盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第二十七話 覇王と宿敵

 次の一手で、この将棋は決まる。

 

 天羽しおりも、御門凛々花も、それをわかっていた。

 

 盤上はもう、丁寧に形を整えている段階ではない。互いの陣には傷があり、持ち駒は刃になり、どちらが先に喉元へ届くかだけが問題になっていた。坂本の苦しい呼吸も、黒田の細い粘りも、会場の視線も、全部が遠い。

 

 しおりの世界には、もう凛々花の玉しかなかった。

 

 凛々花も同じだった。

 

 昔のように、ただ食らいつくだけではない。悔しさに任せて踏み込むだけでもない。ここまで来る間に何度も削ってきたのだろう。読みの無駄を、感情の無駄を、負け筋に繋がる焦りを。

 

 だからこそ、今の凛々花は強い。

 

 目の前にいるのは、かつて決勝で何度も退けた少女ではない。負け続けたまま消えなかった者だけが持つ鋭さを、骨の中まで研ぎ澄ませてきた相手だった。

 

 凛々花が盤面を睨んだまま言った。

 

「ここで受けたら、あんたの勝ち」

 

「そうですね」

 

「でも、踏み込んでも危ない」

 

「はい」

 

「嫌になる」

 

 しおりは何も言わなかった。

 

 嫌になるのは自分も同じだった。凛々花がここまで来ていることが、少しだけうれしくて、少しだけ厄介で、そして何より油断の余地を一切消していた。

 

 凛々花の指が持ち駒へ伸びる。

 

 盤上に打ち下ろされた一手は、受けではなかった。

 

 攻め合い。

 

 会場の誰かが小さく息を呑んだ。

 

 ここでまだ前へ出るのか、という驚きが、観戦の輪に静かに広がる。形だけ見れば危ない。少しでも読みを誤れば、そのまま即死するような踏み込みだった。だが、凛々花はためらわなかった。

 

 しおりはその一手を見て、胸の奥で静かに熱が上がるのを感じた。

 

 やはり来た。

 

 そうでなくては困る、という思いすらあった。

 

「それが今日の答えですか」

 

 しおりが言う。

 

 凛々花は盤から目を離さない。

 

「違うわ」

 

「違う?」

 

「答えなんて、まだ出てない。今から奪うの」

 

 しおりの口元が、わずかに動いた。

 

 その返しが出来るなら、本当に強くなったのだとわかる。

 

 しおりは盤面を見下ろす。

 

 凛々花の攻めは鋭い。受けに回れば細い。逃げ方を一つでも間違えれば、そのまま寄せ切られる。だが同時に、凛々花自身の玉も無傷ではない。踏み込んだ以上、こちらにも届く道が残る。

 

 一手勝ち。

 

 先に届いた方が勝つ。

 

 しおりの思考が深く沈む。

 

 詰みの形だけではない。

 相手の第一感。

 第二感。

 苦しい時に人が選びたくなる手。

 凛々花がここまで積み上げてきた癖と、今日のこの局面で初めて見せた強さ。

 

 全部を一度に読む。

 

 盤の上では、たった一手を決めるために何十手もの景色が流れていた。

 

 凛々花が眉をひそめる。

 

「長いわね」

 

「大事なので」

 

「昔はもっと速かった」

 

「今は昔より、あなたが強いからです」

 

 凛々花の指がぴくりと震えた。

 

 その反応を見て、しおりは自分の読みが外れていないと知る。言葉に反応したのではない。読みの深さを肯定されたことで、凛々花の中にほんの少しだけ熱が入ったのだ。

 

 まだ、揺れる。

 

 ならば、そこを突く。

 

 しおりはゆっくりと駒を摘んだ。

 

 そして、盤上の急所へ静かに打ち下ろす。

 

 駒音は小さかった。

 けれど、その一手が落ちた瞬間、凛々花の顔つきが変わった。

 

 攻めを受けたのではない。

 攻め合いの速度を、一段上から踏み潰しに来た手だった。

 

 凛々花は盤を見つめたまま動かない。

 

 数秒。

 十秒。

 さらに数秒。

 

 観戦している者には、何が起きたのかわからない。ただ、あれほど迷いなく踏み込んだ凛々花が止まった。それだけで十分だった。

 

 しおりは待つ。

 

