中学校の校舎は、小学校より少しだけ静かだった。
もちろん、実際にはそんなことはない。
休み時間になれば廊下は騒がしいし、運動部の声は窓を震わせる。教室では笑い声も上がるし、忘れ物をした誰かが階段を駆け上がっていく音もする。
ただ、しおりにはそう感じられた。
世界がひとつ狭まり、その代わり、ひとつ深くなったような感覚。
子どもの延長ではいられなくなる場所。
部活も、勉強も、人間関係も、小学校のときより少しずつ輪郭を持ち始める場所。
中学一年生になった天羽しおりは、その空気を嫌いではなかった。
授業は前より難しくなった。
宿題も少し増えた。
だが、それは問題ではない。
将棋の時間をどう捻出するか。
放課後をどう使うか。
学校生活の中に、将棋のための最短距離をどう引くか。
しおりが中学入学後、最初に真剣に考えたのは、その一点だった。
◇
「部活、どうするの?」
入学して最初の週、夕食の席で真紀がそう聞いた。
中学校では部活動への参加がほぼ当たり前になっている。絶対ではないにせよ、何かしら所属したほうが学校生活に馴染みやすい――そんな空気があった。
恒一は味噌汁を飲みながら、いかにも分かりきったことを尋ねる顔をした。
「将棋部、あるんだろ?」
「ある」
しおりは即答した。
「じゃあ決まりか」
「たぶん」
「たぶん?」
真紀が首をかしげる。
しおりは箸を止め、少し考えてから答えた。
「ちゃんとしてるなら、入る」
「ちゃんとしてるなら?」
「遊びみたいなら、やだ」
真紀と恒一が顔を見合わせる。
言いたいことは伝わったらしい。
しおりにとって将棋部は、学校生活の彩りではない。単なる所属先でもない。
強くなるために使える場所かどうか、それだけが問題なのだ。
「まあ、見学してみればいいんじゃないか」
恒一が言う。
「入ってみて違うと思ったら、そのとき考えれば」
「うん」
しおりは頷いた。
実際、その通りだった。
見もしないで切るのは良くない。
けれど、もしそこでぬるい将棋しか指せないなら、時間の使い方を考え直さなければならない。
中学の三年間は短い。
そして自分には、その先に奨励会がある。
◇
将棋部の見学は、翌週の放課後だった。
校舎の三階、特別教室棟の端にある和室。
障子は半分だけ開いていて、入口には小さく【将棋部】と紙が貼られている。
しおりは鞄を持ったまま、その前で一度だけ立ち止まった。
中から聞こえてくるのは、駒音――ではなく、話し声だった。
「いや、それ反則だろ」
「反則じゃないって」
「待ったなしねー」
「え、ちょっと待って、やっぱ違う、今のなし」
しおりの眉が、ぴくりと動く。
(……いやな予感)
襖を開ける。
部屋の中には、六人の生徒がいた。
二年生らしい男子が三人。
三年生らしい男子が二人。
そして女子が一人。
盤は三面。
だが、どの盤も空気が軽い。
ある卓では駒をつまんだまま笑い合い、別の卓では対局より雑談のほうが長い。
詰将棋の本が置いてあるものの、きちんと読まれた形跡は薄い。
姿勢もばらばらで、礼もない。
もちろん、部活とはそういうものかもしれない。
放課後に同じ趣味の仲間と集まり、ゆるく楽しむ。
それ自体を悪いとは思わない。
でも。
しおりが欲しい場所ではない。
「見学?」
奥にいた三年の男子が声をかけてきた。
背は高いが、少し猫背。気安い口調だった。
「うん」
「一年?」
「そう」
「へえ。将棋できるの?」
その訊き方で、しおりはだいたい察した。
知っていて聞いているのではない。
単に、新入生の女の子が来たから軽く話しかけただけだ。
「できる」
「ルール知ってるくらい?」
「……まあ」
少し曖昧に答える。
ここで自分から何かを誇る気はなかった。
三年の男子は笑った。
「じゃ、初心者でも全然大丈夫だよ。うち、ゆるいし」
その“ゆるい”という言葉に、しおりの中で何かが冷えた。
「大会とかも、出たい人だけだし。勝ち負けっていうより楽しくやろうって感じ」
別の二年生が言う。
「女の子少ないから歓迎するよ」
女子部員も柔らかく笑った。
悪意はない。
