決勝戦の空気は、準決勝までとは少し違っていた。
重いのではない。
薄いのだ。
人の声も、駒音も、息づかいも、全部が一枚薄い膜を隔てた向こう側にあるみたいだった。会場中の視線が六人へ集まっているせいで、盤の前に座る者だけが別の場所へ沈んでいく。
しおりは、盤の中央から少し右へ置かれた自分の銀を見ていた。
第十八手まで、まだ大きなぶつかり合いは起きていない。
第七手、▲七六歩。
第八手、△三四歩。
第九手、▲六八銀。
第十手、△六二銀。
どこにでもあるような立ち上がりだ。
だが、その「どこにでもある」が嘘だった。
市川の一将は、歩一枚、銀一枚の位置にまで意味を持たせていた。駒を働かせるというより、あとで不要になる駒を最初から作らない。そういう将棋だった。
しおりもまた、急がない。
第十九手、▲四八玉。
第二十手、△四二玉。
第二十一手、▲五六歩。
ただ歩を伸ばしただけに見えるその一手に、市川の一将が初めて少しだけ視線を上げた。
「中央からですか」
「いずれ使うので」
「今じゃなくても?」
「今だからです」
短いやり取りのあと、相手はすぐに第二十二手、△五四歩と返した。
中央を受けるようでいて、受けに徹してはいない。次に△五三銀と繰り出せば、しおりの▲五六歩が逆に的になる。自然で、嫌な手だった。
しおりはそこで少しだけ息を細くする。
強い。
思っていたより、ずっと。
右隣では坂本の二将戦、左隣では黒田の三将戦も、すでに静かに深く潜っていた。
最初に形が動いたのは、黒田の盤だった。
三将戦は、序盤から相手の方が黒田を前へ出させようとしていた。受ける顔をしながら、ほんの少しだけ隙を見せる。そこへ黒田が手を出したくなるように、わざと歩を合わせる。
第十七手、▲四五歩。
黒田が中央へ歩を突き出した時、しおりは見なくてもわかった。
早い。
悪手とまでは言わない。
だが、この相手に対しては少しだけ早い。
相手は待っていたように第二十手、△同銀と応じた。歩を取り込み、銀を前へ出し、その銀が次の攻めにも受けにも効いている。
黒田はすぐに攻め返す。
第二十三手、▲三五歩。
第二十五手、▲四四歩。
盤の上では、黒田の攻め筋そのものは悪くなかった。歩をぶつけ、角道を開き、飛車先にも含みを残す。だが、市川の三将はそこに付き合わなかった。
第二十四手、△四二飛。
第二十六手、△三三角。
飛車と角で黒田の攻めの筋を横から消していく。
受けているように見えるのに、気づけば黒田の前に出た駒だけが浮いていた。
黒田の唇が、少しだけ引き結ばれる。
しおりは目の前の盤を見たまま、左隣の温度がじわじわ悪くなるのを感じていた。
それでも、自分の盤から意識を剥がさない。
市川の一将は、そんな黒田の苦しさなど最初から計算に入っているように静かだった。
第二十三手、▲五五歩。
第二十四手、△同歩。
第二十五手、▲同銀。
ここでしおりは中央をぶつけた。
読者なら、ここが最初の見せ場だと思っていい。
歩を交換して銀を前へ出す。
銀将は、歩より一枚重い駒だ。
その銀を前へ出すということは、ただ攻めるだけではなく、その銀自身が攻められる危険も引き受けるということになる。
だから普通は慎重になる。
だが、しおりは出た。
相手も待っていた。
第二十六手、△五三銀。
銀で銀を受ける。
派手ではない。
なのに、しおりの前へ出た銀の勢いだけをきれいに殺す手だった。
「うまいですね」
しおりが言う。
「ありがとうございます」
「褒めてません」
「僕もです」
市川の一将はそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
嫌な笑い方だった。
自分の狙いが盤上でちゃんと形になっていると知っている者の顔だ。
右隣、坂本の盤でも変化が出る。
二将戦は黒田の将棋とは逆に、坂本の方がずっと我慢していた。
相手の二将は、攻める前に受けの形を固める。こちらが動かなければ、自分からは崩れない。そのかわり、一度でもこちらが手順を間違えると、そこだけを細く咎めてくる。
第二十手、△六四歩。
第二十一手、▲六六歩。
第二十二手、△七三桂。
坂本は受けながら、相手の桂馬の位置を見ていた。
桂馬は飛び道具だ。
二つ前、一つ横へ跳ねる変わった駒で、うまく使われると厄介だが、使いどころを誤れば働かないまま終わる。
