歩がぶつかった瞬間、会場の音が遠のいた。
天羽しおりの目の前で、御門凛々花が初めてはっきりと牙を見せた。序盤の探り合いではない。小学生の頃に何度も見せられた、悔しさと意地をそのまま形にしたような直線的な踏み込みでもない。
読んだ上で踏み込んでいる。
しおりはその一手に、凛々花がここへ来るまでに積み重ねてきた時間を見た。
歩を取り合う。
角道が鳴る。
銀が前へ出る。
ただの開戦だった。まだどちらが優勢とも言えない。見ている者の多くは、ようやく本格的な中盤に入ったとしか思わなかっただろう。
だが、しおりにはわかる。
この一手で、凛々花はもう逃げないと宣言したのだ。
団体戦の一将として長く粘り、味方の勝ちを待つ道もあったはずだった。だが、凛々花はその道を選ばなかった。しおり相手に、ただ耐えるだけの将棋では終わらせない。そのつもりで盤を挟んでいる。
しおりは歩を払い、角筋の変化を見た。
凛々花はすぐに応じる。
速い。
速い上に、捨てる手順を知っている。全部を読むのではなく、読むべき筋を初めから絞っている指し方だった。祖父である名人に鍛えられたのか、あるいは負け続けた果てに、自分でその領域へ辿り着いたのか。どちらにせよ、小学生時代の凛々花とはもう別人だった。
「ようやく、って顔してる」
凛々花が小さく言った。
しおりは視線を盤から離さずに返す。
「何がですか」
「あんた、少しだけうれしそう」
しおりの指先が止まる。
ほんの一瞬だけだった。
「気のせいです」
「そういうことにしてあげる」
凛々花は薄く笑い、それから次の手を置いた。
手筋としては地味だった。飛び込むでもなく、派手に捌くでもない。だが、その地味さの奥に棘がある。手堅く見えて、受け方を間違えれば一気に流れを引き寄せられる位置だった。
しおりはそこに、昔の凛々花にはなかったものを見る。
焦らない。
勝ちたい一心で力むのではなく、勝つために必要な速度だけで前へ出る。
以前なら、しおりに一太刀浴びせようとして自分から形を乱していた。だが今は違う。届かない一手を知っていて、その上で届く一手だけを積み重ねている。
左右の盤でも、空気が重くなっていた。
坂本はすでに額に汗を浮かべている。相手二将は、やはり嫌な相手だった。仕掛ける素振りを見せながら、決定打だけは絶対に早まらない。坂本が受けに回れば中央から圧をかけ、前へ出れば薄くなったところへ指を差し込んでくる。
将棋そのものが冷たい。
感情でねじ伏せる相手ではない。手順のわずかな乱れを待ち、その瞬間に刃を立てる将棋だ。
黒田の方も苦しかった。向かいの三将は崩れない。攻め急げばいなされ、受けに回れば主導権だけを失う。どこかで踏み込まなければ勝てない。だが、雑に踏み込めば終わる。その境目を見極める難しさで、黒田の読みは何度も盤に縫い止められていた。
しおりはそれを視界の端で感じながら、目の前の凛々花へ意識を戻す。
ここで自分が崩れれば終わる。
それは一将としての意味ではない。二人の背骨がへし折れる。坂本も黒田も、しおりが勝つことを前提にこの盤へ座っている。頼っているわけではない。ただ、信じている。その一点があるからこそ、それぞれの将棋に集中できている。
だから落とせない。
凛々花は銀をぶつけてきた。
しおりは一呼吸だけ置いて、静かに取る。
凛々花も取り返す。
そこで角を打ち込むか、金を寄るか、別の筋に手をつけるか。分岐はいくつも見えた。どれも成立しそうで、どれも危うい。観戦していた顧問たちの何人かが、思わず前のめりになる。
しおりは、そのどれにも見えない一手を選んだ。
こと。
駒音は小さかった。
だが、凛々花の目がはっきりと細くなった。
「そこ」
「嫌でしたか」
「すごく」
凛々花はすぐには指さなかった。
盤面を見つめる。
視線が左から右へ、上から下へ走る。
次にしおりの持ち駒へ落ちる。
さらに、自分の玉形へ戻る。
その沈黙を見て、観戦者の何人かがようやく異変に気づく。
ただ受けづらい手ではない。
今の一着で、しおりは凛々花の予定図を一度まっさらにしたのだ。