誰も悪人ではない。
ただ、決定的に噛み合わない。
しおりは部屋の中央に並ぶ盤を見渡した。
雑な駒音。
待ったあり。
勝負の温度がない笑い声。
負けても悔しがるより先に「もう一回」が軽く出る空気。
それを見て、しおりははっきり理解した。
ここは、強くなるための場所ではない。
◇
「じゃあ、とりあえず一局やってみる?」
三年の男子が言った。
「一年生の歓迎戦みたいな」
しおりは視線を戻した。
「だれと?」
「俺でもいいし、こいつらでもいいし」
「部長、やれば?」
「いやいや、見学なんだから気楽にね」
気楽に。
その言葉が、しおりの耳には妙に引っかかった。
将棋を気楽に指すこと自体は悪くない。
でも、対局に座っている以上、盤の上にだけは最低限の真剣さがあってほしい。
勝つ気もなく、負けても何も残さず、待ったや笑いで流して終わるなら、それは自分にとって将棋ではない。
「……いいよ」
しおりは静かに言った。
「一局だけなら」
「お、じゃあ俺やるわ」
二年生の男子が前へ出てきた。
肩で風を切るような歩き方をする、少し勝ち気な顔の子だった。
「坂本っていいます。よろしく」
「天羽しおり」
「へえ、名字だけじゃなくて名前まで言うんだ」
その軽口に、しおりは何も返さなかった。
盤を挟んで向かい合う。
礼は、しおりのほうからした。
「お願いします」
「あ、はい。お願いします」
相手が少し慌てて礼を返す。
部室の空気が、ほんの少しだけ変わった。
初手から、しおりは手加減しなかった。
する理由がない。
坂本の将棋は、弱くはなかった。
少なくとも初心者ではない。
形も知っているし、基本的な手筋もある。学校の部活レベルなら、たぶん強いほうなのだろう。
けれど甘い。
駒の連結が薄い。
相手の狙いへの感度が鈍い。
何より、自分が良くなることばかり見ていて、相手に何をされるかの視点が浅い。
三十手もいらなかった。
「えっ」
坂本の顔が止まる。
「……うそ」
しおりは盤を見たまま言った。
「詰み」
部室が静かになった。
「ちょ、ちょっと待って」
「待たない」
「いや今のはさすがに」
「待たないって言った」
しおりの声は小さい。
だが、さっきまでの部室の軽さをその一言で切り裂くには十分だった。
坂本は盤を見て、数秒後にようやく頭を下げた。
「……負けました」
「ありがとうございました」
しおりは礼を返し、すぐに立ち上がろうとした。
だが、それで終わりにはならなかった。
「ちょっと待ってよ」
今度は別の二年生が口を開いた。
「たまたまでしょ」
しおりはその子を見る。
「たまたま?」
「坂本、油断してたし。ていうか一年でそんなムキになる?」
その言い方に、三年生の部長らしき男子が「おい」と小さく制したが、もう遅かった。
しおりの中で、何かがすっと冷える。
「ムキ?」
「いや、だってさ」
その二年生は半笑いだった。
「部活ってもっと楽しくやるもんじゃん。そんなガチガチで来られても困るっていうか」
坂本の「部活ってもっと楽しくやるもんじゃん」という言葉に、しおりはしばらく何も返さなかった。
和室の空気は軽いままだった。
畳の上には駒が散り、盤の横には開きっぱなしの棋書が伏せられ、対局中のはずの盤面ですら、もう半分は雑談の小道具みたいになっている。
その景色を、しおりは静かに見回した。
ここにいる全員が将棋を嫌いなわけではない。
むしろ好きなのだろう。
だから部活に入っている。
けれど、好きであることと、勝負として向き合っていることは違う。
その違いが、しおりには我慢ならなかった。
「……楽しく、は別にいいよ」
小さな声だった。
だが、さっきまでの空気を切るには十分だった。
「でも」
しおりは盤の前に座ったまま、真っ直ぐ坂本を見る。
「勝つ気がないのは、将棋じゃない」
「は?」
坂本が眉を吊り上げる。
「なんだよそれ」
「そのまま」
しおりは言った。
「待ったして、負けそうになったら笑ってごまかして、終わったらなんとなく片づけて。そういうの、わたしは指さない」
「おい」
今度は部長が低い声を出した。
