
必死に、最善を探している。
だからこそ、しおりも手を緩めない。
最後は、また一手差だった。
「……負けました」
凛々花が頭を下げる。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
拍手が起こる。
優勝。
また、しおりが取った。
上級生も倒し、最後に凛々花も倒し、小学生だけの大会を制した。
賞状を受け取るとき、しおりはほんの少しだけ会場の天井を見上げた。
勝った。
でも、楽ではなかった。
凛々花はまた近づいている。
上級生相手の将棋も、自分を容赦なく削ってくる。
なのに胸の奥では、次を求める声がもう鳴っている。
◇
帰りの車の中。
しおりは賞状の入った筒を膝に置き、その上にタブレットを乗せていた。
「今日はもう休んだほうがいいんじゃない?」
真紀が後ろを振り向く。
「つかれてるでしょ」
「……ちょっとだけ」
「だったら寝なさい」
「でも」
しおりは画面を見た。
対局アプリのアイコンがそこにある。
上級生を倒した直後だからこそ、試したいことが山ほどある。
凛々花戦のあの受け。
準決勝で使った切り返し。
六年生相手にひねり出した終盤の感覚。
時間があれば、すぐ指したい。
恒一がバックミラー越しに笑う。
「三十分だけな」
「おとうさん」
「優勝祝い。でも三十分」
真紀が呆れた顔をする。
「甘い」
「いや、今日くらいは」
「……三十分だけよ」
「やった」
しおりはさっそくタブレットを開いた。
車は揺れる。
夕方の光が窓から差し込む。
その中で、画面の盤だけが静かに光っていた。
対局開始。
相手の名前は知らない。
どこに住んでいるかも、何歳かも分からない。
けれど、一手目が置かれた瞬間、もう関係なくなる。
将棋だけがある。
しおりは静かに駒を進めた。
今日の大会で勝ったから終わりではない。
むしろ勝った日ほど、先へ進まなければならない。
無敗でいるとは、そういうことだ。
止まれない。
休めない。
勝つたびに、次の勝ち方を探さなければならない。
タブレットの向こうの相手が、予想外に速い手を返してくる。
しおりの口元が、わずかに上がった。
いい。
もっとだ。
会場でも、家でも、移動中でも。
盤がある限り、自分は強くなれる。
そして、強くならなければ凛々花に追いつかれる。
いや、いずれ追い越されるかもしれない。
だから指す。
時間があれば、指す。
眠る直前まで考える。
朝起きてもまた考える。
その先にしか、自分の目指す場所はない。
夕焼けの中、車が家へ向かって走っていく。
その後部座席で、天羽しおりは賞状とタブレットを膝に抱えながら、次の一手を読んでいた。
優勝は終点じゃない。
ただの通過点だ。
上級生を倒した。
凛々花にもまた勝った。
それでも、盤の向こうにはまだ無数の敵がいる。
ならば、次も勝つだけだ。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!