その日の会場は、いつもより少しだけ空気が違った。
しおりが父と母に挟まれて市民体育館へ入ったとき、すでにロビーにはざわめきが満ちていた。
受付前に並ぶ子どもたちの声はいつもと同じようでいて、どこか落ち着かない。保護者たちも対局表より先に、壇上の脇や来賓席のほうを気にしている。
「今日はなんか、人多くない?」
恒一が首を巡らせる。
「多いねえ。見学の人も多いのかな」
真紀も少し背伸びして会場奥を見た。
しおりはすぐに理由を悟った。
壇上の前に、将棋連盟の関係者らしい大人たちが数人集まっている。
その中心にいる老人を見た瞬間、空気の質が変わった。
背筋が伸びている。
派手さはない。
けれど、そこにいるだけで場の重心がそちらへ寄る。
御門宗一郎。
現名人。
そして、御門凛々花の祖父。
しおりは思わず足を止めた。
(……来たんだ)
前話までの流れから見れば不思議ではない。
新聞に何度も同じ名前が載る。孫娘が勝ちきれず、そのたびに優勝欄には天羽しおり。しかも三つ年下。
興味を持たないほうが難しい。
とはいえ、こうして実際に目の前へ現れると、胸の内に走るものは別だった。
前世で名人に相当する存在は、常に遠くて近かった。
挑む相手であり、並ぶべき相手であり、ときに追い越すべき相手でもあった。
だが今の自分は、まだ小学生の少女。
ランドセルの跡が肩に残る年齢だ。
その位置から見上げる現名人は、やはり大きい。
「しおり?」
真紀が不思議そうに顔をのぞく。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
そう言いながらも、しおりの目は自然と別の方向へ向いた。
少し離れたところに、御門凛々花がいた。
今日も姿勢がいい。襟の整った白いブラウスに紺のスカート。緊張しているのだろうが、それを外へ漏らさない。
そして凛々花の目もまた、しおりを見ていた。
その視線にはいつもの対抗心に加えて、今日はもうひとつ別の色がある。
祖父が見ている。
名人が来ている。
その事実が、凛々花の中でも確実に重さを持っているのだろう。
しおりは小さく息を吐いた。
面倒だ。
けれど、悪くない。
見られるなら、なおさら勝つだけだ。
◇
開会式は予定通り始まった。
司会の女性が挨拶をし、大会の趣旨が説明される。
小学生以下の将棋文化振興、礼儀を大切にすること、勝っても負けても最後まできちんと一礼すること。そうした言葉が、整然と会場に響く。
やがて来賓紹介になり、名人の名が告げられた瞬間、場のざわめきが一段階大きくなった。
宗一郎はゆっくりと壇上へ上がった。
拍手。
子どもたちの憧れと、保護者たちの感心と、関係者の緊張が入り混じった音だった。
「本日は、このような立派な大会に呼んでいただき、ありがとうございます」
宗一郎の声は低く、無駄がなかった。
よく通るのに、大げさではない。
「将棋は、勝ち負けだけのものではありません。考えること、相手を尊重すること、自分の弱さと向き合うこと。その全部が将棋の中にあります」
会場が静まる。
「ただし」
そこで宗一郎は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「勝ちたいと思う気持ちは、とても大事です。今日ここに来た皆さんも、負けるつもりで来た人はいないでしょう。どうか最後まで、自分の一手を信じて指してください」
短い挨拶だった。
けれど、その一言一言には盤上で積み上げてきた年月の重みがあった。
しおりは下からその姿を見上げながら、胸の奥に微かな熱を感じていた。
強い人間の言葉だ。
甘やかさない。
だが、子ども扱いもしない。
勝ちたい気持ちを真正面から認め、その代わり自分の一手に責任を持てと言っている。
好きな種類の言葉だった。
壇上から降りる直前、宗一郎の視線が一度だけ客席を流れた。
その目が自分の上を通ったような気がして、しおりはほんの少しだけ背筋を伸ばした。
◇
大会は予定通り進行した。
そして、しおりもまた予定通り勝ち進んだ。
一回戦。
相手は四年生の男子。序盤から勢いのある攻め将棋で、しおりの囲いが薄いところを遠慮なく突いてきた。会場に名人がいるからか、普段以上に踏み込みがいい。
しおりは受ける。
受けて、受けて、最後に切り返す。
相手は明らかに良い局面を作っていた。
観戦していた保護者の何人かは、年下の少女がここで止まるかもしれないと思っただろう。
