盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第二十三話 最初に盤を降りた者

 同時に始まった三つの対局の中で、最初に終局を迎えたのは――やはり、天羽しおりの将棋だった。

 

 会場のあちこちで駒音が響き、各校の三人がそれぞれの盤に食らいついている中、一将戦だけが、目に見えない速度で別の次元へ進んでいた。

 

 しおりの相手は決して弱くない。

 

 いや、この場に残っている時点で弱いはずがなかった。小学時代から名の知れた実力者であり、読みも受けも堅い。実際、序盤から露骨な綻びは一つもなかった。無理に踏み込まず、崩れず、耐えながらチームの勝機を待つ。団体戦では正しい指し方だ。

 

 だが。

 

 しおりの前では、その“正しさ”そのものが足りなかった。

 

 一手先を読むのではない。

 二手、三手でもない。

 

 しおりはそのさらに先、相手が「こうすれば耐えられる」と信じた筋の、その終着点まで見切っていた。

 

 相手が受ければ、受けた先で窒息する。

 かわせば、かわした形が終盤で傷になる。

 反撃を狙えば、その反撃筋ごと利用される。

 

 盤上に並んでいるのは同じ駒のはずだった。

 だが、見えている景色が違う。

 

 相手が必死に一局の将棋を指している間に、しおりだけはその将棋の結末を先に覗いているかのようだった。

 

 中盤に入った頃には、周囲の観戦者にもそれがはっきりわかり始めていた。

 

「……押してる」

「いや、もう押してるどころじゃない」

「まだ駒損してるわけでもないのに、なんであんなに苦しそうなんだ……」

 

 苦しそうだったのは、盤面ではなかった。

 

 相手の表情だ。

 

 考えて、考えて、ようやく選んだ一手が、ことごとくしおりの想定の内側に落ちていく。そのたびに相手の肩は重くなり、呼吸は浅くなり、指先から自信が削られていく。

 

 そして、ついに。

 

 しおりが静かに放った一手が、盤面の均衡を完全に断ち切った。

 

 ぱちり。

 

 鋭い音ではなかった。

 むしろ、小さな駒音だった。

 

 だがその一手を見た瞬間、相手の少年の顔から血の気が引いた。

 

「……そこまで、見えてたのか」

 

 声が掠れる。

 

 しおりは何も言わない。

 

 返事の代わりに、盤を見つめるだけだった。

 

 少年は必死に読む。

 受けの手を探す。

 逃げ道を探す。

 形勢を保てる筋を、少しでも延命できる順を、食いつくように探す。

 

 だが、ない。

 

 受けても崩れる。

 逃げても詰まる。

 切り返しても届かない。

 

 そして、その結論に辿り着いた瞬間、少年は大きく息を吐いた。

 

 肩から力が抜ける。

 

 震える指で駒台に手を置き、ゆっくりと頭を下げた。

 

「……負けました」

 

 その言葉が、一将戦の終わりを告げた。

 

 会場がざわつく。

 

 やはり、という空気と。

 もう終わったのか、という驚きと。

 またか、という諦めにも似た感情が、一度に広がった。

 

 しおりは静かに一礼した。

 

「ありがとうございました」

 

 それだけだった。

 

 誇示もしない。

 笑いもしない。

 勝ったことを確かめるような仕草すらない。

 

 まるで、そこまでが当然の手順であるかのように、しおりはすっと席を立った。

 

 だが、勝負はまだ終わっていない。

 

 団体戦だ。

 

 一将が勝っても、残り二局のどちらかを落とせば敗北はあり得る。しおりはすぐに視線を横へ流した。

 

 坂本。

 黒田。

 

 二人の盤は、どちらもまだ激しく燃えていた。

 

 坂本は苦しい表情を浮かべながらも、決して崩れてはいなかった。相手の攻めをいなし、受け、細く繋ぎ、勝負どころを待っている。以前なら、中盤の圧力に耐えきれず形を乱したかもしれない局面だった。

 

 だが今の坂本は違う。

 

 しおりが入部してから、何度も何度も盤を挟んできた。読まれ、潰され、叩き伏せられ、そのたびに自分の甘さを思い知らされてきた。

 

 だからこそ、簡単には折れない。

 

 “この程度の圧で崩れるなら、あいつとは指せない”。

 

 そう身体に刻み込まれている。

 

 黒田の将棋も同じだった。

 

 相手の急戦に対し、以前よりも一手深く読む。

 焦って攻め合わず、危険な筋だけを先に摘む。

 勝ち急がない。

 だが逃げもしない。

 

 しおりと毎日のように対局してきたことで、二人とも確かに変わっていた。

 

 目の前の相手は強い。

 ベスト8まで勝ち上がってきた猛者だ。

 それでも、以前の二人なら押し潰されていたはずの圧を、今は受け止めている。

 

「……上手くやってる」

 

 しおりは小さく呟いた。

 

 声には出さなかったが、少しだけ口元が緩む。

 

 自分が勝つのは当然だ。

 問題は、その先だった。

 

 覇王一人が暴れるだけでは、団体戦は勝ち切れない。

 だからこそ、二人が耐え、二人が勝てるかが、ここから先の鍵になる。

 

