中学に入って最初の大きな山は、個人戦ではなく団体戦だった。
文部科学大臣杯につながる、中学全国将棋大会の地区予選。
同じ学校の三人で一組を組み、三面同時に対局し、二勝した側が勝ち上がる。
その日はベスト8までを決め、後日、その八校で地区代表の座を争う。
個人戦とは空気が違う。
自分が勝てば終わりではない。
自分が負けても、仲間が勝てば前へ進める。
逆に、自分が勝っても、他の二面が落ちれば終わる。
しおりはその形式を嫌いではなかった。
むしろ、面白いと思っていた。
将棋は一対一の勝負だ。
盤の前では誰も助けてくれない。
それでも団体戦になると、盤の外にだけ仲間がいる。
その矛盾が、少しだけ好きだった。
◇
問題は、しおりが一年生だということだった。
この学校の将棋部には、昔から妙な伝統があった。
中学団体戦の代表は、原則として二年生以上から選ぶ。
一年生は見学か、補欠。
どれだけ強くても、本戦の空気を知るのは来年から――そんな古い慣習だ。
「馬鹿みたいだよね」
しおりは放課後の部室で、はっきりそう言った。
「言い方」
坂本がすぐに突っ込む。
「でも実際そうだろ」
黒田は苦笑しながら腕を組んだ。
「伝統っていうか、前から何となくそうなってただけなんだよ。新入生はまず慣れてから、みたいな」
「慣れる必要ある?」
「お前にはない」
それはもう、部内の共通認識だった。
覇王。
小学生時代の全戦全勝。
参加大会三百超。
アマ竜王優勝。
そんな怪物に「一年生だから団体戦はまだ早い」は、もはや冗談にもならない。
顧問の三枝も、さすがにそこは即決だった。
「特例で出す」
職員室での部内面談のとき、三枝は書類を見ながらきっぱり言った。
「というか、出さない理由がない」
「他の先生とか言わないんですか」
黒田が少しだけ心配そうに聞く。
「言わせておけ。勝つために最善を選ぶのが顧問の仕事だ」
三枝は眼鏡を押し上げてから、しおりを見た。
「天羽」
「なに」
「団体戦だからといって、一人で全部やろうとするな」
「無理だよ」
しおりは即答した。
「三面あるんだから」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
しおりは静かに返した。
たしかに団体戦は、個人戦とは違う。
だが盤の上でやることは結局同じだ。
目の前の相手を倒す。
それだけでいい。
代表は、黒田、坂本、そしてしおりになった。
黒田が大将。
坂本が中堅。
しおりが副将。
最初は「一年を副将に置くのかよ」と坂本がぶつぶつ言っていたが、誰もその配置に本気で文句は言えなかった。
部内で一番勝率が高いのがしおりなのだから、実力順に置けば当然そうなる。
「絶対に二つ取ればいいんだよな」
大会前日、坂本が言った。
「簡単に言えばな」
黒田が答える。
「簡単に言えば?」
「実際は簡単じゃないってことだよ」
「知ってる」
坂本はそう言いながらも、少しだけ落ち着かない顔をしていた。
個人戦とは違う。
自分が勝つだけでは足りないし、自分の負けがそのままチームを揺らす。
しかも今回は、しおりがいることで周囲の視線まで集まる。
学校の代表というより、覇王のいる学校として見られるだろう。
その重さを、坂本なりに感じているのだ。
◇
大会当日。
会場は地区の大きな公民館だった。
広いホールに長机が並べられ、対局番号が貼られ、参加校の生徒たちが思い思いの位置で準備をしている。
三人一組のチームが並ぶ光景は、個人戦とはまた違う圧があった。
制服姿の中学生たち。
顧問たち。
保護者。
将棋連盟のスタッフ。
ざわめきはある。
だが、そのざわめきの下には、勝負の緊張がきれいに沈んでいる。
「うわ……」
坂本が小さく声を漏らした。
「思ったよりいるな」
「地区予選だからね」
黒田が答える。
「ここからベスト8まで絞るんだろ。そりゃ多い」
しおりは会場を見回した。
知らない顔。
初めて見る学校名。
そして、その中に、知っている顔がいくつもあった。
小学生時代に当たった相手たち。
低学年の大会で泣きながら負けた子。
高学年オープンでしおりに寄せ切られた子。
交流戦で何度か当たり、そのたびに一手差で沈んだ子。
彼らもまた、中学生になってここへ来ている。
そして、しおりを見つけた瞬間、その表情が変わった。
「あ……」
「まじかよ」
「なんでいるんだよ……」
「一年だろ、あいつ」
声は小さい。
けれど、しおりには十分聞こえる距離だった。
絶望。
それが一番近い感情だろうと、しおりは思った。
無理もない。
小学生時代、ずっと優勝を奪い続けた相手が、今度は中学の団体戦にまで出てくるのだ。
しかも、ただ出てくるだけではない。三人戦の一角として確実に一勝を計算される位置にいる。
「知り合い?」
坂本が横目で聞く。
