盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第十五話 名人と一分将棋

 その日の会場は、いつもより少しだけ空気が違った。

 

 しおりが父と母に挟まれて市民体育館へ入ったとき、すでにロビーにはざわめきが満ちていた。

 受付前に並ぶ子どもたちの声はいつもと同じようでいて、どこか落ち着かない。保護者たちも対局表より先に、壇上の脇や来賓席のほうを気にしている。

 

「今日はなんか、人多くない?」

 

 恒一が首を巡らせる。

 

「多いねえ。見学の人も多いのかな」

 

 真紀も少し背伸びして会場奥を見た。

 

 しおりはすぐに理由を悟った。

 

 壇上の前に、将棋連盟の関係者らしい大人たちが数人集まっている。

 その中心にいる老人を見た瞬間、空気の質が変わった。

 

 背筋が伸びている。

 派手さはない。

 けれど、そこにいるだけで場の重心がそちらへ寄る。

 

 御門宗一郎。

 

 現名人。

 そして、御門凛々花の祖父。

 

 しおりは思わず足を止めた。

 

(……来たんだ)

 

 前話までの流れから見れば不思議ではない。

 新聞に何度も同じ名前が載る。孫娘が勝ちきれず、そのたびに優勝欄には天羽しおり。しかも三つ年下。

 

 興味を持たないほうが難しい。

 

 とはいえ、こうして実際に目の前へ現れると、胸の内に走るものは別だった。

 

 前世で名人に相当する存在は、常に遠くて近かった。

 挑む相手であり、並ぶべき相手であり、ときに追い越すべき相手でもあった。

 

 だが今の自分は、まだ小学生の少女。

 ランドセルの跡が肩に残る年齢だ。

 

 その位置から見上げる現名人は、やはり大きい。

 

「しおり?」

 

 真紀が不思議そうに顔をのぞく。

 

「どうしたの?」

 

「……なんでもない」

 

 そう言いながらも、しおりの目は自然と別の方向へ向いた。

 

 少し離れたところに、御門凛々花がいた。

 今日も姿勢がいい。襟の整った白いブラウスに紺のスカート。緊張しているのだろうが、それを外へ漏らさない。

 

 そして凛々花の目もまた、しおりを見ていた。

 

 その視線にはいつもの対抗心に加えて、今日はもうひとつ別の色がある。

 祖父が見ている。

 名人が来ている。

 その事実が、凛々花の中でも確実に重さを持っているのだろう。

 

 しおりは小さく息を吐いた。

 

 面倒だ。

 けれど、悪くない。

 

 見られるなら、なおさら勝つだけだ。

 

 ◇

 

 開会式は予定通り始まった。

 

 司会の女性が挨拶をし、大会の趣旨が説明される。

 小学生以下の将棋文化振興、礼儀を大切にすること、勝っても負けても最後まできちんと一礼すること。そうした言葉が、整然と会場に響く。

 

 やがて来賓紹介になり、名人の名が告げられた瞬間、場のざわめきが一段階大きくなった。

 

 宗一郎はゆっくりと壇上へ上がった。

 

 拍手。

 子どもたちの憧れと、保護者たちの感心と、関係者の緊張が入り混じった音だった。

 

「本日は、このような立派な大会に呼んでいただき、ありがとうございます」

 

 宗一郎の声は低く、無駄がなかった。

 よく通るのに、大げさではない。

 

「将棋は、勝ち負けだけのものではありません。考えること、相手を尊重すること、自分の弱さと向き合うこと。その全部が将棋の中にあります」

 

 会場が静まる。

 

「ただし」

 

 そこで宗一郎は、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「勝ちたいと思う気持ちは、とても大事です。今日ここに来た皆さんも、負けるつもりで来た人はいないでしょう。どうか最後まで、自分の一手を信じて指してください」

 

 短い挨拶だった。

 けれど、その一言一言には盤上で積み上げてきた年月の重みがあった。

 

 しおりは下からその姿を見上げながら、胸の奥に微かな熱を感じていた。

 

 強い人間の言葉だ。

 

 甘やかさない。

 だが、子ども扱いもしない。

 勝ちたい気持ちを真正面から認め、その代わり自分の一手に責任を持てと言っている。

 

 好きな種類の言葉だった。

 

