将棋教室に行くかもしれない。
たったそれだけの話なのに、その夜の私はなかなか寝つけなかった。
もちろん、幼い身体はそんな事情を汲んでくれない。眠くなればまぶたは重くなるし、横になっていればいずれ意識は落ちる。だが、眠りに落ちる手前のあわいで、私は何度も同じ言葉を反芻していた。
将棋教室。
家の中だけではない場所。
父でも母でも祖父でもない誰かが、将棋を教える場所。
私と同じくらいか、少し年上の子どもたちがいて、たぶんはじめて「自分以外の子どもの将棋」に触れることになる場所。
胸が高鳴る。
同時に、喉の奥がきゅっと狭くなるような緊張もあった。
嬉しい。
怖い。
その両方だ。
前世の私は、初めて道場へ連れていかれた日のことをうろ覚えにしか思い出せない。父に手を引かれて入ったのか、師匠の紹介が先だったのか、もう細部は曖昧だ。ただ、盤がいくつも並ぶ独特の空気と、知らない大人たちが平然と強いことに圧倒された感覚だけは覚えている。
あの日から、私の人生は将棋の方へ傾き始めた。
だから分かる。
将棋教室とは、ただの習い事の入口ではない。
人によっては、人生そのものの入口だ。
そして今度の私は、そこへ前世の記憶を抱えたまま入っていく。
ずるい、と言えばずるいのかもしれない。
だが、ずるさを悔いるつもりはなかった。二度目の人生をもらっておいて、公平を気取るほど私は綺麗ではない。
ただし、気をつけなければならないことはある。
強すぎないこと。
不自然すぎないこと。
この家の中で育った、ごく少し将棋好きで、少しだけ飲み込みの早い子どもとして見えること。
前世の感覚を全面に出せば、簡単に勝てる相手は多いだろう。
だが、それを最初からやってしまえば、後々の暮らしが息苦しくなる。家族にとっても、私にとっても。
私は布団の中で寝返りを打ち、隣室から聞こえる父と母の小さな会話に耳を澄ませた。
「ほんとに行く?」 「まずは見学だけでしょ」 「それはそうだけど……」 「しおり、好きそうじゃない」 「好きそう。すごく」 「なら、一回くらいいいんじゃないかな」
母の声は慎重で、父の声はどこか弾んでいる。
この違いも、もうよく知っていた。
父は私の「好き」に乗ってみたいと思う人だ。
母は私の「好き」に振り回されすぎないよう気を配る人だ。
どちらも正しい。
私は目を閉じたまま、静かに息をついた。
将棋の世界では、攻める者と受ける者の両方が必要だ。飛車だけでは将棋にならない。金や銀がいる。時に歩が最前線を支え、香や桂が遠くから形を整える。
この家も少し似ているのかもしれない。
父が前へ出て、母が全体を見て、祖父母が遠い位置からそっと利きを添える。
その中心に私はいる。
前世の私は、中心にいることに慣れすぎていた。
タイトルホルダーになってからはなおさらだ。周囲が気を遣い、私の一局のために日程が動き、人が待ち、言葉を選ぶ。いつの間にか、自分が誰かに支えられていることを当たり前として扱うようになっていた。
今の私は違う。
夜泣きひとつで母の睡眠を削り、保育園の準備ひとつで父を慌てさせ、熱を出せば家族全員の予定を狂わせる。
支えられているどころか、生活そのものを支えさせている。
その事実は、たぶん一生忘れてはいけない。
◇
翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいる。
まだ家の中は静かで、冷蔵庫の低い唸りと、遠くを走る車の音だけが聞こえた。
しばらくすると、廊下で小さな足音がする。
母だ。
真紀はいつも、まず私の様子を見る。熱はないか、布団を蹴っていないか、寝息は落ち着いているか。たった数秒のことだが、その気配には独特の優しさがある。大人がただ確認しているというより、生きていることを確かめているような優しさだ。
私は薄く目を開けた。
「あ、起きてた?」
母が笑う。
寝起きで少し掠れた声だった。
「おはよ、しおり」
私はまだ朝一番の発声が得意ではない。代わりに腕を伸ばすと、母は当たり前のようにそれを受け止めて抱き上げた。
温かい。
それだけのことなのに、時々胸が痛くなる。
前世にも、こうして抱き上げられた時代があったはずだ。
誰しも最初は赤ん坊で、誰かの腕の中から世界を見始める。
けれど、大人になるにつれてその記憶は消え、やがて自分一人で立っているような顔をする。
