盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第三十四話 先に切れる息

 東大寺の一将が黙り込んだことで、盤の上の温度はむしろ下がった。

 

 詰みが見えたわけではない。

 大駒がぶつかり合ったわけでもない。

 

 それでも、ここから先は一手ごとにどちらかの呼吸が削れていく。そういう局面に入ったことだけは、見ている全員に伝わっていた。

 

 しおりは盤面から目を離さない。

 

 相手が前へ出した駒は、もう自由には戻れない。

 戻れば遅れる。

 踏みとどまれば薄くなる。

 東大寺の一将は、そのどちらもわかった上で、今の形を選んでいる。

 

 強い。

 

 認めざるを得なかった。

 

 凛々花のように剥き出しの執念で切りかかってくるわけではない。

 白陵のように、嫌味を積み重ねてこちらの神経を削ってくるわけでもない。

 

 ただ静かに、勝ち筋だけを細く通してくる。

 

 しおりにとって、その静けさがいちばんやりにくかった。

 

「ここで止まりますか」

 

 東大寺の一将が言った。

 

「止まる?」

 

「ええ。今の形で満足するなら、まだこちらもまとめられる」

 

 しおりはそこで初めて、小さく笑った。

 

「しませんよ」

 

 そして、次の一手を置く。

 

 こと、と鳴った駒音がやけに澄んで聞こえた。

 

 今度の一手は、誰の目にもわかりやすかった。

 守りに見せかけて、守りではない。

 攻めに見せかけて、攻めでもない。

 

 相手の駒の利きを鈍らせながら、自分の寄せ筋だけを太くする一手だった。

 

 東大寺の一将の目が、そこで初めて鋭くなった。

 

「……そう来るなら」

 

 それ以上は言葉にせず、彼はすぐに指した。

 

 反発だった。

 

 細く封じられる前に、自分から局面をさらに開く。中央の圧を残したまま、横からも利かせる。しおりの玉形に直接迫るほどではないが、次に一手でも遅れれば、一気に飲み込まれる手順だ。

 

 しおりはその手を見て、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

 逃げない。

 

 やはり、この相手は逃げない。

 

 向こうも同じなのだろう。ここで一歩引けば、自分の将棋ではなくなるとわかっている。だから前へ出る。自分の息が先に切れるかもしれなくても、その勝負を選ぶ。

 

 しおりはすぐには指さなかった。

 

 盤上に残る駒の重さを、頭の中で何度も組み替える。

 ここで受ければどうなる。

 かわせばどうなる。

 噛み合えばどうなる。

 

 そして、一つだけ見つける。

 

 受けるのでも、かわすのでもない。

 相手の踏み込みを利用して、次の手で逆に首を締める順。

 

 見つけた瞬間、迷いは消えた。

 

 しおりの指先が動く。

 

 東大寺の一将が、そこで小さく息を呑んだ。

 

「そこですか」

 

「そこです」

 

「……嫌ですね」

 

「よかったです」

 

 右隣で、坂本の駒が強く鳴った。

 

 勝負手だった。

 

 もう受け続けていても終わる。

 だから自分から形を壊しに行くしかない。そんな局面だったのだろう。坂本は普段ならもう一手待つ男だ。だが今は待てない。相手二将の将棋は、待った側から干上がっていく。

 

 その音だけで、しおりには坂本の苦しさが伝わった。

 

 左の黒田も同じだった。

 あちらは逆に、ついに相手三将が踏み込んだらしい。受けに徹していた盤が、急に荒れ始めている。気配でわかる。将棋盤の上にしか出ない種類のざわつきが、三将戦のあたりだけ濃くなっていた。

 

 三面同時に終盤へ入った。

 

 東大寺の一将も、それを感じているのだろう。

 

「団体戦ですね」

 

 ふいに彼が言った。

 

「そうですね」

 

「嫌でも、隣の音が耳に入る」

 

「でも、見ない方がいい時もあります」

 

「今は?」

 

「見ないです」

 

 しおりはそう言い切った。

 

 本当は見えている。

 坂本の危うさも、黒田の細さも、全部わかる。

 

 けれど、それに引っ張られた瞬間、この盤を落とす。

 

 東大寺の一将は、その返答を聞いて少しだけ口元を動かした。

 

「やっぱり怖い人だ」

 

「褒め言葉として受け取ります」

 

「違います」

 

 そう言いながらも、彼の指は迷わなかった。

 

 返す。

 さらに返す。

 踏み込みを止められても、別の角度から呼吸を奪いにくる。

 

 このあたりからは、もはや一手一手を言葉で説明する意味がなくなっていった。

 

 王手ではない。

 詰みでもない。

 なのに、次の一手がそのまま数手後の生死に繋がる。

 

 どの駒を一枚余らせるか。

 どの利きを一本残すか。

 玉を一つ広くしておくか、それとも相手の逃げ道を先に消すか。

 

