もう一方の準決勝が終わるまで、十分とかからなかった。
終局を告げる声が上がった瞬間、待機していた各校の顧問たちが一斉に視線を向ける。勝ったのは、会場の反対側に陣を取っていた紺色のブレザーの学校だった。三人とも席を立つ動きに無駄がない。勝って浮つくでもなく、負けた相手に必要以上の感情を見せるでもなく、淡々と礼をして盤を離れる。
その中央にいた少女を見た瞬間、黒田が小さく息を飲んだ。
「まじか」
坂本もすぐに気づいたらしい。さっきまでの疲れを一瞬忘れたような顔で目を細める。
「知ってるのか」
その問いに答えたのは黒田ではなく、しおりだった。
「御門凛々花です」
声は静かだった。
けれど、その名が持つ重さだけは隠しようがなかった。
坂本がゆっくりとしおりの横顔を見る。
「御門って、あの御門か」
「はい」
「名人の孫娘の」
「そうです」
会場の空気が、一段階深く沈んだ気がした。
天羽しおりが覇王なら、御門凛々花はずっと、そのすぐ隣を歩いてきた者だった。優勝を何度も争い、そのたびに最後の一線で届かなかった少女。負け続けてなお、消えずに残った火種。しおりにとって唯一、名前を聞いただけで盤面の感触まで蘇る相手。
組み合わせ表が張り替えられる。
地区代表決定戦。
天羽しおりたちの学校と、御門凛々花の学校。
まるで初めから誰かがその形を待っていたかのようだった。
「最悪の相手だな」
黒田が苦笑する。
「しおりを知ってる。しかも、しおりに負け続けてなお勝ち上がってくる執念がある」
「だからこそ最後まで残ったんでしょうね」
しおりは表から目を離さないまま言った。
その言い方に熱はない。だが、坂本にはわかった。熱がないのではない。深すぎて外へ漏れてこないだけだ。
前の学校との試合では、しおりは相手の恐れを嗅ぎ取っていた。初手から退いてくる気配、壊れないことを優先する指し方、団体戦として正しい損切り。それらを見切って、上から叩き潰した。
だが、凛々花は違う。
退かない。
壊れるかもしれない筋でも、しおりにだけは必ず踏み込んでくる。
勝率ではなく、首を取りにくる将棋を指す。
「しおり」
坂本が低く呼ぶ。
「はい」
「言うまでもないが、ここは今までと違う。向こうはお前を知りすぎてる」
「わかってます」
「しかも相手は凛々花だけじゃない。二将も三将も、あの学校なら相当強い」
「ええ」
しおりはようやく坂本の方を見た。
「だから勝ちます」
あまりにも平らな言い方だったので、坂本は一瞬返す言葉を失った。
勝つつもりだろうとは思っていた。けれど、それは気合いでもなければ決意表明でもない。ただ先に結果を述べただけの声だった。
黒田が乾いた笑いを漏らす。
「お前、本当にそういう時だけ怖いな」
「怖いですか」
「普段よりずっとな」
凛々花の学校も待機列へ戻っていた。
その途中、一度だけ、凛々花がこちらを見た。
視線がぶつかる。
遠い。会話ができる距離ではない。けれど、その一瞬で十分だった。
しおりにはわかる。
あれはもう、小学生の頃の悔しさだけで動いている目ではない。負けた回数を数えていた時期はとっくに過ぎている。積み重ねた敗北を、全部土台に変えてここまで来た目だ。
凛々花もまた気づいただろう。
しおりの隣にいる坂本と黒田が、以前とは別人になっていることを。
互いに情報は十分だった。
だからこそ、嘘も見栄もいらない。
代表決定戦前の控え時間は短かった。会場係が時計を見ながら進行を指示し、各校の顧問が最後の確認をしていく。
しおりたちの顧問、三枝は珍しく言葉を選んでいるようだった。
「……相手は強い」
開口一番、それだけを言う。
「見ればわかる」
坂本が頷く。
「一将の御門は当然として、二将と三将も無駄がない。ここまで上がってきた将棋がきれいすぎる」
「きれい、ね」
三枝は小さく繰り返し、それから首を振った。