私はもう一度最初からやり直して、ようやく思い知った。
人は最初から一人では立てない。
立てない時期を、必ず誰かに支えられている。
「今日はどうしようかねえ」
母は私を抱いたままカーテンを開けた。光が部屋へ流れ込み、眩しさに私は目を細める。
「パパ、お休みだからね。あとで将棋のとこ、見に行くかもしれないよ」
分かっている。
分かっているが、改めて言われると心拍が速くなる。
私はその高鳴りを悟られないよう、母の肩口に頬を押しつけた。
幼い身体は便利だ。少し甘えるような仕草をするだけで、内心の緊張はたいてい別の意味に解釈される。
「まだ眠い?」 「……ん」
かすかに返事をすると、母は「そっか」と笑った。
私は母の髪の匂いを吸い込みながら、静かに考える。
もし、前世の私がこの温度をちゃんと覚えていたら。
あるいは、盤外のこういう時間をもっと大事にしていたら。
晩年のあの冷え切った敗北も、少しは違うものになっていただろうか。
答えは出ない。
出ないが、考える価値はある。
前世の敗因は、単純な衰えだけではない。
私はきっと、将棋以外のものを削りすぎた。
削った結果、最後には将棋そのものまで痩せていった。
なら、今度は違う形で強くなればいい。
奪うだけの強さではなく、抱えたものごと前へ進める強さに。
◇
朝食の時間になると、父が寝癖のついた頭でリビングへ降りてきた。
「おはよー……」 「声が死んでる」 「昨日ちょっと遅くて」 「休み前だからって夜更かししたでしょ」 「しました」 「正直でよろしい」
恒一はあくびを噛み殺しながら私の前へしゃがみこんだ。
そして眠そうな顔のまま、ぱっと目尻を下げる。
「おはよう、しおり」
私はスプーンを持ったまま父を見た。
この人は本当に、私を見ると顔が変わる。
前世では理解できなかった種類の変化だ。
盤上の勝敗に左右されるわけでもなく、役職や名声に反応するわけでもない。
ただそこにいるだけで、自然に顔が緩む。
それは弱さだろうか。
以前の私なら、そう切って捨てたかもしれない。勝負師は情に引かれれば鈍る、と。
だが今は、むしろ逆だと思う。
守りたいものがあるから、人は踏ん張れる。
失いたくないものがあるから、局面の最後まで考え抜ける。
少なくとも、私はそういう種類の力をまだ知らない。
知らないのなら、今度は知ってみたいと思う。
「今日は将棋、見に行く?」 父が聞いた。 「まだ決めてない」 母が即座に釘を刺す。 「えー。でもほら、興味あるでしょ」 「見学だけって約束ならね」 「もちろんもちろん」
もちろん、という言葉ほど信用ならないものは少ない。
父の「もちろん」は、たいてい勢いで言っている。
だがその勢いに、私は何度も助けられていた。
将棋盤を出そうと言ったのも父。
入門書を買ってきたのも父。
近所の教室を気に留めたのも父だ。
母の慎重さがなければ危ういし、父の勢いがなければ前に進まない。
そう考えると、この二人は案外いい駒組みなのかもしれない。
朝食を終えたあと、父は本棚から子ども向けの将棋入門書を持ってきて、私の隣に座った。
「復習しとく?」 「あなた、なんでそんなにやる気なの」 「いや、しおりが緊張しないように」 「あなたの方が緊張してるんじゃない?」
図星らしく、父は一瞬だけ詰まった。
私はその会話を聞きながら、内心で少し笑う。
緊張しているのは、たぶん全員だ。
将棋教室に行くのは私なのに、父まで妙にそわそわしている。
母も表面上は落ち着いているが、エプロンの紐を結び直す回数が少し多い。
私が何かひとつ外の世界へ踏み出すだけで、家族全体の空気が変わる。
その変化が、嫌ではなかった。
◇
結局、その日の午前中は出かけなかった。
父が「午前の方が空いてるかも」と言い出し、母が「まず電話した方がよくない?」と制し、その電話に父が妙に緊張し、さらに相手先の都合で午後からなら見学可能だと分かって、一旦みんなで落ち着く、という流れになった。
私はその一連の騒がしさを眺めながら、妙な安心感を覚えていた。
家族というのは、こういう小さな準備の積み重ねで動くのか。
前世の私は、外へ出るときはたいてい一人だった。
あるいはマネージャーや関係者と動いても、そこに生活の匂いは薄い。段取りは整えられていて、忘れ物はなく、時間は管理され、目的地へ向かう。
