次の一手で、この将棋は決まる。
天羽しおりも、御門凛々花も、それをわかっていた。
盤上はもう、丁寧に形を整えている段階ではない。互いの陣には傷があり、持ち駒は刃になり、どちらが先に喉元へ届くかだけが問題になっていた。坂本の苦しい呼吸も、黒田の細い粘りも、会場の視線も、全部が遠い。
しおりの世界には、もう凛々花の玉しかなかった。
凛々花も同じだった。
昔のように、ただ食らいつくだけではない。悔しさに任せて踏み込むだけでもない。ここまで来る間に何度も削ってきたのだろう。読みの無駄を、感情の無駄を、負け筋に繋がる焦りを。
だからこそ、今の凛々花は強い。
目の前にいるのは、かつて決勝で何度も退けた少女ではない。負け続けたまま消えなかった者だけが持つ鋭さを、骨の中まで研ぎ澄ませてきた相手だった。
凛々花が盤面を睨んだまま言った。
「ここで受けたら、あんたの勝ち」
「そうですね」
「でも、踏み込んでも危ない」
「はい」
「嫌になる」
しおりは何も言わなかった。
嫌になるのは自分も同じだった。凛々花がここまで来ていることが、少しだけうれしくて、少しだけ厄介で、そして何より油断の余地を一切消していた。
凛々花の指が持ち駒へ伸びる。
盤上に打ち下ろされた一手は、受けではなかった。
攻め合い。
会場の誰かが小さく息を呑んだ。
ここでまだ前へ出るのか、という驚きが、観戦の輪に静かに広がる。形だけ見れば危ない。少しでも読みを誤れば、そのまま即死するような踏み込みだった。だが、凛々花はためらわなかった。
しおりはその一手を見て、胸の奥で静かに熱が上がるのを感じた。
やはり来た。
そうでなくては困る、という思いすらあった。
「それが今日の答えですか」
しおりが言う。
凛々花は盤から目を離さない。
「違うわ」
「違う?」
「答えなんて、まだ出てない。今から奪うの」
しおりの口元が、わずかに動いた。
その返しが出来るなら、本当に強くなったのだとわかる。
しおりは盤面を見下ろす。
凛々花の攻めは鋭い。受けに回れば細い。逃げ方を一つでも間違えれば、そのまま寄せ切られる。だが同時に、凛々花自身の玉も無傷ではない。踏み込んだ以上、こちらにも届く道が残る。
一手勝ち。
先に届いた方が勝つ。
しおりの思考が深く沈む。
詰みの形だけではない。
相手の第一感。
第二感。
苦しい時に人が選びたくなる手。
凛々花がここまで積み上げてきた癖と、今日のこの局面で初めて見せた強さ。
全部を一度に読む。
盤の上では、たった一手を決めるために何十手もの景色が流れていた。
凛々花が眉をひそめる。
「長いわね」
「大事なので」
「昔はもっと速かった」
「今は昔より、あなたが強いからです」
凛々花の指がぴくりと震えた。
その反応を見て、しおりは自分の読みが外れていないと知る。言葉に反応したのではない。読みの深さを肯定されたことで、凛々花の中にほんの少しだけ熱が入ったのだ。
まだ、揺れる。
ならば、そこを突く。
しおりはゆっくりと駒を摘んだ。
そして、盤上の急所へ静かに打ち下ろす。
駒音は小さかった。
けれど、その一手が落ちた瞬間、凛々花の顔つきが変わった。
攻めを受けたのではない。
攻め合いの速度を、一段上から踏み潰しに来た手だった。
凛々花は盤を見つめたまま動かない。
数秒。
十秒。
さらに数秒。
観戦している者には、何が起きたのかわからない。ただ、あれほど迷いなく踏み込んだ凛々花が止まった。それだけで十分だった。
しおりは待つ。
勝ちを急がない。
ここで相手が苦しむ時間まで、将棋の一部だと知っているように。
「……そう来る」
凛々花がやっと声を絞り出した。
「見えてましたか」
「見えてた」
「なら」
「でも、指されたら想像よりずっと嫌」
凛々花は苦く笑った。
それは敗北を認めた笑みではない。むしろ逆だった。ここからでもまだ食い下がると決めた顔だ。
彼女は受けた。
最善に近い一手だった。
盤上に残された道の中で、最も長く、最も細く、最も生き残れる筋。
しおりは即座に次を返した。
凛々花がさらに応じる。
会場の空気が張りつめていく。
坂本の盤では、まだ終わっていない。だが苦しい。黒田の盤も、決して楽ではない。代表決定戦の勝敗そのものは、まだどちらへ転ぶかわからなかった。
それでも、一将戦だけはもう終盤の中心を越えていた。
詰むか。
詰まないか。
届くか。
届かないか。
凛々花はとうとう両手を膝に置き、盤へ顔を近づけた。
読む。
さらに読む。
一手抜けられる筋を探す。
王手を続けながら逆転する順を探す。
だが、しおりの作った網は静かだった。
露骨ではない。
大声で勝ちを叫ぶ形ではない。
なのに、一歩踏み込むごとに出口だけが消えていく。
「……ああ」
凛々花が、小さく吐いた。
その声を聞いた瞬間、しおりはわかった。
届いた。
ここで終わる。
凛々花は数秒だけ盤を見つめ、それから顔を上げた。真正面からしおりを見る。その目に涙はなかった。悔しさはあった。怒りも、執念も、全部あった。だが、それ以上に濃かったのは納得しきれない納得だった。
「また、届かない」
しおりは答えない。
言葉を挟む場面ではないと知っていた。
「小学生の時は、もっと遠かった」
凛々花が言う。
「今日は、指先一枚ぶんくらいまでは来た気がした」
「来てました」
その即答に、凛々花は少しだけ目を見開いた。
しおりは続けた。
「だから、ここまで読まされました」
凛々花はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
