ベスト8初戦を三勝で抜けた直後、会場の空気は明らかに変わっていた。
ざわめきはある。
だが、先ほどまでのような“覇王をどう止めるか”という一方向の緊張ではない。
違う。
天羽しおりが勝つのは前提。
問題は、その隣だった。
「……まずいな」
「しおりだけじゃない」
「二将も三将も、昨日までと別人じゃないか」
「覇王に鍛えられたってことかよ……」
準決勝進出を決めた四校の待機列で、そんな声が小さく飛び交っていた。
坂本も黒田も、それを聞こえないふりで聞いていた。
以前なら、名前すら上がらなかった。
相手校の警戒はいつだって一点突破だった。しおりだけを見て、残り二つを刈り取る。それが正解だったし、それで十分だった。
だが、今は違う。
先ほどの一戦で、二人は証明してしまったのだ。
覇王のいる学校は、覇王だけの学校ではないと。
「見られてるな」
黒田が小さく笑う。
「ようやく、って感じですけどね」
坂本が答えるが、その声音に余裕はなかった。注目されること自体は悪くない。だが、警戒の質が変われば、それだけ相手の準備も深くなる。
そして、次の相手はまさにそういう学校だった。
準決勝の対戦校は、県内でも層の厚さで知られる強豪校だった。
一将は堅実。
二将は終盤型。
三将は徹底した受け将棋。
派手さはない。だが、どの盤でも大崩れしない。
三人とも、自分の役割をよく理解している。
団体戦で、最も面倒な相手だった。
「二将と三将を確実に狩りに来るぞ」
組み合わせ表を見ながら、坂本が言った。
「ええ」
しおりは短く頷く。
「一将戦は時間を使って粘るだけ。私を止める必要はない。引き延ばして、その間に二勝する。それが一番自然です」
あまりに冷静な分析に、黒田が苦笑した。
「自分が“止める必要ない相手”って言い切るの、普通は相当嫌味なんだけどな」
「事実なので」
「そういうとこなんだよ……」
しおりは返さない。
その視線はすでに次の盤を見ていた。
準決勝。
ここを勝てば、残るは代表決定戦だけ。
あと二つ。
あと二勝。
だが、その“あと二つ”が簡単ではないことを、しおりは誰よりわかっていた。
勝ち残った四校に弱い学校はない。
ここから先は、相手もまたチームで殺しに来る。
『準決勝の選手は、対局席へお着きください』
アナウンスが響く。
四校十二人が一斉に立ち上がった。
会場の温度が一段下がる。
歩く。
席へ向かう。
椅子を引く。
駒箱を置く。
その何気ない一つ一つが、さっきまでよりずっと重かった。
しおりの向かいに座ったのは、長身の二年生だった。眼鏡の奥にある目は静かで、感情の起伏がほとんど見えない。派手に来るタイプではない。だが、こういう相手ほど厄介だった。
耐えることに慣れている。
負け方を知っている。
そのうえで、まだ諦めていない。
しおりは軽く一礼した。
「お願いします」
「お願いします」
返ってきた声も低く、無駄がない。
左右では坂本と黒田がそれぞれ席につく。
どちらの相手も、先ほどまでとは目の色が違っていた。
もう“しおりを捨てて二枚を取る”だけでは足りない。
坂本と黒田も、崩しにくい駒になっている。
ならば、もっと精密に削るしかない。
審判が告げる。
「始めてください」
同時に、三つの駒音が重なった。
序盤は静かだった。
しおりの盤は相居飛車。
互いに様子を見るような立ち上がり。
だが、数手進めばわかる。
向かいの二年生は、徹底している。
戦わないわけではない。
だが、勝とうとして前へ出るのではなく、“壊れないこと”を第一に置いている。
美しい将棋ではないかもしれない。
だが団体戦では正しい。
しおり一人に食い破られても、他で二つ勝てばいいのだから。
しおりはその意図を感じ取りながら、ゆっくりと駒組みを進めた。
いつもより少しだけ遅く。
だが、それは迷っている遅さではない。
