翌朝。
地区代表決定戦の会場となる市立総合体育館は、前日とは空気の重さがまるで違っていた。
同じ床。
同じ将棋盤。
同じ長机。
だというのに、そこに集まっている面々が違うだけで、空間そのものが張りつめて見える。
ベスト8まで勝ち上がった八校。
どこも偶然で残った学校ではない。昨日までに敗れ去った無数の学校を踏み越え、それぞれの三人が勝利を積み重ねてここへ来た猛者たちだ。エースが一枚強いだけでは勝ち上がれない。三人のバランス、勝負どころで崩れない胆力、そして団体戦ならではの空気。そうしたものをすべて持ち合わせた学校だけが、今日この場に立っていた。
にもかかわらず。
受付を済ませ、各校が待機列へ向かう中で、会場の視線は奇妙なほど一か所に集まっていた。
天羽しおり。
中学一年。
小柄な体。
肩までの髪。
どこにでもいそうな少女。
だが、その小さな背に注がれる視線は、明らかに普通の一年生へ向けられるものではなかった。
「……やっぱり来てる」
「当たり前だろ。昨日、見ただろ?」
「見たけどさ……現実感がねえんだよ」
「覇王だぞ」
「小学生の頃、一回も負けてないって噂の?」
「噂じゃない。事実だ」
ひそひそ声は小さい。
だが、それでもしおりの耳には届いていた。
気にした様子はない。
ただ静かに、自校の待機場所へ向かうだけだ。
坂本と黒田は、その背中に向けられる視線の密度に改めて息を呑んでいた。
「……昨日よりひどいな」
黒田が低く言う。
「全校、完全にしおりを見てる」
「見てる、じゃないな」
坂本は短く答えた。
「測ってる」
その言葉は正しかった。
恐れているだけではない。
警戒しているだけでもない。
ここにいる七校は全員、しおりという存在をどう処理するか、その一点を軸に今日の勝敗を計算していた。
一将をどうするか。
いや、それ以前に。
天羽しおりに当たった時点で、一敗を前提に二勝を拾う構図をどう組むか。
団体戦として最悪なのは、未知の脅威だ。
その点で言えば、しおりは最悪を通り越していた。
知られている。
広く。
深く。
しかも悪い意味で。
小学生時代、誰一人として黒星を与えられなかった怪物。
出れば勝つ。
勝てば優勝する。
負けないどころか、勝負の最中に相手の心を折る。
“覇王”。
それは持ち上げた異名ではない。
抵抗した者たちが、最後に残した敗北の総称だった。
しおりは割り当てられた席に荷物を置くと、静かに盤面表へ視線を向けた。
本日の組み合わせが張り出されている。
一回戦。
二回戦。
準決勝。
代表決定戦。
今日だけで、すべてが決まる。
坂本が隣で唾を飲み込んだ。
「初戦から重いな……」
相手校の名前を見て、黒田も顔をしかめる。
「あそこ、二将と三将が固いって有名な学校だろ」
「だからこそだ」
坂本は表から目を離さない。
「向こうから見れば、“しおりで一敗は仕方ない。残り二つを取り切る”って一番割り切りやすい相手だ」
団体戦において、エースが圧倒的に強いだけでは勝ち切れない。
一勝が確実でも、残り二つを落とせば負ける。
そこを狙われる。
昨日の段階で、その構図はすでに見えていた。
今日、ベスト8に残っている学校であれば、なおさら徹底してくる。
「しおり」
坂本が呼ぶ。
しおりは視線だけで応じた。
「初戦、向こうは確実に全体で勝ちにくる。一将で止めようなんて考えてない。お前を切って、俺たちを二枚抜くつもりだ」
「そうでしょうね」
あまりにもあっさりした返答だった。
「……わかってるのか?」
「わかってます」
「なら、少しは緊張しろよ」
「してますよ」
「見えないんだよ!」
黒田が思わず突っ込む。
しおりはそこでようやく、ほんの少しだけ首を傾げた。
「でも、それって悪いことじゃないです」
「何がだ」
「私を捨ててでも勝つ、って考え方は正しいです。団体戦だから」
その言葉に、坂本は一瞬だけ目を細めた。
そうだ。
それは間違っていない。
個人戦ならともかく、団体戦は勝ち方を選べる。
エースにぶつけて散るより、他の二枚を確実に刈り取る方が合理的な場面はいくらでもある。
だが。
「だからこそ」
しおりは盤面表から目を離し、静かに言った。
