天羽しおりの快進撃は、止まらなかった。
大会に出れば勝つ。
上級生が相手でも勝つ。
知らない土地の子でも、教室で名を知られている子でも、最後には勝つ。
そして決勝まで行けば、そこにいるのはたいてい御門凛々花だった。
凛々花も強い。
実際、しおり以外にはほとんど負けない。
同年代の中では、もう十分すぎるほど抜けていた。
だが、それでも優勝できない。
準優勝。
また準優勝。
そして、また準優勝。
トロフィーや賞状を受け取るのは、いつもしおりだった。
◇
最初に新聞へ載ったのは、地方大会の結果をまとめた小さな記事だった。
市内版の片隅。
地域の催しや学校行事、文化活動が載るページの中に、ほんの小さく。
【小学生将棋大会 天羽しおりさん優勝】
名前。
学校名。
簡単な戦績。
そして、低学年ながら上級生を破って優勝した、という短い説明。
それだけの、ささやかな記事だった。
だが、天羽家にとっては大事件だった。
「しおり、しおり! 載ってる、載ってる!」
朝食の前、恒一が新聞を持ってリビングに駆け込んできた。
まだネクタイも締めていない。完全に浮かれている。
「朝からうるさい」
真紀はそう言いながらも、声が少し弾んでいた。
「ほんとだ……すごい」
しおりは椅子に座ったまま、その記事を見上げた。
たしかに自分の名前がある。
天羽しおり。
たった数行の記事なのに、妙に現実味があった。
前世ではもっと大きな記事も、見出しも、写真も、何度も経験した。
タイトル戦の前日特集。
敗局の分析記事。
新時代だの世代交代だの、勝手に物語を作られることも珍しくなかった。
だが、今のこの数行は、それらとはまるで違う。
幼い少女の名前が、初めて世間に印字された。
それがどこか、不思議で、少しだけくすぐったい。
「ほら、写真撮っとこうか?」
「新聞を?」
「記念に」
「やめて」
しおりが即答すると、恒一が「なんでだよ」と笑った。
真紀は新聞を見ながら、少し誇らしそうに、それでいて複雑そうな顔をしていた。
「こんなふうに載るようになるなんてねえ」
「将来有名人かもな」
「そういうの、本人の前であんまり言わないの」
「いやでも、だって本当に強いし」
強い。
その言葉を、最近は以前よりよく聞く。
家でも。
教室でも。
大会でも。
しおりは味噌汁の湯気を見つめながら、静かに思った。
記事になるということは、見られるということだ。
知る人が増えるということだ。
そして、ただの強い子から、“負けない子”へ変わっていくということでもある。
それは嬉しい反面、嫌な予感もした。
目立てば、研究される。
見られれば、真似される。
注目されれば、期待も敵意も集まる。
勝負の世界では、それが当然だ。
まだ子どもの大会なのに、もうそんな匂いがし始めている。
◇
新聞に載ったのは一度だけでは終わらなかった。
別の大会で優勝すれば、また短く紹介される。
地域のフリーペーパーに「将棋少女の快進撃」といった見出しで小さく取り上げられる。
教室の掲示板にも、新聞の切り抜きが貼られるようになった。
「天羽しおりさん、また優勝」
「年下ながら連続優勝」
「小学生大会で上級生も撃破」
大人はこういう物語が好きだ。
小さくて、強くて、無敗。
分かりやすい。
けれどその“分かりやすさ”の中に、盤上で何度もしおりが死にかけている事実は含まれない。
凛々花も、当然その記事を目にしていた。
最初のころは、気にしないようにしていた。
実際、一度や二度ならそうできた。
惜しくも準優勝。
次は勝てる。
相手がたまたま噛み合っただけ。
そう思えた。
だが、それが三度になり、四度になり、五度になってくると、話は変わる。
優勝の欄にいつも同じ名前がある。
自分ではない名前。
天羽しおり。
しかも、自分より三つ年下。
それは、凛々花にとって無視できる現実ではなかった。
◇
御門家の居間は、静かだった。
高級すぎて息が詰まるというほどではない。
だが、天羽家の居間と比べれば、置かれている家具も、空気の整い方も、まるで違う。
壁には書が飾られ、床の間の花は季節に合わせて替えられている。棚には将棋に関する書籍と、いくつかの賞杯や記念品が並んでいた。
その家の中心にいるのが、御門宗一郎だった。
現名人。
長く将棋界の第一線に立ち続け、重厚で受けの強い棋風から“鉄壁の名人”と呼ばれる男。盤の前では一手の甘さも見逃さないが、家の中では案外口数は多くない。
凛々花にとっては祖父であり、同時に、物心ついた頃から家の中にいた“将棋の頂点”そのものだった。
凛々花が大会から帰った日、宗一郎は和室で新聞を広げていた。