「昔の相手」
「うわ……相手校かわいそう」
「まだ始まってないよ」
「始まる前から終わった顔してるやついるぞ」
たしかにいた。
別の学校の副将席あたりにいる男子が、しおりと目が合った瞬間、ほんの少し肩を落とした。
しおりはその顔に見覚えがあった。小六の終わりごろ、県大会の準決勝で当たった相手だ。序盤研究で外してきたのに、最後は一手足りずに負けた。
あのときも、負けたあとで盤をしばらく見つめていた。
中学に入っても出てくるのは偉い。
だが、再会の感想としては最悪だろう。
◇
開会式が始まる。
大会の趣旨。
団体戦のルール。
三人一組であること。
二勝したチームの勝ちであること。
本日はベスト8まで進出校を決め、後日に代表決定戦を行うこと。
しおりは椅子に座ってそれを聞き流しながら、指先で膝を軽く叩いていた。
視線を感じる。
他校の生徒たちから。
顧問たちから。
ときには保護者からも。
天羽しおり。
覇王。
アマチュア界の怪物。
そんな噂が中学団体戦の場にまで流れ込んでいるのだろう。
別に構わない。
見たければ見ればいい。
結局、盤の前では一人だ。
黒田が小さな声で言った。
「しおり」
「なに」
「今日、変に目立つかもしれないけど」
「いつものこと」
「そうだけど、団体戦だからな」
「分かってる」
しおりは前を向いたまま答える。
「一勝取る」
「頼もしいな」
「坂本先輩も勝って」
「プレッシャーえぐいな、お前!」
それでも坂本は少し笑った。
緊張がほどけたわけではない。
ただ、いつものしおりの調子が逆に助けになっている。
◇
一回戦。
相手は市内の公立中だった。
部員数もそこそこ多く、団体戦に慣れていそうな顔ぶれ。
だが副将席に座った男子は、しおりを見た瞬間、明らかに顔が引きつった。
「……天羽」
小声だった。
「ひさしぶり」
しおりが言うと、相手は苦笑いのようなものを浮かべた。
「最悪だ」
「そう?」
「そうだよ」
その正直さに、しおりは少しだけ口元を緩めた。
「お願いします」
「お願いします」
対局が始まる。
相手は慎重だった。
小学生時代の記憶があるのだろう。簡単に乱戦に付き合わず、まずは形を作ってくる。悪くない選択だ。
だが、いまのしおりは小学生の頃よりもっと速い。
ネット将棋で浴びた現代の速度。
棋譜並べで吸い込んだ中盤感覚。
凛々花との何年もの激戦で磨いた終盤。
それら全部が、ゆっくり形を作ろうとする相手の将棋に噛み合ってしまう。
中盤でしおりが歩を叩いた瞬間、相手の表情が固まった。
その一手はただの攻めではなく、数手先で陣形全体を歪ませる楔だった。
「……うそだろ」
声に出ていた。
しおりは返さない。
盤の上で答えるだけだ。
十分後。
二十分後。
相手はよく粘った。
けれど最後は、やはり一手足りなかった。
「……負けました」
「ありがとうございました」
顔を上げると、坂本のほうも勝っていた。
黒田はまだ終盤のねじり合いだが、もう二勝している。
一回戦突破。
団体戦の初陣としては、上々だった。
◇
二回戦、三回戦と進むにつれ、周囲の空気はますます露骨になった。
「ほんとに出てる……」
「副将に天羽がいる学校、当たりたくねえ」
「一勝計算されるのきつすぎるだろ」
他校の生徒たちのそんな声が、控えスペースのあちこちでひそやかに交わされる。
しおりは気にしなかった。
ただ、黒田と坂本には確実に効いていた。
「なんか、俺たちまで怪物チームみたいに見られてない?」
二回戦のあと、坂本が紙コップの水を飲みながら言う。
「見られてるよ」
しおりが即答する。
「即答すんな」
「事実だから」
黒田は苦笑しつつも、少しだけ肩をすくめた。
「でも悪くない。相手が先に固くなってくれるなら助かる」
「黒田先輩、ちょっと頼もしくなったね」
「誰のせいだと思ってる」
「わたし」
「そうだよ」
三人の空気は、以前よりずっとまとまっていた。
しおりが絶対的な勝ち頭であることは変わらない。
だが、それだけでは団体戦は勝てない。
坂本が一本取る。
黒田が崩れない。
その積み重ねで、チームは前へ進む。
三回戦の相手校には、しおりの小学生時代の宿敵候補のひとりがいた。
小学六年の高学年オープンで何度も当たり、毎回あと一歩まで追い詰めてきた男子だ。
しおりを見た瞬間、相手は露骨に天を仰いだ。
「うわ、終わった……」
「まだ始まってないよ」
「お前がいる時点で半分終わってるんだよ」
その言い方に、坂本が横で吹き出しそうになるのを堪えていた。
だが対局が始まれば、笑える余裕はなくなる。
相手は強かった。
小学生時代より明らかに伸びている。
こちらの得意なもつれに付き合わず、受けるべきところを受け、急所だけを外してくる。
(いい)
しおりは内心で思う。
こうでなくてはつまらない。
中盤、しおりは一度だけ押し込まれた。