だがしおりは終盤、盤の端に残っていた一枚の歩の利きを軸に局面をひっくり返した。
勝ち。
二回戦。
五年生の女の子。凛々花ほどではないが、手がきれいで、辛抱強い。しおりの急所を外させるような指し回しをしてくる。長くなれば年上有利、体力でも不利になる。
しおりは途中、本気で嫌になった。
手堅い相手は面倒だ。
こちらが苦しくなる瞬間を待って、ちゃんとその一点を押してくる。
だが負けない。
終盤、相手が安全勝ちを狙って少しだけ緩んだ瞬間を逃さず、しおりは自玉の薄さを承知で寄せ合いに出た。
一手違いで勝ち。
三回戦。
六年生。大きな手。落ち着いた目。まるで「名人の前で醜い将棋は見せられない」とでも言うように、静かで強かった。
しおりは中盤で一度敗勢に沈んだ。
駒の働きが悪い。
相手の攻め筋は通っている。
こちらが最善を尽くしても、普通なら届かない。
でも、そこで終わらないのが天羽しおりだった。
詰まないなら、詰まない形を作る。
守れないなら、相手に決め手を与えない。
そして相手の読みを一手だけ曇らせる。
小学生の一局とは思えないほど細い綱の上を、しおりは今日も渡り切った。
勝ち。
当然のように、決勝の席には御門凛々花が座っていた。
◇
「またですね」
凛々花の声は、いつもより少し硬かった。
「まただね」
しおりも座る。
今日は祖父が見ている。
名人が、自分たちを見ている。
その事実は盤の外にあるはずなのに、確実に盤上の空気まで重くしていた。
「おじいさまの前で勝ちたい?」
しおりが小さく言うと、凛々花の目が細くなる。
「……勝ちたいです」
「そっか」
「天羽さんは」
「わたしも勝ちたいよ」
凛々花は一瞬だけ驚いた顔をした。
たぶん、しおりがもっと飄々としていると思っていたのだろう。
だが違う。
見られる勝負は嫌いではない。
むしろ、心の奥では少し燃える。
「お願いします」
「お願いします」
決勝戦は、最初から激しかった。
凛々花はこれまでで一番仕上げてきていた。
祖父が見ているからこそ、雑な攻めではなく、きちんとしおりの嫌がる場所を選んでくる。速さだけではない。厚みもある。
しおりは中盤で、その成長をはっきり感じた。
(強い)
やっぱりこの子は強い。
何度負けても、負け方を持ち帰って変えてくる。
今日の凛々花は、自分が受けに回ると見せてから急に踏み込み、しおりに「守るか、反撃するか」の二択を迫ってきた。
どちらも簡単ではない。
守れば押し潰される。
反撃すれば玉が薄い。
見物していた子どもたちが息を呑む。
祖父の前で勝ちたい凛々花。
名人に見られてもなお、負けないしおり。
二人の将棋は、もはやこの大会の他の卓とは温度が違った。
しおりは受けた。
だが、ただ受けたのではない。
凛々花の攻めが最も自然に見える順を一手だけ歪ませ、その歪みを終盤の寄せ合いで使うために溜める。
凛々花はさらに踏み込んできた。
勝ち筋が見えていたのだろう。
いや、見えて当然の局面だった。
しおりの背中を冷たい汗が伝う。
(でも)
でも、まだ死んでいない。
しおりは盤上の一点だけを見た。
相手玉の周りにある、ほんのわずかなほころび。
凛々花自身は安全だと思っているはずの場所。
そこへ届く筋を、数手前からずっと読んでいた。
細い。
苦しい。
けれど繋がる。
しおりがその手を置いた瞬間、凛々花の瞳が揺れた。
宗一郎も、来賓席でわずかに姿勢を変えた。
そこから先は、一手一手が刃だった。
凛々花は粘る。
必死に最善を探す。
しおりもまた、ほんの少しでも鈍れば自分が負けると分かっている。
最後、凛々花の玉に受けがなくなったとき、ようやく勝負は終わった。
「……負けました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
拍手が起きる。
ざわめきが広がる。
また天羽しおり。
また無敗。
また優勝。
しおりは礼をしながら、胸の鼓動がまだ速いことを自覚していた。
危なかった。
いつも通り、今日も危なかった。
けれど負けない。
竜王に挑むその日まで、自分は負けないのだから。
◇
表彰式の空気は、優勝者が決まった直後の熱に満ちていた。
壇上の脇ではスタッフが慌ただしくトロフィーを整え、司会が次の案内を読み上げている。保護者たちは拍手を送りながらも、どこか誇らしげに、あるいは悔しげに、自分の子どもの表情を見つめていた。
