しおりの指先から放たれた一手は、会場の空気を一変させた。
ぱち、と。
乾いた音は、子どもの将棋大会には似つかわしくないほど鋭く響いた。
卓を囲む人垣の誰もが、その小さな音に息を呑んだ。
宗一郎の優勢だったはずの盤面が、そこで急に形を失ったからだ。
分かりやすく駒得になったわけではない。
露骨な王手がかかったわけでもない。
盤の上にはむしろ、これまで以上に曖昧で、これまで以上に不穏な景色が広がっていた。
しおりは自分から火の中へ踏み込んだ。
守れば負ける。
整えれば押し潰される。
ならば、盤面ごと崩してしまうしかない。
そんな、子どもとは思えない発想だった。
「……ほう」
御門宗一郎の口から、かすかに声が漏れた。
会場中の視線が、名人の顔へ集まる。
宗一郎は盤を見たまま動かない。
その目の奥で、無数の枝が広がっているのだろう。
しおりの一手は、ただの粘りではなかった。
負けを遅らせるだけの手でもない。
勝ちを拾いに来ている。
劣勢であることを理解したうえで、なお勝負を終わらせないための一手。
むしろ相手のほうへ、「ここから先は簡単にまとめさせない」と突きつける一手だった。
宗一郎の持ち時間――いや、この変則勝負における一手一分の制限が、横で静かに刻まれる。
十秒。
二十秒。
三十秒。
周囲の誰も声を出さない。
子どもたちでさえ黙っていた。
四十秒。
五十秒。
宗一郎の指が、ゆっくりと駒に触れる。
すぐには動かない。
候補はある。だが、そのどれもが気持ち悪いのだろう。
しおりは盤面を見つめたまま、自分の鼓動を数えていた。
(効いてる)
勝っているとは思わない。
まだ不利だ。
宗一郎のほうが地力で上回っているのは、ここまでで痛いほど分かっている。
けれど、この局面は違う。
名人の読みの中に、初めて濁りを作れた。
五十七秒。
五十八秒。
五十九秒。
宗一郎の駒が置かれる。
ぎりぎりだった。
その一手は、さすがに強かった。
しおりが作った毒気を完全には抜けないまでも、盤面を見事に収めにきている。逃げでもなく、受けだけでもない。次にまたこちらへ難問を返してくる一手だ。
(っ……)
しおりの目が、ほんのわずかに細くなる。
やはり甘くない。
ここで崩れるような人間なら、名人にはなれない。
なら、もっと奥へ行くしかない。
しおりは次の一手をすぐには指さなかった。
盤面に残る火種をひとつずつ確かめる。
自玉の危険。
相手玉の薄み。
持ち駒の価値。
何を捨て、何を残すか。
ここから先は、もう綺麗な将棋ではない。
絡み合った駒の呼吸を先に切ったほうが勝つ。
いや、勝つとは限らない。
少なくとも、死なないほうが次を掴む。
しおりは指した。
また盤が荒れる。
宗一郎が受ける。
しおりが踏み込む。
宗一郎が切り返す。
しおりがさらにもつれさせる。
見ている者には、もはやどちらが有利なのか分からない。
盤上に漂うのはただひとつ、予測不能という濃い霧だけだった。
◇
「なに、これ……」
最前列で見ていた子どものひとりが、思わずつぶやく。
無理もなかった。
普通の将棋なら、強い側が優勢を築いたあと、順に寄せて終わる。
ところがこの将棋は違った。
優勢なはずの宗一郎が、何度も立ち止まる。
不利なはずのしおりが、立ち止まるたびに盤上へ新しい歪みを作る。
その歪みを宗一郎が押さえ込んだと思えば、次の瞬間には別の場所が軋み出す。
凛々花は膝の上で手を握りしめていた。
(すごい)
悔しい。
でも、それ以上に見惚れてしまう。
祖父は強い。
圧倒的に強い。
その祖父が、一手一手を削られながら進んでいる。
そしてしおりは、押されている。
明らかに押されているのに、盤から消えない。
むしろ苦しくなるほど鋭くなっていく。
(なんで……)
どうしてそんな顔ができるのだろう、と凛々花は思った。
普通なら怖いはずだ。
名人相手だ。
しかも会場中が見ている。
劣勢になれば、幼い子どもなら泣きそうになってもおかしくない。
けれどしおりは違う。
小さな肩は震えていない。
目だけが異様に冴え、盤の奥へ奥へと潜っていく。
まるで、この苦しい局面のほうが本領だと言わんばかりに。
◇
宗一郎も、盤越しに同じものを感じていた。
この少女は、やはり異質だ。
形勢そのものは、自分がまだ握っている。
一分という枷があっても、将棋の骨格は崩していない。
だが、それでも気味が悪い。
