盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第十八話 おままごとの将棋はしない

 中学校の校舎は、小学校より少しだけ静かだった。

 

 もちろん、実際にはそんなことはない。

 休み時間になれば廊下は騒がしいし、運動部の声は窓を震わせる。教室では笑い声も上がるし、忘れ物をした誰かが階段を駆け上がっていく音もする。

 

 ただ、しおりにはそう感じられた。

 

 世界がひとつ狭まり、その代わり、ひとつ深くなったような感覚。

 子どもの延長ではいられなくなる場所。

 部活も、勉強も、人間関係も、小学校のときより少しずつ輪郭を持ち始める場所。

 

 中学一年生になった天羽しおりは、その空気を嫌いではなかった。

 

 授業は前より難しくなった。

 宿題も少し増えた。

 だが、それは問題ではない。

 

 将棋の時間をどう捻出するか。

 放課後をどう使うか。

 学校生活の中に、将棋のための最短距離をどう引くか。

 

 しおりが中学入学後、最初に真剣に考えたのは、その一点だった。

 

 ◇

 

「部活、どうするの?」

 

 入学して最初の週、夕食の席で真紀がそう聞いた。

 

 中学校では部活動への参加がほぼ当たり前になっている。絶対ではないにせよ、何かしら所属したほうが学校生活に馴染みやすい――そんな空気があった。

 

 恒一は味噌汁を飲みながら、いかにも分かりきったことを尋ねる顔をした。

 

「将棋部、あるんだろ?」

 

「ある」

 

 しおりは即答した。

 

「じゃあ決まりか」

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

 真紀が首をかしげる。

 

 しおりは箸を止め、少し考えてから答えた。

 

「ちゃんとしてるなら、入る」

 

「ちゃんとしてるなら?」

 

「遊びみたいなら、やだ」

 

 真紀と恒一が顔を見合わせる。

 

 言いたいことは伝わったらしい。

 しおりにとって将棋部は、学校生活の彩りではない。単なる所属先でもない。

 強くなるために使える場所かどうか、それだけが問題なのだ。

 

「まあ、見学してみればいいんじゃないか」

 

 恒一が言う。

 

「入ってみて違うと思ったら、そのとき考えれば」

 

「うん」

 

 しおりは頷いた。

 

 実際、その通りだった。

 見もしないで切るのは良くない。

 けれど、もしそこでぬるい将棋しか指せないなら、時間の使い方を考え直さなければならない。

 

 中学の三年間は短い。

 そして自分には、その先に奨励会がある。

 

 ◇

 

 将棋部の見学は、翌週の放課後だった。

 

 校舎の三階、特別教室棟の端にある和室。

 障子は半分だけ開いていて、入口には小さく【将棋部】と紙が貼られている。

 

 しおりは鞄を持ったまま、その前で一度だけ立ち止まった。

 

 中から聞こえてくるのは、駒音――ではなく、話し声だった。

 

「いや、それ反則だろ」

「反則じゃないって」

「待ったなしねー」

「え、ちょっと待って、やっぱ違う、今のなし」

 

 しおりの眉が、ぴくりと動く。

 

(……いやな予感)

 

 襖を開ける。

 

 部屋の中には、六人の生徒がいた。

 二年生らしい男子が三人。

 三年生らしい男子が二人。

 そして女子が一人。

 

 盤は三面。

 だが、どの盤も空気が軽い。

 

 ある卓では駒をつまんだまま笑い合い、別の卓では対局より雑談のほうが長い。

 詰将棋の本が置いてあるものの、きちんと読まれた形跡は薄い。

 姿勢もばらばらで、礼もない。

 

 もちろん、部活とはそういうものかもしれない。

 放課後に同じ趣味の仲間と集まり、ゆるく楽しむ。

 それ自体を悪いとは思わない。

 

 でも。

 

 しおりが欲しい場所ではない。

 

「見学?」

 

 奥にいた三年の男子が声をかけてきた。

 背は高いが、少し猫背。気安い口調だった。

 

「うん」

 

「一年?」

 

「そう」

 