先ほどまでより少し強い調子だった。
「言い方考えろ」
「考えてるよ」
「それでか?」
「うん」
しおりは一歩も引かなかった。
「わたし、おままごとの将棋を指すつもりないから」
部室が、しんと静まり返る。
さっきの「楽しくやる」より、この言葉のほうがよほど決定的だった。
ただ厳しいだけではない。
この部のやり方そのものを、将棋として認めていない。
そう言い切ったに等しい。
坂本が立ち上がる。
「言ったな」
「言った」
「一年のくせに」
「一年だから何」
「……っ」
言い返そうとして、言葉に詰まる。
しおりがまるで怖がっていないからだ。
部長が間に入ろうとするより先に、しおりのほうが先に口を開いた。
「そんなに気に入らないなら、証明して」
「証明?」
「みんながちゃんと将棋指せるってこと」
しおりはゆっくり立ち上がった。
畳の上に置かれた三つの盤を見る。
「一局ずつじゃ、時間がもったいない」
その一言に、全員が眉をひそめる。
「……何言ってんの」
女子部員が半分呆れたように言う。
しおりは、盤を順番に指差した。
「三面指しする」
数秒、誰も意味を理解できなかった。
「は?」
坂本が間の抜けた声を出す。
「三人同時」
しおりは繰り返す。
「坂本先輩と、そっちの先輩と、部長。三人まとめて」
今度こそ、本当に部室の空気が止まった。
「おいおい……」
三年の部長が苦笑しかけて、笑えなかった。
「本気で言ってるのか?」
「本気」
「お前、自分が何言ってるか分かってる?」
「分かってる」
しおりの声に揺れはなかった。
「わたしが勝ったら、ここでちゃんと将棋するって認めて」
坂本が顔をしかめる。
「じゃあ負けたら?」
「入らない」
即答だった。
「この部には入らないし、さっきの言葉も取り消さない」
それは挑発であり、宣言でもあった。
もう逃げ道はない。
しおりは自分から橋を焼いた。
坂本の頬がひくりと動く。
怒っている。
だが、その怒りの下に、別の感情も混じっていた。
舐められている。
試されている。
そして、盤の上でひっくり返されるかもしれない怖さが、ほんの少しだけある。
「いいじゃん」
先に答えたのは、もう一人の二年生だった。
坂本ほど感情を露わにするタイプではないが、口元が引きつっている。
「そこまで言うなら、やろうよ」
「部長」
坂本も振り向く。
部長は数秒黙ったまま、しおりを見つめていた。
小さい。
中学一年の女子。
見た目だけなら、三面指しを要求する側ではない。
なのに、目だけがまるで違った。
冗談じゃない。
意地でもない。
本当に、自分たち三人を同時にねじ伏せるつもりでいる目だった。
「……分かった」
部長は静かに言った。
「受ける」
「部長!」
「ここまで言われて断ったら、それこそ終わりだ」
それは将棋部の面子ではなく、もっと単純な勝負の話だった。
「ただし」
部長が言う。
「あとで泣いても知らないぞ」
「泣くのはそっちかも」
しおりが言った瞬間、坂本が「上等だよ」と吐き捨てた。
◇
三面の盤が、横一列に並べられた。
中央にしおり。
向かいに坂本、二年の佐原、そして部長の黒田。
女子部員と残りの一人は壁際へ下がる。
もはや見学ではない。
部活の空気を賭けた勝負になっていた。
「条件ある?」
黒田が聞く。
「ない」
しおりは言う。
「ただ、待ったなし」
「……分かった」
「感想戦はあと」
「勝った気かよ」
坂本が吐き捨てる。
「勝つつもりでやるから」
しおりは答えた。
そして三つの盤へ、それぞれきちんと礼をした。
「お願いします」
三人も遅れて礼を返す。
「お願いします」
駒音が鳴った。
最初の十手は、三人とも慎重だった。
当然だ。
怒りに任せて突っ込めば負ける。さっき坂本がそれを身をもって知ったばかりだ。
それに、三面指しという形式が厄介だった。
しおりは中央の立ち位置から、一手ごとに盤を渡る。
坂本へ一手。
佐原へ一手。
黒田へ一手。
足を止めない。
視線も迷わない。
まるで三局が最初からひとつの盤であるかのように、自然に回っていく。
「……速っ」
女子部員が思わず漏らす。