 勝ちを急がない。

 ここで相手が苦しむ時間まで、将棋の一部だと知っているように。

 

「……そう来る」

 

 凛々花がやっと声を絞り出した。

 

「見えてましたか」

 

「見えてた」

 

「なら」

 

「でも、指されたら想像よりずっと嫌」

 

 凛々花は苦く笑った。

 それは敗北を認めた笑みではない。むしろ逆だった。ここからでもまだ食い下がると決めた顔だ。

 

 彼女は受けた。

 

 最善に近い一手だった。

 盤上に残された道の中で、最も長く、最も細く、最も生き残れる筋。

 

 しおりは即座に次を返した。

 

 凛々花がさらに応じる。

 

 会場の空気が張りつめていく。

 

 坂本の盤では、まだ終わっていない。だが苦しい。黒田の盤も、決して楽ではない。代表決定戦の勝敗そのものは、まだどちらへ転ぶかわからなかった。

 

 それでも、一将戦だけはもう終盤の中心を越えていた。

 

 詰むか。

 詰まないか。

 届くか。

 届かないか。

 

 凛々花はとうとう両手を膝に置き、盤へ顔を近づけた。

 

 読む。

 さらに読む。

 一手抜けられる筋を探す。

 王手を続けながら逆転する順を探す。

 

 だが、しおりの作った網は静かだった。

 

 露骨ではない。

 大声で勝ちを叫ぶ形ではない。

 なのに、一歩踏み込むごとに出口だけが消えていく。

 

「……ああ」

 

 凛々花が、小さく吐いた。

 

 その声を聞いた瞬間、しおりはわかった。

 

 届いた。

 

 ここで終わる。

 

 凛々花は数秒だけ盤を見つめ、それから顔を上げた。真正面からしおりを見る。その目に涙はなかった。悔しさはあった。怒りも、執念も、全部あった。だが、それ以上に濃かったのは納得しきれない納得だった。

 

「また、届かない」

 

 しおりは答えない。

 

 言葉を挟む場面ではないと知っていた。

 

「小学生の時は、もっと遠かった」

 

 凛々花が言う。

 

「今日は、指先一枚ぶんくらいまでは来た気がした」

 

「来てました」

 

 その即答に、凛々花は少しだけ目を見開いた。

 

 しおりは続けた。

 

「だから、ここまで読まされました」

 

 凛々花はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。

 悔しさを無理に飲み込むような、歪んだ笑みだった。

 

「慰めになってない」

 

「慰める気はないです」

 

「知ってる」

 

 短いやり取りのあと、凛々花は盤へ視線を戻す。

 

 そして、自分の玉の前にそっと指を置いた。

 

「……負けました」

 

 その一言で、一将戦の決着が落ちた。

 

 会場がどよめく。

 

 やはり、という声にならない声。

 それでも、御門凛々花がここまで追い詰めたことへの驚き。

 そして何より、覇王がまた勝ったという重い事実。

 

 しおりは静かに頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 凛々花も深く一礼した。

 

 顔を上げた時、彼女の目にはまだ火が残っていた。

 

「次は勝つ」

 

 しおりは即座に返す。

 

「次も勝ちます」

 

「ほんと、そういうところよ」

 

 そう言って凛々花は席を立った。負けたのに背中は曲がっていない。折れていない。今日の敗北をそのまま次の刃に変えるつもりなのが、歩き方だけでわかった。

 

 だが、団体戦はまだ終わっていない。

 

 しおりはすぐに左右の盤を見る。

 

 坂本は極限まで追い込まれていた。玉は薄く、相手二将の寄せは正確だ。だが、まだ残っている。しおりとの日々が、そのしぶとさを作っていた。簡単には崩れない。終わったように見えるところから、もう一枚だけ受けを捻り出す。

 

 黒田の盤はもっと際どかった。互いに薄い。互いに怖い。先に踏み外した方が死ぬ。そんな細い綱の上で、二人ともまだ落ちていない。

 

 一将が決着したことで、会場の視線が二局へ集まる。

 

 しおりは立ったまま、坂本の盤を見つめた。

 

 相手二将の顔がわずかに強ばっている。わかっているのだ。一将を落とした以上、ここを取り切らなければ終わる。勝ち急ぎたくなる。だが、その焦りこそが隙になる。

 

 坂本はそれを待っていた。

 

