盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第十六話 百年

 しおりの指先から放たれた一手は、会場の空気を一変させた。

 

 ぱち、と。

 

 乾いた音は、子どもの将棋大会には似つかわしくないほど鋭く響いた。

 卓を囲む人垣の誰もが、その小さな音に息を呑んだ。

 

 宗一郎の優勢だったはずの盤面が、そこで急に形を失ったからだ。

 

 分かりやすく駒得になったわけではない。

 露骨な王手がかかったわけでもない。

 盤の上にはむしろ、これまで以上に曖昧で、これまで以上に不穏な景色が広がっていた。

 

 しおりは自分から火の中へ踏み込んだ。

 

 守れば負ける。

 整えれば押し潰される。

 ならば、盤面ごと崩してしまうしかない。

 

 そんな、子どもとは思えない発想だった。

 

「……ほう」

 

 御門宗一郎の口から、かすかに声が漏れた。

 

 会場中の視線が、名人の顔へ集まる。

 宗一郎は盤を見たまま動かない。

 その目の奥で、無数の枝が広がっているのだろう。

 

 しおりの一手は、ただの粘りではなかった。

 負けを遅らせるだけの手でもない。

 

 勝ちを拾いに来ている。

 

 劣勢であることを理解したうえで、なお勝負を終わらせないための一手。

 むしろ相手のほうへ、「ここから先は簡単にまとめさせない」と突きつける一手だった。

 

 宗一郎の持ち時間――いや、この変則勝負における一手一分の制限が、横で静かに刻まれる。

 

 十秒。

 二十秒。

 三十秒。

 

 周囲の誰も声を出さない。

 子どもたちでさえ黙っていた。

 

 四十秒。

 五十秒。

 

 宗一郎の指が、ゆっくりと駒に触れる。

 すぐには動かない。

 候補はある。だが、そのどれもが気持ち悪いのだろう。

 

 しおりは盤面を見つめたまま、自分の鼓動を数えていた。

 

(効いてる)

 

 勝っているとは思わない。

 まだ不利だ。

 宗一郎のほうが地力で上回っているのは、ここまでで痛いほど分かっている。

 

 けれど、この局面は違う。

 

 名人の読みの中に、初めて濁りを作れた。

 

 五十七秒。

 五十八秒。

 五十九秒。

 

 宗一郎の駒が置かれる。

 

 ぎりぎりだった。

 

 その一手は、さすがに強かった。

 しおりが作った毒気を完全には抜けないまでも、盤面を見事に収めにきている。逃げでもなく、受けだけでもない。次にまたこちらへ難問を返してくる一手だ。

 

(っ……)

 

 しおりの目が、ほんのわずかに細くなる。

 

 やはり甘くない。

 ここで崩れるような人間なら、名人にはなれない。

 

 なら、もっと奥へ行くしかない。

 

 しおりは次の一手をすぐには指さなかった。

 盤面に残る火種をひとつずつ確かめる。

 自玉の危険。

 相手玉の薄み。

 持ち駒の価値。

 何を捨て、何を残すか。

 

 ここから先は、もう綺麗な将棋ではない。

 

 絡み合った駒の呼吸を先に切ったほうが勝つ。

 いや、勝つとは限らない。

 少なくとも、死なないほうが次を掴む。

 

 しおりは指した。

 

 また盤が荒れる。

 

 宗一郎が受ける。

 しおりが踏み込む。

 宗一郎が切り返す。

 しおりがさらにもつれさせる。

 

 見ている者には、もはやどちらが有利なのか分からない。

 盤上に漂うのはただひとつ、予測不能という濃い霧だけだった。

 

 ◇

 

「なに、これ……」

 

 最前列で見ていた子どものひとりが、思わずつぶやく。

 

 無理もなかった。

 

 普通の将棋なら、強い側が優勢を築いたあと、順に寄せて終わる。

 ところがこの将棋は違った。

 