向かいにいるのは小学生の少女だ。
声も、手も、体の小ささも、何ひとつ疑いようがない。
なのに盤の前だけ、別の年輪が見える。
自分より強い相手に食らいつく者の目。
敗勢を理解した上で、その内側に残る一点を探し続ける者の目。
宗一郎は、そういう目を知っている。
長い棋士人生で何度も見てきた。
奨励会で、タイトル戦で、崖っぷちに立たされた者だけが持つ目だ。
それを、この年齢の子どもがしている。
(面白いな、天羽しおり)
宗一郎は盤を見つめながら、心の中でその名を反芻した。
負けたくない。
ではない。
勝つ方法があるはずだ、と信じている顔だ。
だから厄介なのだ。
◇
対局は続いた。
しおりの猛攻は、止まらなかった。
不利な盤面のまま、ただ守ることを拒む。
受けるなら、次に噛みつくための受け。
捨てるなら、相手の息を止めるための捨て。
局面を収束させず、選択肢を増やし、相手の一分を削る。
宗一郎もまた、負けまいと応じる。
一分の中で最善を探し、毒のある変化を消し、しおりの反撃の芽を摘みにかかる。
だが、摘んだと思った芽が、別の場所からまた生える。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
駒音だけが、異様に鮮明だった。
しおりはもう、自分の指先が少し熱いことに気づいていた。
頭も重い。
まぶたの奥が、じんと疼く。
それでも指す。
ここで止めるわけにはいかない。
名人の前で。
凛々花の前で。
そして何より、自分自身の前で。
前世の最後、自分は時代に追いつけなかった。
連敗し、置いていかれた。
あの悔しさを、いまも身体の芯が覚えている。
だから、ここで「よく頑張った」で終わりたくない。
勝ちたい。
いや、勝ち筋に手をかけたい。
たとえ指先ひとつ分でもいいから、名人の喉元へ届きたい。
しおりはさらに踏み込んだ。
そこで初めて、宗一郎の目がわずかに開いた。
危険な一手だった。
自分の玉も薄い。
普通なら選びにくい。
けれど、その危険を承知で局面をねじり切りに来ている。
宗一郎は応じる。
盤上の火花はさらに散る。
気づけば、しおりの呼吸が浅くなっていた。
喉が渇く。
視界の端が白い。
(……まだ)
まだ終わらない。
まだ一手ある。
そのはずだ。
宗一郎の次の手で、盤面はまた大きく動いた。
しおりの狙いをぎりぎりで外しつつ、自陣の安全も保つ。
さすがだった。
簡単には絡め取られない。
そのときだった。
しおりの身体が、ほんのわずかに揺れた。
見ていた真紀が息を呑む。
恒一も顔色を変えた。
「しおり……?」
小さく漏れた母の声は、届かなかった。
しおり自身、何が起きたのか一瞬分からなかった。
世界が少し遠い。
盤の線がにじむ。
頭の芯に熱がこもり、耳鳴りがする。
(熱……?)
そういえば、朝から少し身体は重かったかもしれない。
大会の緊張で忘れていた。
優勝するまで、名人戦が始まるまで、全部が気力で押し流されていただけだ。
限界がきた。
それでも、しおりは盤から目を離さなかった。
宗一郎はそこで初めて、少女の異常に気づいた。
頬が赤い。
呼吸が浅い。
それでも盤面だけを見ている。
「……天羽さん」
宗一郎の声は静かだった。
しおりは顔を上げない。
「将棋を始めて、どのくらいになる?」
会場がわずかにざわつく。
こんな場面で、なぜそんなことを聞くのか。
けれど宗一郎自身にも、なぜ今それを問いたくなったのか、半分しか説明できなかった。
この気迫。
この読みの歪ませ方。
この年齢ではありえない不利での戦い方。
知りたかった。
この子は、いったいいつから将棋を指しているのか。
しおりは、朦朧とする意識の奥で、その問いを聞いた。
おかしかった。
いつから。
そんなもの、今の人生だけで答えられるはずがない。
でも、口から出たのは、隠す言葉でも、誤魔化す言葉でもなかった。
昂ぶり切った意識のまま、しおりはふっと笑った。
子どもらしい、無邪気な笑みにも見える。
けれどその奥にある熱は、明らかにそれだけではなかった。
「百年」
誰も、意味が分からなかった。
凛々花が目を見開き、真紀が固まり、恒一が「は?」と小さく漏らす。
宗一郎だけが、盤越しにその笑みを見ていた。
百年。
冗談だ。
熱に浮かされた戯れ言だ。
そう片づけるべきなのに、その一言だけが妙に盤の上の異様さと噛み合ってしまう。