測っている。
相手がどこまで引くか。
どこから嫌がるか。
どこで“負けない形”に自分を閉じ込めるか。
それを、手の温度で探っていた。
数分後。
先に動いたのは相手だった。
角道を通し、銀を上がり、中央の歩を突き合わせる。仕掛けというより確認に近い一手。応じ方次第で形を変えるつもりなのだろう。
しおりはその瞬間、ほとんど間を置かずに応じた。
こと。
控えめな音。
だが、その一手で局面の意味が変わる。
相手の二年生の目が、ほんの少しだけ細くなった。
――速い。
読みが、ではない。
判断が、だ。
普通なら迷う分岐だった。
受けに回れば安全だが主導権は手放す。
踏み込めば主導権は握れるが、反発も喰らう。
しおりはそのどちらでもない、第三の地点に着地した。
安全を保ったまま、
相手にだけ考えさせる形。
「……いやらしいな」
相手が初めて口を開いた。
「褒め言葉として受け取ります」
「中一の台詞じゃない」
「よく言われます」
淡々とした応酬。
その間にも盤面は少しずつ締まり、見えない縄が相手の陣形へ巻きついていく。
一方で、左右の二局も激しかった。
坂本の盤では、序盤から重い捩じり合いになっていた。相手の二将は終盤型らしく、形より読みを優先してくる。危うい筋でも勝てると見れば踏み込んでくるタイプだ。
対する坂本は、受けに重心を置きつつも、決して引きすぎない。
しおりに散々叩き込まれた形だった。
怯えて受けるな。
受けながら刺せ。
守るために指すな。
勝つために受けろ。
以前なら、相手の圧力に押されていた。
だが今は、耐えながらも盤面の芯を渡さない。
黒田の盤はさらに際どかった。
相手の三将は受け将棋。
ひたすら崩れない。
こちらが少しでも焦れれば、逆に差し込まれる。
黒田は何度も唇を噛みそうになるのを堪えながら、じりじりと歩を伸ばし、手を作っていく。
急ぐな。
雑に攻めるな。
しおりならどう指す。
その問いが、頭の奥で何度も繰り返されていた。
盤上の時間が、ゆっくりと過ぎる。
そして最初に形が傾いたのは、またしてもしおりの一将戦だった。
一見すれば、まだ互角。
駒損もない。
大きく崩れた箇所もない。
だが、わかる者にはわかる。
相手の二年生が、もう自由に指せていない。
受けるたびに陣形が窮屈になる。
逃げるたびに攻め筋が減る。
攻め返そうとすると、その瞬間だけ盤面のどこかが薄くなる。
しおりは、その“薄くなる瞬間”を待っていた。
そして。
それは、何気ない銀上がりの直後に訪れた。
しおりの指先が、すっと駒を摘む。
ぱちり。
その一手に、向かいの相手が止まった。
「……そこか」
小さく漏れた声には、驚きと、わずかな諦めが混じっていた。
そこは、誰もが見える急所ではない。
だが、数手先で必ず裂ける継ぎ目だった。
今はまだ薄いだけ。
しかし、ここで楔を打たれた瞬間、陣形は“これから崩れるもの”へ変わる。
相手は長く考えた。
読み、受け、また読む。
持ち時間を削り、表情も変えず、ただ盤面だけを見続ける。
強い。
しおりはそう思った。
この場に残るだけのことはある。
逃げたい場面で逃げず、苦しい局面で投げない。小学生時代に何度も相手をしてきた連中とは、やはり密度が違う。
だが。
それでも足りない。
しおりの将棋は、相手が“強い”ことを前提にさらに先へ行く。
「……受けるしかないか」
相手がようやく一手を返す。
しおりはその手を見て、間髪入れずに次を指した。
さらに相手が止まる。
また受ける。
しおりが打ち込む。
押し合いではなかった。
一方的な蹂躙でもない。
それは、静かな処刑だった。
逃げ道がないと知りながら、なお歩かなければならない道を、相手は一歩ずつ進まされていた。
観戦者が息を詰める。
「また一将が……」
「いや、でも相手も粘ってる」