「その“正しさ”ごと、叩き潰します」
声は大きくない。
だが、温度だけが異様に低かった。
それは怒りではない。
激情でもない。
絶対に覆らない結論を、ただ先に口にしただけの声だった。
坂本と黒田は、同時に息を呑む。
この少女は時々、年齢という概念から急に外れる。
小柄な中学生の皮をかぶっているくせに、言葉の端から滲むものは勝負師のそれですらない。
もっと古い。
もっと深い。
もっと、勝つことに慣れすぎた何かだ。
会場アナウンスが響く。
『これより、地区代表決定戦ベスト8トーナメントを開始します。選手の皆さんは各自、指定された対局席へ――』
ざわめきが波のように立ち上がる。
各校の部員たちが一斉に動き始めた。
椅子を引く音。
駒箱を置く音。
棋譜用紙を整える音。
その中で、しおりは一歩、また一歩と自分の対局席へ向かう。
通り過ぎる先々で、他校の選手が反射的に道を空ける。
誰も、彼女に声をかけなかった。
かけられなかった、という方が正しい。
そして、その中の一人が、小さく息を漏らした。
「……天羽」
しおりの足が止まる。
声の主は、対戦校の一将だった。
短く刈った髪に鋭い目。小学生時代、二度対局したことのある相手だった。どちらも決勝戦。どちらも、最後はしおりが勝っている。
相手の少年は、苦く笑った。
「やっぱりお前か」
「久しぶりです」
「久しぶり、で済むかよ。こっちはお前のせいで、小学生の大会タイトル何個逃したと思ってる」
冗談めいた言い方だったが、目は笑っていない。
悔しさは消えていない。
六年経っても。
しおりはそれを正面から受け止めた。
「今日も勝ちます」
少年の口元が引きつる。
「相変わらず可愛げがねえな」
「負ける気で来てないので」
「……そういうとこだよ」
だが、その直後。
少年は深く息を吐き、真顔に戻った。
「でも、今日は一人で勝っても終わらねえ。団体戦だ」
「知ってます」
「お前を落とすのは無理でも、学校ごと落とすことはできる」
「やってみてください」
一歩も退かない。
声も、眼も。
少年は数秒だけしおりを見つめ、それから静かに自分の席へ戻っていった。
坂本が小さく呟く。
「……完全に火花散ってるじゃねえか」
「昔から知ってる相手みたいだな」
黒田の言葉に、しおりは短く答えた。
「二回決勝で当たりました」
「で?」
「二回とも勝ちました」
「そりゃ向こうも忘れないわけだ……」
会場が静まり返る。
八校二十四人が着席し、審判の位置取りが整う。
団体戦独特の緊張が、空気の層になって体育館全体を押し下げていた。
個人戦とは違う。
一人で負けても終わりではない。
一人で勝っても終わりではない。
隣の対局。
味方の表情。
相手校の空気。
一手ごとに、盤外の情報が神経へ刺さってくる。
それでもしおりは、余計なものを見ていなかった。
見ているのは盤だけ。
目の前の勝負だけ。
審判が宣言する。
「始めてください」
その瞬間。
八校の対局席で、一斉に駒音が弾けた。
しおりの相手は先手を取ると、初手から迷いなく飛車先の歩を伸ばした。
強気だ、と周囲は思ったかもしれない。
だが、しおりはその一手を見て、ほんのわずかに相手の狙いを悟った。
――私に勝つ気は、半分しかない。
いや。
もっと正確に言えば。
長引かせる気だ。
徹底的に粘り、派手に崩れないことを優先し、その間に他の二局でチームの勝負を決める。
対エース戦としては理にかなっている。
小学生時代に二度叩き潰されている相手なら、なおさらそう考える。
しおりは無表情のまま歩を合わせた。
受けるでもなく、急ぐでもなく、ただ相手の呼吸に正確に噛み合う一手。
数手進む。
盤面は居飛車対居飛車の力戦調へ寄り始めた。
普通なら静かな立ち上がりだ。
だが、しおりにはわかる。
相手は攻めていない。
怯えている。
前へ出たくない。
崩されたくない。
大差で負けて、他の二人の士気を折りたくない。
その迷いが、初手からじわじわと盤面に染み出している。
しおりは、その匂いを逃さなかった。
右銀が上がる。
角道が開く。
歩がぶつかる。
その何気ない変化の中に、しおりは迷いなく楔を打ち込んだ。