 壇上から降りる直前、宗一郎の視線が一度だけ客席を流れた。

 その目が自分の上を通ったような気がして、しおりはほんの少しだけ背筋を伸ばした。

 

 ◇

 

 大会は予定通り進行した。

 

 そして、しおりもまた予定通り勝ち進んだ。

 

 一回戦。

 相手は四年生の男子。序盤から勢いのある攻め将棋で、しおりの囲いが薄いところを遠慮なく突いてきた。会場に名人がいるからか、普段以上に踏み込みがいい。

 

 しおりは受ける。

 受けて、受けて、最後に切り返す。

 

 相手は明らかに良い局面を作っていた。

 観戦していた保護者の何人かは、年下の少女がここで止まるかもしれないと思っただろう。

 だがしおりは終盤、盤の端に残っていた一枚の歩の利きを軸に局面をひっくり返した。

 

 勝ち。

 

 二回戦。

 五年生の女の子。凛々花ほどではないが、手がきれいで、辛抱強い。しおりの急所を外させるような指し回しをしてくる。長くなれば年上有利、体力でも不利になる。

 

 しおりは途中、本気で嫌になった。

 手堅い相手は面倒だ。

 こちらが苦しくなる瞬間を待って、ちゃんとその一点を押してくる。

 

 だが負けない。

 

 終盤、相手が安全勝ちを狙って少しだけ緩んだ瞬間を逃さず、しおりは自玉の薄さを承知で寄せ合いに出た。

 一手違いで勝ち。

 

 三回戦。

 六年生。大きな手。落ち着いた目。まるで「名人の前で醜い将棋は見せられない」とでも言うように、静かで強かった。

 

 しおりは中盤で一度敗勢に沈んだ。

 駒の働きが悪い。

 相手の攻め筋は通っている。

 こちらが最善を尽くしても、普通なら届かない。

 

 でも、そこで終わらないのが天羽しおりだった。

 

 詰まないなら、詰まない形を作る。

 守れないなら、相手に決め手を与えない。

 そして相手の読みを一手だけ曇らせる。

 

 小学生の一局とは思えないほど細い綱の上を、しおりは今日も渡り切った。

 

 勝ち。

 

 当然のように、決勝の席には御門凛々花が座っていた。

 

 ◇

 

「またですね」

 

 凛々花の声は、いつもより少し硬かった。

 

「まただね」

 

 しおりも座る。

 

 今日は祖父が見ている。

 名人が、自分たちを見ている。

 

 その事実は盤の外にあるはずなのに、確実に盤上の空気まで重くしていた。

 

「おじいさまの前で勝ちたい?」

 

 しおりが小さく言うと、凛々花の目が細くなる。

 

「……勝ちたいです」

 

「そっか」

 

「天羽さんは」

 

「わたしも勝ちたいよ」

 

 凛々花は一瞬だけ驚いた顔をした。

 たぶん、しおりがもっと飄々としていると思っていたのだろう。

 

 だが違う。

 

 見られる勝負は嫌いではない。

 むしろ、心の奥では少し燃える。

 

「お願いします」

 

「お願いします」

 

 決勝戦は、最初から激しかった。

 

 凛々花はこれまでで一番仕上げてきていた。

 祖父が見ているからこそ、雑な攻めではなく、きちんとしおりの嫌がる場所を選んでくる。速さだけではない。厚みもある。

 

 しおりは中盤で、その成長をはっきり感じた。

 

(強い)

 

 やっぱりこの子は強い。

 何度負けても、負け方を持ち帰って変えてくる。

 

 今日の凛々花は、自分が受けに回ると見せてから急に踏み込み、しおりに「守るか、反撃するか」の二択を迫ってきた。

 どちらも簡単ではない。

 守れば押し潰される。

 反撃すれば玉が薄い。

 

 見物していた子どもたちが息を呑む。

 

 祖父の前で勝ちたい凛々花。

 名人に見られてもなお、負けないしおり。

 

 二人の将棋は、もはやこの大会の他の卓とは温度が違った。

 

 しおりは受けた。

 だが、ただ受けたのではない。

 凛々花の攻めが最も自然に見える順を一手だけ歪ませ、その歪みを終盤の寄せ合いで使うために溜める。

 