「いや。あれは整いすぎてる。たぶん三人とも、役割を叩き込まれてる」
「役割」
「一将が切り裂く。二将が取り切る。三将が取りこぼさない。団体戦としては理想だ」
黒田が鼻から息を吐く。
「嫌な話だな」
「嫌で済めばいいんだがな」
三枝はそこで、しおりを見る。
「天羽」
「はい」
「相手の一将は、お前だけを見てここまで来てる。たぶん、今日のために積み上げてきたものがある」
「そうでしょうね」
「気負うな、とは言わん。むしろ気負え。ただし、一人で全部背負うな」
その言葉に、しおりは少しだけ目を瞬かせた。
「一人で勝つのは簡単だ。だが、代表になるには三人で勝たなきゃならん。お前がそれを一番わかってるはずだ」
三枝の声は穏やかだったが、誤魔化しはなかった。
小学生の頃までのしおりなら、一人で勝てば大会は終わっていた。個人戦がほとんどだったからだ。だが今は違う。いくらしおりが勝っても、二人が落ちれば終わる。
しおりは短く頷いた。
「はい」
「坂本、黒田」
「はい」
「お前らは、相手がしおりに気を取られてる隙を期待するな。あの学校はそんな甘いもんじゃない。むしろ、お前らを仕留めるために研ぎ澄ませてくる」
「わかってます」
坂本が答えた。
「だったらいい。勝ってこい」
それだけ言って、三枝は口を閉じた。
余計な鼓舞はない。いい先生だと、黒田はふと思った。ここまで来たら、もう言葉で棋力は増えない。増えないなら、最後に必要なのは盤の前へ送り出す一言だけだ。
会場アナウンスが響いた。
『地区代表決定戦を始めます。選手の皆さんは、対局席へお着きください』
ざわめきが引いていく。
広い会場の中央、最も人目につく位置に六つの席が用意されている。代表を決める最後の一戦だけに、観戦の輪も自然と厚くなっていた。敗れた学校の部員たち、顧問、保護者、そして関係者。誰もが、この試合だけは見逃すまいとしている。
しおりは歩き出した。
その一歩ごとに、床の硬さが靴底を通して伝わってくる。
隣を歩く坂本は無言だった。黒田も同じだ。ここで軽口を叩けるほど、三人とも鈍くはない。
席に着く。
しおりの向かいには、御門凛々花が座った。
小学生の頃より髪が少し伸びている。顔つきも幼さが引いて、目元の強さだけが残った。だが、盤の前に座った瞬間の空気は何も変わっていない。
「久しぶり」
凛々花が先に言った。
「そうでもない気がします」
しおりが返す。
凛々花はかすかに口元を動かした。
「私は長かったわ。あんたに勝つまでの時間が」
「まだ勝ってませんよ」
「だから今ここにいるの」
短いやり取りだったが、その奥に積もった年月は短くなかった。
何度も決勝で当たった。
何度も負けた。
何度負けても、次も盤の前に座った。
その執念が、今の凛々花を作っている。
「小学生の頃とは少し違うわよ」
「知ってます」
「見ただけで?」
「見ればわかります」
凛々花の眉がわずかに動いた。
「むかつく言い方」
「本当のことなので」
「そこも変わらない」
左右では、二将戦と三将戦の相手も着席していた。どちらも無駄な動きをしない。坂本の向かいの二将は細身の男子で、手元ばかり見ている。感情を表に出さないタイプだ。黒田の向かいの三将は小柄な女子で、姿勢だけは妙にいい。崩れにくい将棋を指しそうだと、見ただけで想像できた。
審判が中央へ進み出る。
観戦者の気配が、背後で静かに固まる。
「始めてください」
六人が一斉に駒へ手を伸ばした。
初手、二手。
最初の数手だけで、しおりは確信した。
やはり違う。
凛々花は逃げていない。前回までの一将たちのように、最初からチーム全体の勝ち筋だけを優先して形を閉じる将棋ではない。かといって無鉄砲でもない。しおりが嫌う角度、間合い、手順。そのすべてを丁寧になぞるように、序盤から盤面へ手をかけてくる。
しかも速い。
以前よりずっと速い。
ただの早指しではない。読みを絞った上で、捨てる枝を正しく捨てている。迷いの消し方を覚えている指し手だった。
