東大寺を倒した直後、しおりはようやく深く息を吐いた。
勝った、という実感は薄かった。
盤の前にいる間は、ずっと冷えていたからだ。熱くなれば終わる、そうわかっていた。だから凍ったまま指し切った。勝敗が落ち、黒田が最後の一局を取り切っても、しおりの中ではまだ何かが張りつめたままだった。
全国の頂点まで、あと一つ。
その事実だけが、遅れて胸の奥に沈んでいく。
坂本は椅子に腰を落としたまま、しばらく立ち上がれなかった。
「無理だろ、あれは……」
天井を見たまま、かすれた声で言う。
黒田が苦笑した。
「何回目だよ、その台詞」
「東大寺相手だぞ。無理だと思うだろ、普通」
「普通ならな」
そこで黒田は、しおりを見た。
「こいつが普通じゃないからな」
しおりは返事をしなかった。
組み合わせ表の方を見ていたからだ。
もう一方の山の勝者が出たらしい。会場の係が新しい札を運び、中央の掲示板を張り替えている。その瞬間だけ、会場の空気がまたざわついた。
決勝戦。
しおりたちの学校の相手は、市川中学校Aだった。
「市川か」
三枝が低く言う。
坂本が顔を上げる。
「知ってるんですか」
「強いぞ。東の代表格の一つだ。派手じゃないが、三人とも崩れにくい。特に大将は有名だ」
黒田が眉をひそめた。
「有名、って全国区でですか」
「そういう意味だ」
三枝は組み合わせ表を見たまま続ける。
「小学生の頃から名前が出てたやつだ。個人戦でも団体戦でも、ずっと上位にいる。正確さが売りの将棋だと聞いてる」
しおりはその名前に覚えがあった。
会ったことはない。
だが、名前だけは知っている。
東の大会で何度も上位に残っていた少年。
勝ち方がきれいだと評される一方で、最後に一手だけ足りない相手に容赦がないという話も聞いたことがある。
坂本が小さく唸った。
「決勝でそれかよ」
「決勝だからそれなんだろ」
三枝の返しは短かった。
「ここまで来て楽な相手がいると思うな」
その通りだった。
海城を越え、
白陵を越え、
東大寺まで越えた。
その先で当たる相手が弱いわけがない。
会場の反対側、市川中の待機場所を見ると、三人ともすでに落ち着いていた。決勝に残った高揚も、緊張も、表へはほとんど出ていない。特に一将の少年は、座ったまま目を閉じている。休んでいるようにも見えるし、もう盤の前に座っているようにも見える。
しおりはその横顔を見て、少しだけ口元を引き結んだ。
強い。
近づかなくてもわかる。
凛々花のように熱を帯びる強さではない。
白陵のように冷たく削る強さとも少し違う。
東大寺の一将に近い静けさがあるのに、もっと人間臭い。
勝つために要るものと、捨てるものを自分で決めてきた顔だ。
「しおり」
坂本が呼ぶ。
「はい」
「お前から見て、どうだ」
しおりは少しだけ考えてから答えた。
「たぶん、今までで一番、終盤が強いです」
黒田が露骨に嫌そうな顔をした。
「それ、聞きたくなかったな」
「序中盤で大きく崩れない相手です。たぶん中盤までは、わざと互角に見せてきます」
「で、終盤で刺すと」
「はい」
三枝がそこで頷く。
「同感だ。決勝まで残る学校は、派手に勝ってきたわけじゃない。負けないで残ってきた学校だ」
黒田がぼそりと言う。
「嫌な言い方ですね」
「いい言い方をしてどうする」
三枝は容赦なく返した。
「坂本。お前の相手も厄介だぞ。市川の二将は、東日本大会で粘り倒して勝ち上がってきたって聞いてる。勝てる将棋だけじゃなく、負けそうな将棋をひっくり返す筋を持ってる」
「はい」
「黒田。三将はおそらく一番崩れない。勝負を急がせるのがうまいはずだ。お前の悪い癖、焦って前へ出るのを狙ってくる」
「……はい」
最後に三枝は、しおりを見る。
「天羽」
「はい」
「決勝だ。お前が一将で座る意味を、盤の上で見せろ」
