白陵との二回戦を抜けたあと、会場の空気はさらに重くなった。
勝ち残った学校はもう多くない。広かったはずの会場が、急に狭く感じられる。盤の数が減り、人の流れが整理され、視線が集まる場所も自然と絞られていく。
その中心に、しおりたちの学校がいた。
海城を越え、白陵を越えた。
それだけで、もう十分すぎるほど目立っていた。地方の無名校ではない。天羽しおりという異物を擁し、その両脇の二人まで全国で通用することを証明した学校。もう誰も、しおり一人だけを見ていればいいとは思っていない。
だからこそ、次の組み合わせが出た瞬間、会場の温度が変わった。
東大寺学園中学校。
その名を見て、坂本の喉がひとつ鳴った。
「来たか」
黒田は苦笑いすら浮かべられなかった。
「一番当たりたくないとこが、一番早く来たな」
しおりは無言で組み合わせ表を見上げていた。
東大寺学園。
西の王者。
現時点で、全国の中学将棋団体戦におけるもっとも完成された学校と見られている強豪。個の爆発力だけではない。三人が三人とも役割を理解し、しかも役割に閉じない。団体戦の理想形とまで言われる学校。
海城は整っていた。
白陵は鋭かった。
だが東大寺は、もっと厄介だ。
整っていて、鋭くて、その上で隙が少ない。
「どう見る」
坂本が訊く。
しおりは少しだけ考えてから答えた。
「たぶん、一番強いです」
「たぶん、か」
「まだ指してないので」
「それで十分だ」
坂本はそう言ったが、その表情には苦さが残っていた。強い相手が来ることは覚悟していた。だが、二回戦の白陵を越えた直後に東大寺。息を整える暇もない。
黒田が肩を回す。
「一将は?」
「まだ見てるだけですけど」
しおりは対戦校の待機場所へ視線を向けた。
いた。
東大寺の一将は、しおりと同じくらいの年に見える。いや、ひとつ上かもしれない。背は高くない。細い。むしろ華奢に見えるくらいだ。だが、その静かさが妙に深かった。
騒がない。
笑わない。
見せない。
盤の前に座っていないのに、もう盤の前の顔をしている。
「強いです」
しおりが言った。
「それも相当」
「見ただけでわかるのかよ」
「見ればわかります」
黒田はそこで反論をやめた。しおりがそう言う時は、本当にそうなのだ。
東大寺の二将と三将もまた、嫌な気配をしていた。二将は姿勢がまっすぐすぎる。自分の将棋を崩さない人間の座り方だ。三将は視線の置き方が上手い。盤も相手も見ているのに、感情が表へ漏れてこない。
三つとも固い。
それでいて、白陵ほど受けに寄っているわけでもない。必要なら踏み込んでくるだろうし、踏み込むべき局面を見誤らない感じがあった。
三枝がやって来る。
「次は東大寺だ」
当たり前のことを確認するように言って、三人を見回した。
「ここが山だと思え」
「はい」
坂本が応じる。
「いいか。相手は強い。たぶん、お前らが今まで当たった中で一番、三人が三人とも団体戦をわかってる」
三枝の声は静かだったが、内容は重かった。
「一将だけが勝っても崩れない。二将だけが耐えても崩れない。三将だけが取りこぼさなくても崩れない。全部が噛み合ってる」
「……嫌ですね」
黒田が率直に言う。
「嫌で済めばいいがな」
三枝は腕を組んだまま続ける。
「坂本。たぶんお前の相手は、白陵の二将よりさらに待てる。焦るな。勝ち急ぐな。お前の将棋を通せ」
「はい」
「黒田。お前のところは逆だ。たぶん受けに見せて前へ出てくる。受けてるだけの相手だと思うな」
「了解です」
最後に、三枝の視線がしおりへ向いた。
「天羽」
「はい」
「お前は、たぶん相手もお前と同じだ」
しおりはわずかに目を細める。
「同じ」
「読みの深さも、温度の低さも、勝つために余計なものを削いでる感じも、近い。そういう相手だと思え」
三枝はそこで一拍置いた。
「ただし」
「はい」
「名前だけで勝てる相手じゃない。お前が覇王だろうが何だろうが、盤の前では関係ないと思ってる類だ。だから、盤の上でねじ伏せろ」
しおりは短く頷いた。
「はい」
待機時間は短かった。
他校の勝敗も出揃い、会場全体が次の対局へ向けて収束していく。観戦する側の人数は増えているのに、不思議とざわつきは小さい。みな、見たいものがはっきりしているのだ。
東大寺学園と、天羽しおり。
正確には、東大寺学園と、しおりたちの学校。
ここを越えた者が、優勝へ最も近づく。
そう思っている者が多いのだろう。
しおりは立ち上がる。
その動きに無駄はない。
だが、胸の奥は静かに熱を持っていた。
海城も強かった。
白陵も強かった。
けれど、その先にこの学校がいるなら、全国という場所はやはり正しかったと思う。ここまで来なければ、会えない相手がいる。地方大会を何百回勝っても届かない種類の強さが、ここにはある。
席へ向かう途中、東大寺の一将とすれ違う。
相手が足を止めた。
しおりも止まる。
近くで見ると、やはり細い。だが、その目だけは少しも細くない。静かで、深くて、こちらを真正面から見ている。
「天羽しおりさん」
丁寧な口調だった。
「はい」
「あなたの将棋、見ました」
「どうでしたか」
相手は少しだけ考えてから答えた。
「強いです」
「ありがとうございます」
「でも、思っていたより静かでした」
しおりは相手を見る。
「暴れると思ってましたか」