いつものように、大きく話しかけてはこない。
ただ、凛々花が廊下を通る音で帰宅を知り、ゆっくりと顔を上げる。
「帰ったか」
「はい」
「どうだった」
答えは知っているくせに、聞く。
新聞の地方欄はもう開かれていた。そこには小さな大会結果が載っている。
凛々花は一瞬だけ唇を引き結び、それでもまっすぐに答えた。
「準優勝でした」
「そうか」
宗一郎の声に、落胆はなかった。
責める色もない。
ただ静かだ。
その静かさが、かえってつらいこともある。
「相手はまた、天羽しおりか」
「はい」
「……そうか」
新聞の上に印刷された名前を、宗一郎の指が軽く叩く。
天羽しおり。
最近、よく目にする名だった。
最初はただの地方大会結果だった。
次に、低学年で上級生撃破。
さらに別の大会でも優勝。
そのたびに、孫娘の名前は準優勝欄にある。
一度や二度なら、宗一郎も気にしなかっただろう。
子どもの大会だ。勝った負けたはある。相性もある。
将棋は、特に若いうちは波が激しい。
だが。
ある時を境に、凛々花は一度も優勝できていない。
原因は明白だった。
天羽しおり。
彼女が出る大会は、全部彼女が持っていく。
しかも、敗北を一度も挟まずに。
宗一郎は新聞をたたみ、凛々花を見た。
「年はいくつだ」
凛々花は、祖父が何を聞いているのかすぐ分かった。
「わたしより、三つ下です」
宗一郎の眉が、ほんのわずかに動いた。
「三つ」
「はい」
「……お前が小三なら、向こうは」
「まだ一年生です」
しばらく沈黙が落ちた。
宗一郎は無表情のまま湯呑みに口をつけたが、その沈黙には明らかに重みがあった。
驚いている。
そして考えている。
凛々花はそれを感じながら、胸の奥がじくりと痛むのを覚えた。
祖父は普段、そう簡単には感情を表に出さない。
褒めるときも大仰ではないし、怒るときも声を荒げない。
その代わり、何かを深く考えるときは長く黙る。
いま、その沈黙は明らかに天羽しおりに向いていた。
「どんな将棋を指す」
やがて宗一郎が訊いた。
凛々花は少しだけ迷った。
言葉にするのが難しいからだ。
「……変です」
「変」
「でも、強いです」
「そんなことは結果を見れば分かる」
「普通の子じゃありません」
宗一郎の目が、わずかに細くなる。
凛々花は続けた。
「急に速くなるんです。こっちが勝ちだと思ったところで、別の場所から手を作ってきます。受けてると思ったら攻めになっていて、攻めてると思ったらもうこっちの手が切れてて……」
自分で言いながら、悔しさが滲む。
「読みの深さも変です。わたしが見えてる筋の、もう一枚向こうを見てるみたいで」
「ふむ」
「それに、負けそうな顔をしません」
その一言に、宗一郎の指が止まった。
「ほう」
「苦しくなってるはずなのに、盤から目を離さないんです。怖がってる感じはあるのに、手は鈍らない」
それは凛々花にとって、いちばん不気味なところだった。
子どもは普通、苦しいと崩れる。
焦る。
泣きそうになる。
あるいは無理に攻めて自滅する。
だが天羽しおりは違う。
追い詰められても、その場で一番細い手を選んでくる。
そして、その細い手がちゃんと次につながっている。
宗一郎は静かに頷いた。
「なるほどな」
それだけ言って、再び黙る。
凛々花はその顔を見て、胸が少しざわついた。
祖父が興味を持っている。
将棋に対してだけではない。
天羽しおりという存在そのものに。
◇
その夜、宗一郎は自室の机で、新聞の切り抜きを何枚か並べていた。
古い習慣だった。
気になった記事は切り抜いておく。
プロの対局だけでなく、奨励会の結果、地方大会の話題、若い有望株の記事。そういうものも、目に留まれば残す。
並んだ紙片の中に、小さな名前が何度もある。
天羽しおり。
優勝。
優勝。
また優勝。
宗一郎は指先で紙を押さえた。
無敗。
子どもの大会とはいえ、この言葉は軽くない。
将棋はそんなに甘くない。
どれだけ才能があっても、どこかで取りこぼす。体調、集中、組み合わせ、気分、偶然の綾。若いうちはなおさらだ。
それを、一度も負けずに全部持っていく。
しかも三つ年上の御門凛々花を抑えて。
「……面白い」
宗一郎は独りごちた。
自分の孫が負け続けているのだから、本来なら面白いで済ませる話ではない。
だが、勝負師としての嗅覚が先に動いてしまう。
ただ強い子ではない。
ただ早熟なだけでもない。
何かがある。
年齢不相応な勝負勘。
負け筋の近くで手が鈍らない胆力。
そして、結果として現れている異常な安定感。
偶然では説明しにくい。