 優勢なはずの宗一郎が、何度も立ち止まる。

 不利なはずのしおりが、立ち止まるたびに盤上へ新しい歪みを作る。

 その歪みを宗一郎が押さえ込んだと思えば、次の瞬間には別の場所が軋み出す。

 

 凛々花は膝の上で手を握りしめていた。

 

(すごい)

 

 悔しい。

 でも、それ以上に見惚れてしまう。

 

 祖父は強い。

 圧倒的に強い。

 その祖父が、一手一手を削られながら進んでいる。

 

 そしてしおりは、押されている。

 明らかに押されているのに、盤から消えない。

 むしろ苦しくなるほど鋭くなっていく。

 

(なんで……)

 

 どうしてそんな顔ができるのだろう、と凛々花は思った。

 

 普通なら怖いはずだ。

 名人相手だ。

 しかも会場中が見ている。

 劣勢になれば、幼い子どもなら泣きそうになってもおかしくない。

 

 けれどしおりは違う。

 

 小さな肩は震えていない。

 目だけが異様に冴え、盤の奥へ奥へと潜っていく。

 まるで、この苦しい局面のほうが本領だと言わんばかりに。

 

 ◇

 

 宗一郎も、盤越しに同じものを感じていた。

 

 この少女は、やはり異質だ。

 

 形勢そのものは、自分がまだ握っている。

 一分という枷があっても、将棋の骨格は崩していない。

 だが、それでも気味が悪い。

 

 向かいにいるのは小学生の少女だ。

 声も、手も、体の小ささも、何ひとつ疑いようがない。

 

 なのに盤の前だけ、別の年輪が見える。

 

 自分より強い相手に食らいつく者の目。

 敗勢を理解した上で、その内側に残る一点を探し続ける者の目。

 宗一郎は、そういう目を知っている。

 長い棋士人生で何度も見てきた。

 

 奨励会で、タイトル戦で、崖っぷちに立たされた者だけが持つ目だ。

 

 それを、この年齢の子どもがしている。

 

(面白いな、天羽しおり)

 

 宗一郎は盤を見つめながら、心の中でその名を反芻した。

 

 負けたくない。

 ではない。

 

 勝つ方法があるはずだ、と信じている顔だ。

 

 だから厄介なのだ。

 

 ◇

 

 対局は続いた。

 

 しおりの猛攻は、止まらなかった。

 

 不利な盤面のまま、ただ守ることを拒む。

 受けるなら、次に噛みつくための受け。

 捨てるなら、相手の息を止めるための捨て。

 局面を収束させず、選択肢を増やし、相手の一分を削る。

 

 宗一郎もまた、負けまいと応じる。

 

 一分の中で最善を探し、毒のある変化を消し、しおりの反撃の芽を摘みにかかる。

 だが、摘んだと思った芽が、別の場所からまた生える。

 

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

 

 駒音だけが、異様に鮮明だった。

 

 しおりはもう、自分の指先が少し熱いことに気づいていた。

 頭も重い。

 まぶたの奥が、じんと疼く。

 

 それでも指す。

 ここで止めるわけにはいかない。

 

 名人の前で。

 凛々花の前で。

 そして何より、自分自身の前で。

 

 前世の最後、自分は時代に追いつけなかった。

 連敗し、置いていかれた。

 あの悔しさを、いまも身体の芯が覚えている。

 

 だから、ここで「よく頑張った」で終わりたくない。

 

 勝ちたい。

 いや、勝ち筋に手をかけたい。

 たとえ指先ひとつ分でもいいから、名人の喉元へ届きたい。

 

 しおりはさらに踏み込んだ。

 

 そこで初めて、宗一郎の目がわずかに開いた。

 

 危険な一手だった。

 自分の玉も薄い。

 普通なら選びにくい。

 けれど、その危険を承知で局面をねじり切りに来ている。

 

 宗一郎は応じる。

 

 盤上の火花はさらに散る。

 

 気づけば、しおりの呼吸が浅くなっていた。

 喉が渇く。

 視界の端が白い。

 