「ええ。覇王と呼ばれているくらいですから」
少しだけ間があった。
「でも違った。むしろ、削る将棋だ」
しおりの口元がわずかに動く。
「よく見てますね」
「見ないと勝てないので」
その返しに、しおりはほんの少しだけ嬉しさに似たものを覚えた。
この相手は、本当に見ている。
異名でも記録でもなく、盤上の手つきを。
「あなたは?」
しおりが訊く。
「僕ですか」
「どういう将棋なんですか」
相手はすぐには答えなかった。
だが、次に返ってきた言葉は短かった。
「終わる将棋です」
しおりの目がわずかに細まる。
「終わる」
「はい。長く見えても、気づいた時にはもう終わっている。そういう将棋を目指しています」
その言葉には虚勢がなかった。
だからこそ、しおりにはよくわかった。
危険だ。
自分と近い。
派手に殴り合うのではない。相手の息が続いているように見せかけたまま、どこかで終わりへ閉じ込める。そういう将棋を指す人間だ。
「楽しみです」
しおりが言うと、相手はわずかに目を見開いた。
「そう言いますか」
「はい」
「普通は嫌がるところです」
「普通じゃないので」
東大寺の一将はそこで、初めてごく浅く笑った。
「知ってます」
それだけ言って、互いに自分の席へ向かった。
盤の前に座る。
左右では、坂本と黒田もすでに向かい合っていた。二人とも県大会の頃より、明らかに座り方が変わっている。深く座りすぎず、浅くもない。盤面へ体ごと落ちていける姿勢だ。しおりと指し続けた日々と、海城、白陵との二戦が、それを作っていた。
審判の声が響く。
「始めてください」
六つの手が一斉に動いた。
序盤。
東大寺の一将は、しおりの予想通りだった。
無理に前へ出ない。
こちらの形を見ながら、必要な分だけ受け、必要な分だけ前へ出る。白陵のように嫌味を積む将棋とも違う。もっと自然だ。自然に見えるからこそ厄介だった。
うまい。
しおりは数手進んだ時点でそう思った。
どこか一か所で勝負を決めようとしていない。
盤全体の釣り合いを、ずっと自分の手の中へ置いている。こちらが少し強く出れば、その分だけ別の場所が薄くなるように調整してくる。
「静かですね」
相手が言う。
「あなたもです」
「ええ。でも、今はまだ静かなだけです」
「そうですね」
しおりは歩を合わせた。
そこから局面は少しずつ開いていく。
角道。
銀の位置。
飛車先の呼吸。
わずかな差しかないのに、そのわずかを巡って読みの深さが何層も重なる。観戦者にはただの整った将棋に見えるかもしれない。だが、中にいる二人にはわかっていた。
これが本当の意味での全国だ。
海城よりも一手が重い。
白陵よりも形が広い。
相手の予定図を乱しても、その乱れ方まで計算に入っている。
右では坂本がじっと耐えている。相手二将はやはり待てる。白陵よりさらに待てる。焦れた方が死ぬとわかっているから、坂本もむやみに前へ出られない。
左では黒田が、早くも難しい顔になっていた。相手三将は受けるだけではない。守っているように見せて、ときどき鋭く前へ出る。黒田の呼吸をずらしに来ている。
三つとも、嫌になるほど強い。
だが、しおりの目だけは少しも揺れなかった。
むしろ落ち着いていく。
盤の上にあるものが増えれば増えるほど、余計なものが削れていく。そういう感覚だった。
東大寺の一将が銀を上がる。
しおりはその手を見て、すぐに応じない。
一手ためる。
その一手を見て、相手の目がわずかに細くなった。
「そこへ置きますか」
「嫌でしたか」
「かなり」
「それはよかったです」
「性格が悪い」
「褒め言葉として受け取ります」
相手は苦笑も見せず、すぐに次を指す。
速い。
それでいて浅くない。
しおりはそこで確信した。
この相手は、凛々花とは違う。
白陵とも違う。
もっと近い。
盤上で何を嫌うか、どこを消されると苦しいか、その感覚が自分と近いのだ。だからこそ、一手一手がやりづらい。こちらが効くと思った筋を、相手もまた嫌な筋として見ている。
数手後。
盤面の均衡がわずかに崩れた。
まだどちらが優勢とも言えない。
けれど、先に仕掛けを見せたのは東大寺の一将だった。
歩がぶつかる。
しおりが取る。
銀が出る。
鋭い。
派手ではないのに、ここから先の分岐が一気に増える。間違えればそのまま主導権を渡す。しおりは盤を見つめたまま、胸の奥でひどく静かな熱が燃えるのを感じた。
いい。
こういう相手を待っていた。
しおりはその仕掛けを正面から受けた。
いなさない。
逃がさない。
噛み合わせる。
相手の読み筋を折るのではなく、その中へ入ってさらに一段深い場所で勝つための応手を返す。
東大寺の一将の指先が止まる。
「なるほど」
小さく、そう漏らした。
ここで初めて、相手の呼吸が少しだけ変わる。
まだ揺れてはいない。
だが、自分の予定図がそのまま通らないと理解したのだ。
しおりはそこを逃さない。
次の一手で、さらに盤面の意味を変えにいく。
この対局は、長くなる。
だが長いだけではない。
どこかで必ず、片方の世界が終わる。
東大寺の一将が言っていた通りに。
そして、その終わる側を相手にするために、しおりは静かに読みを深めていった。
あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!