宗一郎は凛々花の負け棋譜のメモも見返した。
細部はまだ幼い。荒さもある。
だが、それでも要所要所に異様な手が混じっている。
子どもがそんなところを見るか、というような手。
普通なら見えても選ばないような、危うく、それでいて筋の通った受け。
読みの末端ではなく、読みの組み方そのものが少し異質だ。
宗一郎は目を閉じた。
天才、という言葉は好きではない。
便利すぎる。
説明した気になるだけで、実際には何も見ていないことが多い。
だがそれでも、この天羽しおりには、凡庸では片づけられない気配がある。
しかも、まだ一年生。
育ち方次第では、とんでもないところまで行くかもしれない。
◇
一方その頃、しおりはそんなことを知らず、家でタブレットを握っていた。
新聞に載ったことについて、家では少し騒がれた。
教室でもまた「見たよ」と言われた。
大会でも、名前を知っている相手が増えた。
だが、しおりにとって重要なのはそこではない。
勝つこと。
そして、次に勝つために変わり続けること。
タブレットの画面には将棋盤。
オンライン対局の待機画面。
相手が見つかるまでのわずかな時間にも、しおりの頭は回っていた。
最近、凛々花の中盤が変わってきている。
ただ勢いで来るだけではなく、こちらの受けを嫌って戦場をずらすことを覚え始めた。
あれは厄介だ。
次に当たるとき、同じ受けでは通用しないかもしれない。
対局開始。
見知らぬ相手の初手に、しおりはすぐ反応した。
タブレット将棋の速さは、もうかなり身体に馴染んできている。
一手の意味。
テンポ。
相手の意図。
それらを実戦より短い時間で処理し、感覚へ落とし込む。
現代の将棋に追いつくために必要なものが、ここにはある。
新聞に載ったから何だ。
誰が興味を持とうが、盤の上で弱ければ意味がない。
むしろ注目が増えるほど、自分はもっと強くならなければならない。
しおりは静かに駒を進めた。
その小さな指先が、どこか遠くの名人の視線を引き寄せていることなど、まだ知らないまま。
◇
数日後、御門家の夕食後。
凛々花が食器を下げ終えると、宗一郎が和室から声をかけた。
「凛々花」
「はい」
「今度、その天羽しおりという子が出る大会の日程が分かったら教えろ」
凛々花は足を止めた。
「……見に来るんですか」
「気が向けばな」
気が向けば、ではない。
祖父が本気で気になったときの言い回しだと、凛々花には分かる。
「どうしてですか」
問い返してから、自分でも少し子どもっぽいと思った。
だが聞かずにはいられなかった。
宗一郎は少しだけ考え、簡潔に答えた。
「お前をそこまで止める子なら、一度この目で見ておく価値がある」
凛々花は唇を噛んだ。
悔しい。
けれど、否定できない。
自分は止められている。
優勝へ伸ばした手を、何度も叩き落とされている。
相手は三つ年下。
それでも現実は変わらない。
「……はい」
「悔しいか」
「悔しいです」
「なら、次はもっと悔しがらせろ」
凛々花は顔を上げた。
祖父の目は厳しいが、責めてはいなかった。
むしろ、その向こうにあるのは期待だ。
「負けて終わるな。相手に、次は当たりたくないと思わせろ」
その言葉に、凛々花の胸の奥で何かが強く燃えた。
天羽しおり。
新聞に載るたびに、名前を見るたびに、心がざわつく相手。
目を背けたくなるのに、背けられない相手。
強くて、嫌で、追いつきたくて、負けたくない相手。
「……次は」
凛々花は小さく言った。
「次は、もっと苦しませます」
宗一郎はそれにだけ、静かに頷いた。
◇
夜。
天羽家では、しおりが一局を終えてタブレットを置いたところだった。
勝ち。
また勝ち。
画面の向こうでも、現実の大会でも、連勝は続いている。
だが、気は抜けない。
凛々花はまた強くなる。
知らないところで誰かが自分を見ているかもしれない。
新聞に載るほどに、ただの“強い子”ではいられなくなる。
しおりは窓の外の暗い空を見た。
それでもいい、と思った。
見られるなら、なおさら勝つだけだ。
期待されるなら、裏切らないだけだ。
そして誰かが興味を持つなら、盤上で後悔させるほどの将棋を指せばいい。
無敗はまだ続く。
快進撃も止まらない。
その先で、ついに名人の目が自分へ向いた。
知らぬ間に、盤は少しずつ大きくなっている。
しおりは小さく目を細めた。
面白い。
それなら、もっと強くなろう。
誰に見られても。
誰に測られても。
簡単には届かないところまで。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!