盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

29 / 38
第二十九話 西の刃

 海城との初戦を終えたあとも、しおりの胸は少しも静まらなかった。

 

 勝った。だが、それで満たされるほど甘い舞台ではない。全国大会の会場には、まだ同じ温度の視線がいくつも残っていた。いや、むしろ一回戦が終わったことで、視線はさらに鋭くなっているように思えた。

 

 天羽しおり。

 

 地方で暴れていただけの怪物ではない。

 

 全国でも通じる。

 

 そう認識されたのだ。

 

 待機場所へ戻る途中、坂本が肩を回しながら息を吐いた。

 

「初戦から重すぎるだろ……」

 

 黒田も苦い顔で頷く。

 

「海城でこれかよ。全国って、もっとこう、一回戦くらいは様子見みたいなもんかと思ってた」

 

「そんなわけないだろ」

 

 坂本は言いながらも、疲労を隠せていなかった。二将戦も三将戦も、県大会とは質が違った。相手は強かった。それも、一将が目立つのではなく、三人ともが同じ密度で強い学校だった。

 

 しおりは次の組み合わせ表を見上げる。

 

 二回戦。

 

 相手校の欄に記された校名を見た瞬間、周囲の空気がわずかにざわついた。

 

 白陵中学校。

 

 西日本を勝ち抜いてきた強豪校。

 三人とも崩れにくく、特に終盤の正確さで知られている学校だった。海城が整った将棋を指す東の強豪なら、白陵は薄いところへ刃を差し込むことに長けた西の強豪だった。

 

「よりによって次が白陵かよ……」

 

 黒田が低く呻く。

 

「当たりくじしか入ってないのか、この大会は」

 

「全国だからな」

 

 坂本はそう言ったが、表情は明らかに固い。初戦の疲労が消えていないのに、次が白陵。組み合わせとしては最悪に近かった。

 

 しおりは相手校の席へ視線を向ける。

 

 いた。

 

 三人ともすでに次を見ている顔をしている。一将の男子は長身で、まるで盤の前に座る前から考え始めているような目をしていた。二将は細く笑う癖のある少年。三将は女子だった。小柄で表情が読みにくい。

 

 全員、嫌な感じがした。

 

 派手ではない。だが、勝つべき筋だけを掴みにくるような冷たさがある。

 

「しおり」

 

 坂本が声を落とす。

 

「一将、どう見る」

 

「強いです」

 

「それはもういい」

 

「たぶん、今までで一番勝ち急がない相手です」

 

 坂本と黒田が同時に顔を向けた。

 

「勝ち急がない?」

 

「はい。私に勝とうとして無理に踏み込むタイプじゃない。たぶん、私の手を一つも信用しないで、全部嫌がりながら指してきます」

 

「最悪じゃねえか」

 

 黒田が即座に言う。

 

「そういう相手が一番めんどくさいだろ」

 

「はい」

 

 しおりはあっさり頷いた。

 

「その代わり、怖がってはいません」

 

 その一言で、坂本の目つきが変わる。

 

「わかるのか」

 

「なんとなくですけど」

 

 なんとなく。

 

 しおりがそう言う時、大抵は外れない。

 

 県大会までの相手は、盤を挟む前からしおりを知りすぎていた。小学時代の異名、覇王という呼び名、無敗の優勝記録。その重さに押されて、将棋が始まる前から半歩退いていた相手もいた。

 

 だが白陵は違う。

 

 しおりがどれだけの相手かは知っている。

 知った上で、勝てる形を最初から組みにくる。

 

 それは恐怖より、計算に近い。

 

 三枝が三人の前へ来た。

 

「次は白陵だ」

 

 短く告げる。

 

「海城より厄介だと思え。あそこは終盤で雑にならん。苦しければ苦しいほど、一手を細くしてくる」

 

「はい」

 

 坂本が応じる。

 

「坂本、お前のところは特に重くなる。相手二将は寄せ合いがうまい。先に形を乱したら終わると思え」

 

「了解です」

 

「黒田」

 