それはそれで楽だ。だが、いま目の前で繰り広げられているような、不格好で、人間臭くて、少し無駄の多い準備には別の温かさがある。
「水筒持つ?」 「いらないんじゃない?」 「でも子どもって急に喉渇くし」 「じゃあ持つか」 「タオルも」 「ある」 「着替えは?」 「そこまで要る?」 「要るかも」 「将棋見に行くだけだよ?」 「でも何があるか分からないでしょ」
母は本気だ。
父は途中から「そういうものかもしれない」と押され始めている。
私はソファの上でその攻防を眺めながら、胸の中に少しだけ切なさが広がるのを感じた。
こういう時間を、私はどこかで置いてきてしまったのだろう。
将棋に勝つことを優先するあまり、盤の外のこういう騒がしい優しさを「余分なもの」として処理していたのかもしれない。
もしそうなら、私は前世で随分ともったいないことをした。
もちろん、後悔だけで人生はやり直せない。
だが今の私は、まさにやり直しの途中にいる。
ならば、今度は取りこぼさない。
将棋の強さも。
家族の温度も。
その両方を持ったまま、どこまで行けるか試してみればいい。
◇
午後、私は小さな帽子をかぶせられ、父と母に挟まれて家を出た。
空はよく晴れていた。
風はそこまで強くない。
商店街へ向かう道は、休日らしく人通りがある。
私は父の右手、母の左手をそれぞれ握って歩いた。
まだ足元は頼りなく、一人なら少しの段差でも危なっかしい。
だが左右から支えられていると、不思議なくらい怖くない。
その感覚に、私は少しだけ驚いた。
前世の私は、基本的に誰にも支えられたくなかった。
棋士として、対局者として、ひとりで立っていなければならないと思い込んでいた。
支えられることは甘えであり、弱みであり、いずれ指し手を鈍らせるものだと。
でも今、両手を温かい手に包まれて歩きながら思う。
支えられることは、必ずしも弱さではない。
歩けない者が支えを借りるのは当然だ。
そして、歩けるようになったあとも、最初に支えてくれた温度を知っている者は、案外しぶといのかもしれない。
「しおり、転ばないでね」 「大丈夫だよ、俺が見てるから」 「二人とも見ててよ」 「はいはい」
商店街の八百屋、クリーニング店、古い喫茶店、文房具屋。
どれも地方の住宅街にはありがちな店構えで、派手さはない。
その中に、看板の小さなビルがあった。
二階の窓に、手書き風の掲示が貼ってある。
将棋教室。子ども教室。初心者歓迎。
私は立ち止まった。
ついに来た。
前世から数えれば二度目の入口。
天羽しおりとしては、はじめての入口。
「ここだね」 父が少し緊張した声で言う。 「思ったより普通だね」 母が言う。 「普通じゃない将棋教室って何」 「いや、もっとこう……厳しそうとか」 「偏見だよ」
偏見ではない。
厳しいところは本当に厳しい。
だが、この小さな地方教室の雰囲気はたしかに柔らかそうだった。ガラス越しに見える室内には、長机と折りたたみ椅子が並び、壁際には本棚らしきものがある。いかにも「地域の習い事」らしい空気だ。
私はほっとする一方で、少しだけ物足りなさも覚えた。
いや、贅沢だ。入口に完璧を求める必要はない。
大事なのは、ここから何を吸い上げるかだ。
父がインターホンを押す。
ややあって、室内から柔らかな女性の声が返ってきた。
「はい、どうぞー」
父と母が顔を見合わせる。
私は胸の奥で息を整えた。
開いたドアの先から、木の匂いと、わずかな紙の匂い、それに人の気配が流れてくる。
盤の匂いだ、とまでは言えない。だが、家の外でこれほど将棋に近い空気を吸うのは転生後初めてだった。
「こんにちは、見学のお電話した天羽です」 「ああ、お待ちしてました」
出てきたのは四十代くらいの女性だった。
眼鏡をかけ、柔らかな笑顔をしている。いかにも怖くはなさそうだが、目の奥はよく見ている。子どもをたくさん相手にしてきた目だ。
「この子がしおりちゃん?」 「はい」 「将棋好きなんだって?」
私は、少しだけ母の脚に隠れるようにしながらその人を見上げた。
幼児としては妥当な反応だろう。
内心では、声の張り、目線の置き方、所作の間合いを冷静に観察している。
この人は、たぶんいい先生だ。
強いかどうかはまだ分からない。
だが、子どもの前で必要以上に圧を出さない。
相手に喋らせる余地を残している。