「粘ってるのに、全然楽にならない……」
そう。
粘っている。
だが、楽にならない。
しおりの将棋はそこが恐ろしい。
受けても受けても、空気が薄くなる。
指している本人だけが、少しずつ“終わり”へ近づいていく。
数手後。
ついに相手が駒台へ手を置いた。
長い沈黙ののち、深く頭を下げる。
「……負けました」
準決勝でも、最初に盤を降りたのはしおりだった。
会場がまたざわつく。
だが、先ほどよりも驚きは少ない。
代わりに広がったのは、もっと嫌な理解だった。
やはり止まらない。
やはり崩れない。
やはり、勝つ。
しおりは一礼し、静かに立ち上がった。
そしてすぐに左右の盤へ目を向ける。
坂本は苦しい。
だが、まだ持ちこたえている。
読み合いの深さで押されながらも、形勢を大きく損ねず、じっと相手の過不足を待っていた。
黒田も同じだった。
受け将棋相手に焦れず、少しずつ局面を広げている。以前の黒田なら、どこかで無理に踏み込んで自滅していたはずだ。
なのに今は、耐えている。
しおりと指し続けた日々が、二人の将棋そのものを変えていた。
盤面の向こうにある圧に、慣れている。
不利そうに見える局面でも、まだ終わっていないと知っている。
目の前の相手が強くても、“もっと強いもの”を知っている。
だから折れない。
しおりは何も言わず、二人の対局を見守った。
坂本の盤で、ついに一つの綻びが生まれる。
相手が踏み込みすぎた。
勝ちを急いだのだ。
一将が落ちた以上、二将で決め切らなければならないという焦りが、その一手に出た。
坂本の目が変わる。
逃さない。
受けていたはずの駒が、反転して牙になる。
金が寄る。
飛車が走る。
それまで息を潜めていた攻め筋が、一気に盤上へ姿を現す。
「……っ!」
相手が顔を上げた時には、もう遅かった。
坂本は深く、正確に読んでいた。
しおりとの対局で、何度も何度も“甘さを刺される恐怖”を教え込まれてきた男の読みだった。
数分後。
相手が静かに投了する。
坂本が勝った。
これで二勝。
団体戦としては、ここで勝負あり。
だが、黒田の将棋はまだ続いていた。
普通ならそこで緩む。
チームの勝敗が決した以上、どこかで力が抜ける。
だが黒田は抜かなかった。
最後まで指す。
最後まで勝ちに行く。
その姿勢を見て、しおりはほんの少しだけ目を細めた。
数分後、黒田の盤もようやく決着する。
最後は僅差。
本当に、一手違えばひっくり返っていたかもしれない細い勝ちだった。
それでも、勝ちだ。
三勝。
準決勝もまた、彼らはすべて取り切った。
礼を終え、三人が待機列へ戻る途中。
周囲の視線はもう、恐れを隠そうともしなかった。
覇王がいる。
それだけではない。
その隣にいる二人まで、
もう簡単には倒れない。
「……代表決定戦だな」
坂本が小さく言う。
「はい」
しおりの返答は短い。
「次が最後です」
「最後、ねえ」
黒田が息を吐いた。
「ここまで来ると、その一言が一番重いな」
しおりは立ち止まり、代表決定戦の席が用意されている中央の一角を見た。
まだ空いている。
だが、まもなくもう一方の準決勝も終わる。
最後の相手が決まる。
県代表を懸けた、最後の一戦。
そこで待つのがどんな学校であろうと、もう関係ない。
しおりの目には、次の盤しか映っていなかった。
「行きましょう」
「まだ始まってないぞ」
「気持ちの話です」
しおりはそう言って、ほんのわずかに笑った。
その笑みは穏やかだった。
だが、その奥で燃えているものは穏やかではない。
覇王は止まらない。
そして、その覇王の隣に立つ二人もまた、もう昨日までの駒ではなかった。
地区代表決定戦。
最後の相手が、すぐそこまで来ていた。
### あとがき
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