同時に始まった三つの対局の中で、最初に終局を迎えたのは――やはり、天羽しおりの将棋だった。
会場のあちこちで駒音が響き、各校の三人がそれぞれの盤に食らいついている中、一将戦だけが、目に見えない速度で別の次元へ進んでいた。
しおりの相手は決して弱くない。
いや、この場に残っている時点で弱いはずがなかった。小学時代から名の知れた実力者であり、読みも受けも堅い。実際、序盤から露骨な綻びは一つもなかった。無理に踏み込まず、崩れず、耐えながらチームの勝機を待つ。団体戦では正しい指し方だ。
だが。
しおりの前では、その“正しさ”そのものが足りなかった。
一手先を読むのではない。
二手、三手でもない。
しおりはそのさらに先、相手が「こうすれば耐えられる」と信じた筋の、その終着点まで見切っていた。
相手が受ければ、受けた先で窒息する。
かわせば、かわした形が終盤で傷になる。
反撃を狙えば、その反撃筋ごと利用される。
盤上に並んでいるのは同じ駒のはずだった。
だが、見えている景色が違う。
相手が必死に一局の将棋を指している間に、しおりだけはその将棋の結末を先に覗いているかのようだった。
中盤に入った頃には、周囲の観戦者にもそれがはっきりわかり始めていた。
「……押してる」
「いや、もう押してるどころじゃない」
「まだ駒損してるわけでもないのに、なんであんなに苦しそうなんだ……」
苦しそうだったのは、盤面ではなかった。
相手の表情だ。
考えて、考えて、ようやく選んだ一手が、ことごとくしおりの想定の内側に落ちていく。そのたびに相手の肩は重くなり、呼吸は浅くなり、指先から自信が削られていく。
そして、ついに。
しおりが静かに放った一手が、盤面の均衡を完全に断ち切った。
ぱちり。
鋭い音ではなかった。
むしろ、小さな駒音だった。
だがその一手を見た瞬間、相手の少年の顔から血の気が引いた。
「……そこまで、見えてたのか」
声が掠れる。
しおりは何も言わない。
返事の代わりに、盤を見つめるだけだった。
少年は必死に読む。
受けの手を探す。
逃げ道を探す。
形勢を保てる筋を、少しでも延命できる順を、食いつくように探す。
だが、ない。
受けても崩れる。
逃げても詰まる。
切り返しても届かない。
そして、その結論に辿り着いた瞬間、少年は大きく息を吐いた。
肩から力が抜ける。
震える指で駒台に手を置き、ゆっくりと頭を下げた。
「……負けました」
その言葉が、一将戦の終わりを告げた。
会場がざわつく。
やはり、という空気と。
もう終わったのか、という驚きと。
またか、という諦めにも似た感情が、一度に広がった。
しおりは静かに一礼した。
「ありがとうございました」
それだけだった。
誇示もしない。
笑いもしない。
勝ったことを確かめるような仕草すらない。
まるで、そこまでが当然の手順であるかのように、しおりはすっと席を立った。
だが、勝負はまだ終わっていない。
団体戦だ。
一将が勝っても、残り二局のどちらかを落とせば敗北はあり得る。しおりはすぐに視線を横へ流した。
坂本。
黒田。
二人の盤は、どちらもまだ激しく燃えていた。
坂本は苦しい表情を浮かべながらも、決して崩れてはいなかった。相手の攻めをいなし、受け、細く繋ぎ、勝負どころを待っている。以前なら、中盤の圧力に耐えきれず形を乱したかもしれない局面だった。
だが今の坂本は違う。
しおりが入部してから、何度も何度も盤を挟んできた。読まれ、潰され、叩き伏せられ、そのたびに自分の甘さを思い知らされてきた。
だからこそ、簡単には折れない。
“この程度の圧で崩れるなら、あいつとは指せない”。
そう身体に刻み込まれている。
黒田の将棋も同じだった。
相手の急戦に対し、以前よりも一手深く読む。
焦って攻め合わず、危険な筋だけを先に摘む。
勝ち急がない。
だが逃げもしない。
しおりと毎日のように対局してきたことで、二人とも確かに変わっていた。
目の前の相手は強い。
ベスト8まで勝ち上がってきた猛者だ。
それでも、以前の二人なら押し潰されていたはずの圧を、今は受け止めている。
「……上手くやってる」
しおりは小さく呟いた。
声には出さなかったが、少しだけ口元が緩む。
自分が勝つのは当然だ。
問題は、その先だった。
覇王一人が暴れるだけでは、団体戦は勝ち切れない。