速いだけではない。
置かれる手が全部、嫌な場所を突いていた。
坂本の盤では、攻め急ぎを逆用するように陣形の綻びへ針を刺し、
佐原の盤では、教科書通りの形を少しずつずらして将来の悪形を作り、
黒田の盤では、こちらから無理をせず、相手の判断を問う形を積み上げていく。
しおりの中では、すでに優先順位が決まっていた。
(最初に崩れるのは坂本)
感情が盤に出る。
強くなりたい人間には必要な熱だが、怒ったままでは読みが荒くなる。
(次が佐原)
形を知っているぶん、誘導に弱い。
自分の知っている筋から少し外れると、途端に指が止まる。
(最後が黒田)
一番マシ。
でも、一番マシなだけ。
◇
先に崩れたのは、予想通り坂本だった。
「え?」
たった一手で顔色が変わる。
「ちょ、待っ――」
「待たない」
しおりが即座に切る。
「自分で言ったでしょ、待ったなしって」
「くそ……!」
坂本は受ける。
だが、その受けがすでに遅い。
しおりは次の盤へ移り、佐原と二手交わし、黒田に嫌味な一手を置いてから戻ってきた。
坂本の玉はもう、逃げ道を失っている。
「詰み」
短く言われて、坂本は唇を噛む。
盤を睨み、睨み、ようやく頭を下げた。
「……負けました」
「ありがとうございました」
しおりは礼だけ返して、もう振り返らない。
残り二面へそのまま歩く。
坂本の敗北は、部室の温度を一気に変えた。
偶然じゃない。
勢いでもない。
この一年は、本当に三面指しで勝ちにきている。
◇
二面目、佐原は明らかに焦っていた。
自分の番になるたび、指が少し遅い。
考えているのではない。
迷っている。
しおりはそこを逃さない。
「……うそだろ」
佐原がこぼす。
守ったつもりの場所に、次の瞬間には別の綻びが生じている。
しおりの将棋は、相手の手を否定するのではなく、相手が正しいと思って選んだ手の価値をその場で下げていく。
それが何度も続くと、自信が剥がれる。
佐原の顔が引きつる。
黒田のほうへ視線を飛ばしかけて、すぐに戻す。
助けはない。
数手後。
「……負けました」
佐原も頭を下げた。
これで二面。
部室に残った緊張は、もうひとつの盤へ全部集まった。
◇
黒田は、ここまで一言も無駄口を叩かなかった。
盤面を見ている。
真剣に。
たぶん、ようやく理解したのだろう。
これはただの喧嘩ではない。
自分たちがどんな部活をしてきたのかを、盤上で突きつけられているのだと。
「……大したもんだよ」
黒田が低く言う。
「二面潰して、まだ息も乱れてない」
「まだ一局残ってる」
「分かってる」
黒田の将棋は、さすがに一番しぶとかった。
駒組みに無駄が少ない。
中盤で崩れない。
派手には来ない代わりに、こちらの読みを空振らせようとする。
しおりは少しだけ楽しくなってきていた。
この人は、ちゃんと鍛えれば伸びる。
部の空気に流されてぬるくなっていただけで、根っこのところでは将棋を勝負として見られる人間だ。
だからこそ、ここで折る価値がある。
しおりは一度、わざと踏み込んだ。
黒田なら食いつく。
そう読んだ通り、黒田はその踏み込みを受けず、逆に手を伸ばしてきた。
(やっぱり)
悪くない。
だが、それでいい。
しおりはそこで局面をねじった。
均衡だった盤面が、一気に終盤の匂いを帯びる。
黒田の眉が寄る。
ここで戦いを起こされるとは思っていなかったのだろう。
「ここで来るのか」
「来るよ」
「一年の踏み込みじゃないな」
「中一だから何」
黒田は少しだけ笑った。
だが、余裕の笑みではない。
その数分後には、もう笑っていなかった。
しおりの終盤は深い。
坂本たちを見せしめのように終わらせたあとで、最後の一局に集中している。
黒田も耐えた。
受けた。
逃げ道を探した。
けれど、届かない。
しおりの最後の一手が落ちたとき、黒田は長く盤を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「……負けました」
「ありがとうございました」
三面指し、全勝。
それで終わった。
◇
誰もしばらく喋れなかった。
