盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第二十二話 覇王包囲網

 翌朝。

 

 地区代表決定戦の会場となる市立総合体育館は、前日とは空気の重さがまるで違っていた。

 

 同じ床。

 同じ将棋盤。

 同じ長机。

 

 だというのに、そこに集まっている面々が違うだけで、空間そのものが張りつめて見える。

 

 ベスト8まで勝ち上がった八校。

 

 どこも偶然で残った学校ではない。昨日までに敗れ去った無数の学校を踏み越え、それぞれの三人が勝利を積み重ねてここへ来た猛者たちだ。エースが一枚強いだけでは勝ち上がれない。三人のバランス、勝負どころで崩れない胆力、そして団体戦ならではの空気。そうしたものをすべて持ち合わせた学校だけが、今日この場に立っていた。

 

 にもかかわらず。

 

 受付を済ませ、各校が待機列へ向かう中で、会場の視線は奇妙なほど一か所に集まっていた。

 

 天羽しおり。

 

 中学一年。

 小柄な体。

 肩までの髪。

 どこにでもいそうな少女。

 

 だが、その小さな背に注がれる視線は、明らかに普通の一年生へ向けられるものではなかった。

 

「……やっぱり来てる」

「当たり前だろ。昨日、見ただろ?」

「見たけどさ……現実感がねえんだよ」

「覇王だぞ」

「小学生の頃、一回も負けてないって噂の?」

「噂じゃない。事実だ」

 

 ひそひそ声は小さい。

 

 だが、それでもしおりの耳には届いていた。

 

 気にした様子はない。

 ただ静かに、自校の待機場所へ向かうだけだ。

 

 坂本と黒田は、その背中に向けられる視線の密度に改めて息を呑んでいた。

 

「……昨日よりひどいな」

 

 黒田が低く言う。

 

「全校、完全にしおりを見てる」

 

「見てる、じゃないな」

 

 坂本は短く答えた。

 

「測ってる」

 

 その言葉は正しかった。

 

 恐れているだけではない。

 警戒しているだけでもない。

 

 ここにいる七校は全員、しおりという存在をどう処理するか、その一点を軸に今日の勝敗を計算していた。

 

 一将をどうするか。

 いや、それ以前に。

 

 天羽しおりに当たった時点で、一敗を前提に二勝を拾う構図をどう組むか。

 

 団体戦として最悪なのは、未知の脅威だ。

 その点で言えば、しおりは最悪を通り越していた。

 

 知られている。

 広く。

 深く。

 しかも悪い意味で。

 

 小学生時代、誰一人として黒星を与えられなかった怪物。

 出れば勝つ。

 勝てば優勝する。

 負けないどころか、勝負の最中に相手の心を折る。

 

 “覇王”。

 

 それは持ち上げた異名ではない。

 抵抗した者たちが、最後に残した敗北の総称だった。

 

 しおりは割り当てられた席に荷物を置くと、静かに盤面表へ視線を向けた。

 

 本日の組み合わせが張り出されている。

 

 一回戦。

 二回戦。

 準決勝。

 代表決定戦。

 

 今日だけで、すべてが決まる。

 

 坂本が隣で唾を飲み込んだ。

 

「初戦から重いな……」

 

 相手校の名前を見て、黒田も顔をしかめる。

 

「あそこ、二将と三将が固いって有名な学校だろ」

 

「だからこそだ」

 

 坂本は表から目を離さない。

 

「向こうから見れば、“しおりで一敗は仕方ない。残り二つを取り切る”って一番割り切りやすい相手だ」

 

 団体戦において、エースが圧倒的に強いだけでは勝ち切れない。

 一勝が確実でも、残り二つを落とせば負ける。

 

 そこを狙われる。

 

 昨日の段階で、その構図はすでに見えていた。

 今日、ベスト8に残っている学校であれば、なおさら徹底してくる。

 

「しおり」

 

 坂本が呼ぶ。

 

 しおりは視線だけで応じた。

 

「初戦、向こうは確実に全体で勝ちにくる。一将で止めようなんて考えてない。お前を切って、俺たちを二枚抜くつもりだ」

 

「そうでしょうね」

 

 あまりにもあっさりした返答だった。

 

「……わかってるのか?」

 

「わかってます」

 

「なら、少しは緊張しろよ」

 

「してますよ」

 

「見えないんだよ!」

 

 黒田が思わず突っ込む。

 

 しおりはそこでようやく、ほんの少しだけ首を傾げた。

 

「でも、それって悪いことじゃないです」

 

「何がだ」

 

「私を捨ててでも勝つ、って考え方は正しいです。団体戦だから」

 

 その言葉に、坂本は一瞬だけ目を細めた。

 

 そうだ。

 それは間違っていない。

 