 坂本の盤で、駒音が強く響いた。

 

 攻めを受け切った先で、ついに反撃の銀が前へ出る。

 

 相手の表情が変わる。

 形勢が逆転したわけではない。

 だが、“取れると思っていた一局”が簡単には落ちないと悟った顔だった。

 

 黒田の方でも、小さなほころびが生まれていた。

 

 相手が勝負を急いだ。

 そこで打った一手が、わずかに浅い。

 

 黒田はその瞬間を見逃さない。

 

 じりじりと守っていたはずの陣が、気づけばそのまま攻めの土台へ変わっていく。

 

「……いける」

 

 誰かが、観戦席で呟いた。

 

 その声は、相手校の希望ではなく、坂本たちのしぶとさに対する驚きだった。

 

 しおりは黙って見ていた。

 

 口を出さない。

 視線も送らない。

 ここから先は二人の勝負だ。

 

 もし自分の存在が二人を変えたのなら、その証明は盤上でしか出来ない。

 

 時間が進む。

 

 会場の他の対局でも、ぽつぽつと終局が出始めていた。だが、この三将戦と二将戦にはまだ決着がつかない。

 

 坂本は受け切ってからの終盤力で、わずかに前へ出る。

 黒田は攻められながら攻め返し、薄氷の上を渡るように寄せ合いへ持ち込む。

 

 どちらも僅差だった。

 

 圧勝ではない。

 蹂躙でもない。

 

 ほんのわずか、半歩だけ前に出た者が勝つ将棋。

 

 そして、その半歩を、二人はもぎ取った。

 

 最初に坂本の相手が頭を下げる。

 

「……負けました」

 

 坂本は息を吐くように、深く一礼した。

 

「ありがとうございました」

 

 その顔には疲労が濃かった。

 だが同時に、今までにない手応えもあった。

 

 勝たされたのではない。

 自分で勝ち切った。

 

 次いで、黒田の盤でも決着がつく。

 

 最後は一手勝ち。

 本当に、紙一重だった。

 

 相手の投了を聞いた黒田は、しばらく自分が勝ったことを飲み込めず、呆然と盤を見つめていたが、やがて遅れて笑った。

 

「……勝った」

 

 声が掠れていた。

 それほどまでに際どい勝負だったのだ。

 

 二将、三将、どちらも僅差。

 だが確かに、二人は勝った。

 

 三勝。

 

 完勝だった。

 

 対戦校の三人が並んで礼をする。

 坂本も黒田も礼を返し、しおりも静かに頭を下げた。

 

 勝った。

 

 ベスト8初戦、突破。

 

 だが、その瞬間にも、しおりの胸に湧いたのは安堵ではなかった。

 

 もっと先がある。

 もっと強い相手が来る。

 そして今の一戦で、残っている学校すべてがさらに理解したはずだ。

 

 天羽しおりだけではない。

 坂本も黒田も、昨日までの駒ではない。

 

 覇王に鍛えられた二枚が、確かに牙を持ち始めている。

 

 坂本がしおりの横へ来て、小さく笑った。

 

「どうだ」

 

「良かったです」

 

「それだけかよ」

 

「でも、まだ甘いです」

 

「おい」

 

 即答だった。

 

 黒田が吹き出す。

 

「出たよ、しおり節」

 

「終盤、どっちも一手ずつ遅かったです。もっと早く決められました」

 

「勝った直後にそれ言うか普通」

 

「言います」

 

 けれど、そう言うしおりの声はどこか柔らかかった。

 

 坂本は肩をすくめる。

 

「……まあいい。お前にそう言われるってことは、少なくとも通用はしてるってことだろ」

 

「はい。前よりずっと」

 

 その一言に、二人は顔を見合わせた。

 

 しおりは滅多に褒めない。

 いや、正確には、褒める必要があると感じるほど甘い評価をしない。

 

 だからこそ、その短い言葉には重みがあった。

 

 黒田が拳を握る。

 

「なら、次も勝つだけだな」

 

 しおりは組み合わせ表へ目を向けた。

 

 次の相手もまた、当然のように強い。

 そして、この一回戦の内容は、もう見られている。

 

 覇王だけを止めればいいという段階は終わった。

 天羽しおりの学校そのものが、もう警戒対象になったのだ。

 

 しおりは静かに息を吸う。

 

 その目には、もう次の盤面が映っている。

 

「行きましょう」

 

「どこへだ?」

 

 坂本が問う。

 

 しおりは、次の対局席が並ぶ方向を見たまま答えた。

 

「次の勝ちを取りに」

 

 完勝だった。

 だが、余裕など一つもない。

 

 むしろ今の三勝が、残る学校すべてに新しい絶望を与えた。

 覇王は一人ではなかった。

 その隣の二人まで、確実に強くなっている。

 

 それを知った猛者たちが、次はどんな包囲網を敷いてくるのか。

 

 会場の空気はさらに重くなる。

 

 その中心で、しおりだけが静かだった。

 

 進撃は、まだ始まったばかりだった。




### あとがき

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