 凛々花はさらに踏み込んできた。

 勝ち筋が見えていたのだろう。

 いや、見えて当然の局面だった。

 

 しおりの背中を冷たい汗が伝う。

 

(でも)

 

 でも、まだ死んでいない。

 

 しおりは盤上の一点だけを見た。

 相手玉の周りにある、ほんのわずかなほころび。

 凛々花自身は安全だと思っているはずの場所。

 そこへ届く筋を、数手前からずっと読んでいた。

 

 細い。

 苦しい。

 けれど繋がる。

 

 しおりがその手を置いた瞬間、凛々花の瞳が揺れた。

 

 宗一郎も、来賓席でわずかに姿勢を変えた。

 

 そこから先は、一手一手が刃だった。

 

 凛々花は粘る。

 必死に最善を探す。

 しおりもまた、ほんの少しでも鈍れば自分が負けると分かっている。

 

 最後、凛々花の玉に受けがなくなったとき、ようやく勝負は終わった。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

「ありがとうございました」

 

 拍手が起きる。

 ざわめきが広がる。

 また天羽しおり。

 また無敗。

 また優勝。

 

 しおりは礼をしながら、胸の鼓動がまだ速いことを自覚していた。

 

 危なかった。

 いつも通り、今日も危なかった。

 

 けれど負けない。

 

 竜王に挑むその日まで、自分は負けないのだから。

 

 ◇

 

 表彰式の空気は、優勝者が決まった直後の熱に満ちていた。

 

 壇上の脇ではスタッフが慌ただしくトロフィーを整え、司会が次の案内を読み上げている。保護者たちは拍手を送りながらも、どこか誇らしげに、あるいは悔しげに、自分の子どもの表情を見つめていた。

 

 優勝、天羽しおり。

 

 その名前が呼ばれたとき、会場にはもう驚きよりも納得の気配が広がっていた。

 また彼女だ。

 また無敗だ。

 また最後に勝ったのは、あの小さな一年生だった。

 

 しおりは壇上へ向かいながら、その「また」という空気を背中で感じていた。

 

 嬉しくないわけではない。

 けれど、好きでもない。

 

 毎回ぎりぎりだ。

 毎回、盤上では死にかけている。

 凛々花との決勝だって、ほんの一手、ほんの半手、ほんのわずかな精度の差でしかない。

 

 なのに外から見えるのは、優勝という結果だけだ。

 

 しおりは小さな靴音を鳴らしながら、名人の前に立った。

 

 御門宗一郎は、静かな目でこちらを見下ろしていた。

 老いている、という印象はない。

 積み重なった年月がそのまま人の形を取ったような、重く、揺らがない気配がある。

 

「おめでとう」

 

 低い声だった。

 

「ありがとうございます」

 

 トロフィーを受け取る。

 小さな体には少し重い。けれど、その重みが嫌ではなかった。

 

 そのときだった。

 

 宗一郎が、トロフィーから手を離さないまま、しおりの目を見た。

 

「天羽しおりさん」

 

「はい」

 

「ひとつ、提案がある」

 

 会場のざわめきが、すっと細くなる。

 

 司会も、スタッフも、保護者たちも、みな次の言葉を待った。

 凛々花もまた、準優勝の盾を抱えたまま、祖父としおりをじっと見ている。

 

「このあと、私と一局指してみないか」

 

 一瞬、誰も反応できなかった。

 

 それほど唐突で、それほどありえない申し出だった。

 

 次の瞬間、あちこちで息を呑む音が上がる。

 

「えっ……」 「名人と?」 「ほんとに?」

 

 子どもたちは露骨にざわめき、保護者たちは驚きと遠慮の入り混じった顔で壇上を見る。

 恒一は客席で口を半開きにし、真紀は一歩前へ出かけて止まった。

 

 しおり自身も、胸の奥が強く鳴るのを感じていた。

 

 名人と。

 

 この場で。

 

 宗一郎は続けた。

 

「ただし、そのままでは私が有利すぎる。条件をつけよう」

 

 宗一郎の目は穏やかだったが、声音は冗談ではなかった。

 

「私は一手一分。こちらの手番で一分を過ぎたら、その時点で君の勝ちでいい」

 

 ざわめきがさらに大きくなる。

 

 一分将棋。

 ただの余興ではない。

 しかも“考えすぎたら負け”という明快な変則ルール。

 