 個人戦ならともかく、団体戦は勝ち方を選べる。

 エースにぶつけて散るより、他の二枚を確実に刈り取る方が合理的な場面はいくらでもある。

 

 だが。

 

「だからこそ」

 

 しおりは盤面表から目を離し、静かに言った。

 

「その“正しさ”ごと、叩き潰します」

 

 声は大きくない。

 だが、温度だけが異様に低かった。

 

 それは怒りではない。

 激情でもない。

 

 絶対に覆らない結論を、ただ先に口にしただけの声だった。

 

 坂本と黒田は、同時に息を呑む。

 

 この少女は時々、年齢という概念から急に外れる。

 小柄な中学生の皮をかぶっているくせに、言葉の端から滲むものは勝負師のそれですらない。

 

 もっと古い。

 もっと深い。

 もっと、勝つことに慣れすぎた何かだ。

 

 会場アナウンスが響く。

 

『これより、地区代表決定戦ベスト8トーナメントを開始します。選手の皆さんは各自、指定された対局席へ――』

 

 ざわめきが波のように立ち上がる。

 

 各校の部員たちが一斉に動き始めた。

 椅子を引く音。

 駒箱を置く音。

 棋譜用紙を整える音。

 

 その中で、しおりは一歩、また一歩と自分の対局席へ向かう。

 

 通り過ぎる先々で、他校の選手が反射的に道を空ける。

 

 誰も、彼女に声をかけなかった。

 かけられなかった、という方が正しい。

 

 そして、その中の一人が、小さく息を漏らした。

 

「……天羽」

 

 しおりの足が止まる。

 

 声の主は、対戦校の一将だった。

 短く刈った髪に鋭い目。小学生時代、二度対局したことのある相手だった。どちらも決勝戦。どちらも、最後はしおりが勝っている。

 

 相手の少年は、苦く笑った。

 

「やっぱりお前か」

 

「久しぶりです」

 

「久しぶり、で済むかよ。こっちはお前のせいで、小学生の大会タイトル何個逃したと思ってる」

 

 冗談めいた言い方だったが、目は笑っていない。

 

 悔しさは消えていない。

 六年経っても。

 

 しおりはそれを正面から受け止めた。

 

「今日も勝ちます」

 

 少年の口元が引きつる。

 

「相変わらず可愛げがねえな」

 

「負ける気で来てないので」

 

「……そういうとこだよ」

 

 だが、その直後。

 少年は深く息を吐き、真顔に戻った。

 

「でも、今日は一人で勝っても終わらねえ。団体戦だ」

 

「知ってます」

 

「お前を落とすのは無理でも、学校ごと落とすことはできる」

 

「やってみてください」

 

 一歩も退かない。

 声も、眼も。

 

 少年は数秒だけしおりを見つめ、それから静かに自分の席へ戻っていった。

 

 坂本が小さく呟く。

 

「……完全に火花散ってるじゃねえか」

 

「昔から知ってる相手みたいだな」

 

 黒田の言葉に、しおりは短く答えた。

 

「二回決勝で当たりました」

 

「で?」

 

「二回とも勝ちました」

 

「そりゃ向こうも忘れないわけだ……」

 

 会場が静まり返る。

 

 八校二十四人が着席し、審判の位置取りが整う。

 団体戦独特の緊張が、空気の層になって体育館全体を押し下げていた。

 

 個人戦とは違う。

 

 一人で負けても終わりではない。

 一人で勝っても終わりではない。

 

 隣の対局。

 味方の表情。

 相手校の空気。

 一手ごとに、盤外の情報が神経へ刺さってくる。

 

 それでもしおりは、余計なものを見ていなかった。

 

 見ているのは盤だけ。

 目の前の勝負だけ。

 

 審判が宣言する。

 

「始めてください」

 

 その瞬間。

 

 八校の対局席で、一斉に駒音が弾けた。

 

 しおりの相手は先手を取ると、初手から迷いなく飛車先の歩を伸ばした。

 強気だ、と周囲は思ったかもしれない。

 

 だが、しおりはその一手を見て、ほんのわずかに相手の狙いを悟った。

 

 ――私に勝つ気は、半分しかない。

 

 いや。

 もっと正確に言えば。

 

 長引かせる気だ。

 

 徹底的に粘り、派手に崩れないことを優先し、その間に他の二局でチームの勝負を決める。

 対エース戦としては理にかなっている。

 小学生時代に二度叩き潰されている相手なら、なおさらそう考える。

 

 しおりは無表情のまま歩を合わせた。

 

 受けるでもなく、急ぐでもなく、ただ相手の呼吸に正確に噛み合う一手。

 

 数手進む。

 

 盤面は居飛車対居飛車の力戦調へ寄り始めた。

 

 普通なら静かな立ち上がりだ。

 だが、しおりにはわかる。

 

 相手は攻めていない。

 怯えている。

 

