盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第三十五話 王者の息継ぎ

 先に息を切らしたのは、東大寺の一将ではなかった。

 

 坂本だった。

 

 右隣で、短く、それでもはっきりとした吐息が漏れた瞬間、しおりは見なくてもわかった。受けの継ぎ目が一つ、切られたのだ。まだ投了ではない。だが、ただ苦しいのではなく、勝ち筋の本数そのものが減った時の呼吸だった。

 

 東大寺の一将も、その音を聞いていた。

 

「副将、厳しそうですね」

 

「まだ終わってません」

 

 しおりは盤を見たまま答える。

 

「ええ。だから厄介なんです」

 

 相手はそう言って、次の一手を置いた。

 

 速かった。

 

 今までのように形を測る手ではない。踏み込んだ駒を支え、こちらの反撃筋を一つ消し、それでいて自玉の薄みを広げない。終盤の一手だった。

 

 冷静で、正確で、嫌になるほど隙がない。

 

 しおりはその手を見て、自分の中の熱が逆に静まっていくのを感じた。

 

 ここから先は、熱い方が負ける。

 

 盤の前で昂りは刃になることもあるが、今の相手はその熱をそのまま掴んで折ってくる。ならば必要なのは冷たさだ。指先まで凍るくらいで、ちょうどいい。

 

 盤面を見渡す。

 

 こちらの玉も安全ではない。

 相手の玉も無傷ではない。

 

 互いに寄せが見えている。

 互いに、相手が見えていることもわかっている。

 

 だから、一手の意味が重い。

 

 いまここで大きく見える手を選べば、たぶん負ける。

 目立たないが、あとで骨になる一手を選べる方が勝つ。

 

 しおりは駒に触れた。

 

 こと。

 

 東大寺の一将が、そこで初めて明確に目を細めた。

 

「……細い」

 

「そうですか」

 

「でも、太い筋が見えない」

 

「見えたら困るので」

 

 その一手は、受けに見えた。

 受けでありながら、受け切るための手ではない。

 

 相手の寄せを半歩だけ遅らせ、

 その半歩で自分の寄せを間に合わせる。

 

 そういう手だった。

 

 東大寺の一将は黙る。

 

 盤を見て、

 自玉を見て、

 もう一度しおりの置いた駒を見る。

 

 強い相手ほど、この沈黙は長くなる。どこが悪いのかではなく、どこまでなら踏み込めるのかを正確に測ろうとするからだ。弱い相手なら、ここで諦めか焦りが先に出る。だが目の前の相手は違う。最後の最後まで、盤に残っている理屈を拾ってくる。

 

「あなたの将棋は」

 

 相手がぽつりと言う。

 

「派手じゃないですね」

 

「そうですか」

 

「もっと奪う感じかと思っていました」

 

「奪ってますよ」

 

 しおりは静かに言った。

 

「見えないだけで」

 

 相手はそこで、小さく笑った。

 

「ほんとに嫌な人だ」

 

 そう言って、指す。

 

 また細い。

 だが、粘りの筋としては最上に近い。

 

 完全には切れない。

 完全には逃がさない。

 

 相手もまた、しおりと同じ場所を目指していた。

 ただ勝つのではなく、相手の勝ち筋を一手だけ先に潰し、自分だけが最後に立つ形。

 

 その手を見た瞬間、しおりは右隣から伝わる空気の変化に気づいた。

 

 坂本が崩れた。

 

 まだ投了の声はない。

 だが、勝負としてはかなり薄い。さっきの勝負手を相手二将が正確に咎めたのだろう。攻め返したはずの駒が逆に切られ、玉のまわりだけが残される、あの嫌な崩れ方。

 

 東大寺の二将はやはり強い。

 待つだけではなく、待った先をちゃんと狩る。

 

 しおりの胸の奥で、ほんのわずかに硬いものが沈む。

 

 それでも、顔には出さない。

 

 ここで坂本を助けに行く将棋はない。

 あるのは、この一将戦を取る将棋だけだ。

 

 左隣の黒田は、まだ粘っている。

 

 あちらはあちらで地獄だろう。だが生きている。

 ならば一将が取る。

 それでいい。

 

「見ないんですね」

 

 東大寺の一将が言う。

 

「見ても変わらないので」

 

「優しい答えではない」

 

「将棋ですから」

 

「そういうところ、少し羨ましい」

 

「羨ましがられることじゃないです」

 

 しおりはそこで、次の一手を読んだ。

 

 今の相手の粘りは強い。

 だが、強いがゆえに、自玉を狭くした。

 安全を選んだのではない。

 危険を限定したのだ。

 

 ならば、そこにだけ届く筋がある。

 