 しおりはトロフィーを抱えたまま、宗一郎の顔を見上げた。

 

 試されている。

 

 小学生優勝者として愛嬌を見られているのではない。

 棋士として値踏みされているわけでもない。

 もっと剥き出しに、盤上の一個人として、どこまで食らいつけるかを見られている。

 

「どうだ」

 

 しおりの返事は早かった。

 

「やります」

 

 即答だった。

 

 真紀が「しおり」と小さく声を上げ、恒一が完全に硬直する。

 けれど、もう遅い。

 

 断る理由なんて、どこにもなかった。

 

 ◇

 

 特別対局の卓は、表彰式のあと急いで整えられた。

 

 会場中央の一番見やすい場所。

 もともと決勝で使われていた卓をそのまま流用し、周囲に人垣ができる。

 子どもたちは背伸びをし、保護者たちはスマートフォンを構えかけてスタッフに慌てて注意され、連盟関係者たちは苦笑しながらも明らかに興奮していた。

 

 御門凛々花は、最前列に座っていた。

 祖父の斜め後ろ、盤面がよく見える位置。

 その表情は硬い。だが目だけはひどく冴えている。

 

 しおりは向かい合って座る前に、トロフィーを母へ預けた。

 

「がんばって」

 

 真紀の声は少し震えていた。

 

「うん」

 

「無理しなくていいからな」

 

 恒一が言う。

 けれど、その声に無理があるのは明らかだった。無理しなくていい相手ではないし、無理しないで済む勝負でもない。

 

 しおりは何も返さず、卓へ向かった。

 

 向かいに座る。

 

 宗一郎は盤の前で、すでに空気を変えていた。

 

 子ども相手の余興ではない。

 ほんの少しでも侮るつもりがないことが、座っただけで分かる。

 

 駒を並べる。

 木の触れ合う音が妙に澄んで聞こえた。

 

「条件は確認したな」

 

 宗一郎が言う。

 

「はい」

 

「私は一手一分。過ぎれば負け。君の時間は問わない」

 

「はい」

 

「ただし」

 

 そこで宗一郎の口元が、ごくわずかに動いた。

 

「こちらも、簡単には負けるつもりはない」

 

 しおりはその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「わたしも」

 

 宗一郎の目が、わずかに細くなった。

 

「そうか」

 

「お願いします」

 

「お願いします」

 

 対局が始まった。

 

 ◇

 

 最初の十手で、しおりは理解した。

 

 強い。

 

 そんな当たり前の一言では足りないほど、強い。

 

 一分という制約があるのに、宗一郎の手は淀まない。

 速いだけではない。

 一手一手が自然で、重く、意味を持ってこちらへ落ちてくる。

 

 受けられているようで、受けになっていない。

 さばいたつもりの駒が、次の瞬間には働きを失っている。

 盤面の広いところで指しているはずなのに、気がつけば自分の呼吸だけが詰まっていく。

 

(……これが、名人)

 

 前世でも頂点の将棋は知っている。

 だがそれでも、いま目の前にいる宗一郎の将棋には、別種の息苦しさがあった。

 

 盤面に無駄がない。

 駒が前に出るたび、意味のない前進がひとつもない。

 威圧するような手ではないのに、こちらの選択肢だけが着実に減っていく。

 

 しおりは中盤へ入る前に、早くも二度、自分の読みの甘さを噛みしめることになった。

 

 一度目は、駒組みの段階での遅れ。

 安全に整えたつもりの一手が、宗一郎には“将来を狭める一手”に見えていたらしい。数手後にはその差がじわりと現れた。

 

 二度目は、中盤の入り口での見落とし。

 こちらから小さく仕掛けて局面を動かしたかったのに、その筋はすでに先回りされていた。動けば損をする。動かなければじりじり悪くなる。

 

(嫌だ)

 

 しおりは無意識に唇を噛んだ。

 

 こういう将棋は嫌いだ。

 はっきりと斬り合いになるなら、まだ読みようがある。

 だが宗一郎の指し回しは、相手に「どこで苦しくなったのか」を曖昧にしたまま、いつの間にか首を絞めてくる。

 

 子ども相手にそんな将棋をするな、と言う者がいるかもしれない。

 けれど、しおりにとってはむしろありがたかった。

 