攻め筋はまだ消えていない。むしろ残っている。だが、凛々花が描いていた攻防の順番だけが、きれいにひっくり返っている。
「本当に、そういうところだけ嫌い」
凛々花が呟き、ようやく駒を動かす。
しおりはその応手を見た瞬間、次の三手をほぼ決めていた。
だが、指先を伸ばしかけたところで、ふいに隣の盤から微かな違和感が伝わってきた。
坂本だ。
視線を向けなくてもわかる。
呼吸が少し変わった。
押されている。
しかも、ただ押されているのではない。相手二将が中盤の早い段階で、坂本の得意な受けの形を外しにかかっている。いつものように凌いで終盤勝負へ、という流れを許さない手順。おそらく、相当研究してきている。
坂本の将棋を知っている。
しおりはその事実だけで、相手校の本気度を理解した。
一将の凛々花だけではない。学校全体で、この代表決定戦に照準を合わせてきている。
黒田の方も、盤面の空気が悪い。まだ形勢ははっきりしない。だが、相手三将はしぶとい。勝負を決めにいかず、黒田がほんの少しだけ前のめりになる瞬間を待っている。焦れた側が負ける将棋だ。
しおりの胸の奥で、わずかに熱が上がる。
面白い。
そう思った自分に、しおりは内心で少しだけ眉をひそめた。
代表決定戦の最中に、面白いなどと思うべきではない。勝たなければいけない盤で、楽しむ余地などあってはならない。
けれど事実として、盤上の密度が違った。
凛々花は強い。
坂本の相手も強い。
黒田の相手も強い。
三つの盤すべてが、本気でこちらを刈り取りに来ている。
ようやく来た。
そんな感覚が、しおりの中にあった。
「笑った」
凛々花が言う。
「笑ってません」
「笑ってるのよ。少しだけ」
しおりは否定しなかった。
今の一局は、昔の続きではない。積み重ねた年数も、勝敗の履歴も、因縁も、全部ある。その上でなお、今日の盤は今日しか存在しない。
それが少しだけ、うれしかった。
凛々花が次の一手を置く。
攻めを急がない。
だが、引きもしない。
しおりはその手を見て、自分の読みが一段深く潜るのを感じた。
この手順なら、数手後に中央が薄くなる。
いや、その前に右辺の歩交換を入れてくるかもしれない。
それならこちらも金を寄るだけでは間に合わない。
もっと先に、息の根を止める一手が要る。
しおりの指先が、そっと駒へ触れる。
その瞬間だった。
隣で、坂本の駒音がいつもよりわずかに強く響いた。
まずい。
今の一手は、そういう音だった。
しおりは見ない。
見ないままわかる。
坂本は踏み込まされた。
本来なら、まだ待つべき局面だった。だが待てば待つほど、相手の用意した形へ閉じ込められる。だから嫌でも前へ出るしかなかった。出された、という方が正しい。
凛々花もそれに気づいたらしい。
「二将、崩されそうね」
しおりはようやく口を開く。
「余計なことを見てる余裕があるんですか」
「あるわよ。だって、あんたも聞いてたでしょう」
図星だった。
聞いていた。
見ていなくても、盤外の空気で味方の危機がわかる。
団体戦はそれが厄介だった。
凛々花は続ける。
「昔のあんたなら、そこで少し急いだ」
しおりは返さない。
「自分が早く勝って助けなきゃって顔をして、ほんの少しだけ雑になる。私はそれを何回も見てきた」
しおりの目が、ほんの少しだけ冷えた。
「でも今は違う」
凛々花は薄く笑う。
「違うから、怖い」
その言葉と同時に、しおりは一手を打ち込んだ。
迷いのない一着だった。
助けるために急いだのではない。
むしろ逆だ。
自分の勝ちを最短にするための手順へ、さらに深く潜った一手だった。
凛々花の笑みが消える。
そこまで踏み込んでくるとは思っていなかったのだろう。
盤面のどこか一か所を責めるのではない。陣全体の呼吸を奪うような手。今すぐどうこうという形ではないくせに、数手後には必ず効いてくる嫌な毒だった。
「本当に嫌」
凛々花が低く言う。
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知ってます」
凛々花は長く考えた。
時計が削れる。
会場のざわめきが遠のく。
隣で坂本が苦しそうに息を吐く音が、かすかに耳へ届く。