「へえ。将棋できるの?」

 

 その訊き方で、しおりはだいたい察した。

 知っていて聞いているのではない。

 単に、新入生の女の子が来たから軽く話しかけただけだ。

 

「できる」

 

「ルール知ってるくらい?」

 

「……まあ」

 

 少し曖昧に答える。

 ここで自分から何かを誇る気はなかった。

 

 三年の男子は笑った。

 

「じゃ、初心者でも全然大丈夫だよ。うち、ゆるいし」

 

 その“ゆるい”という言葉に、しおりの中で何かが冷えた。

 

「大会とかも、出たい人だけだし。勝ち負けっていうより楽しくやろうって感じ」

 

 別の二年生が言う。

 

「女の子少ないから歓迎するよ」

 

 女子部員も柔らかく笑った。

 

 悪意はない。

 誰も悪人ではない。

 ただ、決定的に噛み合わない。

 

 しおりは部屋の中央に並ぶ盤を見渡した。

 

 雑な駒音。

 待ったあり。

 勝負の温度がない笑い声。

 負けても悔しがるより先に「もう一回」が軽く出る空気。

 

 それを見て、しおりははっきり理解した。

 

 ここは、強くなるための場所ではない。

 

 ◇

 

「じゃあ、とりあえず一局やってみる?」

 

 三年の男子が言った。

 

「一年生の歓迎戦みたいな」

 

 しおりは視線を戻した。

 

「だれと?」

 

「俺でもいいし、こいつらでもいいし」

 

「部長、やれば?」

 

「いやいや、見学なんだから気楽にね」

 

 気楽に。

 

 その言葉が、しおりの耳には妙に引っかかった。

 

 将棋を気楽に指すこと自体は悪くない。

 でも、対局に座っている以上、盤の上にだけは最低限の真剣さがあってほしい。

 

 勝つ気もなく、負けても何も残さず、待ったや笑いで流して終わるなら、それは自分にとって将棋ではない。

 

「……いいよ」

 

 しおりは静かに言った。

 

「一局だけなら」

 

「お、じゃあ俺やるわ」

 

 二年生の男子が前へ出てきた。

 肩で風を切るような歩き方をする、少し勝ち気な顔の子だった。

 

「坂本っていいます。よろしく」

 

「天羽しおり」

 

「へえ、名字だけじゃなくて名前まで言うんだ」

 

 その軽口に、しおりは何も返さなかった。

 

 盤を挟んで向かい合う。

 礼は、しおりのほうからした。

 

「お願いします」

 

「あ、はい。お願いします」

 

 相手が少し慌てて礼を返す。

 部室の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 初手から、しおりは手加減しなかった。

 

 する理由がない。

 

 坂本の将棋は、弱くはなかった。

 少なくとも初心者ではない。

 形も知っているし、基本的な手筋もある。学校の部活レベルなら、たぶん強いほうなのだろう。

 

 けれど甘い。

 

 駒の連結が薄い。

 相手の狙いへの感度が鈍い。

 何より、自分が良くなることばかり見ていて、相手に何をされるかの視点が浅い。

 

 三十手もいらなかった。

 

「えっ」

 

 坂本の顔が止まる。

 

「……うそ」

 

 しおりは盤を見たまま言った。

 

「詰み」

 

 部室が静かになった。

 

「ちょ、ちょっと待って」

 

「待たない」

 

「いや今のはさすがに」

 

「待たないって言った」

 

 しおりの声は小さい。

 だが、さっきまでの部室の軽さをその一言で切り裂くには十分だった。

 

 坂本は盤を見て、数秒後にようやく頭を下げた。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

 しおりは礼を返し、すぐに立ち上がろうとした。

 

 だが、それで終わりにはならなかった。

 

「ちょっと待ってよ」

 

 今度は別の二年生が口を開いた。

 

「たまたまでしょ」

 

 しおりはその子を見る。

 

「たまたま?」

 

「坂本、油断してたし。ていうか一年でそんなムキになる?」

 

 その言い方に、三年生の部長らしき男子が「おい」と小さく制したが、もう遅かった。

 