(……まだ)

 

 まだ終わらない。

 まだ一手ある。

 そのはずだ。

 

 宗一郎の次の手で、盤面はまた大きく動いた。

 しおりの狙いをぎりぎりで外しつつ、自陣の安全も保つ。

 さすがだった。

 簡単には絡め取られない。

 

 そのときだった。

 

 しおりの身体が、ほんのわずかに揺れた。

 

 見ていた真紀が息を呑む。

 恒一も顔色を変えた。

 

「しおり……?」

 

 小さく漏れた母の声は、届かなかった。

 

 しおり自身、何が起きたのか一瞬分からなかった。

 世界が少し遠い。

 盤の線がにじむ。

 頭の芯に熱がこもり、耳鳴りがする。

 

(熱……?)

 

 そういえば、朝から少し身体は重かったかもしれない。

 大会の緊張で忘れていた。

 優勝するまで、名人戦が始まるまで、全部が気力で押し流されていただけだ。

 

 限界がきた。

 

 それでも、しおりは盤から目を離さなかった。

 

 宗一郎はそこで初めて、少女の異常に気づいた。

 頬が赤い。

 呼吸が浅い。

 それでも盤面だけを見ている。

 

「……天羽さん」

 

 宗一郎の声は静かだった。

 

 しおりは顔を上げない。

 

「将棋を始めて、どのくらいになる?」

 

 会場がわずかにざわつく。

 こんな場面で、なぜそんなことを聞くのか。

 けれど宗一郎自身にも、なぜ今それを問いたくなったのか、半分しか説明できなかった。

 

 この気迫。

 この読みの歪ませ方。

 この年齢ではありえない不利での戦い方。

 

 知りたかった。

 

 この子は、いったいいつから将棋を指しているのか。

 

 しおりは、朦朧とする意識の奥で、その問いを聞いた。

 

 おかしかった。

 

 いつから。

 そんなもの、今の人生だけで答えられるはずがない。

 

 でも、口から出たのは、隠す言葉でも、誤魔化す言葉でもなかった。

 

 昂ぶり切った意識のまま、しおりはふっと笑った。

 

 子どもらしい、無邪気な笑みにも見える。

 けれどその奥にある熱は、明らかにそれだけではなかった。

 

「百年」

 

 誰も、意味が分からなかった。

 

 凛々花が目を見開き、真紀が固まり、恒一が「は?」と小さく漏らす。

 宗一郎だけが、盤越しにその笑みを見ていた。

 

 百年。

 

 冗談だ。

 熱に浮かされた戯れ言だ。

 そう片づけるべきなのに、その一言だけが妙に盤の上の異様さと噛み合ってしまう。

 

 そして、しおりは最後の力で駒を持ち上げた。

 

 ぱち。

 

 最後の一手が、盤へ下ろされる。

 

 その直後だった。

 

 しおりの身体が、ふっと前へ傾いた。

 

「しおり!」

 

 真紀が立ち上がる。

 恒一も飛び出す。

 スタッフが一斉に卓へ駆け寄った。

 

 宗一郎はすぐに盤から手を離し、少女の肩へ触れない距離で状態を確認する。

 呼吸はある。

 だが意識は落ちている。

 

「熱い……!」

 

 スタッフの一人が額に触れて顔色を変えた。

 

「高熱です、すぐ救護を」

 

「救急対応を呼んでください!」

 

 会場は一気に騒然となった。

 

 子どもたちは不安そうにざわめき、保護者たちは道を空け、スタッフがてきぱきと対応に動く。

 真紀は青ざめながらもしおりの名を呼び続け、恒一はその横で必死に支えていた。

 

 宗一郎は立ち上がらず、しばらく盤を見ていた。

 

 最後の一手が、まだそこにある。

 

 ◇

 

 しおりがスタッフと両親に連れられ、そのまま病院へ向かったあとも、宗一郎は卓の前から動かなかった。

 