そして、しおりは最後の力で駒を持ち上げた。
ぱち。
最後の一手が、盤へ下ろされる。
その直後だった。
しおりの身体が、ふっと前へ傾いた。
「しおり!」
真紀が立ち上がる。
恒一も飛び出す。
スタッフが一斉に卓へ駆け寄った。
宗一郎はすぐに盤から手を離し、少女の肩へ触れない距離で状態を確認する。
呼吸はある。
だが意識は落ちている。
「熱い……!」
スタッフの一人が額に触れて顔色を変えた。
「高熱です、すぐ救護を」
「救急対応を呼んでください!」
会場は一気に騒然となった。
子どもたちは不安そうにざわめき、保護者たちは道を空け、スタッフがてきぱきと対応に動く。
真紀は青ざめながらもしおりの名を呼び続け、恒一はその横で必死に支えていた。
宗一郎は立ち上がらず、しばらく盤を見ていた。
最後の一手が、まだそこにある。
◇
しおりがスタッフと両親に連れられ、そのまま病院へ向かったあとも、宗一郎は卓の前から動かなかった。
騒ぎの熱だけが去り、盤の上に残されたものが、逆に輪郭を増していく。
凛々花が、そっと近づく。
「おじいさま」
宗一郎は答えない。
「……どうしたんですか」
凛々花は不思議だった。
祖父は負けていない。
勝ってもいないが、少なくとも途中の盤面だけを見れば優勢だったはずだ。
なのに、祖父はずっと盤を見ている。
まるで何か、とんでもないものを見つけたかのように。
凛々花は盤へ目を落とした。
最後の一手。
しおりが意識を失う直前に打った、あの一手。
数秒。
十数秒。
静寂。
やがて、宗一郎が低くつぶやいた。
「……いつからだ」
「え?」
「いつから、こんな手を読んでいた」
凛々花は言葉を失う。
宗一郎はゆっくりと盤の上を指でなぞるように見ていく。
一手前。
二手前。
三手前。
いや、もっと前だ。
あの一手は、その場の苦しまぎれではない。
局面全体をここへ連れてくるための、長い仕込みの果てだった。
「おじいさま……?」
凛々花の声に、宗一郎はようやく口元を歪めた。
笑っている。
呆れている。
感心している。
その全部が混じった、珍しい笑みだった。
「持将棋だ」
凛々花が目を見開く。
「……え」
「この最後の一手で、条件が満たされている」
宗一郎は盤面から目を離さないまま言う。
「このまま進めば、勝ちでも負けでもなく、持将棋――引き分けに持ち込める」
凛々花は息を呑んだ。
たかが小学生相手に。
しかも自分より三つ下の少女が。
名人との変則勝負で、劣勢から、最後の最後に引き分けの条件を作っていた。
宗一郎は小さく笑った。
「まさかだな」
その声には、悔しさより先に楽しさがあった。
「小学生相手に、持将棋を用意されるとは思わなかった」
凛々花は盤を見つめたまま、言葉が出ない。
あの局面で。
あの高熱で。
あの朦朧とした意識の中で。
しおりは勝ちを諦めず、せめて負けない終着点まで見つけていた。
宗一郎の脳裏に、先ほどの笑顔がよみがえる。
『百年』
あれは熱に浮かされた冗談だったのか。
あるいは、もっと別の何かだったのか。
答えは出ない。
だがひとつだけ、確かなことがある。
天羽しおりは、本物だ。
まだ幼い。
未完成だ。
身体も細く、熱ひとつで意識を落とすほど脆い。
それでも盤の前に座ると、尋常ではない景色を作る。
宗一郎はゆっくり立ち上がった。
「凛々花」
「はい」
「よく見ておけ」
凛々花が顔を上げる。
「あの子は、これからもっと強くなる」
その言葉は、予言ではなく確認に近かった。
「お前もだ」
宗一郎は続ける。
「追うなら、半端な気持ちでは追えん」
凛々花は唇を引き結び、深く頷いた。
「はい」
宗一郎は最後にもう一度だけ、しおりの座っていた席を見た。
熱に浮かされ、意識を失う直前まで、勝ち筋ではなく“負けない形”を掴みにいった少女。
その執念は、棋士として痛いほど理解できる。
だからこそ、次はちゃんと指したかった。
変則でもなく、余興でもなく。
手番の制限などない、本当の対局として。
「将来が楽しみだ」
誰に言うでもなく、宗一郎はつぶやいた。
そして、凛々花にだけ聞こえる声で続ける。
「その時は、本当の対局をしよう」
名人はそう言い残し、静かに会場を後にした。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!