黒田はまだ耐えている。だが、耐えているだけでは勝てない。どこかで刃を返さなければならない。
しおりは何も言わず、盤に向かう。
自分が勝つしかない。
しかも、ただ勝つのでは足りない。見せつけるように勝たなければならない。二人がまだ踏みとどまれるように、こちらの盤だけでも流れを引き寄せておかなければならない。
凛々花がようやく手を返す。
受けとしては最善に近い。
だが、それでも足りない。
しおりは次を指す。
凛々花が応じる。
さらにしおり。
中盤の応酬が、急に鋭さを増した。
観戦していた三枝は腕を組んだまま動かない。だが、その目だけははっきりと一将戦に吸い寄せられていた。盤面の意味が変わったのだ。
均衡が崩れ始めている。
まだ形勢差と呼べるほどではない。けれど、主導権の所在が、少しずつ片側へ寄っていく気配がある。
凛々花もそれを感じていた。
このままでは押し切られる。
だから、ここで変えるしかない。
彼女は持ち駒へ指を伸ばし、盤上の一点へ打ち下ろした。
攻め合い。
受けきる道ではない。
逃げ切る道でもない。
傷を承知で、互いの玉へ手をかけにいく将棋だった。
その手を見た瞬間、会場のあちこちで息が止まった。
踏み込んだ。
御門凛々花は、代表決定戦の一将戦を真正面から殴り合いへ持ち込んだ。
しおりの目が、わずかに見開かれる。
驚きではない。
歓喜に近い反応だった。
「そう来ますか」
「来るわよ」
凛々花の声は震えていなかった。
「今日の私は、負けるためにここに来たんじゃない」
しおりは無言で盤面を見下ろした。
鋭い。
危うい。
だが、成立している。
この局面でここまで踏み込めるなら、凛々花は本当にしおりを斬る気でいる。負けない将棋では届かない。ならば、相打ち覚悟でも喉元へ届く順を選ぶ。そういう将棋だ。
しおりの胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。
いい。
その程度でなければ、意味がない。
隣では、ついに坂本が苦鳴を漏らした。崩れた。まだ投了ではない。だが、形が悪い。受け切るには細すぎる。相手二将はそこを逃さず、寄せの網を広げ始めている。
黒田の盤も、まだ五分のまま膠着している。生きているが、楽ではない。どちらへ転ぶかまるで見えない。
一将が取れなければ終わる。
しおりはその事実を、恐ろしいほど冷静に受け止めていた。
だからこそ、次の一手に迷いはなかった。
攻め合いを受けるのではない。
それごと飲み込む。
凛々花の踏み込みを認めた上で、さらにその一段先へ行く一手を、しおりは静かに置いた。
瞬間、凛々花の顔つきが変わる。
読んでいなかったわけではない。
だが、読んでいてもなお、実際に盤へ現れると嫌な一手だった。
「そこまで行くの」
「行きます」
「ほんと、可愛くない」
「知ってます」
短いやり取りの裏で、将棋はもう序盤にも中盤にもいなかった。
盤上のすべてが、終盤へ向かって流れ始めている。
代表決定戦。
六人の中で、最初に息を切らすのは誰か。
最初に膝を折るのは誰か。
そして、最初に勝ち筋を掴むのは誰か。
しおりは盤から目を離さない。
凛々花も離さない。
左右で坂本と黒田が、それぞれの地獄を渡っている気配だけが、薄く背中へ触れ続けていた。
その時だった。
坂本の方から、駒台へ手が置かれる乾いた音がした。
終わったのかと、誰もが一瞬思う。
だが違った。
坂本は投了していない。
震える指で駒を摘み、ぎりぎりの受けを盤へ打ち下ろしたのだ。
まだ終わらせないという、一手だった。
しおりはその音を聞いて、ほんのわずかに目を細めた。
ならば、自分も終わらせる。
終わらせるための一手を、次で入れる。
そう決めた瞬間、凛々花もまた顔を上げた。
相手の変化を感じ取ったのだろう。
二人は初めて、盤越しではなく真正面から目を合わせた。
次の一手で、この局面は決定的に形を変える。
それを、二人とも理解していた。
### あとがき
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