 騒ぎの熱だけが去り、盤の上に残されたものが、逆に輪郭を増していく。

 

 凛々花が、そっと近づく。

 

「おじいさま」

 

 宗一郎は答えない。

 

「……どうしたんですか」

 

 凛々花は不思議だった。

 祖父は負けていない。

 勝ってもいないが、少なくとも途中の盤面だけを見れば優勢だったはずだ。

 

 なのに、祖父はずっと盤を見ている。

 まるで何か、とんでもないものを見つけたかのように。

 

 凛々花は盤へ目を落とした。

 最後の一手。

 しおりが意識を失う直前に打った、あの一手。

 

 数秒。

 十数秒。

 静寂。

 

 やがて、宗一郎が低くつぶやいた。

 

「……いつからだ」

 

「え?」

 

「いつから、こんな手を読んでいた」

 

 凛々花は言葉を失う。

 

 宗一郎はゆっくりと盤の上を指でなぞるように見ていく。

 一手前。

 二手前。

 三手前。

 いや、もっと前だ。

 

 あの一手は、その場の苦しまぎれではない。

 局面全体をここへ連れてくるための、長い仕込みの果てだった。

 

「おじいさま……?」

 

 凛々花の声に、宗一郎はようやく口元を歪めた。

 

 笑っている。

 呆れている。

 感心している。

 その全部が混じった、珍しい笑みだった。

 

「持将棋だ」

 

 凛々花が目を見開く。

 

「……え」

 

「この最後の一手で、条件が満たされている」

 

 宗一郎は盤面から目を離さないまま言う。

 

「このまま進めば、勝ちでも負けでもなく、持将棋――引き分けに持ち込める」

 

 凛々花は息を呑んだ。

 

 たかが小学生相手に。

 しかも自分より三つ下の少女が。

 名人との変則勝負で、劣勢から、最後の最後に引き分けの条件を作っていた。

 

 宗一郎は小さく笑った。

 

「まさかだな」

 

 その声には、悔しさより先に楽しさがあった。

 

「小学生相手に、持将棋を用意されるとは思わなかった」

 

 凛々花は盤を見つめたまま、言葉が出ない。

 

 あの局面で。

 あの高熱で。

 あの朦朧とした意識の中で。

 しおりは勝ちを諦めず、せめて負けない終着点まで見つけていた。

 

 宗一郎の脳裏に、先ほどの笑顔がよみがえる。

 

『百年』

 

 あれは熱に浮かされた冗談だったのか。

 あるいは、もっと別の何かだったのか。

 答えは出ない。

 

 だがひとつだけ、確かなことがある。

 

 天羽しおりは、本物だ。

 

 まだ幼い。

 未完成だ。

 身体も細く、熱ひとつで意識を落とすほど脆い。

 それでも盤の前に座ると、尋常ではない景色を作る。

 

 宗一郎はゆっくり立ち上がった。

 

「凛々花」

 

「はい」

 

「よく見ておけ」

 

 凛々花が顔を上げる。

 

「あの子は、これからもっと強くなる」

 

 その言葉は、予言ではなく確認に近かった。

 

「お前もだ」

 

 宗一郎は続ける。

 

「追うなら、半端な気持ちでは追えん」

 

 凛々花は唇を引き結び、深く頷いた。

 

「はい」

 

 宗一郎は最後にもう一度だけ、しおりの座っていた席を見た。

 

 熱に浮かされ、意識を失う直前まで、勝ち筋ではなく“負けない形”を掴みにいった少女。

 その執念は、棋士として痛いほど理解できる。

 

 だからこそ、次はちゃんと指したかった。

 

 変則でもなく、余興でもなく。

 手番の制限などない、本当の対局として。

 

「将来が楽しみだ」

 

 誰に言うでもなく、宗一郎はつぶやいた。

 

 そして、凛々花にだけ聞こえる声で続ける。

 

「その時は、本当の対局をしよう」

 

 名人はそう言い残し、静かに会場を後にした。




### あとがき

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それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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