優勝、天羽しおり。
その名前が呼ばれたとき、会場にはもう驚きよりも納得の気配が広がっていた。
また彼女だ。
また無敗だ。
また最後に勝ったのは、あの小さな一年生だった。
しおりは壇上へ向かいながら、その「また」という空気を背中で感じていた。
嬉しくないわけではない。
けれど、好きでもない。
毎回ぎりぎりだ。
毎回、盤上では死にかけている。
凛々花との決勝だって、ほんの一手、ほんの半手、ほんのわずかな精度の差でしかない。
なのに外から見えるのは、優勝という結果だけだ。
しおりは小さな靴音を鳴らしながら、名人の前に立った。
御門宗一郎は、静かな目でこちらを見下ろしていた。
老いている、という印象はない。
積み重なった年月がそのまま人の形を取ったような、重く、揺らがない気配がある。
「おめでとう」
低い声だった。
「ありがとうございます」
トロフィーを受け取る。
小さな体には少し重い。けれど、その重みが嫌ではなかった。
そのときだった。
宗一郎が、トロフィーから手を離さないまま、しおりの目を見た。
「天羽しおりさん」
「はい」
「ひとつ、提案がある」
会場のざわめきが、すっと細くなる。
司会も、スタッフも、保護者たちも、みな次の言葉を待った。
凛々花もまた、準優勝の盾を抱えたまま、祖父としおりをじっと見ている。
「このあと、私と一局指してみないか」
一瞬、誰も反応できなかった。
それほど唐突で、それほどありえない申し出だった。
次の瞬間、あちこちで息を呑む音が上がる。
「えっ……」 「名人と?」 「ほんとに?」
子どもたちは露骨にざわめき、保護者たちは驚きと遠慮の入り混じった顔で壇上を見る。
恒一は客席で口を半開きにし、真紀は一歩前へ出かけて止まった。
しおり自身も、胸の奥が強く鳴るのを感じていた。
名人と。
この場で。
宗一郎は続けた。
「ただし、そのままでは私が有利すぎる。条件をつけよう」
宗一郎の目は穏やかだったが、声音は冗談ではなかった。
「私は一手一分。こちらの手番で一分を過ぎたら、その時点で君の勝ちでいい」
ざわめきがさらに大きくなる。
一分将棋。
ただの余興ではない。
しかも“考えすぎたら負け”という明快な変則ルール。
しおりはトロフィーを抱えたまま、宗一郎の顔を見上げた。
試されている。
小学生優勝者として愛嬌を見られているのではない。
棋士として値踏みされているわけでもない。
もっと剥き出しに、盤上の一個人として、どこまで食らいつけるかを見られている。
「どうだ」
しおりの返事は早かった。
「やります」
即答だった。
真紀が「しおり」と小さく声を上げ、恒一が完全に硬直する。
けれど、もう遅い。
断る理由なんて、どこにもなかった。
◇
特別対局の卓は、表彰式のあと急いで整えられた。
会場中央の一番見やすい場所。
もともと決勝で使われていた卓をそのまま流用し、周囲に人垣ができる。
子どもたちは背伸びをし、保護者たちはスマートフォンを構えかけてスタッフに慌てて注意され、連盟関係者たちは苦笑しながらも明らかに興奮していた。
御門凛々花は、最前列に座っていた。
祖父の斜め後ろ、盤面がよく見える位置。
その表情は硬い。だが目だけはひどく冴えている。
しおりは向かい合って座る前に、トロフィーを母へ預けた。
「がんばって」
真紀の声は少し震えていた。
「うん」
「無理しなくていいからな」
恒一が言う。
けれど、その声に無理があるのは明らかだった。無理しなくていい相手ではないし、無理しないで済む勝負でもない。
しおりは何も返さず、卓へ向かった。
向かいに座る。
宗一郎は盤の前で、すでに空気を変えていた。
子ども相手の余興ではない。
ほんの少しでも侮るつもりがないことが、座っただけで分かる。
駒を並べる。
木の触れ合う音が妙に澄んで聞こえた。
「条件は確認したな」
宗一郎が言う。
「はい」
「私は一手一分。過ぎれば負け。君の時間は問わない」
「はい」
「ただし」
そこで宗一郎の口元が、ごくわずかに動いた。
「こちらも、簡単には負けるつもりはない」
しおりはその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「わたしも」
宗一郎の目が、わずかに細くなった。
「そうか」
「お願いします」
「お願いします」
対局が始まった。
◇
最初の十手で、しおりは理解した。