教育の場では、その感覚が案外大事だ。
「こんにちは、しおりちゃん」 女性がしゃがんで目線を合わせる。 「……こんにちは」
私が小さく返すと、父と母が揃って少し驚いた気配を見せた。
普段よりずっとはっきりした発声だったからだろう。
だが今日は、多少しっかり受け答えできる方が自然だ。将棋好きの見学に来て、完全に固まっていては勿体ない。
「えらいねえ。入ってみる?」 「はい」
母がほんの少しだけ私の肩を押した。
その手は、緊張している私を送り出す手でもあり、自分の緊張を誤魔化す手でもある気がした。
私は一歩、教室の中へ踏み込んだ。
◇
室内には、すでに何人かの子どもがいた。
年齢はばらばらだ。
私よりかなり上、小学校低学年くらいから、高学年に見える子もいる。
盤を挟んで座っている子、問題集のような紙を見ている子、先生らしき男性に何か教わっている子。
駒音がする。
軽いもの、強いもの、少し雑なもの。
同じ一枚の歩を置く音でも、指し手の性格が滲む。
私はその音の洪水に、思わず立ち尽くした。
懐かしい。
嬉しい。
痛いほど嬉しい。
「どうしたの?」 母が小さく聞く。 「……すごい」
私は本心でそう答えた。
すると教室の先生は笑って、「そうだよねえ」と頷いた。
「いっぱい盤があるもんね」
違う。
盤が多いからではない。
盤を中心に、知らない人間たちの思考が回っている空気がすごいのだ。
家の中で触れてきた将棋は、どこまでいっても家族の延長だった。
でもここでは違う。
勝ちたい子がいて、悔しがる子がいて、教える人がいて、分からない顔があり、分かった瞬間の目がある。
将棋が、社会になっている。
それが私には眩しかった。
「しおりちゃん、ちょっと座ってみる?」 女性の先生が、小さめの椅子を引いてくれる。
私はこくりと頷いて腰掛けた。足は当然床につかない。ぶらぶらと宙を泳ぐ。
目の前には、練習用らしい小さめの盤が置かれた。
「駒の名前、どれくらい分かるかな?」 「……おうさま」 「うん」 「ひしゃ、かく、きん、ぎん……」
周囲が静かになる気配がした。
言い過ぎたか、と一瞬だけ思う。
だがもう遅い。今さら引っ込めても不自然だ。
私は少しだけ言葉を詰まらせ、幼児らしい速度に戻しながら続ける。
「けいま、きょうしゃ、ふ」
父が息を呑む。
母も目を丸くしている。
先生は驚きながらもすぐに表情を整え、「すごいねえ」と柔らかく言った。
「じゃあ、これ動かせる?」 先生は歩を一枚、盤に置く。
私は歩を摘み、前へ一つ進める。
駒を置く瞬間、指先にほんの少しだけ力を込めすぎた。軽い音が鳴る。
「うん、上手」 「……できた」
私が小さく言うと、母が横でほっとしたように笑った。
その笑い方が、妙に胸に沁みる。
母はたぶん、将棋そのものよりも、私が知らない場所でちゃんと振る舞えるかを気にしていたのだ。
父は「好きなものを見せたい」という気持ちが先に立っていたが、母は「この子が疲れないか、怖がらないか、変に浮かないか」を見ていた。
どちらも親として正しい。
そして、その両方に支えられて私は今ここに座っている。
先生はそのあとも、ごく簡単な問いをいくつか出した。
飛車をまっすぐ動かす。
角を斜めに動かす。
王と歩だけで向かい合う。
私は少し考えるふりをしながら答えた。
答えながら、同時に周囲の盤にも耳を澄ませる。
左奥の男の子は受けが雑だ。
右手前の女の子は、歩を突く前に少し長く考える。
男性講師らしき人の説明は簡潔で悪くない。
詰将棋の紙には、三手詰め程度の図が載っている。
情報が一気に流れ込んでくる。
久しぶりだった。
将棋の場に身を置き、複数の盤と複数の思考が同時に耳へ入ってくる感覚。
頭の奥の何かが、ゆっくりと起動していく。
「しおりちゃん、本当に好きなんだね」 女性の先生が言った。 「……すき」 「また来る?」
私はその問いに、少しだけ黙った。
幼児としてなら、素直に頷けばいい。
前世の私としても、迷いはない。ここへ通う価値はある。
だが、その二つとは別のところで、私は一瞬だけ家族の方を見た。
父は期待に満ちた顔でこちらを見ている。
母は静かに、でも少し緊張したように私を見ている。
その視線を受けて、私はようやく気づいた。
これは私一人の一手ではない。
ここに通うことになれば、送り迎えがいる。お金もかかる。休日の使い方も変わる。