 容赦がない。

 だからこそ、本物だ。

 

 ◇

 

 会場にいた大人たちの多くは、盤面の細部までは分からなかった。

 だが空気だけは理解できる。

 

 名人が押している。

 

 小さな優勝者はよく食らいついている。

 けれど、局面の重心はじわじわと宗一郎側へ傾いている。

 

 凛々花はそれを、祖父の手元だけを見て察していた。

 

(おじいさまが、ちゃんと本気で指してる)

 

 祖父は優しい人ではある。

 だが、盤上で“手加減の形”を作ることを嫌う人でもある。

 やるならやる。

 指すなら指す。

 相手が子どもであれ、大人であれ、それ自体は変わらない。

 

 その祖父が、しおりに対して一切の遠慮なく、勝ちにいっている。

 

 それだけでも凛々花には驚きだった。

 

 そしてもうひとつ、もっと驚くべきことがあった。

 

 しおりが、崩れない。

 

 苦しいはずだ。

 盤面は悪い。

 押されている。

 凛々花が同じ形を受けていたら、たぶんもっと早い段階で顔に出る。焦りか、悔しさか、怒りか。どれかがにじむ。

 

 だがしおりは違う。

 

 小さな体のまま盤の前に座り、目だけを異様なほど静かにしている。

 怖がっていないわけではない。

 けれど、怖さを飲み込んだ先で、まだ何かを探している顔だ。

 

 凛々花はその横顔を見て、ぞくりとした。

 

(まただ)

 

 いつもそうだ。

 

 負けそうな局面になったときのしおりは、むしろそこから先が怖い。

 絶体絶命になればなるほど、普通なら選ばないような一手を持ち出してくる。

 細く、危うく、でも繋がる手を。

 

 ◇

 

 宗一郎もまた、盤面の向こうにいる少女の変化を感じ取っていた。

 

 ここまでの流れだけなら、自分が優勢だ。

 一分という制約はあるが、まだ深刻な時間難に陥るほどではない。

 候補手は整理できているし、盤面もこちらが主導権を持っている。

 

 だが。

 

 向かいの少女が、消えない。

 

 普通なら、ここで少し縮む。

 手が遅れる。

 視線が泳ぐ。

 あるいは表情が固まり、子どもらしく「負けたくない」が前に出る。

 

 天羽しおりには、それがない。

 

 いや、正確にはある。

 あるのに、それをさらに奥へ押し込んで、別のものを前に出している。

 

 気迫。

 

 子どもとは思えない、という月並みな言い方を宗一郎は好まない。

 しかしいま、盤越しに感じているものには、確かにそれ以外の表現が見当たらなかった。

 

 この少女は、ただ負けたくないのではない。

 勝ち筋を探すために、自分の恐怖ごと使っている。

 

 それは年齢相応の勝負勘ではない。

 修羅場を知っている者の顔だ。

 

(面白い)

 

 宗一郎は心の中で静かに思った。

 

 そして同時に、ほんの少しだけ警戒を強めた。

 

 こういう相手は、盤面が悪くなってからが本番だ。

 

 ◇

 

 局面がはっきりと苦しくなったのは、宗一郎の一手がしおりの陣形の急所に刺さったときだった。

 

 ぱち。

 

 乾いた音が、妙に大きく響く。

 

 しおりはその瞬間、指先から熱が引くのを感じた。

 

(……まずい)

 

 分かる。

 誰に説明されるまでもなく分かる。

 ここで形勢が大きく傾いた。

 

 こちらの要の駒が働きづらい。

 相手の攻めはまだ露骨ではないが、次の数手で確実に圧力が増す。

 こちらから強く動こうにも、先に自玉が危なくなる。

 

 しかも嫌なことに、この不利は単純な駒損ではない。

 見た目はまだ壊れていない。

 だから周囲には「まだ分からない」に見えるかもしれない。

 だが読む者には分かる。じわじわと詰められている。

 

 宗一郎の番が終わり、会場が静まった。

 

 しおりの手番。

 

 初めて、しおりの手がすぐには動かなかった。

 

 その沈黙に、周囲のざわめきも消えていく。

 誰もが息を殺した。

 

 長考。

 