坂本はそこを待っている。
まだ息はある。
少なくとも、黒田よりは形がいい。
だが、勝ちを持っているわけではない。
三つの盤のうち、最初に決着が近づいたのはやはり三将戦だった。
黒田は踏み込んだ。
相手は外した。
そして、外した先で逆に黒田の玉のまわりへ手をかけていく。
第三十一手、▲二四歩。
第三十二手、△同歩。
第三十三手、▲同飛。
一見すると、黒田が飛車をさばいて攻めているように見える。
だが次の手で、その印象はひっくり返った。
第三十四手、△二三歩。
歩兵一枚。
ただそれだけ。
けれど、これがきつい。
飛車の前に歩を打たれると、飛車はその歩を取るか、逃げるかを迫られる。取れば別の利き筋が通る。逃げれば、せっかく進めた飛車の圧が消える。
黒田は少し長く考えた末、第三十五手、▲二八飛と引いた。
逃げた。
それ自体は悪くない。
だが、その瞬間に盤の主導権は相手へ渡っていた。
しおりは自分の盤の第二十七手、▲四六銀を置きながら、その気配だけを感じ取る。
銀を一つずらし、角と飛車の利きを重ねる。
市川の一将がそれを見て、今度は少し長く考えた。
「そこで銀を動かしますか」
「動かします」
「王を固めないで?」
「固めるだけでは勝てないので」
「そうですね」
第二十八手、△六四角。
角行が斜めに長く利いてくる。
角は遠くへ利く駒だ。銀や金のように一歩ずつではない。通っている筋が生きている限り、盤の端まで圧をかけられる。
これで市川の一将は、しおりの中央と右辺を同時に見始めた。
嫌な形だ。
だが、しおりはまだ決着を急がない。
まだ、この盤は終わらせない。
左隣で、黒田の顔色がさらに悪くなる。
第三十八手、△四五桂。
桂馬が跳ねた。
この一手で黒田の玉のまわりに傷が出来る。桂馬は前に進むだけの駒ではない。跳ねる場所次第で、守りの駒を飛び越えて急所へ届く。
黒田は第四十一手、▲四八金と受けたが、その受けは細い。
相手はさらに第四十二手、△三六歩。
歩を一つ打ち込むだけで、守りの形が息苦しくなる。
しおりはそこでようやく、三将戦がもう長くないと悟った。
黒田は粘る。
実際、以前の黒田ならもう崩れていたところを、今日はまだ指せている。
だが、市川の三将は黒田に「まだ受かるかもしれない」と思わせたまま、逃げ道だけを先に潰していた。
残酷な将棋だ。
第四十七手、▲三七桂。
第四十八手、△四八歩成。
歩が「と金」になる。
歩兵は敵陣深くまで進むと成ることが出来る。成れば金将に近い強さを持つ。たった一枚の歩だったものが、一気に重い駒へ変わるのだ。
黒田はそこまで粘った。
だが、その「と金」が入った瞬間、盤はほぼ終わっていた。
数手後。
市川の三将が静かに寄せを決め切り、黒田が頭を下げる。
「……負けました」
三将戦、黒田敗北。
会場の空気が少し動く。
決勝で先に一敗。
重い。
だが、坂本も、しおりも顔を上げなかった。
まだ終わっていない。
むしろここからだ。
坂本の二将戦が、次に熱を帯びる。
黒田の投了を聞いても、市川の二将は焦らない。
これが嫌だった。
普通なら、チームが一勝して気が緩むか、逆に早く終わらせようと前へ出たくなる。だが、市川の二将はそれをしない。黒田の勝敗など盤外の一要素として処理し、自分の将棋だけを続ける。
坂本は、その冷たさに奥歯を噛んだ。
だがそこで崩れなかったのが、今の坂本だった。
第四十手、△五五歩。
第四十一手、▲同歩。
第四十二手、△同銀。
ここで相手が銀をぶつけてきた。
しおりの盤ならここからもっと複雑に絡むだろう。
だが坂本は違う。
坂本の強さは、わかりやすく苦しい局面でこそ出る。
やるべきことが見えた時、変に欲を出さない。
第四十三手、▲六五歩。
歩兵を一つ、前へ押し出す。
小さい手だ。
だが、この手で相手の銀の働きを縛り、角道までにじませる。派手さはないが、坂本らしい反撃だった。
相手も正確に返す。
第四十四手、△同歩。
第四十五手、▲同桂。
桂馬が跳ねた。
桂馬は飛ぶ駒だ。
歩や銀の利きが届かない場所へ、突然食い込む。坂本はこの瞬間だけを待っていたのかもしれない。
相手二将の目が、そこで初めて揺れた。
ほんのわずか。
だが、見えた。
