先に息を切らしたのは、東大寺の一将ではなかった。
坂本だった。
右隣で、短く、それでもはっきりとした吐息が漏れた瞬間、しおりは見なくてもわかった。受けの継ぎ目が一つ、切られたのだ。まだ投了ではない。だが、ただ苦しいのではなく、勝ち筋の本数そのものが減った時の呼吸だった。
東大寺の一将も、その音を聞いていた。
「副将、厳しそうですね」
「まだ終わってません」
しおりは盤を見たまま答える。
「ええ。だから厄介なんです」
相手はそう言って、次の一手を置いた。
速かった。
今までのように形を測る手ではない。踏み込んだ駒を支え、こちらの反撃筋を一つ消し、それでいて自玉の薄みを広げない。終盤の一手だった。
冷静で、正確で、嫌になるほど隙がない。
しおりはその手を見て、自分の中の熱が逆に静まっていくのを感じた。
ここから先は、熱い方が負ける。
盤の前で昂りは刃になることもあるが、今の相手はその熱をそのまま掴んで折ってくる。ならば必要なのは冷たさだ。指先まで凍るくらいで、ちょうどいい。
盤面を見渡す。
こちらの玉も安全ではない。
相手の玉も無傷ではない。
互いに寄せが見えている。
互いに、相手が見えていることもわかっている。
だから、一手の意味が重い。
いまここで大きく見える手を選べば、たぶん負ける。
目立たないが、あとで骨になる一手を選べる方が勝つ。
しおりは駒に触れた。
こと。
東大寺の一将が、そこで初めて明確に目を細めた。
「……細い」
「そうですか」
「でも、太い筋が見えない」
「見えたら困るので」
その一手は、受けに見えた。
受けでありながら、受け切るための手ではない。
相手の寄せを半歩だけ遅らせ、
その半歩で自分の寄せを間に合わせる。
そういう手だった。
東大寺の一将は黙る。
盤を見て、
自玉を見て、
もう一度しおりの置いた駒を見る。
強い相手ほど、この沈黙は長くなる。どこが悪いのかではなく、どこまでなら踏み込めるのかを正確に測ろうとするからだ。弱い相手なら、ここで諦めか焦りが先に出る。だが目の前の相手は違う。最後の最後まで、盤に残っている理屈を拾ってくる。
「あなたの将棋は」
相手がぽつりと言う。
「派手じゃないですね」
「そうですか」
「もっと奪う感じかと思っていました」
「奪ってますよ」
しおりは静かに言った。
「見えないだけで」
相手はそこで、小さく笑った。
「ほんとに嫌な人だ」
そう言って、指す。
また細い。
だが、粘りの筋としては最上に近い。
完全には切れない。
完全には逃がさない。
相手もまた、しおりと同じ場所を目指していた。
ただ勝つのではなく、相手の勝ち筋を一手だけ先に潰し、自分だけが最後に立つ形。
その手を見た瞬間、しおりは右隣から伝わる空気の変化に気づいた。
坂本が崩れた。
まだ投了の声はない。
だが、勝負としてはかなり薄い。さっきの勝負手を相手二将が正確に咎めたのだろう。攻め返したはずの駒が逆に切られ、玉のまわりだけが残される、あの嫌な崩れ方。
東大寺の二将はやはり強い。
待つだけではなく、待った先をちゃんと狩る。
しおりの胸の奥で、ほんのわずかに硬いものが沈む。
それでも、顔には出さない。
ここで坂本を助けに行く将棋はない。
あるのは、この一将戦を取る将棋だけだ。
左隣の黒田は、まだ粘っている。
あちらはあちらで地獄だろう。だが生きている。
ならば一将が取る。
それでいい。
「見ないんですね」
東大寺の一将が言う。
「見ても変わらないので」
「優しい答えではない」
「将棋ですから」
「そういうところ、少し羨ましい」
「羨ましがられることじゃないです」
しおりはそこで、次の一手を読んだ。
今の相手の粘りは強い。
だが、強いがゆえに、自玉を狭くした。
安全を選んだのではない。
危険を限定したのだ。
ならば、そこにだけ届く筋がある。
一直線には行けない。
一度、相手に「まだ残る」と思わせる必要がある。
その上で、最後の逃げ道だけを消す。