 しおりの中で、何かがすっと冷える。

 

「ムキ?」

 

「いや、だってさ」

 

 その二年生は半笑いだった。

 

「部活ってもっと楽しくやるもんじゃん。そんなガチガチで来られても困るっていうか」

 

 坂本の「部活ってもっと楽しくやるもんじゃん」という言葉に、しおりはしばらく何も返さなかった。

 

 和室の空気は軽いままだった。

 畳の上には駒が散り、盤の横には開きっぱなしの棋書が伏せられ、対局中のはずの盤面ですら、もう半分は雑談の小道具みたいになっている。

 

 その景色を、しおりは静かに見回した。

 

 ここにいる全員が将棋を嫌いなわけではない。

 むしろ好きなのだろう。

 だから部活に入っている。

 

 けれど、好きであることと、勝負として向き合っていることは違う。

 

 その違いが、しおりには我慢ならなかった。

 

「……楽しく、は別にいいよ」

 

 小さな声だった。

 だが、さっきまでの空気を切るには十分だった。

 

「でも」

 

 しおりは盤の前に座ったまま、真っ直ぐ坂本を見る。

 

「勝つ気がないのは、将棋じゃない」

 

「は?」

 

 坂本が眉を吊り上げる。

 

「なんだよそれ」

 

「そのまま」

 

 しおりは言った。

 

「待ったして、負けそうになったら笑ってごまかして、終わったらなんとなく片づけて。そういうの、わたしは指さない」

 

「おい」

 

 今度は部長が低い声を出した。

 先ほどまでより少し強い調子だった。

 

「言い方考えろ」

 

「考えてるよ」

 

「それでか?」

 

「うん」

 

 しおりは一歩も引かなかった。

 

「わたし、おままごとの将棋を指すつもりないから」

 

 部室が、しんと静まり返る。

 

 さっきの「楽しくやる」より、この言葉のほうがよほど決定的だった。

 ただ厳しいだけではない。

 この部のやり方そのものを、将棋として認めていない。

 

 そう言い切ったに等しい。

 

 坂本が立ち上がる。

 

「言ったな」

 

「言った」

 

「一年のくせに」

 

「一年だから何」

 

「……っ」

 

 言い返そうとして、言葉に詰まる。

 しおりがまるで怖がっていないからだ。

 

 部長が間に入ろうとするより先に、しおりのほうが先に口を開いた。

 

「そんなに気に入らないなら、証明して」

 

「証明?」

 

「みんながちゃんと将棋指せるってこと」

 

 しおりはゆっくり立ち上がった。

 畳の上に置かれた三つの盤を見る。

 

「一局ずつじゃ、時間がもったいない」

 

 その一言に、全員が眉をひそめる。

 

「……何言ってんの」

 

 女子部員が半分呆れたように言う。

 

 しおりは、盤を順番に指差した。

 

「三面指しする」

 

 数秒、誰も意味を理解できなかった。

 

「は?」

 

 坂本が間の抜けた声を出す。

 

「三人同時」

 

 しおりは繰り返す。

 

「坂本先輩と、そっちの先輩と、部長。三人まとめて」

 

 今度こそ、本当に部室の空気が止まった。

 

「おいおい……」

 

 三年の部長が苦笑しかけて、笑えなかった。

 

「本気で言ってるのか?」

 

「本気」

 

「お前、自分が何言ってるか分かってる?」

 

「分かってる」

 

 しおりの声に揺れはなかった。

 

「わたしが勝ったら、ここでちゃんと将棋するって認めて」

 

 坂本が顔をしかめる。

 

「じゃあ負けたら?」

 

「入らない」

 

 即答だった。

 

「この部には入らないし、さっきの言葉も取り消さない」

 

 それは挑発であり、宣言でもあった。

 

 もう逃げ道はない。

 しおりは自分から橋を焼いた。

 

 坂本の頬がひくりと動く。

 怒っている。

 だが、その怒りの下に、別の感情も混じっていた。

 

 舐められている。

 試されている。

 そして、盤の上でひっくり返されるかもしれない怖さが、ほんの少しだけある。

 