 一直線には行けない。

 一度、相手に「まだ残る」と思わせる必要がある。

 その上で、最後の逃げ道だけを消す。

 

 しおりは指した。

 

 地味な一手だった。

 

 観戦していた何人かは、一瞬その意味を量りかねたらしい。王手ではない。すぐに駒を取る手でもない。形だけ見れば、少し遠回りにすら映る。

 

 だが、東大寺の一将だけは、置かれた瞬間に意味を理解した。

 

 顔色が変わる。

 

「……それは」

 

 声が止まる。

 

 しおりは何も言わない。

 

 その一手で、相手の玉はまだ詰まない。

 だが、次にどこへ逃げても、最後に詰む形へ入った。

 

 すぐ詰まされるのではない。

 逃げて、逃げて、受けて、それでも最後に足りなくなる。

 

 そういう終わり方だ。

 

 東大寺の一将は長く考えた。

 

 時間が過ぎる。

 会場の音が遠い。

 左隣で黒田の駒音が鋭く鳴る。

 

 攻め合っている。

 

 まだ勝敗はどちらにも傾ききっていない。

 ならば、ここでしおりが取れば、二将三将へ残る意味が変わる。

 

 相手は必死に読む。

 

 受けの筋。

 反撃の筋。

 逆にこちらを詰ます筋。

 

 どれも途中までは見える。

 だが、最後の最後で一手足りない。

 

 しおりが置いたあの地味な一手が、その「一手足りない」を作っていた。

 

「こういう終わり方、ですか」

 

 東大寺の一将が低く言う。

 

「好きなんです」

 

「知ってます」

 

 ようやく相手は受けた。

 

 最善だった。

 少なくとも、この場で指せる中では。

 

 だがそれでも、しおりの予定図の中に収まっている。

 

 次。

 さらに次。

 

 しおりの寄せは、派手さがなかった。

 

 切り飛ばさない。

 怒鳴るような王手をかけない。

 ただ、相手の玉のまわりから空気だけを抜いていく。

 

 一枚の金が、逃げ道を消す。

 一枚の歩が、受けの形を腐らせる。

 一手前に置いておいた駒が、ここでようやく骨になる。

 

 東大寺の一将は、途中から一度も顔を上げなかった。

 

 この局面で、負けを悟ってなお盤にしがみつくのは、弱さではない。

 そこまで残された筋を、最後の一本まで確かめるから強いのだ。

 

 しおりはそれを知っている。

 

 だから急かさない。

 待つ。

 相手が自分で、終わりを盤の上に見つけるまで。

 

 やがて、東大寺の一将の肩がほんの少し下がった。

 

 深く息を吸い、

 吐く。

 

「……届かない」

 

 掠れた声だった。

 

 しおりはそこで初めて、視線を少しだけ上げる。

 

「はい」

 

 東大寺の一将は、苦笑に近いものを口元へ浮かべた。

 

「正直、もう少しやれると思っていました」

 

「かなりやられました」

 

「慰めですか」

 

「本音です」

 

 相手は数秒だけしおりを見て、それから盤へ指を置いた。

 

「……負けました」

 

 一将戦が終わる。

 

 会場の空気が、遅れて動いた。

 小さなどよめきが広がる。

 

 東大寺の一将が落ちた。

 

 それが持つ意味を、ここにいる誰もが理解していた。

 

 しおりは深く一礼する。

 

「ありがとうございました」

 

「ありがとうございました」

 

 相手もきちんと頭を下げた。

 

 顔を上げた時、その目には悔しさが濃く残っていた。

 だが、崩れてはいない。

 きれいに負ける人間の目ではなく、負けを次に持っていく人間の目だ。

 

「あなたに一つだけ聞いていいですか」

 

 彼が言った。

 

「何ですか」

 

「どうして、あそこまで急がないでいられるんです」

 

 しおりは少しだけ考えた。

 

「急いでるからです」

 

 相手が一瞬、目を瞬かせる。

 

「……なるほど」

 

 それだけで通じたらしい。

 それ以上、彼は聞かなかった。

 

 しおりはすぐに左右を見る。

 

 坂本は、やはり苦しいどころではなかった。

 もう投了寸前だ。玉は薄く、相手二将の寄せは乱れていない。坂本は最後の最後まで粘っていたが、東大寺の二将はその粘りごと折りにきていた。

 

 数手後。

 

 坂本が静かに頭を下げる。

 

「……負けました」

 

 これで一勝一敗。

 

 勝負は三将戦へもつれ込んだ。

 

 黒田はまだ指している。

 

 いや、指しているというより、食らいついていると言った方が近かった。相手三将の受けと踏み込みのバランスは見事で、何度も形勢を持っていかれかけている。それでも黒田は離れない。県大会の頃なら、どこかで焦れていた。白陵戦の頃なら、薄くなった自玉を見て足が止まっていたかもしれない。