しおりは指した。
地味な一手だった。
観戦していた何人かは、一瞬その意味を量りかねたらしい。王手ではない。すぐに駒を取る手でもない。形だけ見れば、少し遠回りにすら映る。
だが、東大寺の一将だけは、置かれた瞬間に意味を理解した。
顔色が変わる。
「……それは」
声が止まる。
しおりは何も言わない。
その一手で、相手の玉はまだ詰まない。
だが、次にどこへ逃げても、最後に詰む形へ入った。
すぐ詰まされるのではない。
逃げて、逃げて、受けて、それでも最後に足りなくなる。
そういう終わり方だ。
東大寺の一将は長く考えた。
時間が過ぎる。
会場の音が遠い。
左隣で黒田の駒音が鋭く鳴る。
攻め合っている。
まだ勝敗はどちらにも傾ききっていない。
ならば、ここでしおりが取れば、二将三将へ残る意味が変わる。
相手は必死に読む。
受けの筋。
反撃の筋。
逆にこちらを詰ます筋。
どれも途中までは見える。
だが、最後の最後で一手足りない。
しおりが置いたあの地味な一手が、その「一手足りない」を作っていた。
「こういう終わり方、ですか」
東大寺の一将が低く言う。
「好きなんです」
「知ってます」
ようやく相手は受けた。
最善だった。
少なくとも、この場で指せる中では。
だがそれでも、しおりの予定図の中に収まっている。
次。
さらに次。
しおりの寄せは、派手さがなかった。
切り飛ばさない。
怒鳴るような王手をかけない。
ただ、相手の玉のまわりから空気だけを抜いていく。
一枚の金が、逃げ道を消す。
一枚の歩が、受けの形を腐らせる。
一手前に置いておいた駒が、ここでようやく骨になる。
東大寺の一将は、途中から一度も顔を上げなかった。
この局面で、負けを悟ってなお盤にしがみつくのは、弱さではない。
そこまで残された筋を、最後の一本まで確かめるから強いのだ。
しおりはそれを知っている。
だから急かさない。
待つ。
相手が自分で、終わりを盤の上に見つけるまで。
やがて、東大寺の一将の肩がほんの少し下がった。
深く息を吸い、
吐く。
「……届かない」
掠れた声だった。
しおりはそこで初めて、視線を少しだけ上げる。
「はい」
東大寺の一将は、苦笑に近いものを口元へ浮かべた。
「正直、もう少しやれると思っていました」
「かなりやられました」
「慰めですか」
「本音です」
相手は数秒だけしおりを見て、それから盤へ指を置いた。
「……負けました」
一将戦が終わる。
会場の空気が、遅れて動いた。
小さなどよめきが広がる。
東大寺の一将が落ちた。
それが持つ意味を、ここにいる誰もが理解していた。
しおりは深く一礼する。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
相手もきちんと頭を下げた。
顔を上げた時、その目には悔しさが濃く残っていた。
だが、崩れてはいない。
きれいに負ける人間の目ではなく、負けを次に持っていく人間の目だ。
「あなたに一つだけ聞いていいですか」
彼が言った。
「何ですか」
「どうして、あそこまで急がないでいられるんです」
しおりは少しだけ考えた。
「急いでるからです」
相手が一瞬、目を瞬かせる。
「……なるほど」
それだけで通じたらしい。
それ以上、彼は聞かなかった。
しおりはすぐに左右を見る。
坂本は、やはり苦しいどころではなかった。
もう投了寸前だ。玉は薄く、相手二将の寄せは乱れていない。坂本は最後の最後まで粘っていたが、東大寺の二将はその粘りごと折りにきていた。
数手後。
坂本が静かに頭を下げる。
「……負けました」
これで一勝一敗。
勝負は三将戦へもつれ込んだ。
黒田はまだ指している。
いや、指しているというより、食らいついていると言った方が近かった。相手三将の受けと踏み込みのバランスは見事で、何度も形勢を持っていかれかけている。それでも黒田は離れない。県大会の頃なら、どこかで焦れていた。白陵戦の頃なら、薄くなった自玉を見て足が止まっていたかもしれない。