「いいじゃん」

 

 先に答えたのは、もう一人の二年生だった。

 

 坂本ほど感情を露わにするタイプではないが、口元が引きつっている。

 

「そこまで言うなら、やろうよ」

 

「部長」

 

 坂本も振り向く。

 

 部長は数秒黙ったまま、しおりを見つめていた。

 小さい。

 中学一年の女子。

 見た目だけなら、三面指しを要求する側ではない。

 

 なのに、目だけがまるで違った。

 

 冗談じゃない。

 意地でもない。

 本当に、自分たち三人を同時にねじ伏せるつもりでいる目だった。

 

「……分かった」

 

 部長は静かに言った。

 

「受ける」

 

「部長!」

 

「ここまで言われて断ったら、それこそ終わりだ」

 

 それは将棋部の面子ではなく、もっと単純な勝負の話だった。

 

「ただし」

 

 部長が言う。

 

「あとで泣いても知らないぞ」

 

「泣くのはそっちかも」

 

 しおりが言った瞬間、坂本が「上等だよ」と吐き捨てた。

 

     ◇

 

 三面の盤が、横一列に並べられた。

 

 中央にしおり。

 向かいに坂本、二年の佐原、そして部長の黒田。

 

 女子部員と残りの一人は壁際へ下がる。

 もはや見学ではない。

 部活の空気を賭けた勝負になっていた。

 

「条件ある?」

 

 黒田が聞く。

 

「ない」

 

 しおりは言う。

 

「ただ、待ったなし」

 

「……分かった」

 

「感想戦はあと」

 

「勝った気かよ」

 

 坂本が吐き捨てる。

 

「勝つつもりでやるから」

 

 しおりは答えた。

 

 そして三つの盤へ、それぞれきちんと礼をした。

 

「お願いします」

 

 三人も遅れて礼を返す。

 

「お願いします」

 

 駒音が鳴った。

 

 最初の十手は、三人とも慎重だった。

 

 当然だ。

 怒りに任せて突っ込めば負ける。さっき坂本がそれを身をもって知ったばかりだ。

 それに、三面指しという形式が厄介だった。

 

 しおりは中央の立ち位置から、一手ごとに盤を渡る。

 坂本へ一手。

 佐原へ一手。

 黒田へ一手。

 

 足を止めない。

 視線も迷わない。

 まるで三局が最初からひとつの盤であるかのように、自然に回っていく。

 

「……速っ」

 

 女子部員が思わず漏らす。

 

 速いだけではない。

 置かれる手が全部、嫌な場所を突いていた。

 

 坂本の盤では、攻め急ぎを逆用するように陣形の綻びへ針を刺し、

 佐原の盤では、教科書通りの形を少しずつずらして将来の悪形を作り、

 黒田の盤では、こちらから無理をせず、相手の判断を問う形を積み上げていく。

 

 しおりの中では、すでに優先順位が決まっていた。

 

(最初に崩れるのは坂本)

 

 感情が盤に出る。

 強くなりたい人間には必要な熱だが、怒ったままでは読みが荒くなる。

 

(次が佐原)

 

 形を知っているぶん、誘導に弱い。

 自分の知っている筋から少し外れると、途端に指が止まる。

 

(最後が黒田)

 

 一番マシ。

 でも、一番マシなだけ。

 

     ◇

 

 先に崩れたのは、予想通り坂本だった。

 

「え?」

 

 たった一手で顔色が変わる。

 

「ちょ、待っ――」

 

「待たない」

 

 しおりが即座に切る。

 

「自分で言ったでしょ、待ったなしって」

 

「くそ……!」

 

 坂本は受ける。

 だが、その受けがすでに遅い。

 

 しおりは次の盤へ移り、佐原と二手交わし、黒田に嫌味な一手を置いてから戻ってきた。

 

 坂本の玉はもう、逃げ道を失っている。

 

「詰み」

 

 短く言われて、坂本は唇を噛む。

 

 盤を睨み、睨み、ようやく頭を下げた。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

 しおりは礼だけ返して、もう振り返らない。

 残り二面へそのまま歩く。

 