しおりは一手ごとに、その変化を感じていた。
名人の祖父に鍛えられたのかもしれない。
そうでなくても、負け続けた者だけが辿り着く場所がある。
凛々花はそこまで来ていた。
十手ほど進んだところで、背後の観戦者たちの空気がさらに濃くなる。まだ何かが起きたわけではない。だが、二人の盤だけ温度が違うのだ。駒組みの途中でありながら、すでに互いが互いの急所を探り合っている。
凛々花が銀を上がる。
しおりは即座に応じる。
そこに間はない。
凛々花の目が細くなる。
「速い」
「遅い方がいいですか」
「いいえ。そういうあんたを止めるために来たの」
しおりは返答の代わりに角道を通した。
凛々花も待っていたように歩を合わせる。
盤上に火花は見えない。
だが、見えないだけだ。
ぶつかっている。
序盤の一手ごとに、六年分の敗北と執念が擦れ合っている。
その頃、坂本の方も苦しい形に入っていた。相手二将はやはり終盤に強いのか、序盤で無理はせず、中盤以降のねじり合いに照準を合わせている。嫌な相手だった。少しでも判断を誤れば、一気に持っていかれる。
黒田も楽ではない。向かいの三将は崩れない。攻めを誘って、こちらの形が伸び切った瞬間だけを待つような静かな将棋。焦れた方が負ける。
三つとも重い。
そしてそのことが、しおりにははっきりわかっていた。
自分の一局だけでは足りない。
ここで凛々花を斬っても、左右が落ちれば意味がない。
ならば、自分は何をするべきか。
勝つことだ。
誰より先に。
誰より深く。
誰より明確に。
その勝ちが、左右の二人の背を押す形でなければならない。
しおりはゆっくりと息を吸った。
そして、盤上のわずかなゆるみを見逃さず、一歩踏み込む。
こと。
凛々花の指が止まった。
その一手は強手というより、確認に近かった。だが確認であるからこそ厄介だった。ここで凛々花がどう返すかで、しおりは今の完成度を測るつもりだったのだ。
長くは考えない。
凛々花はすぐに受けた。
受けただけではない。形を崩さず、次の含みまで残している。
しおりはそこで初めて、ほんの少しだけ口元を引き結んだ。
強い。
心の底から、そう思った。
だが同時に、凛々花もまた感じ取っていた。
しおりの指し手が、小学生の頃よりさらに無駄を削ぎ落としていることを。
感情では届かない。
勢いでも届かない。
この盤面の先にいる相手は、もう負かしたいという願いだけでは崩れない。
「ようやく」
凛々花が小さく言う。
「何ですか」
「ようやく、ちゃんと殺し合える」
しおりは一拍置いて、それから答えた。
「そうですね」
観戦していた部員たちは、その短い会話の意味を理解できなかった。
だが、二人にとってはそれで十分だった。
仲良しごっこではない。
因縁の再会でもない。
慰め合いでもない。
盤の前でしか通じない形で、二人はようやく同じ高さへ立ったのだ。
次の瞬間、凛々花が踏み込んだ。
歩がぶつかる。
角筋が鳴る。
均衡が崩れかける。
しおりは迷わず応じた。
受けるのではない。
迎え撃つ。
中盤の入り口で、二人の将棋は一気に音を変えた。
左右でも同時に、坂本と黒田の顔つきが変わる。来た。勝負どころだ。そう盤面が告げている。
代表決定戦。
六つの指先が、今まさに最初の深みに触れようとしていた。
そして、その中心で。
天羽しおりと御門凛々花は、もう昔の続きではなく、今日この場でしか生まれない将棋を始めていた。
### あとがき
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それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
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