だが今は違う。
目の前にいるのは東大寺の三将。
全国の王者候補の最後の一枚。
それでも、黒田は逃げていない。
しおりの勝ちが、会場の空気を少しだけ動かしていた。
東大寺側から見れば、もう二将が取っている。ならば三将は引き分ける必要がない。勝ちに行けばいい。
その「勝ちに行けばいい」が、盤上に微細な焦りを混ぜる。
黒田はそこを見ていた。
「黒田先輩」
しおりは声に出さず、心の中だけで呼ぶ。
彼なら気づく。
いま相手は、受けているようで半歩出ている。
なら、その半歩だけを切ればいい。
黒田の指が、ゆっくりと駒へ伸びる。
それまで何度も迷いを含んでいた手つきが、そこで初めて迷わなくなった。
こと。
東大寺の三将が止まる。
会場が、また静かになる。
その一手は、受けではなかった。
攻めでもなかった。
相手の勝ち筋の中心に、横から杭を打つような手だった。
黒田が、全国の大舞台で初めて、自分から流れを作ったのだ。
しおりは黙って見つめる。
もう盤に口を出す必要はない。
ここから先は黒田の将棋だ。
東大寺の三将も強い。
すぐには崩れない。
だが、一度止まった呼吸を戻すには時間が要る。
黒田はそこを逃さず、一手、一手、盤を狭めていく。
派手な寄せではない。
だが、しつこい。
逃げ道を潰し、受けの場所を限定し、最後に自分だけが指せる形へ持ち込もうとしている。
坂本が席を立ったまま、祈るように盤を見ていた。
三枝は腕を組んだまま微動だにしない。
だが、目だけは黒田の盤に釘付けだった。
数分。
いや、もっと短かったかもしれない。
それでも、見ている側にはひどく長かった。
やがて東大寺の三将が、小さく唇を噛んだ。
その瞬間、しおりにはわかった。
あちらも見つけたのだ。
自分がもう、勝ち切れない形に入っていることを。
黒田は最後の一手を置いた。
決め手だった。
東大寺の三将が盤面を見つめたまま動かない。
読む。
読み直す。
別の順を探す。
だが、残っていない。
数秒後、彼は静かに頭を下げた。
「……負けました」
その声で、団体戦の勝敗が落ちた。
二勝一敗。
東大寺学園、撃破。
会場の空気が一気に緩む。
どよめきが広がり、抑え込まれていた息があちこちで漏れた。
全国の王者候補。
もっとも完成された学校の一つ。
その東大寺を、しおりたちの学校が倒したのだ。
黒田は投了を聞いてもしばらく動かなかった。
信じられないのだろう。
自分が最後の一局を取り切ったことが。
「……勝った」
掠れた声が、ようやくそこから出た。
坂本が思わず笑う。
「取ったな、お前」
「……取った」
黒田はそこでやっと顔を上げ、しおりを見た。
「先に勝ってくれたからだ」
しおりは首を振る。
「黒田先輩が取り切ったからです」
「いや、お前な」
坂本が苦笑する。
「そういうことを平気で言うから、余計にしんどいんだよ」
三枝が三人の前へ来た。
いつものように短く済ませるかと思ったが、今回は一呼吸置いた。
「よくやった」
それだけだった。
けれど、それで十分だった。
坂本が深く息を吐き、黒田はようやく肩の力を抜く。
しおりは東大寺の一将の去っていく背中を一度だけ見た。
相手は振り返らない。
だが、その背中が折れていないことはわかる。
またどこかで会うだろう。
その時は、もっと深い盤になる。
そう思えた。
しおりは静かに前を向く。
全国大会は、まだ終わっていない。
東の強豪を越え、
西の強豪を越え、
そして王者候補まで倒した。
それでも、まだ最後ではない。
ここまで来た以上、もう優勝しか見ていない。
しおりの中で、冷え切っていた熱が、今度は少しだけ輪郭を持ち始めていた。
全国の頂点まで、
あと少しだった。
また、作品への感想やコメントも大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!