 坂本の敗北は、部室の温度を一気に変えた。

 

 偶然じゃない。

 勢いでもない。

 この一年は、本当に三面指しで勝ちにきている。

 

     ◇

 

 二面目、佐原は明らかに焦っていた。

 

 自分の番になるたび、指が少し遅い。

 考えているのではない。

 迷っている。

 

 しおりはそこを逃さない。

 

「……うそだろ」

 

 佐原がこぼす。

 

 守ったつもりの場所に、次の瞬間には別の綻びが生じている。

 しおりの将棋は、相手の手を否定するのではなく、相手が正しいと思って選んだ手の価値をその場で下げていく。

 

 それが何度も続くと、自信が剥がれる。

 

 佐原の顔が引きつる。

 黒田のほうへ視線を飛ばしかけて、すぐに戻す。

 助けはない。

 

 数手後。

 

「……負けました」

 

 佐原も頭を下げた。

 

 これで二面。

 

 部室に残った緊張は、もうひとつの盤へ全部集まった。

 

     ◇

 

 黒田は、ここまで一言も無駄口を叩かなかった。

 

 盤面を見ている。

 真剣に。

 たぶん、ようやく理解したのだろう。

 

 これはただの喧嘩ではない。

 自分たちがどんな部活をしてきたのかを、盤上で突きつけられているのだと。

 

「……大したもんだよ」

 

 黒田が低く言う。

 

「二面潰して、まだ息も乱れてない」

 

「まだ一局残ってる」

 

「分かってる」

 

 黒田の将棋は、さすがに一番しぶとかった。

 

 駒組みに無駄が少ない。

 中盤で崩れない。

 派手には来ない代わりに、こちらの読みを空振らせようとする。

 

 しおりは少しだけ楽しくなってきていた。

 

 この人は、ちゃんと鍛えれば伸びる。

 部の空気に流されてぬるくなっていただけで、根っこのところでは将棋を勝負として見られる人間だ。

 

 だからこそ、ここで折る価値がある。

 

 しおりは一度、わざと踏み込んだ。

 黒田なら食いつく。

 そう読んだ通り、黒田はその踏み込みを受けず、逆に手を伸ばしてきた。

 

(やっぱり)

 

 悪くない。

 

 だが、それでいい。

 

 しおりはそこで局面をねじった。

 

 均衡だった盤面が、一気に終盤の匂いを帯びる。

 黒田の眉が寄る。

 ここで戦いを起こされるとは思っていなかったのだろう。

 

「ここで来るのか」

 

「来るよ」

 

「一年の踏み込みじゃないな」

 

「中一だから何」

 

 黒田は少しだけ笑った。

 だが、余裕の笑みではない。

 

 その数分後には、もう笑っていなかった。

 

 しおりの終盤は深い。

 坂本たちを見せしめのように終わらせたあとで、最後の一局に集中している。

 黒田も耐えた。

 受けた。

 逃げ道を探した。

 

 けれど、届かない。

 

 しおりの最後の一手が落ちたとき、黒田は長く盤を見つめ、ゆっくり息を吐いた。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

 三面指し、全勝。

 

 それで終わった。

 

     ◇

 

 誰もしばらく喋れなかった。

 

 坂本は悔しさを隠しきれずに畳を睨み、佐原は呆然としていて、女子部員は「ほんとに勝った……」と小さく呟く。

 

 黒田だけが、座ったまましおりを見上げた。

 

「天羽」

 

「しおりでいい」

 

「……しおり」

 

 呼び直してから、黒田は少し苦く笑った。

 

「さっきの言葉、撤回させるつもりだったんだけどな」

 

「できなかったね」

 

「できなかった」

 

 あっさり認めた。

 

 その潔さに、坂本が顔を上げる。

 部長が認めた。

 なら、自分たちももう言い逃れはできない。

 

「でも」

 

 黒田はそこで続けた。

 

「おままごと、って言われたのは、正直かなり効いた」

 

「うん」

 

「腹も立った」

 

「うん」

 

