海城との初戦を終えたあとも、しおりの胸は少しも静まらなかった。
勝った。だが、それで満たされるほど甘い舞台ではない。全国大会の会場には、まだ同じ温度の視線がいくつも残っていた。いや、むしろ一回戦が終わったことで、視線はさらに鋭くなっているように思えた。
天羽しおり。
地方で暴れていただけの怪物ではない。
全国でも通じる。
そう認識されたのだ。
待機場所へ戻る途中、坂本が肩を回しながら息を吐いた。
「初戦から重すぎるだろ……」
黒田も苦い顔で頷く。
「海城でこれかよ。全国って、もっとこう、一回戦くらいは様子見みたいなもんかと思ってた」
「そんなわけないだろ」
坂本は言いながらも、疲労を隠せていなかった。二将戦も三将戦も、県大会とは質が違った。相手は強かった。それも、一将が目立つのではなく、三人ともが同じ密度で強い学校だった。
しおりは次の組み合わせ表を見上げる。
二回戦。
相手校の欄に記された校名を見た瞬間、周囲の空気がわずかにざわついた。
白陵中学校。
西日本を勝ち抜いてきた強豪校。
三人とも崩れにくく、特に終盤の正確さで知られている学校だった。海城が整った将棋を指す東の強豪なら、白陵は薄いところへ刃を差し込むことに長けた西の強豪だった。
「よりによって次が白陵かよ……」
黒田が低く呻く。
「当たりくじしか入ってないのか、この大会は」
「全国だからな」
坂本はそう言ったが、表情は明らかに固い。初戦の疲労が消えていないのに、次が白陵。組み合わせとしては最悪に近かった。
しおりは相手校の席へ視線を向ける。
いた。
三人ともすでに次を見ている顔をしている。一将の男子は長身で、まるで盤の前に座る前から考え始めているような目をしていた。二将は細く笑う癖のある少年。三将は女子だった。小柄で表情が読みにくい。
全員、嫌な感じがした。
派手ではない。だが、勝つべき筋だけを掴みにくるような冷たさがある。
「しおり」
坂本が声を落とす。
「一将、どう見る」
「強いです」
「それはもういい」
「たぶん、今までで一番勝ち急がない相手です」
坂本と黒田が同時に顔を向けた。
「勝ち急がない?」
「はい。私に勝とうとして無理に踏み込むタイプじゃない。たぶん、私の手を一つも信用しないで、全部嫌がりながら指してきます」
「最悪じゃねえか」
黒田が即座に言う。
「そういう相手が一番めんどくさいだろ」
「はい」
しおりはあっさり頷いた。
「その代わり、怖がってはいません」
その一言で、坂本の目つきが変わる。
「わかるのか」
「なんとなくですけど」
なんとなく。
しおりがそう言う時、大抵は外れない。
県大会までの相手は、盤を挟む前からしおりを知りすぎていた。小学時代の異名、覇王という呼び名、無敗の優勝記録。その重さに押されて、将棋が始まる前から半歩退いていた相手もいた。
だが白陵は違う。
しおりがどれだけの相手かは知っている。
知った上で、勝てる形を最初から組みにくる。
それは恐怖より、計算に近い。
三枝が三人の前へ来た。
「次は白陵だ」
短く告げる。
「海城より厄介だと思え。あそこは終盤で雑にならん。苦しければ苦しいほど、一手を細くしてくる」
「はい」
坂本が応じる。
「坂本、お前のところは特に重くなる。相手二将は寄せ合いがうまい。先に形を乱したら終わると思え」
「了解です」
「黒田」
「はい」
「三将は女だが、そこで甘く見ると死ぬ。あれは受けの皮を被った食いつきだ。引かされるな」
「……了解です」
最後に三枝はしおりを見る。
「天羽」
「はい」
「全国で名のある学校ほど、お前みたいな化け物を前提に練ってくる。勝てるかどうかじゃない。どこまで削って、どこで止めるか。その発想で来る」
「そうでしょうね」
「だから最初の一手から、相手の予定図を壊せ」
しおりは小さく頷いた。
「はい」
二回戦開始のアナウンスが流れる。
会場全体の駒音が一度途切れ、次の波を待つような静けさが落ちた。各校の選手が立ち上がり、それぞれの席へ向かう。その中を歩きながら、しおりはひどく冷えていた。
緊張ではない。
研ぎ澄まされている時の冷たさだった。
席へ着く。
向かいには白陵の一将。
近くで見ると、思った以上に表情がない。こちらを見ているのに、何を考えているのか読めない。けれど、その目の奥だけは静かに燃えていた。
「初めまして」
相手が先に言った。
「初めまして」
「あなたの将棋は見ました」
「どうでしたか」
相手は少しだけ考えてから答えた。
「速いです。深い。でも、壊れないわけじゃない」
しおりはその言葉を聞いて、ほんのわずかに目を細めた。
「そうですか」
「ええ。だから、壊しに来ました」
挑発でも虚勢でもない。
ただ事実のように言った。
しおりはそこで、相手が本当に強いと理解した。
怖がらない。
持ち上げない。
名声にも記録にも呑まれない。
盤の上で削り切れると、本気で思っている顔だ。
左右を見ると、坂本も黒田もすでに盤へ意識を落としている。海城との一戦を越えたことで、二人の中の何かがさらに変わっていた。全国の一回戦を勝ち切った。その事実が、少しだけ背骨を太くしている。