「はい」

 

「三将は女だが、そこで甘く見ると死ぬ。あれは受けの皮を被った食いつきだ。引かされるな」

 

「……了解です」

 

 最後に三枝はしおりを見る。

 

「天羽」

 

「はい」

 

「全国で名のある学校ほど、お前みたいな化け物を前提に練ってくる。勝てるかどうかじゃない。どこまで削って、どこで止めるか。その発想で来る」

 

「そうでしょうね」

 

「だから最初の一手から、相手の予定図を壊せ」

 

 しおりは小さく頷いた。

 

「はい」

 

 二回戦開始のアナウンスが流れる。

 

 会場全体の駒音が一度途切れ、次の波を待つような静けさが落ちた。各校の選手が立ち上がり、それぞれの席へ向かう。その中を歩きながら、しおりはひどく冷えていた。

 

 緊張ではない。

 

 研ぎ澄まされている時の冷たさだった。

 

 席へ着く。

 

 向かいには白陵の一将。

 

 近くで見ると、思った以上に表情がない。こちらを見ているのに、何を考えているのか読めない。けれど、その目の奥だけは静かに燃えていた。

 

「初めまして」

 

 相手が先に言った。

 

「初めまして」

 

「あなたの将棋は見ました」

 

「どうでしたか」

 

 相手は少しだけ考えてから答えた。

 

「速いです。深い。でも、壊れないわけじゃない」

 

 しおりはその言葉を聞いて、ほんのわずかに目を細めた。

 

「そうですか」

 

「ええ。だから、壊しに来ました」

 

 挑発でも虚勢でもない。

 

 ただ事実のように言った。

 

 しおりはそこで、相手が本当に強いと理解した。

 

 怖がらない。

 持ち上げない。

 名声にも記録にも呑まれない。

 

 盤の上で削り切れると、本気で思っている顔だ。

 

 左右を見ると、坂本も黒田もすでに盤へ意識を落としている。海城との一戦を越えたことで、二人の中の何かがさらに変わっていた。全国の一回戦を勝ち切った。その事実が、少しだけ背骨を太くしている。

 

 審判の声が響く。

 

「始めてください」

 

 六つの手が一斉に動いた。

 

 白陵の一将は先手を取り、初手から迷いがなかった。柔らかい立ち上がり。居飛車。急がない。だが、こちらの反応を測るように、じわりと中央を広げてくる。

 

 しおりは静かに応じる。

 

 歩を合わせる。

 銀を上がる。

 飛車先の圧を見せながら、すぐには触らない。

 

 数手進んだだけで、相手の質がわかった。

 

 凛々花とは違う。

 

 凛々花が感情まで刃に変える将棋だとしたら、この相手は感情を最後まで盤の外へ出さない。焦りも高揚も見せず、ただ、こちらの予定図に砂を撒いてくる。

 

 やりにくい。

 

 だが、嫌いではなかった。

 

「想像していたより、静かですね」

 

 相手が言う。

 

 しおりは盤から目を離さない。

 

「暴れてほしかったですか」

 

「いえ。暴れる人は読みやすいので」

 

 そう言って、相手は歩を突き捨てた。

 

 序盤としては早い。

 小さな仕掛け。

 だが、その意味は軽くない。

 

 応じ方を一つ誤れば、そこから先の手順が全部嫌味になる。しおりはその一手で、相手が自分のペースを作りに来たのだと理解した。

 

 すぐには取らない。

 

 あえて別の筋へ一手入れる。

 

 相手の眉が、ほんの少しだけ動いた。

 

 その反応を見て、しおりは自分の選択が間違っていないと知る。今の手で、相手は自分の用意した順の一部をずらされた。

 

 序盤の主導権は、派手な攻防で決まるとは限らない。

 こういう小さな噛み合わせのズレが、あとで大きな差になる。

 

 右では坂本が苦しそうだった。

 

 やはり相手二将は寄せの匂いが濃い。まだ中盤にも届いていないのに、局面の終わり方ばかりを先に考えているような手つきだ。受けを間違えれば、そのまま一直線に薄くされる。