しおりは自分の盤で第二十九手、▲五七金と締めながら、その空気だけを感じ取る。
坂本が掴んだ。
まだ勝ちではない。
だが、自分の将棋の芯を取り戻した。
一方、しおりの一将戦はまだ静かなままだった。
第二十九手、▲五七金。
第三十手、△三三桂。
第三十一手、▲三六歩。
第三十二手、△四四歩。
お互いに大駒をぶつけるでもなく、玉を寄せるでもなく、少しずつ戦場の地形を作り替えていく。
読者には、ここを少し意識して見てほしい。
歩兵が一マス進むだけで何が変わるのか。
銀将が一つ横へずれるだけで何が違うのか。
将棋は、派手な駒取りだけが勝負ではない。
この盤では、第三十一手の▲三六歩によって角の利きが一本通り、
第三十二手の△四四歩によってその利きが半分だけ鈍る。
そんな「半分」の積み重ねが、あとで命になる。
市川の一将が言った。
「黒田さん、惜しかったですね」
「はい」
しおりはそれだけ返す。
「でも、まだ終わりじゃない」
「そうですね」
相手も、そこは否定しない。
彼は盤の上しか見ていないが、坂本の粘りもまた理解していたのだろう。
そしてその坂本の盤が、ついに均衡を破った。
第五十一手、▲四四桂。
桂馬が敵陣へ飛び込む。
それまで守りに使っていた駒が、一瞬で攻め駒へ変わった。角の利き、飛車の横利き、金の支え。その全部がぎりぎり噛み合った一手だった。
相手二将も冷静に応じる。
第五十二手、△同銀。
第五十三手、▲同角。
角が成り込む筋が見える。
会場が、そこでようやく二将戦の決定的な変化に気づいた。
坂本の反撃が、相手の想定より半歩深い。
相手が受けを誤れば一気に寄る。
だからといって強く受ければ、今度は自分の玉形が薄くなる。
市川の二将はかなり長く考えた。
だが、その長考こそが坂本にとっての追い風だった。
流れが来ている。
しおりは第三十三手、▲四五歩と突きながら、右隣の熱だけを感じていた。
ついに坂本の盤が動く。
第五十八手、△六二玉。
第五十九手、▲五三銀。
銀打ち。
持ち駒の銀を、相手の急所へ叩きつける一手だった。派手ではない。だが、これが痛い。玉の逃げ道を塞ぎ、金将の位置を縛り、飛車の利きを通す。
数手後。
市川の二将が深く息を吐き、頭を下げた。
「……負けました」
二将戦、坂本勝利。
これで一勝一敗。
勝負は、一将戦へもつれ込んだ。
会場の視線が一気にしおりの盤へ集まる。
けれど、しおりの盤はまだ終盤の入口だった。
市川の一将は黒田が落ちても、坂本が取り返しても、表情を変えない。いや、変えていないように見えるだけで、たぶん内側では全部計算し直している。
「こうなりますよね」
相手が静かに言う。
「そうですね」
「最後は、やっぱり一将です」
「最初から、そのつもりでした」
しおりが返すと、相手は少しだけ笑った。
「そういう人ですよね」
盤面ではまだ、大きな駒損はない。
しおりの第三十三手、▲四五歩に対し、
相手は第三十四手、△同歩。
しおりが第三十五手、▲同銀。
相手は第三十六手、△四三銀。
銀と銀が真正面からにらみ合う。
ここで飛車を走るか。
角筋を通すか。
玉を寄るか。
選べるようでいて、どれも危うい。
読者にもわかるように言えば、今のしおりの盤は「まだ大きな交換は起きていないのに、次の三手で全部ひっくり返る」場所にある。
しかも、もう逃げられない。
坂本が席を立ち、少し離れた位置からしおりの背中を見る。
黒田も敗れた盤を片づけ終え、無言で観戦に回っていた。
三枝だけは腕を組んだまま、微動だにしない。
誰も口を出さない。
出せない。
これはもう、天羽しおりの盤だ。
そして、市川中Aの一将の盤だ。
決勝の最後を決めるのは、この一局しかない。
しおりは相手の銀を見た。
次に自分の銀を見た。
最後に、両玉の位置を確かめた。
まだ詰まない。
まだ寄らない。
だが、次の構想で勝負の色が変わる。
市川の一将が、盤から目を離さずに言う。
「ここからですね」
「はい」
「ようやく、最後です」
「まだ終わりませんよ」
しおりはそう返して、第三十七手へ指を伸ばした。
決勝戦の最後の盤は、“まだ”どちらにも傾き切っていなかった。
また、作品への感想やコメントも大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!