形勢が揺れる。
相手にも勝ち筋が見えたのだろう、指先に熱が乗る。
だが、その熱が最後には命取りになる。
しおりは薄い受けを一枚利かせ、相手の読みの土台を半手だけずらした。
そこから終盤で一気にひっくり返す。
「……またかよ」
相手が苦く笑う。
「また」
しおりは短く返した。
「ありがとうございました」
また勝った。
そして、また相手に絶望を残した。
◇
気づけば、ベスト8決めだった。
ここを勝てば、今日は終わり。
後日の代表決定戦へ進める。
相手校は、地区の強豪として知られる私立中だった。
三面とも手強い。
見た目の落ち着きからして違う。
「ここが山だな」
黒田が小さく言う。
「勝てばベスト8だ」
「勝つよ」
しおりは即答した。
「お前さ、その迷いのなさ、たまに羨ましいわ」
坂本が乾いた笑いをこぼす。
「先輩は迷うの?」
「迷うに決まってんだろ」
「じゃあ、わたしが先に勝つから」
「またプレッシャー!」
でも、その言葉が坂本の背中を押したのも事実だった。
対局開始。
副将席の相手は、しおりを知っていた。
知っているどころか、どうやらかなり調べてきている。序盤から露骨に研究を外してきた。
(へえ)
悪くない。
怖がるだけじゃなく、ちゃんと対策してくる。
だが、対策は対策でしかない。
実戦の熱の中で、それを最後まで正確に運べるかは別だ。
盤面は中盤で大きくねじれた。
相手の研究が刺さる。
こちらも受けるだけでは悪い。
なら、別の戦場を作るしかない。
しおりは王の薄さを承知で踏み込んだ。
相手の目が揺れる。
その揺れで十分だった。
終盤、しおりは一手一手を積み上げ、最後は鋭く寄せ切った。
「……負けました」
「ありがとうございました」
顔を上げた瞬間、ちょうど坂本の卓からも「負けました」が聞こえた。
一瞬、胸が冷える。
一勝一敗。
残るは黒田。
団体戦らしい重さが、ようやく本気でのしかかってくる。
しおりと坂本は声を出せない。
ただ盤を見るしかない。
黒田の将棋は苦しかった。
だが崩れない。
受けて、受けて、最後に相手の焦りを誘う。
以前の黒田なら、ここで受け損ねて終わっていたかもしれない。
だが今は違う。
しおりとの日々で、部長は確かに変わっていた。
終盤、相手が決めにきた一手に対して、黒田は冷静に受けた。
そして数手後、相手の攻めが切れる。
「……勝ちました」
黒田が小さく言った瞬間、坂本が思わず拳を握る。
「っしゃあ!」
すぐに口を押さえたが、もう遅い。
スタッフに睨まれ、坂本は慌てて頭を下げた。
それでも、勝ちは勝ちだ。
ベスト8進出。
◇
対局表に、自分たちの学校名がベスト8として書き込まれる。
後日行われる代表決定戦への進出が確定したのだ。
会場の空気が少しだけ変わる。
ここまで来ると、もう偶然ではない。
しおりのいるチームは本物だと、誰もが認めざるを得ない。
「やったな」
黒田が息を吐く。
「やりましたね、部長」
西野が控え席から駆け寄ってくる。今日は応援と記録係として来ていたのだ。
「坂本先輩も勝ったし、黒田先輩も最後すごかったです」
「しおりが先に終わるから、胃が痛かったわ……」
坂本が本音を漏らす。
「わたしのせいじゃないよ」
「半分くらいお前のせいだよ!」
「残り半分は?」
「俺が弱いせい!」
そのあまりに正直な叫びに、黒田が笑い、しおりもほんの少しだけ口元を緩めた。
顧問の三枝が近づいてくる。
「よくやった」
三人とも姿勢を正した。
「今日は予定通りベスト8まで。次が本番だ」
「はい」
黒田が答える。
三枝はしおりへ視線を向けた。
「全勝か」
「うん」
「当然みたいな顔をするな」
「当然だから」
三枝は一瞬呆れ、それから小さく笑った。
「まったく……」
だが、その顔には誇らしさもあった。
他校の生徒たちは帰り支度をしながら、まだこちらを見ている。
小学時代の顔見知りたちも、遠巻きにしおりを見ていた。
絶望。
悔しさ。
諦めの悪い敵意。
いろんなものが混ざった視線だった。
しおりはそれを受けながら、静かに思う。
中学でも変わらない。
大会に出る。
勝つ。
また次へ進む。
ただ、今は少しだけ違う。
一人ではない。
黒田がいて、坂本がいて、同じ学校の名前を背負って前へ進む。
それは悪くなかった。
しおりは対局表のベスト8の欄を見上げる。
今日はここまで。
次は後日、地区代表決定戦。
当然、勝ちにいく。
小学生時代の相手が絶望するのも構わない。
中学生の団体戦で目立つのも構わない。
自分は止まらない。
盤の上で勝ち続ける。
そうして、その先へ行く。
竜王まで続く道の途中に、このベスト8もまた、ひとつの通過点でしかなかった。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!