 そういう差だけで、勝敗が決まる場所だった。

 

 東大寺の一将がふっと顔を上げる。

 

「あなた、全国に来て変わりましたか」

 

 しおりは盤を見たまま答える。

 

「少しは」

 

「前はもっと、自分だけで勝とうとしていた気がする」

 

「今も勝つつもりです」

 

「ええ。でも今は、勝ち方を選んでる」

 

 しおりはそこで一瞬だけ黙った。

 

 図星だった。

 

 県大会までの自分なら、とにかく先に切り倒すことしか考えていなかったかもしれない。だが今は違う。ただ勝つだけでは足りない。どんな形で勝つか、それで左右の盤に何を残すかまで含めて、一将の責任だとわかってしまっている。

 

 嫌な成長だった。

 だが必要な変化でもある。

 

「あなたもでしょう」

 

 しおりが返すと、東大寺の一将は少しだけ笑った。

 

「ばれますか」

 

「見ればわかります」

 

「便利ですね、その言葉」

 

「便利です」

 

 そこで彼は、ついに一手を誤魔化さずに打ち込んできた。

 

 勝負手。

 

 これまでのような調整ではない。

 明確に、ここで決めにいく手だった。

 

 盤の中央がきしむ。

 こちらの玉形にも、相手の玉形にも、同時に火がつく。

 

 会場の空気が張りつめる。

 

 誰も声を出さない。

 出せない。

 

 今の一手で、一将戦が本当に終盤へ入ったのだと、誰にでもわかったからだ。

 

 しおりはその手を見つめたまま、胸の奥で静かに頷く。

 

 来た。

 

 ようやく、来た。

 

 ここから先は、誤差で勝つ。

 力ではなく、呼吸で勝つ。

 

 しおりはゆっくりと駒を摘む。

 

 勝負手に対して、勝負手を返すのではない。

 

 相手が「通る」と思って踏み込んだ線を、そのまま一段下で折る。

 

 そんな手だった。

 

 こと。

 

 東大寺の一将の目が止まる。

 

 今度は、本当に長かった。

 

 盤に顔を近づけ、持ち駒を見て、自玉の位置を見て、もう一度しおりの置いた駒へ視線を戻す。

 

 右隣では坂本がまだ粘っている。

 左の黒田は、逆に少しだけ押し返したらしい。

 

 けれど、今はもう三つの盤が別々に燃えているようでいて、実際には一つの流れでつながっていた。

 

 一将が倒れれば、その圧が二将三将へ流れる。

 二将が潰れれば、一将の勝ちも薄くなる。

 三将が踏みとどまれば、どこかの一局に余白が生まれる。

 

 団体戦とはそういうものだ。

 

 東大寺の一将が、ようやく顔を上げた。

 

「……なるほど」

 

 その声には、ほんのわずかな苦味が混じっていた。

 

「今の一手で、僕の勝ち筋を一回殺しましたね」

 

「一回だけです」

 

「十分です」

 

 彼はそう言って、再び盤へ向き直る。

 

 まだ終わっていない。

 終わらせる気もない。

 

 けれど、しおりには見えていた。

 

 相手の呼吸が、一つだけ浅くなった。

 

 ほんの少し。

 それでも確かに。

 

 その僅かな乱れを、しおりは逃さない。

 

 次の一手で、もう一段だけ締める。

 玉を寄せるのではなく、相手の読みの幅をさらに狭くする。逃げ道を消すのではなく、「逃げたくなる手」を先に腐らせる。

 

 東大寺の一将の将棋が、静かで美しいほど、それはよく効いた。

 

 整っている将棋ほど、選択肢を削られた時の痛みが深い。

 

 しおりの指先は、もうその痛点を正確に捉え始めていた。

 

 その時だった。

 

 右隣から、はっきりとした駒音が響いた。

 

 坂本だ。

 

 さっきまでの受けの音ではない。

 攻め返す音だった。

 

 遅れて、左からも鋭い音が重なる。

 黒田だ。

 

 三つの盤が、同時に牙を剥いた。

 

 東大寺の一将が、その二つの音を聞いたまま静かに言う。

 

「面白い学校ですね、あなたたち」

 

「そうですか」

 

「ええ。最初はあなた一人の学校だと思っていました」

 

 しおりはそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「最近は違います」

 

「見ればわかります」

 

 その返しに、今度はしおりの方がわずかに目を細める。

 

 互いに盤から目を離さないまま、次の一手を読む。

 

 東大寺の一将は、まだ折れていない。

 坂本も、黒田も、まだ倒れていない。

 

 ならば決着は、これからだ。

 

 静かに凍りついた盤の上で、誰が先に息を切らすのか。

 それを決める数手が、もうすぐそこまで来ていた。





また、作品への感想やコメントも大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。

いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。

それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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