将棋の道へ踏み込むたび、家族の時間もまた組み替えられていく。
前世の私は、その当然をどこかで見落としていた。
自分が戦うのだから、自分が一番大変なのだと、どこかで思っていた。
でも違う。
戦う者の後ろには、必ず運ぶ手、待つ手、支える手がある。
勝負師が盤に指を置くより前に、生活の中で何人もの手が働いている。
私はそのことを、今度こそ忘れたくなかった。
「……いく」
私はそう答えた。
父の顔がぱっと明るくなる。
母は一拍遅れて、ふっと笑った。
先生もうれしそうに頷く。
「じゃあ、また今度おいで」
その言葉に、私は小さく頷いた。
◇
帰り道、父は露骨に機嫌が良かった。
「すごかったなあ、しおり」 「ほんとに名前覚えてたんだね」 「俺、ちょっとびっくりした」 「私はかなりびっくりした」
母も呆れ半分、感心半分の声だ。
私は父と母の間で手を繋がれながら、黙って歩いた。
楽しかった。
それは間違いない。
だが楽しいだけではなかった。
久しぶりに将棋の「外気」に触れたことで、胸の奥の熱が一段深くなった。
家で駒を並べていたときは、まだ遊びと再会の中間だった。
けれど教室の空気は、はっきりと私の中の勝負師を呼び覚ました。
あそこで指す子どもたちは、みんな遠からず対戦相手になる。
その先には大会があり、もっと強い相手がいて、やがて凛々花と出会い、長い戦いが始まる。
未来を知っているわけではない。
だが物語の流れとして、私は確信していた。
ここから先、盤上はどんどん狭く、深く、熱くなっていく。
それでも、今日はまだ柔らかい入口のままでいたかった。
商店街の焼き鳥の匂い。
八百屋の威勢のいい声。
父の大げさな褒め方。
母の控えめな相槌。
左右から伝わる手の温度。
この全部を覚えておく。
いつか対局室の冷たい空気の中で、今日のことを思い出す日が来るかもしれない。
勝負の一手に迷ったとき、将棋の意味を見失いそうになったとき、私はこの日の温度へ帰ってくるだろう。
将棋は、私から多くを奪う。
前世でそれはもう知っている。
だが同時に、与えてもくれる。
人と人を繋ぎ、家族の会話を増やし、子どもの目を輝かせ、人生に一本の太い線を引く。
そのことまで、前世の私はちゃんと見ていただろうか。
「帰ったら将棋、ちょっとだけやる?」 父が言った。 「教室行ったばっかりなのに?」 「復習、大事じゃん」 「あなたがやりたいだけでしょ」 「まあ半分は」
母が吹き出す。
私も、つられて少しだけ笑った。
父はその笑顔を見て嬉しそうにし、母はそれを見てまた笑う。
温かい手。
温かい声。
温かい家。
私は前世で竜王だった。
盤上の頂を知り、そこから零れ落ちる痛みも知っている。
だが今、この手にあるものは、あの頃にはなかった種類の豊かさだった。
もし竜王になる道の途中で、また何かを捨てなければならない局面が来たとしても。
今度はきっと、何を捨ててはいけないかを間違えない。
家に着くと、父は靴もそこそこに将棋盤の箱へ手を伸ばした。
母が「まず手を洗って」とたしなめる。
私は玄関でそれを見上げながら、胸の奥でそっと誓った。
この家から始まる。
この温かい手の中から、もう一度私は盤へ向かう。
最強になるために。
負けないために。
そして今度こそ、時代にも、自分自身にも、置いていかれないために。
父が手を洗い終え、少し濡れた髪のまま盤を広げる。
母は呆れながらも、お茶を淹れにキッチンへ向かった。
私はいつもの席にちょこんと座り、置かれた歩をそっと指先で摘む。
とん。
小さな駒音が、リビングの空気に溶けた。
それはまだ、家族だけに聞こえる音だった。
けれど私には分かる。
この音は、いずれもっと遠くまで響いていく。
数え切れない激戦の先へ。
絶体絶命を何度も潜り抜けた先へ。
そしていつか、竜王の座へ届くその日まで。
私は歩を一マス進め、顔を上げた。
その先にある長い道のりを思いながらも、今だけはただ、この家の温度に身を委ねる。
勝負はまだ始まったばかりだ。
だからこそ、最初の光景はあたたかい方がいい。
天羽しおりの二度目の人生は、こうして普通の家の、温かい手に包まれながら、静かにその初形を整えていった。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!