しおりは短く頷いた。
「はい」
決勝戦の開始まで、あまり時間はなかった。
表彰台が見える位置の机へ、六つの席が用意される。準決勝までとは配置が違う。最初から、この舞台だけ別格なのだとわかる作りだった。
観戦の輪も厚い。
敗れた学校の部員たち。
顧問たち。
大会関係者。
保護者たち。
そこにいる全員が、この一戦だけは見逃すまいとしていた。
東大寺を倒した学校と、市川中A。
即席の挑戦者ではない。
偶然勝ち上がった伏兵でもない。
強い学校同士の、本当の決勝戦だった。
席へ向かう途中、しおりは市川の一将とすれ違った。
少年は足を止めた。
しおりも止まる。
「天羽しおりさん」
静かな声だった。
「はい」
「ようやく当たれますね」
その言い方で、しおりは少しだけ相手を見直した。
「私を待っていたんですか」
「待っていました」
即答だった。
「東大寺戦、見てました。白陵戦も」
「そうですか」
「噂通りでした。でも、少し違った」
しおりは何も言わない。
「もっと一人で盤を壊す人かと思っていました」
「違いましたか」
「ええ。壊すんじゃない。終わらせる人だ」
その言葉に、しおりはほんの少しだけ目を細めた。
ここまで正確に見てくるなら、本当に厄介だ。
「あなたはどうなんですか」
しおりが訊く。
少年はわずかに笑った。
「僕ですか」
「はい」
「僕は、残す将棋です」
今度は、しおりが一瞬だけ黙る番だった。
「残す?」
「相手に、まだやれるかもしれないと思わせたまま、最後に何も残さない」
静かで、嫌な言葉だった。
しおりはその答えを気に入った。
「なるほど」
「わかりますか」
「少しだけ」
「それなら十分です」
そこで相手は一礼した。
「盤の上で」
「はい。盤の上で」
互いに席へ向かう。
座る。
正面には市川中Aの一将。
右には坂本。
左には黒田。
しおりは自分の手を、膝の上で一度だけ軽く握った。
疲労はある。
ないはずがない。
海城。
白陵。
東大寺。
そこを抜けてきた身体と頭が軽いわけがなかった。
けれど、不思議と鈍くはない。
むしろ、必要なものだけが残っている感じがした。
坂本も顔つきが変わっていた。
東大寺戦を越えたことで、もう全国の大舞台に呑まれていない。苦しさはあるだろう。だが、「全国だから」と構える硬さが消えている。
黒田も同じだった。
緊張していないわけではない。
それでも、ここで勝負が出来ると、自分の中で認めている目だった。
三人とも、もう県大会の頃とは別のチームになっていた。
審判が前へ出る。
会場のざわめきが静かに引いていく。
「始めてください」
六つの手が一斉に盤へ伸びた。
初手。
市川の一将は迷わなかった。
しおりも同じだった。
序盤は驚くほど静かに始まった。
歩を突く。
受ける。
銀を上げる。
角道を通す。
どれも自然な手だ。
だが、その自然さが気味悪い。
しおりにはすぐにわかった。
この相手は、最初から「何をされたら嫌か」を自分の中で整理している。だから余計な威圧がない。序盤から大きく揺さぶるでもなく、かといって受けに回るでもない。ただ、自分が最も指しやすい温度へ盤を持っていこうとしている。
しおりは数手進んだところで、小さく息を吐いた。
似ている。
東大寺の一将とも違う。
白陵とも違う。
もっと、いやらしい意味で似ている。
自分もまた、相手に「まだ何も起きていない」と思わせたまま、少しずつ盤の温度を支配するのが好きだ。目の前の一将も、それをやろうとしている。
「静かですね」
相手が言った。
「あなたもです」
「決勝なので」
「関係ありますか」
しおりが返すと、相手は少しだけ笑った。
「あります。騒がしい終盤は、だいたい負けるので」
それはたぶん、本音だった。
しおりはその言葉を聞きながら、次の手を置く。
自然な一手。
