盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第二十五話 もう一つの怪物

 もう一方の準決勝が終わるまで、十分とかからなかった。

 

 終局を告げる声が上がった瞬間、待機していた各校の顧問たちが一斉に視線を向ける。勝ったのは、会場の反対側に陣を取っていた紺色のブレザーの学校だった。三人とも席を立つ動きに無駄がない。勝って浮つくでもなく、負けた相手に必要以上の感情を見せるでもなく、淡々と礼をして盤を離れる。

 

 その中央にいた少女を見た瞬間、黒田が小さく息を飲んだ。

 

「まじか」

 

 坂本もすぐに気づいたらしい。さっきまでの疲れを一瞬忘れたような顔で目を細める。

 

「知ってるのか」

 

 その問いに答えたのは黒田ではなく、しおりだった。

 

「御門凛々花です」

 

 声は静かだった。

 

 けれど、その名が持つ重さだけは隠しようがなかった。

 

 坂本がゆっくりとしおりの横顔を見る。

 

「御門って、あの御門か」

 

「はい」

 

「名人の孫娘の」

 

「そうです」

 

 会場の空気が、一段階深く沈んだ気がした。

 

 天羽しおりが覇王なら、御門凛々花はずっと、そのすぐ隣を歩いてきた者だった。優勝を何度も争い、そのたびに最後の一線で届かなかった少女。負け続けてなお、消えずに残った火種。しおりにとって唯一、名前を聞いただけで盤面の感触まで蘇る相手。

 

 組み合わせ表が張り替えられる。

 

 地区代表決定戦。

 

 天羽しおりたちの学校と、御門凛々花の学校。

 

 まるで初めから誰かがその形を待っていたかのようだった。

 

「最悪の相手だな」

 

 黒田が苦笑する。

 

「しおりを知ってる。しかも、しおりに負け続けてなお勝ち上がってくる執念がある」

 

「だからこそ最後まで残ったんでしょうね」

 

 しおりは表から目を離さないまま言った。

 

 その言い方に熱はない。だが、坂本にはわかった。熱がないのではない。深すぎて外へ漏れてこないだけだ。

 

 前の学校との試合では、しおりは相手の恐れを嗅ぎ取っていた。初手から退いてくる気配、壊れないことを優先する指し方、団体戦として正しい損切り。それらを見切って、上から叩き潰した。

 

 だが、凛々花は違う。

 

 退かない。

 

 壊れるかもしれない筋でも、しおりにだけは必ず踏み込んでくる。

 

 勝率ではなく、首を取りにくる将棋を指す。

 

「しおり」

 

 坂本が低く呼ぶ。

 

「はい」

 

「言うまでもないが、ここは今までと違う。向こうはお前を知りすぎてる」

 

「わかってます」

 

「しかも相手は凛々花だけじゃない。二将も三将も、あの学校なら相当強い」

 

「ええ」

 

 しおりはようやく坂本の方を見た。

 

「だから勝ちます」

 

 あまりにも平らな言い方だったので、坂本は一瞬返す言葉を失った。

 

 勝つつもりだろうとは思っていた。けれど、それは気合いでもなければ決意表明でもない。ただ先に結果を述べただけの声だった。

 

 黒田が乾いた笑いを漏らす。

 

「お前、本当にそういう時だけ怖いな」

 

「怖いですか」

 

「普段よりずっとな」

 

 凛々花の学校も待機列へ戻っていた。

 

 その途中、一度だけ、凛々花がこちらを見た。

 

 視線がぶつかる。

 

 遠い。会話ができる距離ではない。けれど、その一瞬で十分だった。

 

 しおりにはわかる。

 

 あれはもう、小学生の頃の悔しさだけで動いている目ではない。負けた回数を数えていた時期はとっくに過ぎている。積み重ねた敗北を、全部土台に変えてここまで来た目だ。

 

 凛々花もまた気づいただろう。

 

 しおりの隣にいる坂本と黒田が、以前とは別人になっていることを。

 

 互いに情報は十分だった。

 

 だからこそ、嘘も見栄もいらない。

 

 代表決定戦前の控え時間は短かった。会場係が時計を見ながら進行を指示し、各校の顧問が最後の確認をしていく。

 

 しおりたちの顧問、三枝は珍しく言葉を選んでいるようだった。

 

「……相手は強い」

 

 開口一番、それだけを言う。

 

「見ればわかる」

 

 坂本が頷く。

 

「一将の御門は当然として、二将と三将も無駄がない。ここまで上がってきた将棋がきれいすぎる」

 