 前へ出たくない。

 崩されたくない。

 大差で負けて、他の二人の士気を折りたくない。

 

 その迷いが、初手からじわじわと盤面に染み出している。

 

 しおりは、その匂いを逃さなかった。

 

 右銀が上がる。

 角道が開く。

 歩がぶつかる。

 

 その何気ない変化の中に、しおりは迷いなく楔を打ち込んだ。

 

 こと。

 

 会場の空気が揺れる。

 

「……っ」

 

 相手校の控えにいた生徒が、思わず息を呑んだ。

 

 早い。

 

 そして深い。

 

 一見すればただの歩の突き捨て。

 だが、受ければ形が歪み、無視すればもっと悪くなる。どちらへ転んでも、後手を踏まされる嫌な一着だった。

 

 相手の少年の目つきが変わる。

 

 ここで初めて、思い出したのだろう。

 

 小学生時代、決勝のたびに味わわされた感覚を。

 まだ大きな損はしていない。

 盤面も互角に見える。

 なのに、次の呼吸からすでに相手の土俵に引きずり込まれている、あの感覚を。

 

「早いな……」

 

 少年が低く呟く。

 

 しおりは答えない。

 

 返答の代わりに、次の手を読んでいた。

 

 会場のあちこちで、他の二局も戦い始めている。

 坂本は苦しい顔で序盤を捌き、黒田は相手の急戦に神経を尖らせているはずだ。

 

 けれど、しおりはそちらを見ない。

 

 見る必要がないところまで、まず自分が盤を制圧する。

 

 それが最善。

 それが、この団体戦で自分に許された最短だ。

 

 十手。

 二十手。

 

 時間が進むにつれ、会場の視線がさらに一将戦へ集まり始める。

 

 速いからではない。

 派手だからでもない。

 

 圧がある。

 

 しおりの将棋は、静かなのに圧力だけが異常だった。

 一手ごとに相手の選択肢を削り、自由を奪い、盤面の呼吸を細くしていく。

 大技を見せる前に、まず相手に“このままではいけない”と思わせる。

 

 それが覇王の将棋だった。

 

「まずい……」

 

 どこかで、相手校の顧問が漏らす。

 まだ中盤にも入っていない。

 だが、もうまずい。

 

 見ればわかる。

 

 局面そのものではなく、表情が違う。

 しおりは一切揺れていないのに、向かい合う少年の方だけが、もう小さく何度も息を吐いている。

 

 読まされている。

 選ばされている。

 考えた末の一手が、全部しおりの予定調和の中に収まっている。

 

 その恐怖。

 

 しおりは静かに、角を浮いた。

 

 またも地味な一手だった。

 だが、それを見た瞬間、少年の顔色が変わった。

 

「そこまで見てたのか……!」

 

 角の利き。

 桂の跳ね場。

 玉形の薄み。

 さらに数手先、飛車を働かせるための道筋。

 

 全部が、つながっている。

 

 ここでようやく、相手は理解した。

 この将棋はさっき始まったばかりではない。

 着席した瞬間から、いや、もしかしたら組み合わせ表を見た瞬間から、もう始まっていたのだと。

 

 そして。

 

 その時にはすでに遅い。

 

 しおりの視線が、ほんの一瞬だけ隣へ流れる。

 坂本はまだ耐えている。

 黒田も踏みとどまっている。

 

 ならば。

 

 まずは一つ。

 確実に取る。

 

 こと。

 

 次の一手は、これまでの静けさとは違った。

 はっきりと、急所をえぐる音がした。

 

 控えの生徒たちが息を止める。

 

 少年が盤面を凝視したまま、動かない。

 

 受ければ別の傷が開く。

 かわせば中央が崩れる。

 強く出れば、待っていたように切り返される。

 

 選択肢はある。

 

 だが、助かる道がない。

 

 しおりはその盤面を見下ろしながら、ようやくほんの少しだけ目を細めた。

 

 進撃が始まる。

 

 誰もが最も警戒した怪物が、

 最も警戒されていることすら利用して、

 代表決定戦の盤上を踏み潰しにかかっていた。

 

 そして会場の誰もが、

 その最初の一局だけで理解し始めていた。

 

 天羽しおりは、

 “止めなければならない相手”ではない。

 

 そんな段階は、とっくに過ぎている。

 

 ――これはもう、

 止まるかどうかを祈るしかない怪物だ。

 

 少年の指先が、震える。

 

 その震えを見ながら、しおりは何も言わない。

 

 ただ、次の手を待つ。

 

 その沈黙が、何よりも残酷だった。

 

 やがて少年は、乾いた唇を一度舐め、震える手で駒に触れた。

 

 受けの一手。

 

 だが、しおりはそれを見た瞬間、もう次の勝ち筋へ入っていた。

 

 覇王の進撃が、始まった。




### あとがき

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