審判の声が響く。
「始めてください」
六つの手が一斉に動いた。
白陵の一将は先手を取り、初手から迷いがなかった。柔らかい立ち上がり。居飛車。急がない。だが、こちらの反応を測るように、じわりと中央を広げてくる。
しおりは静かに応じる。
歩を合わせる。
銀を上がる。
飛車先の圧を見せながら、すぐには触らない。
数手進んだだけで、相手の質がわかった。
凛々花とは違う。
凛々花が感情まで刃に変える将棋だとしたら、この相手は感情を最後まで盤の外へ出さない。焦りも高揚も見せず、ただ、こちらの予定図に砂を撒いてくる。
やりにくい。
だが、嫌いではなかった。
「想像していたより、静かですね」
相手が言う。
しおりは盤から目を離さない。
「暴れてほしかったですか」
「いえ。暴れる人は読みやすいので」
そう言って、相手は歩を突き捨てた。
序盤としては早い。
小さな仕掛け。
だが、その意味は軽くない。
応じ方を一つ誤れば、そこから先の手順が全部嫌味になる。しおりはその一手で、相手が自分のペースを作りに来たのだと理解した。
すぐには取らない。
あえて別の筋へ一手入れる。
相手の眉が、ほんの少しだけ動いた。
その反応を見て、しおりは自分の選択が間違っていないと知る。今の手で、相手は自分の用意した順の一部をずらされた。
序盤の主導権は、派手な攻防で決まるとは限らない。
こういう小さな噛み合わせのズレが、あとで大きな差になる。
右では坂本が苦しそうだった。
やはり相手二将は寄せの匂いが濃い。まだ中盤にも届いていないのに、局面の終わり方ばかりを先に考えているような手つきだ。受けを間違えれば、そのまま一直線に薄くされる。
左の黒田は、逆にじりじりしていた。相手三将は受ける。とにかく受ける。崩れない。だが、その受けの中に少しずつ棘を混ぜてくる。攻めあぐねた方が、自分から壊れる将棋だ。
三つとも重い。
しおりはその重さを背中で感じながら、向かいの一将へ意識を戻す。
盤面はまだ静かだ。
けれど、静かな局面ほど嘘が多い。
相手が銀を繰る。
しおりが角道を通す。
相手が金を寄る。
派手な戦いはまだ始まっていない。なのに、会場の観戦者たちは少しずつ一将戦のまわりへ集まり始めていた。わかる者にはわかるのだ。この静けさの下で、二人が互いの喉笛を探り合っていることが。
「あなた、県大会より抑えてますね」
相手がぽつりと言った。
「そうですか」
「ええ。前のめりじゃない。全国だからですか」
しおりは少しだけ考え、それから答えた。
「違います」
「では」
「あなたが、前のめりな相手じゃないからです」
相手の指先が止まる。
その一瞬の止まり方が、答えだった。
「見えてるんですね」
「少しは」
「嫌ですね」
「よく言われます」
相手はそこで初めて、ごく薄く笑った。
だが次の瞬間、その笑みは消える。
歩がぶつかる。
交換。
銀が前へ出る。
局面が開いた。
会場の空気が一段深く沈んだ。
来た。
誰もがそう感じた。
白陵の一将は、いきなり急戦で殴ってくるタイプではない。だが一度動き出したら、途中で迷わない。しおりの様子を見切り、攻め筋を絞った上で踏み込んできている。
しおりも受けに回らない。
応じる。
いなすのではなく、噛み合わせる。
相手の狙いを消す一手ではなく、狙いを生かしたまま、その先でこちらが上回るための一手を置く。
白陵の一将が初めてはっきりと息を吐いた。
「そう来ますか」
「来てほしくなかったですか」
「かなり」
そこから先は早かった。
一手一手の間が短くなる。
互いに読んでいる枝が減っていく。
不要な変化を切り捨て、勝ち筋に近い順だけを残していく。
凛々花との将棋が炎なら、この相手との将棋は鋼だった。
熱ではなく硬度で押してくる。
崩れない。
だが、しなる。
しなった先で、こちらの骨を折りにくる。
しおりはその感触に、胸の奥で静かに笑いそうになるのを抑えた。
全国には、ちゃんといる。
こういう相手が。
名前ではなく、手そのもので強い相手が。
だったら、なおさら勝つしかない。
しおりは一度だけ盤全体を見渡す。
まだ決定打はない。
だが、相手の陣にはひとつだけ、薄く光る継ぎ目がある。
今は細い。
細いが、数手後には裂ける。
そこへ届くための順が、頭の中で静かにつながっていく。
その時、坂本の方で駒音が鋭く鳴った。
苦しい。
まだ崩れてはいない。
だが、押されている。
黒田も楽ではない。
あちらは逆に、攻め倦ねている。
一将が取れなければ、全体が苦しくなる。
しおりはその現実を冷静に受け止めた上で、さらに冷たくなった。
ならば、自分が先に終わらせる。
白陵の一将が強いことは認める。
全国屈指の一将だろう。
それでも。
覇王が盤の上で譲る理由にはならない。
しおりの指先が、静かに次の駒へ触れた。
その一手が、この二回戦の温度を決定的に変えることになる。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!