 

 だが今は違う。

 

 目の前にいるのは東大寺の三将。

 全国の王者候補の最後の一枚。

 

 それでも、黒田は逃げていない。

 

 しおりの勝ちが、会場の空気を少しだけ動かしていた。

 東大寺側から見れば、もう二将が取っている。ならば三将は引き分ける必要がない。勝ちに行けばいい。

 

 その「勝ちに行けばいい」が、盤上に微細な焦りを混ぜる。

 

 黒田はそこを見ていた。

 

「黒田先輩」

 

 しおりは声に出さず、心の中だけで呼ぶ。

 

 彼なら気づく。

 

 いま相手は、受けているようで半歩出ている。

 なら、その半歩だけを切ればいい。

 

 黒田の指が、ゆっくりと駒へ伸びる。

 

 それまで何度も迷いを含んでいた手つきが、そこで初めて迷わなくなった。

 

 こと。

 

 東大寺の三将が止まる。

 

 会場が、また静かになる。

 

 その一手は、受けではなかった。

 攻めでもなかった。

 相手の勝ち筋の中心に、横から杭を打つような手だった。

 

 黒田が、全国の大舞台で初めて、自分から流れを作ったのだ。

 

 しおりは黙って見つめる。

 

 もう盤に口を出す必要はない。

 ここから先は黒田の将棋だ。

 

 東大寺の三将も強い。

 すぐには崩れない。

 だが、一度止まった呼吸を戻すには時間が要る。

 

 黒田はそこを逃さず、一手、一手、盤を狭めていく。

 派手な寄せではない。

 だが、しつこい。

 逃げ道を潰し、受けの場所を限定し、最後に自分だけが指せる形へ持ち込もうとしている。

 

 坂本が席を立ったまま、祈るように盤を見ていた。

 

 三枝は腕を組んだまま微動だにしない。

 だが、目だけは黒田の盤に釘付けだった。

 

 数分。

 いや、もっと短かったかもしれない。

 

 それでも、見ている側にはひどく長かった。

 

 やがて東大寺の三将が、小さく唇を噛んだ。

 

 その瞬間、しおりにはわかった。

 

 あちらも見つけたのだ。

 自分がもう、勝ち切れない形に入っていることを。

 

 黒田は最後の一手を置いた。

 

 決め手だった。

 

 東大寺の三将が盤面を見つめたまま動かない。

 読む。

 読み直す。

 別の順を探す。

 

 だが、残っていない。

 

 数秒後、彼は静かに頭を下げた。

 

「……負けました」

 

 その声で、団体戦の勝敗が落ちた。

 

 二勝一敗。

 

 東大寺学園、撃破。

 

 会場の空気が一気に緩む。

 どよめきが広がり、抑え込まれていた息があちこちで漏れた。

 

 全国の王者候補。

 もっとも完成された学校の一つ。

 その東大寺を、しおりたちの学校が倒したのだ。

 

 黒田は投了を聞いてもしばらく動かなかった。

 

 信じられないのだろう。

 自分が最後の一局を取り切ったことが。

 

「……勝った」

 

 掠れた声が、ようやくそこから出た。

 

 坂本が思わず笑う。

 

「取ったな、お前」

 

「……取った」

 

 黒田はそこでやっと顔を上げ、しおりを見た。

 

「先に勝ってくれたからだ」

 

 しおりは首を振る。

 

「黒田先輩が取り切ったからです」

 

「いや、お前な」

 

 坂本が苦笑する。

 

「そういうことを平気で言うから、余計にしんどいんだよ」

 

 三枝が三人の前へ来た。

 

 いつものように短く済ませるかと思ったが、今回は一呼吸置いた。

 

「よくやった」

 

 それだけだった。

 

 けれど、それで十分だった。

 

 坂本が深く息を吐き、黒田はようやく肩の力を抜く。

 

 しおりは東大寺の一将の去っていく背中を一度だけ見た。

 

 相手は振り返らない。

 だが、その背中が折れていないことはわかる。

 

 またどこかで会うだろう。

 

 その時は、もっと深い盤になる。

 

 そう思えた。

 

 しおりは静かに前を向く。

 

 全国大会は、まだ終わっていない。

 

 東の強豪を越え、

 西の強豪を越え、

 そして王者候補まで倒した。

 

 それでも、まだ最後ではない。

 

 ここまで来た以上、もう優勝しか見ていない。

 

 しおりの中で、冷え切っていた熱が、今度は少しだけ輪郭を持ち始めていた。

 

 全国の頂点まで、

 あと少しだった。





また、作品への感想やコメントも大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。

いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。

それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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