「……けど、盤の上で負けた以上は、半分当たってたってことなんだろうな」

 

 しおりは少しだけ沈黙してから言った。

 

「半分じゃない」

 

「おい」

 

「全部」

 

 坂本が「言い切るなよ!」と噛みつく。

 だが、その声にはもう最初の軽さはない。

 

 しおりは続けた。

 

「でも、今日までがそうだっただけ」

 

 部室が静かになる。

 

「これからちゃんとやるなら、別」

 

 黒田がその言葉を反芻するように繰り返す。

 

「……これから、か」

 

「そう」

 

「じゃあ訊くけど」

 

 黒田が言う。

 

「お前、入るのか」

 

「入るよ」

 

 しおりは迷わない。

 

「ただし、条件ある」

 

「また条件か」

 

「待ったなし。礼あり。感想戦あり。大会は勝つつもりで出る」

 

 坂本が顔をしかめる。

 

「急に厳しくなりすぎだろ」

 

「勝ちたいなら普通」

 

「うっ」

 

 言い返せない。

 

 黒田は黙ってしおりを見ていたが、やがて小さく笑った。

 

「分かった」

 

「部長?」

 

「受けるよ」

 

 黒田は立ち上がり、盤の前で部員たちを見回す。

 

「どうせ今日で、前までと同じ空気じゃいられない」

 

 坂本が口を開く。

 

「それは……まあ、そうだけど」

 

「だったら変えるしかないだろ」

 

 佐原も苦い顔で頷く。

 

「……三面指しでやられたままってのも、最悪だしな」

 

「でしょ」

 

 しおりが言うと、坂本が即座に返した。

 

「お前ほんと腹立つな!」

 

 その叫びで、ようやく部室に少し笑いが戻る。

 

 だが、それはさっきまでの中身のない笑いではなかった。

 悔しさを知ったあとで、それでも前を向くための笑いだった。

 

     ◇

 

 その日の部活の終わり、黒田が出席ノートを閉じながら言った。

 

「じゃあ明日から、ちゃんとやる」

 

「うん」

 

「坂本」

 

「……はいよ」

 

「盤、片づける前に初期配置戻しとけ。明日から対局表も作る」

 

「マジで?」

 

「マジだ」

 

「佐原、お前は詰将棋の本持ってこい。棚の奥にあったやつ」

 

「なんで俺が」

 

「負けたから」

 

「理不尽!」

 

「しおり」

 

「なに」

 

「入部届、明日持ってこい」

 

「持ってくる」

 

 その返事は短かったが、和室の空気には妙な重みがあった。

 

 たった一日で全部が変わるわけじゃない。

 坂本だって明日になればまた雑になるかもしれないし、佐原も面倒くさがるだろう。黒田もきっと全部を締め切れるわけではない。

 

 けれど、今日を境に一度も何も変わらない、ということだけはもうなくなった。

 

 しおりはそれで十分だった。

 

 部室を出る前に、一度だけ振り返る。

 

 三つの盤。

 負けた先輩たち。

 少しだけ引き締まった空気。

 

「次は、もっとちゃんとやろう」

 

 しおりが言うと、坂本がすぐに返した。

 

「次は一局で勝つ」

 

「無理」

 

「言ったな!」

 

「本当のこと」

 

 また小さく笑いが起きる。

 

 黒田はそのやり取りを見ながら、半ば呆れたように、半ば感心したように呟いた。

 

「……とんでもない一年が入ってきたな」

 

 しおりは何も答えず、襖を閉めた。

 

 放課後の廊下は赤く染まり始めている。

 窓の向こうからは、運動部の掛け声。

 その中でしおりは静かに思った。

 

 中学の将棋部は、思っていたよりぬるかった。

 でも、ぬるいままなら、自分で熱を入れればいい。

 

 大会でも勝つ。

 凛々花にも勝つ。

 学校の中でも、盤の上では誰にも合わせない。

 

 おままごとの将棋は、今日で終わりだ。

 

 そしてその終わりは、たぶん、将棋部にとっての最初の一手になる。




### あとがき

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。

また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。

いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。

それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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