強い。
そんな当たり前の一言では足りないほど、強い。
一分という制約があるのに、宗一郎の手は淀まない。
速いだけではない。
一手一手が自然で、重く、意味を持ってこちらへ落ちてくる。
受けられているようで、受けになっていない。
さばいたつもりの駒が、次の瞬間には働きを失っている。
盤面の広いところで指しているはずなのに、気がつけば自分の呼吸だけが詰まっていく。
(……これが、名人)
前世でも頂点の将棋は知っている。
だがそれでも、いま目の前にいる宗一郎の将棋には、別種の息苦しさがあった。
盤面に無駄がない。
駒が前に出るたび、意味のない前進がひとつもない。
威圧するような手ではないのに、こちらの選択肢だけが着実に減っていく。
しおりは中盤へ入る前に、早くも二度、自分の読みの甘さを噛みしめることになった。
一度目は、駒組みの段階での遅れ。
安全に整えたつもりの一手が、宗一郎には“将来を狭める一手”に見えていたらしい。数手後にはその差がじわりと現れた。
二度目は、中盤の入り口での見落とし。
こちらから小さく仕掛けて局面を動かしたかったのに、その筋はすでに先回りされていた。動けば損をする。動かなければじりじり悪くなる。
(嫌だ)
しおりは無意識に唇を噛んだ。
こういう将棋は嫌いだ。
はっきりと斬り合いになるなら、まだ読みようがある。
だが宗一郎の指し回しは、相手に「どこで苦しくなったのか」を曖昧にしたまま、いつの間にか首を絞めてくる。
子ども相手にそんな将棋をするな、と言う者がいるかもしれない。
けれど、しおりにとってはむしろありがたかった。
容赦がない。
だからこそ、本物だ。
◇
会場にいた大人たちの多くは、盤面の細部までは分からなかった。
だが空気だけは理解できる。
名人が押している。
小さな優勝者はよく食らいついている。
けれど、局面の重心はじわじわと宗一郎側へ傾いている。
凛々花はそれを、祖父の手元だけを見て察していた。
(おじいさまが、ちゃんと本気で指してる)
祖父は優しい人ではある。
だが、盤上で“手加減の形”を作ることを嫌う人でもある。
やるならやる。
指すなら指す。
相手が子どもであれ、大人であれ、それ自体は変わらない。
その祖父が、しおりに対して一切の遠慮なく、勝ちにいっている。
それだけでも凛々花には驚きだった。
そしてもうひとつ、もっと驚くべきことがあった。
しおりが、崩れない。
苦しいはずだ。
盤面は悪い。
押されている。
凛々花が同じ形を受けていたら、たぶんもっと早い段階で顔に出る。焦りか、悔しさか、怒りか。どれかがにじむ。
だがしおりは違う。
小さな体のまま盤の前に座り、目だけを異様なほど静かにしている。
怖がっていないわけではない。
けれど、怖さを飲み込んだ先で、まだ何かを探している顔だ。
凛々花はその横顔を見て、ぞくりとした。
(まただ)
いつもそうだ。
負けそうな局面になったときのしおりは、むしろそこから先が怖い。
絶体絶命になればなるほど、普通なら選ばないような一手を持ち出してくる。
細く、危うく、でも繋がる手を。
◇
宗一郎もまた、盤面の向こうにいる少女の変化を感じ取っていた。
ここまでの流れだけなら、自分が優勢だ。
一分という制約はあるが、まだ深刻な時間難に陥るほどではない。
候補手は整理できているし、盤面もこちらが主導権を持っている。
だが。
向かいの少女が、消えない。
普通なら、ここで少し縮む。
手が遅れる。
視線が泳ぐ。
あるいは表情が固まり、子どもらしく「負けたくない」が前に出る。
天羽しおりには、それがない。
いや、正確にはある。
あるのに、それをさらに奥へ押し込んで、別のものを前に出している。
気迫。
子どもとは思えない、という月並みな言い方を宗一郎は好まない。
しかしいま、盤越しに感じているものには、確かにそれ以外の表現が見当たらなかった。
この少女は、ただ負けたくないのではない。
勝ち筋を探すために、自分の恐怖ごと使っている。
それは年齢相応の勝負勘ではない。
修羅場を知っている者の顔だ。
(面白い)
宗一郎は心の中で静かに思った。
そして同時に、ほんの少しだけ警戒を強めた。
こういう相手は、盤面が悪くなってからが本番だ。
◇
局面がはっきりと苦しくなったのは、宗一郎の一手がしおりの陣形の急所に刺さったときだった。
ぱち。
乾いた音が、妙に大きく響く。
しおりはその瞬間、指先から熱が引くのを感じた。