 もちろん、変則ルールで時間制限があるのは宗一郎だけだ。

 しおりはいくらでも考えていい。

 けれど、それでもこの静けさは異様だった。

 

 小学生の少女が、盤上で完全に立ち止まっている。

 悩んでいるのではない。

 潜っている。

 

 しおりの頭の中で、盤が何枚も重なった。

 

 この手ならじり貧。

 この手は見た目だけの抵抗。

 この筋は先に潰される。

 受けるだけでは終わる。

 攻めるだけでも届かない。

 

 なら、どこだ。

 

 勝つための道筋は、どこにある。

 

 目の前の盤だけでは足りない。

 数手先でも足りない。

 宗一郎の読みの外へ、一度でも出なければ勝ちはない。

 

 しおりは息を殺した。

 

 幼い体が、まるで盤と一体化したように動かない。

 

 脳裏に浮かぶのは、前世の敗北だった。

 時代に置いていかれた感覚。

 自分では最善を尽くしているつもりで、実はもっと先の正解に届いていなかったあの日々。

 

 嫌だ。

 

 ここでまた、ただ力の差を見せつけられて終わるのは嫌だ。

 

 もちろん相手は名人だ。

 変則とはいえ、向こうが圧倒的に格上だ。

 負けても誰も責めない。

 むしろ「よく頑張った」で終わるだろう。

 

 だから嫌だった。

 

 そんな綺麗な負け方で納得したくない。

 

(あるはずだ)

 

 しおりは心の中で言い聞かせる。

 

(ある。どこかに。一本だけでもいい。細くてもいい。繋がる道が)

 

 盤面を分解する。

 駒の利きをほどく。

 自玉の危険度を数え直す。

 相手玉の薄みを探る。

 すぐに効く手ではなく、相手の思考を増やす手。

 一分を削る手。

 勝勢を安全にまとめたい相手に、あえて面倒を押しつける手。

 

 会場の誰も声を出さない。

 

 凛々花はその横顔を見つめ、唇を引き結んだ。

 

 祖父の盤面で不利になっているのに、しおりは泣きそうな顔ひとつしない。

 その代わり、全身から立ち上るものがある。

 

 圧。

 

 小さな体なのに、盤を挟んで向かい合う者へ「まだ終わっていない」と言い切る圧。

 

 宗一郎もそれを感じていた。

 

 目の前の少女は、いま必死に勝ち筋を探している。

 それだけなら珍しくない。

 だがその集中の密度が異常だった。

 

 静かなのに、鋭い。

 怯えているのに、退かない。

 追い込まれているのに、目だけが死なない。

 

 宗一郎は、ほんのわずかに息を吐いた。

 

(この気迫……)

 

 孫娘の凛々花にも強さはある。

 何度負けても立ち向かう根もある。

 だが、盤上でここまで“不利そのものを食べて前へ出る”ような気配は、まだ持っていない。

 

 天羽しおりは別だ。

 

 負けそうなときほど、内側の何かが研ぎ澄まされていく。

 

 この子は、本当に小学生なのか。

 

 そんな馬鹿げた疑問が、一瞬だけ宗一郎の脳裏をかすめた。

 

 もちろん、そんなはずはない。

 目の前にいるのは間違いなく小さな少女だ。

 声も、手も、背丈も、何もかも子どもだ。

 

 だが盤の前に座った瞬間だけ、その内側に別の年輪が見える。

 

 しおりはまだ動かない。

 

 考えている。

 読みを潜っている。

 負け筋を見ながら、そのさらに奥にある細い光を探している。

 

 ようやく、しおりの指先がひとつの駒に触れた。

 

 その動きに、会場中の視線が吸い寄せられる。

 

 宗一郎の目もまた、その細い指先を追った。

 

 しおりは盤を見つめたまま、心の中で静かに言った。

 

(見つけた)

 

 それが正しいかどうかは、まだ分からない。

 ただ、勝つために進むなら、もうこの道しかない。

 

 小さな指が、駒を持ち上げる。

 

 その瞬間、宗一郎は確かに感じた。

 

 この少女は、ここから勝ちに来る。

 

 不利を悟ってなお、なお真正面から、名人の喉元へ手を伸ばしに来る。

 

 子どもとは思えない気迫だった。

 

 しおりの駒が、静かに盤へ下ろされる――。




### あとがき



ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。



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それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。

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