 長く受け続け、苦しみ続け、読み負けそうになりながらも、ずっとその一瞬だけを待っていた。

 

 相手の飛車が一歩だけ踏み込む。

 

 その瞬間、坂本の目が変わった。

 

 金が寄る。

 角が利く。

 死んでいたはずの駒が急に息を吹き返す。

 

「そこか」

 

 相手二将の唇が動く。

 

 遅い。

 

 坂本はそこで初めて、自分から前へ出た。受けきるだけではない。相手の寄せを逆用し、玉形の薄い一点を突き刺す。地味で、重くて、逃がさない手順だった。

 

 観戦していた三枝が腕を組んだまま、ほんのわずかに口元を緩める。

 

 しおりは何も言わなかった。

 

 言う必要がない。

 

 坂本は、自分で勝ち筋へ辿り着いた。

 

 数手後、相手二将が盤へ手をつく。

 

「……負けました」

 

 その声で、団体戦の勝敗は決した。

 

 二勝。

 

 代表は、しおりたちの学校だった。

 

 その瞬間、黒田が盤の前で大きく息を吐いた。まだ対局中だったが、表情が変わる。張りつめていたものが少しだけ緩み、それでも最後まで指し切ろうと盤へ向き直る。

 

 相手三将も同じだった。

 負けは決まった。それでも投げない。最後の一局を最後まで指す。

 

 しおりはその盤を横目で見ながら、もう一度凛々花の去った方向へ目を向けた。

 

 勝った。

 

 また、勝った。

 

 けれど、以前の勝利とは何かが違う。

 

 遠かった背中が近づいてきたのではない。

 追いすがる影が濃くなったのでもない。

 

 御門凛々花という一人の棋士が、はっきりとしおりの隣まで上がってきたのだ。

 

 次はもっと厄介になる。

 

 次はもっと深くなる。

 

 そう思うと、胸の奥が静かに熱を持った。

 

 黒田の対局もやがて終わった。

 最後は黒田の勝ちだった。

 

 三勝。

 

 代表決定戦は、結果だけ見れば完勝だった。

 

 だが、誰もそんなふうには感じていない。

 

 坂本は椅子から立ち上がる時、膝に力が入りきらず、机に手をついた。

 

「死ぬかと思った」

 

 掠れた声で言う。

 

 黒田も苦笑した。

 

「俺もだよ。何だあの学校。全員が嫌な将棋しやがる」

 

 三枝が三人の前へ来る。

 

「お前ら、よく取った」

 

 それだけだった。

 

 だが、その一言で十分だった。

 

 坂本が苦く笑う。

 

「褒めるの、そこなんですね」

 

「代表になったんだ。褒めるに決まってる」

 

 黒田がようやく実感したように、しおりを見た。

 

「全国だな」

 

「はい」

 

 しおりは短く答えた。

 

 その声に浮つきはなかった。

 勝った直後だというのに、もう次を見ている声だった。

 

 けれど、坂本にはわかった。

 

 しおりも少しだけ違う。

 

 凛々花との一戦で、何かを確かめたのだ。

 自分がまだ勝てること。

 それでも、追ってくる者が確かに強くなっていること。

 そして、自分もまた止まっていられないこと。

 

 会場の向こうで、凛々花が顧問と短く言葉を交わしていた。

 ふと、こちらを見る。

 

 しおりも見る。

 

 今度は言葉はなかった。

 それでも十分だった。

 

 次は終わらない。

 まだ続く。

 

 その約束だけが、確かに交わされた。

 

 しおりは小さく息を吐き、静かに前を向く。

 

 県代表。

 その肩書きは取った。

 けれど、それは終着点ではない。

 覇王という名を背負ったまま、もっと高い場所へ行くための通過点にすぎない。

 

 そして今日、しおりは知った。

 

 自分の背を追う者が、もうただの敗者ではないことを。

 

 だからこそ、もっと強くならなければならない。

 

 会場を出る直前、しおりは一度だけ振り返った。

 

 凛々花はもう、こちらを見ていなかった。

 次のために、すでに敗北を噛み砕き始めている顔だった。

 

 しおりはその横顔を見て、ほんの少しだけ口元を引き結ぶ。

 

 次も勝つ。

 

 だが次は、今日よりもっと深い盤になる。

 

 そんな予感を抱いたまま、覇王は県代表として会場を後にした。




### あとがき

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それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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