(……まずい)
分かる。
誰に説明されるまでもなく分かる。
ここで形勢が大きく傾いた。
こちらの要の駒が働きづらい。
相手の攻めはまだ露骨ではないが、次の数手で確実に圧力が増す。
こちらから強く動こうにも、先に自玉が危なくなる。
しかも嫌なことに、この不利は単純な駒損ではない。
見た目はまだ壊れていない。
だから周囲には「まだ分からない」に見えるかもしれない。
だが読む者には分かる。じわじわと詰められている。
宗一郎の番が終わり、会場が静まった。
しおりの手番。
初めて、しおりの手がすぐには動かなかった。
その沈黙に、周囲のざわめきも消えていく。
誰もが息を殺した。
長考。
もちろん、変則ルールで時間制限があるのは宗一郎だけだ。
しおりはいくらでも考えていい。
けれど、それでもこの静けさは異様だった。
小学生の少女が、盤上で完全に立ち止まっている。
悩んでいるのではない。
潜っている。
しおりの頭の中で、盤が何枚も重なった。
この手ならじり貧。
この手は見た目だけの抵抗。
この筋は先に潰される。
受けるだけでは終わる。
攻めるだけでも届かない。
なら、どこだ。
勝つための道筋は、どこにある。
目の前の盤だけでは足りない。
数手先でも足りない。
宗一郎の読みの外へ、一度でも出なければ勝ちはない。
しおりは息を殺した。
幼い体が、まるで盤と一体化したように動かない。
脳裏に浮かぶのは、前世の敗北だった。
時代に置いていかれた感覚。
自分では最善を尽くしているつもりで、実はもっと先の正解に届いていなかったあの日々。
嫌だ。
ここでまた、ただ力の差を見せつけられて終わるのは嫌だ。
もちろん相手は名人だ。
変則とはいえ、向こうが圧倒的に格上だ。
負けても誰も責めない。
むしろ「よく頑張った」で終わるだろう。
だから嫌だった。
そんな綺麗な負け方で納得したくない。
(あるはずだ)
しおりは心の中で言い聞かせる。
(ある。どこかに。一本だけでもいい。細くてもいい。繋がる道が)
盤面を分解する。
駒の利きをほどく。
自玉の危険度を数え直す。
相手玉の薄みを探る。
すぐに効く手ではなく、相手の思考を増やす手。
一分を削る手。
勝勢を安全にまとめたい相手に、あえて面倒を押しつける手。
会場の誰も声を出さない。
凛々花はその横顔を見つめ、唇を引き結んだ。
祖父の盤面で不利になっているのに、しおりは泣きそうな顔ひとつしない。
その代わり、全身から立ち上るものがある。
圧。
小さな体なのに、盤を挟んで向かい合う者へ「まだ終わっていない」と言い切る圧。
宗一郎もそれを感じていた。
目の前の少女は、いま必死に勝ち筋を探している。
それだけなら珍しくない。
だがその集中の密度が異常だった。
静かなのに、鋭い。
怯えているのに、退かない。
追い込まれているのに、目だけが死なない。
宗一郎は、ほんのわずかに息を吐いた。
(この気迫……)
孫娘の凛々花にも強さはある。
何度負けても立ち向かう根もある。
だが、盤上でここまで“不利そのものを食べて前へ出る”ような気配は、まだ持っていない。
天羽しおりは別だ。
負けそうなときほど、内側の何かが研ぎ澄まされていく。
この子は、本当に小学生なのか。
そんな馬鹿げた疑問が、一瞬だけ宗一郎の脳裏をかすめた。
もちろん、そんなはずはない。
目の前にいるのは間違いなく小さな少女だ。
声も、手も、背丈も、何もかも子どもだ。
だが盤の前に座った瞬間だけ、その内側に別の年輪が見える。
しおりはまだ動かない。
考えている。
読みを潜っている。
負け筋を見ながら、そのさらに奥にある細い光を探している。
ようやく、しおりの指先がひとつの駒に触れた。
その動きに、会場中の視線が吸い寄せられる。
宗一郎の目もまた、その細い指先を追った。
しおりは盤を見つめたまま、心の中で静かに言った。
(見つけた)
それが正しいかどうかは、まだ分からない。
ただ、勝つために進むなら、もうこの道しかない。
小さな指が、駒を持ち上げる。
その瞬間、宗一郎は確かに感じた。
この少女は、ここから勝ちに来る。
不利を悟ってなお、なお真正面から、名人の喉元へ手を伸ばしに来る。
子どもとは思えない気迫だった。
しおりの駒が、静かに盤へ下ろされる――。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!