「きれい、ね」

 

 三枝は小さく繰り返し、それから首を振った。

 

「いや。あれは整いすぎてる。たぶん三人とも、役割を叩き込まれてる」

 

「役割」

 

「一将が切り裂く。二将が取り切る。三将が取りこぼさない。団体戦としては理想だ」

 

 黒田が鼻から息を吐く。

 

「嫌な話だな」

 

「嫌で済めばいいんだがな」

 

 三枝はそこで、しおりを見る。

 

「天羽」

 

「はい」

 

「相手の一将は、お前だけを見てここまで来てる。たぶん、今日のために積み上げてきたものがある」

 

「そうでしょうね」

 

「気負うな、とは言わん。むしろ気負え。ただし、一人で全部背負うな」

 

 その言葉に、しおりは少しだけ目を瞬かせた。

 

「一人で勝つのは簡単だ。だが、代表になるには三人で勝たなきゃならん。お前がそれを一番わかってるはずだ」

 

 三枝の声は穏やかだったが、誤魔化しはなかった。

 

 小学生の頃までのしおりなら、一人で勝てば大会は終わっていた。個人戦がほとんどだったからだ。だが今は違う。いくらしおりが勝っても、二人が落ちれば終わる。

 

 しおりは短く頷いた。

 

「はい」

 

「坂本、黒田」

 

「はい」

 

「お前らは、相手がしおりに気を取られてる隙を期待するな。あの学校はそんな甘いもんじゃない。むしろ、お前らを仕留めるために研ぎ澄ませてくる」

 

「わかってます」

 

 坂本が答えた。

 

「だったらいい。勝ってこい」

 

 それだけ言って、三枝は口を閉じた。

 

 余計な鼓舞はない。いい先生だと、黒田はふと思った。ここまで来たら、もう言葉で棋力は増えない。増えないなら、最後に必要なのは盤の前へ送り出す一言だけだ。

 

 会場アナウンスが響いた。

 

『地区代表決定戦を始めます。選手の皆さんは、対局席へお着きください』

 

 ざわめきが引いていく。

 

 広い会場の中央、最も人目につく位置に六つの席が用意されている。代表を決める最後の一戦だけに、観戦の輪も自然と厚くなっていた。敗れた学校の部員たち、顧問、保護者、そして関係者。誰もが、この試合だけは見逃すまいとしている。

 

 しおりは歩き出した。

 

 その一歩ごとに、床の硬さが靴底を通して伝わってくる。

 

 隣を歩く坂本は無言だった。黒田も同じだ。ここで軽口を叩けるほど、三人とも鈍くはない。

 

 席に着く。

 

 しおりの向かいには、御門凛々花が座った。

 

 小学生の頃より髪が少し伸びている。顔つきも幼さが引いて、目元の強さだけが残った。だが、盤の前に座った瞬間の空気は何も変わっていない。

 

「久しぶり」

 

 凛々花が先に言った。

 

「そうでもない気がします」

 

 しおりが返す。

 

 凛々花はかすかに口元を動かした。

 

「私は長かったわ。あんたに勝つまでの時間が」

 

「まだ勝ってませんよ」

 

「だから今ここにいるの」

 

 短いやり取りだったが、その奥に積もった年月は短くなかった。

 

 何度も決勝で当たった。

 何度も負けた。

 何度負けても、次も盤の前に座った。

 

 その執念が、今の凛々花を作っている。

 

「小学生の頃とは少し違うわよ」

 

「知ってます」

 

「見ただけで?」

 

「見ればわかります」

 

 凛々花の眉がわずかに動いた。

 

「むかつく言い方」

 

「本当のことなので」

 

「そこも変わらない」

 

 左右では、二将戦と三将戦の相手も着席していた。どちらも無駄な動きをしない。坂本の向かいの二将は細身の男子で、手元ばかり見ている。感情を表に出さないタイプだ。黒田の向かいの三将は小柄な女子で、姿勢だけは妙にいい。崩れにくい将棋を指しそうだと、見ただけで想像できた。

 

 審判が中央へ進み出る。

 

 観戦者の気配が、背後で静かに固まる。

 

「始めてください」

 

 六人が一斉に駒へ手を伸ばした。

 

 初手、二手。

 

 最初の数手だけで、しおりは確信した。

 

 やはり違う。

 