悔しさを無理に飲み込むような、歪んだ笑みだった。
「慰めになってない」
「慰める気はないです」
「知ってる」
短いやり取りのあと、凛々花は盤へ視線を戻す。
そして、自分の玉の前にそっと指を置いた。
「……負けました」
その一言で、一将戦の決着が落ちた。
会場がどよめく。
やはり、という声にならない声。
それでも、御門凛々花がここまで追い詰めたことへの驚き。
そして何より、覇王がまた勝ったという重い事実。
しおりは静かに頭を下げた。
「ありがとうございました」
凛々花も深く一礼した。
顔を上げた時、彼女の目にはまだ火が残っていた。
「次は勝つ」
しおりは即座に返す。
「次も勝ちます」
「ほんと、そういうところよ」
そう言って凛々花は席を立った。負けたのに背中は曲がっていない。折れていない。今日の敗北をそのまま次の刃に変えるつもりなのが、歩き方だけでわかった。
だが、団体戦はまだ終わっていない。
しおりはすぐに左右の盤を見る。
坂本は極限まで追い込まれていた。玉は薄く、相手二将の寄せは正確だ。だが、まだ残っている。しおりとの日々が、そのしぶとさを作っていた。簡単には崩れない。終わったように見えるところから、もう一枚だけ受けを捻り出す。
黒田の盤はもっと際どかった。互いに薄い。互いに怖い。先に踏み外した方が死ぬ。そんな細い綱の上で、二人ともまだ落ちていない。
一将が決着したことで、会場の視線が二局へ集まる。
しおりは立ったまま、坂本の盤を見つめた。
相手二将の顔がわずかに強ばっている。わかっているのだ。一将を落とした以上、ここを取り切らなければ終わる。勝ち急ぎたくなる。だが、その焦りこそが隙になる。
坂本はそれを待っていた。
長く受け続け、苦しみ続け、読み負けそうになりながらも、ずっとその一瞬だけを待っていた。
相手の飛車が一歩だけ踏み込む。
その瞬間、坂本の目が変わった。
金が寄る。
角が利く。
死んでいたはずの駒が急に息を吹き返す。
「そこか」
相手二将の唇が動く。
遅い。
坂本はそこで初めて、自分から前へ出た。受けきるだけではない。相手の寄せを逆用し、玉形の薄い一点を突き刺す。地味で、重くて、逃がさない手順だった。
観戦していた三枝が腕を組んだまま、ほんのわずかに口元を緩める。
しおりは何も言わなかった。
言う必要がない。
坂本は、自分で勝ち筋へ辿り着いた。
数手後、相手二将が盤へ手をつく。
「……負けました」
その声で、団体戦の勝敗は決した。
二勝。
代表は、しおりたちの学校だった。
その瞬間、黒田が盤の前で大きく息を吐いた。まだ対局中だったが、表情が変わる。張りつめていたものが少しだけ緩み、それでも最後まで指し切ろうと盤へ向き直る。
相手三将も同じだった。
負けは決まった。それでも投げない。最後の一局を最後まで指す。
しおりはその盤を横目で見ながら、もう一度凛々花の去った方向へ目を向けた。
勝った。
また、勝った。
けれど、以前の勝利とは何かが違う。
遠かった背中が近づいてきたのではない。
追いすがる影が濃くなったのでもない。
御門凛々花という一人の棋士が、はっきりとしおりの隣まで上がってきたのだ。
次はもっと厄介になる。
次はもっと深くなる。
そう思うと、胸の奥が静かに熱を持った。
黒田の対局もやがて終わった。
最後は黒田の勝ちだった。
三勝。
代表決定戦は、結果だけ見れば完勝だった。
だが、誰もそんなふうには感じていない。
坂本は椅子から立ち上がる時、膝に力が入りきらず、机に手をついた。
「死ぬかと思った」
掠れた声で言う。
黒田も苦笑した。
「俺もだよ。何だあの学校。全員が嫌な将棋しやがる」
三枝が三人の前へ来る。
「お前ら、よく取った」
それだけだった。
だが、その一言で十分だった。
坂本が苦く笑う。
「褒めるの、そこなんですね」
「代表になったんだ。褒めるに決まってる」
黒田がようやく実感したように、しおりを見た。
「全国だな」
「はい」
しおりは短く答えた。
その声に浮つきはなかった。
勝った直後だというのに、もう次を見ている声だった。
けれど、坂本にはわかった。
しおりも少しだけ違う。
凛々花との一戦で、何かを確かめたのだ。
自分がまだ勝てること。
それでも、追ってくる者が確かに強くなっていること。
そして、自分もまた止まっていられないこと。
会場の向こうで、凛々花が顧問と短く言葉を交わしていた。
ふと、こちらを見る。
しおりも見る。
今度は言葉はなかった。
それでも十分だった。
次は終わらない。
まだ続く。
その約束だけが、確かに交わされた。
しおりは小さく息を吐き、静かに前を向く。
県代表。
その肩書きは取った。
けれど、それは終着点ではない。
覇王という名を背負ったまま、もっと高い場所へ行くための通過点にすぎない。
そして今日、しおりは知った。
自分の背を追う者が、もうただの敗者ではないことを。
だからこそ、もっと強くならなければならない。
会場を出る直前、しおりは一度だけ振り返った。
凛々花はもう、こちらを見ていなかった。
次のために、すでに敗北を噛み砕き始めている顔だった。
しおりはその横顔を見て、ほんの少しだけ口元を引き結ぶ。
次も勝つ。
だが次は、今日よりもっと深い盤になる。
そんな予感を抱いたまま、覇王は県代表として会場を後にした。
### あとがき
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それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!