坂本は悔しさを隠しきれずに畳を睨み、佐原は呆然としていて、女子部員は「ほんとに勝った……」と小さく呟く。
黒田だけが、座ったまましおりを見上げた。
「天羽」
「しおりでいい」
「……しおり」
呼び直してから、黒田は少し苦く笑った。
「さっきの言葉、撤回させるつもりだったんだけどな」
「できなかったね」
「できなかった」
あっさり認めた。
その潔さに、坂本が顔を上げる。
部長が認めた。
なら、自分たちももう言い逃れはできない。
「でも」
黒田はそこで続けた。
「おままごと、って言われたのは、正直かなり効いた」
「うん」
「腹も立った」
「うん」
「……けど、盤の上で負けた以上は、半分当たってたってことなんだろうな」
しおりは少しだけ沈黙してから言った。
「半分じゃない」
「おい」
「全部」
坂本が「言い切るなよ!」と噛みつく。
だが、その声にはもう最初の軽さはない。
しおりは続けた。
「でも、今日までがそうだっただけ」
部室が静かになる。
「これからちゃんとやるなら、別」
黒田がその言葉を反芻するように繰り返す。
「……これから、か」
「そう」
「じゃあ訊くけど」
黒田が言う。
「お前、入るのか」
「入るよ」
しおりは迷わない。
「ただし、条件ある」
「また条件か」
「待ったなし。礼あり。感想戦あり。大会は勝つつもりで出る」
坂本が顔をしかめる。
「急に厳しくなりすぎだろ」
「勝ちたいなら普通」
「うっ」
言い返せない。
黒田は黙ってしおりを見ていたが、やがて小さく笑った。
「分かった」
「部長?」
「受けるよ」
黒田は立ち上がり、盤の前で部員たちを見回す。
「どうせ今日で、前までと同じ空気じゃいられない」
坂本が口を開く。
「それは……まあ、そうだけど」
「だったら変えるしかないだろ」
佐原も苦い顔で頷く。
「……三面指しでやられたままってのも、最悪だしな」
「でしょ」
しおりが言うと、坂本が即座に返した。
「お前ほんと腹立つな!」
その叫びで、ようやく部室に少し笑いが戻る。
だが、それはさっきまでの中身のない笑いではなかった。
悔しさを知ったあとで、それでも前を向くための笑いだった。
◇
その日の部活の終わり、黒田が出席ノートを閉じながら言った。
「じゃあ明日から、ちゃんとやる」
「うん」
「坂本」
「……はいよ」
「盤、片づける前に初期配置戻しとけ。明日から対局表も作る」
「マジで?」
「マジだ」
「佐原、お前は詰将棋の本持ってこい。棚の奥にあったやつ」
「なんで俺が」
「負けたから」
「理不尽!」
「しおり」
「なに」
「入部届、明日持ってこい」
「持ってくる」
その返事は短かったが、和室の空気には妙な重みがあった。
たった一日で全部が変わるわけじゃない。
坂本だって明日になればまた雑になるかもしれないし、佐原も面倒くさがるだろう。黒田もきっと全部を締め切れるわけではない。
けれど、今日を境に一度も何も変わらない、ということだけはもうなくなった。
しおりはそれで十分だった。
部室を出る前に、一度だけ振り返る。
三つの盤。
負けた先輩たち。
少しだけ引き締まった空気。
「次は、もっとちゃんとやろう」
しおりが言うと、坂本がすぐに返した。
「次は一局で勝つ」
「無理」
「言ったな!」
「本当のこと」
また小さく笑いが起きる。
黒田はそのやり取りを見ながら、半ば呆れたように、半ば感心したように呟いた。
「……とんでもない一年が入ってきたな」
しおりは何も答えず、襖を閉めた。
放課後の廊下は赤く染まり始めている。
窓の向こうからは、運動部の掛け声。
その中でしおりは静かに思った。
中学の将棋部は、思っていたよりぬるかった。
でも、ぬるいままなら、自分で熱を入れればいい。
大会でも勝つ。
凛々花にも勝つ。
学校の中でも、盤の上では誰にも合わせない。
おままごとの将棋は、今日で終わりだ。
そしてその終わりは、たぶん、将棋部にとっての最初の一手になる。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!