 凛々花は逃げていない。前回までの一将たちのように、最初からチーム全体の勝ち筋だけを優先して形を閉じる将棋ではない。かといって無鉄砲でもない。しおりが嫌う角度、間合い、手順。そのすべてを丁寧になぞるように、序盤から盤面へ手をかけてくる。

 

 しかも速い。

 

 以前よりずっと速い。

 

 ただの早指しではない。読みを絞った上で、捨てる枝を正しく捨てている。迷いの消し方を覚えている指し手だった。

 

 しおりは一手ごとに、その変化を感じていた。

 

 名人の祖父に鍛えられたのかもしれない。

 そうでなくても、負け続けた者だけが辿り着く場所がある。

 

 凛々花はそこまで来ていた。

 

 十手ほど進んだところで、背後の観戦者たちの空気がさらに濃くなる。まだ何かが起きたわけではない。だが、二人の盤だけ温度が違うのだ。駒組みの途中でありながら、すでに互いが互いの急所を探り合っている。

 

 凛々花が銀を上がる。

 

 しおりは即座に応じる。

 

 そこに間はない。

 

 凛々花の目が細くなる。

 

「速い」

 

「遅い方がいいですか」

 

「いいえ。そういうあんたを止めるために来たの」

 

 しおりは返答の代わりに角道を通した。

 

 凛々花も待っていたように歩を合わせる。

 

 盤上に火花は見えない。

 だが、見えないだけだ。

 

 ぶつかっている。

 

 序盤の一手ごとに、六年分の敗北と執念が擦れ合っている。

 

 その頃、坂本の方も苦しい形に入っていた。相手二将はやはり終盤に強いのか、序盤で無理はせず、中盤以降のねじり合いに照準を合わせている。嫌な相手だった。少しでも判断を誤れば、一気に持っていかれる。

 

 黒田も楽ではない。向かいの三将は崩れない。攻めを誘って、こちらの形が伸び切った瞬間だけを待つような静かな将棋。焦れた方が負ける。

 

 三つとも重い。

 

 そしてそのことが、しおりにははっきりわかっていた。

 

 自分の一局だけでは足りない。

 ここで凛々花を斬っても、左右が落ちれば意味がない。

 

 ならば、自分は何をするべきか。

 

 勝つことだ。

 

 誰より先に。

 誰より深く。

 誰より明確に。

 

 その勝ちが、左右の二人の背を押す形でなければならない。

 

 しおりはゆっくりと息を吸った。

 

 そして、盤上のわずかなゆるみを見逃さず、一歩踏み込む。

 

 こと。

 

 凛々花の指が止まった。

 

 その一手は強手というより、確認に近かった。だが確認であるからこそ厄介だった。ここで凛々花がどう返すかで、しおりは今の完成度を測るつもりだったのだ。

 

 長くは考えない。

 

 凛々花はすぐに受けた。

 

 受けただけではない。形を崩さず、次の含みまで残している。

 

 しおりはそこで初めて、ほんの少しだけ口元を引き結んだ。

 

 強い。

 

 心の底から、そう思った。

 

 だが同時に、凛々花もまた感じ取っていた。

 

 しおりの指し手が、小学生の頃よりさらに無駄を削ぎ落としていることを。

 

 感情では届かない。

 勢いでも届かない。

 この盤面の先にいる相手は、もう負かしたいという願いだけでは崩れない。

 

「ようやく」

 

 凛々花が小さく言う。

 

「何ですか」

 

「ようやく、ちゃんと殺し合える」

 

 しおりは一拍置いて、それから答えた。

 

「そうですね」

 

 観戦していた部員たちは、その短い会話の意味を理解できなかった。

 だが、二人にとってはそれで十分だった。

 

 仲良しごっこではない。

 因縁の再会でもない。

 慰め合いでもない。

 

 盤の前でしか通じない形で、二人はようやく同じ高さへ立ったのだ。

 

 次の瞬間、凛々花が踏み込んだ。

 

 歩がぶつかる。

 角筋が鳴る。

 均衡が崩れかける。

 

 しおりは迷わず応じた。

 

 受けるのではない。

 迎え撃つ。

 

 中盤の入り口で、二人の将棋は一気に音を変えた。

 

 左右でも同時に、坂本と黒田の顔つきが変わる。来た。勝負どころだ。そう盤面が告げている。

 

 代表決定戦。

 

 六つの指先が、今まさに最初の深みに触れようとしていた。

 

 そして、その中心で。

 

 天羽しおりと御門凛々花は、もう昔の続きではなく、今日この場でしか生まれない将棋を始めていた。




### あとがき

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