全国大会の会場に入った瞬間、しおりは県大会までとは別の空気を感じ取った。
広い。
まずそれが違った。
天井が高く、照明が白く、整然と並べられた長机の列が会場の奥まで続いている。そこに、東西を勝ち抜いてきた中学校の代表たちが、同じ制服や同じジャージ姿で静かに集まっていた。誰も騒がない。必要以上に笑わない。だが、全員が同じ熱を抱えているのがわかる。
ここにいるのは、各地で勝ち上がってきた学校だけだ。
県大会では、しおりという名前だけで顔色を変える相手が多かった。だが全国は違う。もちろん、しおりの存在を知っている者はいる。小学時代の異名、覇王。黒星をつけられなかった怪物。地方大会での異常な勝率。そうした話はここまで上がってくる連中なら耳にしている。
それでも、ただ怯えるだけの視線ではなかった。
測る目だ。
どこまで強いのか。
噂ほどなのか。
自分たちの学校にとって、どれほどの障害なのか。
そうやって、しおりを見る目だった。
坂本が小さく息を吐く。
「県大会とは、やっぱり違うな」
「全員、目つきが悪いですね」
しおりが言うと、黒田が吹き出しかけた。
「お前がそれを言うのかよ」
「本当のことです」
「まあ、確かに優しそうな顔したやつは少ないけどな」
受付を済ませ、指定された待機場所へ向かう途中、しおりは何人かの顔に覚えがあることに気づいた。小学生の頃、大会の上位戦線で見た者。地方の有名な将棋教室で名を聞いた者。新聞や将棋雑誌の片隅で名前を見た者。
東大寺学園。
白陵。
海城。
ほかにも、無名ではあるが駒の持ち方一つで強さがわかる学校がいくつもある。
将棋の強い学校というのは、個人が強いだけではない。
三人が三人とも、盤の前で余計なことをしない。
礼が短く、着席が静かで、待機の姿勢に無駄がない。
強豪校というのは、そういうところから違う。
坂本もそれを感じているのだろう。組み合わせ表を見上げたまま、口を引き結んでいた。
「初戦から海城か」
黒田が低く言う。
しおりも表を見る。
初戦の相手は、東日本大会で上位に入ってきた学校だった。名の通った中高一貫校で、個人戦でも団体戦でも毎年のように上位へ顔を出す。将棋部の層も厚く、一将だけで押し切れる相手ではない。
「いきなり当たりかよ」
黒田がぼやく。
「全国なんだから、当たり前だろ」
坂本の声は硬い。
「楽な相手なんかいない」
しおりは黙って相手校の選手たちを見る。
一将は細身の二年生だった。座っているだけなのに、妙に腰が低い。姿勢が崩れない。こういう相手は厄介だ。派手さがない代わりに、崩れるまでが長い。
二将は眼鏡の奥の目が鋭い。
三将は小柄だが、盤面を見る首の角度に迷いがない。
隙のない三人だった。
「どう見る」
坂本がしおりに訊く。
「強いです」
「それは見ればわかる」
「じゃあ、嫌な言い方をすると」
しおりは視線を外さずに言った。
「一将は固いです。勝ちを急がない。二将がたぶん一番攻めてくる。三将は取りこぼさないタイプです」
「県大会の決勝戦の相手みたいな構成だな」
「もっと精度が高いです」
黒田が口笛を吹きそうになってやめた。
「聞きたくなかったな、その一言」
「でも、勝てない相手じゃありません」
しおりがそう言った時、坂本と黒田は同時に顔を向けた。
その声音が、少しだけ違っていたからだ。
余裕ではない。
慢心でもない。
見えているのだ。
相手の強さも、その先の勝ち筋も。
しおりの中では、もう全国という看板はあまり意味を持っていなかった。ただ、県大会より深く、県大会より硬い相手が並んでいる。それだけだ。そして、それだけで十分だった。
胸が静かに熱い。
ここまで来たかった。
凛々花との県代表決定戦を超えた先に、もっと強い相手が並んでいる場所。自分がどこまで通じるのかではない。どこまで叩き潰せるのか、それを確かめる場所。
開会式が始まる。
挨拶があり、注意事項があり、進行が告げられる。しおりは黙って聞いていたが、頭の中ではもう次の盤のことしか考えていなかった。
全国の強豪たち。
その言葉だけを見れば、普通は胸が縮むのだろう。
だが、しおりは逆だった。
ようやく、という思いの方が強い。
県大会では、相手の多くがしおりを恐れた。
小学生時代からの名が先に立ち、盤を挟む前から半歩引いてくる者もいた。
だが全国は違う。
知っていても引かない。
知っているからこそ、倒しに来る。
それがたまらなく良かった。
開会式が終わり、選手たちが一斉に散っていく。
各校の顧問が最後の確認をし、三人が小さく輪になる。
三枝が三人を見回した。
「全国だからって、やることは変わらん」
それだけ言って、一度言葉を切る。
「一将が取る。二将と三将が粘る。そんな単純な話でもない。県大会を抜けた時点で、どこもそのくらいは出来る。だから結局、盤の前で自分の将棋を通せるかどうかだ」
坂本が頷く。
黒田も無言で頷く。
三枝の視線が最後にしおりへ向く。
「天羽」
「はい」
「お前は、相手が誰でもやることは同じだろう」
「はい」
「ならそれでいい。だが全国は、お前を知らない奴より、知ってる奴の方が厄介だ。噂を信じてる相手の方が、最初から対策してくる」
「わかってます」
「なら、なおさら最初の一局で黙らせろ」
しおりはほんのわずかに目を細めた。
「はい」
初戦開始のアナウンスが流れる。
ざわめきが引き、空気が張る。
会場中央に向かって歩き出した時、相手校の一将も同じように席へ向かっていた。すれ違う直前、その二年生が止まる。
「天羽しおり」
しおりも足を止めた。
「はい」
「話は聞いてる」
「そうですか」
「小学生の頃、誰も勝てなかったって」
「はい」
相手の少年は、そこでかすかに笑った。
「なら、全国で初めて負ければいい」
挑発でも虚勢でもなかった。
ただ、当然のように言っただけだった。
しおりはその顔を見て、小さく頷く。
「出来るなら、どうぞ」
少年の笑みが、ほんの少しだけ深くなる。
「やっぱり、嫌なやつだな」
「よく言われます」
「知ってる」
それだけ言って、相手は席へ向かった。
しおりも歩き出す。
背後で坂本が低く言う。
「完全に喧嘩売られてるじゃねえか」
「全国ですから」
「お前、その返しがもうおかしいんだよ」
盤の前に座る。
正面には全国の強豪校の一将。
左右には坂本と黒田。
その向こうには、それぞれこの舞台まで勝ち抜いてきた二将と三将。
県大会を抜けたから終わりではない。
ここから先は、しおり個人の物語ですらなくなる。
覇王という名だけで押し切れる場所ではない。
学校として、三人で、全国の強豪を踏み越えなければならない場所だ。
それでも、しおりの胸には不思議なほど静かな確信があった。
通じる。
いや、違う。
通す。
審判が前へ出る。
周囲の観戦席には、早くも各校の顧問や敗退校の選手たちが集まり始めていた。最初の一局から、好カードだと誰もがわかっているのだ。
「始めてください」
その言葉と同時に、六つの手が一斉に盤へ伸びた。
全国大会が始まる。
覇王、天羽しおり。
その進撃は、今度こそ全国の強豪たちを相手に始まった。
### あとがき
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