だからこそ、二人が耐え、二人が勝てるかが、ここから先の鍵になる。
坂本の盤で、駒音が強く響いた。
攻めを受け切った先で、ついに反撃の銀が前へ出る。
相手の表情が変わる。
形勢が逆転したわけではない。
だが、“取れると思っていた一局”が簡単には落ちないと悟った顔だった。
黒田の方でも、小さなほころびが生まれていた。
相手が勝負を急いだ。
そこで打った一手が、わずかに浅い。
黒田はその瞬間を見逃さない。
じりじりと守っていたはずの陣が、気づけばそのまま攻めの土台へ変わっていく。
「……いける」
誰かが、観戦席で呟いた。
その声は、相手校の希望ではなく、坂本たちのしぶとさに対する驚きだった。
しおりは黙って見ていた。
口を出さない。
視線も送らない。
ここから先は二人の勝負だ。
もし自分の存在が二人を変えたのなら、その証明は盤上でしか出来ない。
時間が進む。
会場の他の対局でも、ぽつぽつと終局が出始めていた。だが、この三将戦と二将戦にはまだ決着がつかない。
坂本は受け切ってからの終盤力で、わずかに前へ出る。
黒田は攻められながら攻め返し、薄氷の上を渡るように寄せ合いへ持ち込む。
どちらも僅差だった。
圧勝ではない。
蹂躙でもない。
ほんのわずか、半歩だけ前に出た者が勝つ将棋。
そして、その半歩を、二人はもぎ取った。
最初に坂本の相手が頭を下げる。
「……負けました」
坂本は息を吐くように、深く一礼した。
「ありがとうございました」
その顔には疲労が濃かった。
だが同時に、今までにない手応えもあった。
勝たされたのではない。
自分で勝ち切った。
次いで、黒田の盤でも決着がつく。
最後は一手勝ち。
本当に、紙一重だった。
相手の投了を聞いた黒田は、しばらく自分が勝ったことを飲み込めず、呆然と盤を見つめていたが、やがて遅れて笑った。
「……勝った」
声が掠れていた。
それほどまでに際どい勝負だったのだ。
二将、三将、どちらも僅差。
だが確かに、二人は勝った。
三勝。
完勝だった。
対戦校の三人が並んで礼をする。
坂本も黒田も礼を返し、しおりも静かに頭を下げた。
勝った。
ベスト8初戦、突破。
だが、その瞬間にも、しおりの胸に湧いたのは安堵ではなかった。
もっと先がある。
もっと強い相手が来る。
そして今の一戦で、残っている学校すべてがさらに理解したはずだ。
天羽しおりだけではない。
坂本も黒田も、昨日までの駒ではない。
覇王に鍛えられた二枚が、確かに牙を持ち始めている。
坂本がしおりの横へ来て、小さく笑った。
「どうだ」
「良かったです」
「それだけかよ」
「でも、まだ甘いです」
「おい」
即答だった。
黒田が吹き出す。
「出たよ、しおり節」
「終盤、どっちも一手ずつ遅かったです。もっと早く決められました」
「勝った直後にそれ言うか普通」
「言います」
けれど、そう言うしおりの声はどこか柔らかかった。
坂本は肩をすくめる。
「……まあいい。お前にそう言われるってことは、少なくとも通用はしてるってことだろ」
「はい。前よりずっと」
その一言に、二人は顔を見合わせた。
しおりは滅多に褒めない。
いや、正確には、褒める必要があると感じるほど甘い評価をしない。
だからこそ、その短い言葉には重みがあった。
黒田が拳を握る。
「なら、次も勝つだけだな」
しおりは組み合わせ表へ目を向けた。
次の相手もまた、当然のように強い。
そして、この一回戦の内容は、もう見られている。
覇王だけを止めればいいという段階は終わった。
天羽しおりの学校そのものが、もう警戒対象になったのだ。
しおりは静かに息を吸う。
その目には、もう次の盤面が映っている。
「行きましょう」
「どこへだ?」
坂本が問う。
しおりは、次の対局席が並ぶ方向を見たまま答えた。
「次の勝ちを取りに」
完勝だった。
だが、余裕など一つもない。
むしろ今の三勝が、残る学校すべてに新しい絶望を与えた。
覇王は一人ではなかった。
その隣の二人まで、確実に強くなっている。
それを知った猛者たちが、次はどんな包囲網を敷いてくるのか。
会場の空気はさらに重くなる。
その中心で、しおりだけが静かだった。
進撃は、まだ始まったばかりだった。
### あとがき
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