こと。
会場の空気が揺れる。
「……っ」
相手校の控えにいた生徒が、思わず息を呑んだ。
早い。
そして深い。
一見すればただの歩の突き捨て。
だが、受ければ形が歪み、無視すればもっと悪くなる。どちらへ転んでも、後手を踏まされる嫌な一着だった。
相手の少年の目つきが変わる。
ここで初めて、思い出したのだろう。
小学生時代、決勝のたびに味わわされた感覚を。
まだ大きな損はしていない。
盤面も互角に見える。
なのに、次の呼吸からすでに相手の土俵に引きずり込まれている、あの感覚を。
「早いな……」
少年が低く呟く。
しおりは答えない。
返答の代わりに、次の手を読んでいた。
会場のあちこちで、他の二局も戦い始めている。
坂本は苦しい顔で序盤を捌き、黒田は相手の急戦に神経を尖らせているはずだ。
けれど、しおりはそちらを見ない。
見る必要がないところまで、まず自分が盤を制圧する。
それが最善。
それが、この団体戦で自分に許された最短だ。
十手。
二十手。
時間が進むにつれ、会場の視線がさらに一将戦へ集まり始める。
速いからではない。
派手だからでもない。
圧がある。
しおりの将棋は、静かなのに圧力だけが異常だった。
一手ごとに相手の選択肢を削り、自由を奪い、盤面の呼吸を細くしていく。
大技を見せる前に、まず相手に“このままではいけない”と思わせる。
それが覇王の将棋だった。
「まずい……」
どこかで、相手校の顧問が漏らす。
まだ中盤にも入っていない。
だが、もうまずい。
見ればわかる。
局面そのものではなく、表情が違う。
しおりは一切揺れていないのに、向かい合う少年の方だけが、もう小さく何度も息を吐いている。
読まされている。
選ばされている。
考えた末の一手が、全部しおりの予定調和の中に収まっている。
その恐怖。
しおりは静かに、角を浮いた。
またも地味な一手だった。
だが、それを見た瞬間、少年の顔色が変わった。
「そこまで見てたのか……!」
角の利き。
桂の跳ね場。
玉形の薄み。
さらに数手先、飛車を働かせるための道筋。
全部が、つながっている。
ここでようやく、相手は理解した。
この将棋はさっき始まったばかりではない。
着席した瞬間から、いや、もしかしたら組み合わせ表を見た瞬間から、もう始まっていたのだと。
そして。
その時にはすでに遅い。
しおりの視線が、ほんの一瞬だけ隣へ流れる。
坂本はまだ耐えている。
黒田も踏みとどまっている。
ならば。
まずは一つ。
確実に取る。
こと。
次の一手は、これまでの静けさとは違った。
はっきりと、急所をえぐる音がした。
控えの生徒たちが息を止める。
少年が盤面を凝視したまま、動かない。
受ければ別の傷が開く。
かわせば中央が崩れる。
強く出れば、待っていたように切り返される。
選択肢はある。
だが、助かる道がない。
しおりはその盤面を見下ろしながら、ようやくほんの少しだけ目を細めた。
進撃が始まる。
誰もが最も警戒した怪物が、
最も警戒されていることすら利用して、
代表決定戦の盤上を踏み潰しにかかっていた。
そして会場の誰もが、
その最初の一局だけで理解し始めていた。
天羽しおりは、
“止めなければならない相手”ではない。
そんな段階は、とっくに過ぎている。
――これはもう、
止まるかどうかを祈るしかない怪物だ。
少年の指先が、震える。
その震えを見ながら、しおりは何も言わない。
ただ、次の手を待つ。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
やがて少年は、乾いた唇を一度舐め、震える手で駒に触れた。
受けの一手。
だが、しおりはそれを見た瞬間、もう次の勝ち筋へ入っていた。
覇王の進撃が、始まった。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
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いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!