 

 左の黒田は、逆にじりじりしていた。相手三将は受ける。とにかく受ける。崩れない。だが、その受けの中に少しずつ棘を混ぜてくる。攻めあぐねた方が、自分から壊れる将棋だ。

 

 三つとも重い。

 

 しおりはその重さを背中で感じながら、向かいの一将へ意識を戻す。

 

 盤面はまだ静かだ。

 けれど、静かな局面ほど嘘が多い。

 

 相手が銀を繰る。

 しおりが角道を通す。

 相手が金を寄る。

 

 派手な戦いはまだ始まっていない。なのに、会場の観戦者たちは少しずつ一将戦のまわりへ集まり始めていた。わかる者にはわかるのだ。この静けさの下で、二人が互いの喉笛を探り合っていることが。

 

「あなた、県大会より抑えてますね」

 

 相手がぽつりと言った。

 

「そうですか」

 

「ええ。前のめりじゃない。全国だからですか」

 

 しおりは少しだけ考え、それから答えた。

 

「違います」

 

「では」

 

「あなたが、前のめりな相手じゃないからです」

 

 相手の指先が止まる。

 

 その一瞬の止まり方が、答えだった。

 

「見えてるんですね」

 

「少しは」

 

「嫌ですね」

 

「よく言われます」

 

 相手はそこで初めて、ごく薄く笑った。

 だが次の瞬間、その笑みは消える。

 

 歩がぶつかる。

 

 交換。

 

 銀が前へ出る。

 

 局面が開いた。

 

 会場の空気が一段深く沈んだ。

 

 来た。

 

 誰もがそう感じた。

 

 白陵の一将は、いきなり急戦で殴ってくるタイプではない。だが一度動き出したら、途中で迷わない。しおりの様子を見切り、攻め筋を絞った上で踏み込んできている。

 

 しおりも受けに回らない。

 

 応じる。

 いなすのではなく、噛み合わせる。

 

 相手の狙いを消す一手ではなく、狙いを生かしたまま、その先でこちらが上回るための一手を置く。

 

 白陵の一将が初めてはっきりと息を吐いた。

 

「そう来ますか」

 

「来てほしくなかったですか」

 

「かなり」

 

 そこから先は早かった。

 

 一手一手の間が短くなる。

 互いに読んでいる枝が減っていく。

 不要な変化を切り捨て、勝ち筋に近い順だけを残していく。

 

 凛々花との将棋が炎なら、この相手との将棋は鋼だった。

 

 熱ではなく硬度で押してくる。

 

 崩れない。

 だが、しなる。

 しなった先で、こちらの骨を折りにくる。

 

 しおりはその感触に、胸の奥で静かに笑いそうになるのを抑えた。

 

 全国には、ちゃんといる。

 

 こういう相手が。

 名前ではなく、手そのもので強い相手が。

 

 だったら、なおさら勝つしかない。

 

 しおりは一度だけ盤全体を見渡す。

 

 まだ決定打はない。

 だが、相手の陣にはひとつだけ、薄く光る継ぎ目がある。

 今は細い。

 細いが、数手後には裂ける。

 

 そこへ届くための順が、頭の中で静かにつながっていく。

 

 その時、坂本の方で駒音が鋭く鳴った。

 

 苦しい。

 

 まだ崩れてはいない。

 だが、押されている。

 

 黒田も楽ではない。

 あちらは逆に、攻め倦ねている。

 

 一将が取れなければ、全体が苦しくなる。

 

 しおりはその現実を冷静に受け止めた上で、さらに冷たくなった。

 

 ならば、自分が先に終わらせる。

 

 白陵の一将が強いことは認める。

 全国屈指の一将だろう。

 

 それでも。

 

 覇王が盤の上で譲る理由にはならない。

 

 しおりの指先が、静かに次の駒へ触れた。

 

 その一手が、この二回戦の温度を決定的に変えることになる。




### あとがき



ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。



少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。



また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。

「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。



いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。



それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。