けれど、その自然さの中に棘を混ぜる。
相手はすぐに応じた。
速い。
速いが、軽くない。
市川の一将の将棋は、見た目以上に神経質だった。駒組みの位置が一マス違うだけで意味が変わる局面を、最初から前提にしている。序盤の一手を「序盤の一手」として扱わない。全部が終盤へつながっている。
しおりはわずかに楽しくなる。
全国の決勝に来て、やっとここまでの相手と当たれた。
右隣では坂本が静かに形を整えていた。相手二将も、なるほど確かにしぶとそうだ。局面を急がない。白陵ほど冷たくはないが、勝負を長くすることに抵抗がない将棋だ。
左の黒田も、相手三将とにらみ合っていた。どちらも受ける。どちらもまだ踏み込まない。だが、その受けの中に含みが何本も埋まっている。
決勝戦らしい盤だった。
派手な飛車切りもない。
勝負手らしい勝負手もまだない。
なのに、どの盤も油断するとそのまま持っていかれる。
市川の一将が、小さく言った。
「あなたの学校、いいチームですね」
しおりは盤を見たまま答える。
「最近そうなってきました」
「東大寺戦の三将、よかったです」
「見てたんですか」
「もちろん」
相手はそう言って、銀を進めた。
鋭い。
だが早すぎない。
しおりはその一手で、相手がこちらの三枚すべてをちゃんと見た上で座っていることを理解する。一将だけを取ればいいとは思っていない。団体戦として、どうやって三つの盤の温度を揃えるかまで考えている。
嫌な相手だった。
だからこそ、ここで当たる意味がある。
しおりは次の一手を置いた。
そこから、盤面の空気が少しだけ変わる。
静かなままだ。
けれど、さっきまでの静けさとは違う。
水面に薄く張っていた膜へ、最初のひびが入ったような静けさ。
市川の一将の指先が、そこで初めてわずかに止まった。
「……そう来るんですね」
「嫌でしたか」
「少しだけ」
「それなら十分です」
相手は苦笑した。
「あなた、思ったより意地が悪い」
「よく言われます」
「知ってます」
そのまま次を返す。
強い。
こちらの棘を嫌がりながら、形そのものは崩さない。自然な顔のまま、ちゃんと嫌なところだけを外していく。駒の呼吸がうまい。どこか一枚だけが働きすぎて浮くことがない。
盤上の駒が、みんな自分の仕事を知っているような将棋だった。
しおりはその手を見て、少しだけ考える。
なるほど。
この相手は、ここで急がせたいのかもしれない。
自分から踏み込んでいるように見せて、実は「今なら先に仕掛けられる」とこちらに思わせる。そうして前へ出た瞬間のずれを狩る。
だったら乗らない。
乗らずに、さらに別の場所へひびを入れる。
しおりが次の駒へ触れた、その時だった。
左隣で、黒田の駒音がやや強く鳴った。
早い。
黒田にしては、少し早い。
相手三将に誘われたか、それとも自分から行ったのか。まだわからない。だが、この決勝戦で三将戦が最初に動いたという事実だけで、会場の空気がまた少し変わる。
市川の一将も、ほんの一瞬だけそちらの気配を聞いたらしい。
「始まりましたね」
「そうですね」
「どこから崩れると思いますか」
しおりは即答した。
「崩れません」
その答えに、相手が初めてはっきりと笑う。
「いいですね」
「そちらこそ」
「ええ。僕もそう思います」
決勝戦は、まだ序の口だった。
けれど、しおりにはわかっていた。
この相手は、今まででいちばん“最後の一手”がうまい。
ならば、その最後へ行く前に、
どれだけ静かに、
どれだけ深く、
相手の足元を削っておけるか。
勝負はそこになる。
そして、そのことを相手もまた、盤の向こうで同じように考えている顔をしていた。
また、作品への感想やコメントも大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!