その呼び名を、私は最初、廊下の向こうから聞いた。
「え、あのちっちゃい子?」 「そうそう。めっちゃ詰ますやつ」 「先生が言ってた。年上にも勝つって」 「こわ……」
こわい、で締められたことに、私は少しだけむっとした。
教室の外、ビルの二階へ続く狭い階段の踊り場。
まだ教室の開始前で、子どもたちが保護者と一緒にばらばらに集まってきている時間だった。靴音がして、ドアが開き、挨拶が飛び交う。その雑多な音の中で、年上の男の子たちの声だけが妙に鮮明に耳へ入ってきたのだ。
ちっちゃい子。
めっちゃ詰ますやつ。
こわい。
間違ってはいない。
少なくとも、年齢だけを見れば私は教室で一番小さい部類だし、詰みの筋が妙に早いのも事実だ。
だが、それを“こわい”で括られるのは、あまり気分のいいものではなかった。
前世でも、似たようなことはあった。
若い頃、終盤で相手を逃がさない将棋を指すと、「冷たい」とか「人が悪い」とか、そういう評され方をされたことがある。褒め言葉と受け取れなくもないが、言われた当人はあまり嬉しくない。
勝つために詰ませているだけだ。
将棋とはそういうゲームだ。
王を追い、逃げ道を消し、最後に捕まえる。
そこに必要以上の悪意を見出されても困る。
――とはいえ。
私は小さく息を吐いた。
“怖い”と思われるのは、裏を返せば警戒されるということでもある。
それ自体は悪くない。勝負の世界で、相手に軽く見られないのは大きな利だ。
ただ、まだ私は幼児で、この教室では“少し強い子”くらいに留めておきたい。
小さな化け物扱いされるのは、少しばかり早い。
「しおり、どうした?」 父が私の肩に手を置いた。 「……なんでもない」 「そう?」
階段を上りきったところで、母が後ろから追いつく。
今日の母は少し急いで来たらしく、頬がわずかに上気していた。髪をまとめるゴムの位置がほんの少し低い。そういう小さな乱れを見るたび、私は胸の奥がちくりとする。
私のために急いだのだ。
父も母も、まだそれを大げさには言わない。
けれど教室の日は明らかに生活の組み方が変わっている。父は休日の用事を前倒しし、母は買い物の時間をずらし、二人で送り迎えの都合をつけている。
将棋はまだ“習い事”の範囲にあるはずなのに、その実、少しずつ家族の時間を食い始めていた。
だからこそ私は、負けられないと思う。
勝つことでしか正当化できないとは言わない。
そんな考え方は危ういし、前世の私を追い詰めた発想でもある。
だが少なくとも、これだけの時間を使ってもらう以上、盤の前では生半可でいたくない。
「こんにちは」 教室のドアを開けると、女性の先生がいつものように笑った。 「こんにちは」 母が返し、父も少し慌てて頭を下げる。 「しおりちゃん、今日は元気?」 「……げんき」
私はぺこりと頭を下げた。
先生は「えらいねえ」と笑う。
その笑顔の奥に、ほんの少しだけ“今日はどうかな”という色が混じっているのを、私は見逃さなかった。
今日もまた、何か測られるのだろう。
◇
教室には、目に見えない段差がある。
公式な段級位ではない。
もっと曖昧で、もっと子どもらしい段差だ。
駒の動きを覚えたばかりの子。
王手の意味が分かる子。
詰みの形が見える子。
少し囲いを知っている子。
飛車先を伸ばしたがる子。
受けることを覚え始めた子。
同じ“子ども将棋教室”の中にいても、その一段一段で見ている世界が違う。
私はまだ年齢だけなら一番下に近い。
けれど、盤の前に座った瞬間だけ、その段差をいくつか飛び越えてしまう。
それが、最近は隠しづらくなっていた。
「しおりちゃん、今日はこっちの机ね」
先生に案内されたのは、いつもの初心者席より少し奥だった。
そこには翔太がいて、もう一人、細身の男の子が座っている。名前は健吾。小学校一年生だったはずだ。
翔太より静かで、受けの意識が少しある。だが攻めの鋭さは翔太ほどではない。盤面を広く見るより、目の前の利きに集中するタイプだ。
私は席に座り、盤を見た。
今日は最初から駒数が多い。
王、飛車、角、金銀、桂香、歩。
本将棋をかなり簡略化した形だが、それでももう“遊び”の入口ではない。
「今日はね、三人で順番に対局してみようと思います」 先生が言った。 「負けても大丈夫。最後にみんなで直すからね」
負けても大丈夫。
教える場として正しい言葉だ。
そして私には縁のない言葉でもある。
私は盤を見つめたまま、小さく息を整えた。
最初の相手は健吾だった。
「お願いします」 健吾が先に言う。 「……おねがいします」
駒を並べる音。
子どもの手で駒を整えるのはまだ少し遅い。
私はわざと一枚だけ向きを直し損ね、先生に「こっち向きだよ」と言われてから直した。こういう細部が大事だ。盤面だけ見れば強くても、所作まで完成されていてはさすがに不気味すぎる。
対局が始まる。
健吾は堅実だった。
飛車をすぐ走らせることはせず、まず王の周りを少し整える。
悪くない。子どもの将棋としては、むしろかなり良い入り方だ。
私はそれを見ながら、内心でわずかに感心した。
ちゃんと教わっている。
あるいは、ちゃんと吸っている。
現代の子どもは情報へのアクセスが早い。教室の時間だけでなく、動画や本や家族との練習で、昔よりずっと整理された形で将棋に入ってくる。
前世の幼少期より、入口が広くて深い。
それは、やはり怖い。
健吾は角道を開け、飛車先の歩を伸ばした。
私は受けの形を意識しつつ、少しだけ遅れて王の逃げ道を確保する。
この一局は、たぶん長くはならない。
まだ技術の密度がそこまで高くないからだ。
だが、短いからこそ取りこぼしは許されない。
「おうて」 健吾が嬉しそうに言った。
飛車がこちらの玉へ利いている。
もちろん即詰みではない。
だが受けを誤れば、年齢相応の手つきでは十分危ない。
先生が黙って見ている。
父も母も後ろにいる。
教室の別の子たちも、ちらちらこちらを見ていた。
私は盤へ視線を落としたまま、数秒だけ止まる。
逃げる手はある。
守る手もある。
だが、ここでただ逃げるだけでは、相手の飛車が気分よく働き続ける。
私は金を一枚上がり、王の利きを受けつつ飛車の進路を狭めた。
「……あ」 健吾が小さく声を漏らす。
その一手で、彼の次の狙いが半分消えた。
子どもはよく、王手をかけた瞬間に“続く前提”で考えてしまう。
だが将棋は続かないことの方が多い。
続かない王手のあとをどう立て直すか。そこに差が出る。
健吾は少し考え、角を使ってもう一度圧をかけてきた。
悪くない踏み込みだった。
甘いが、筋は見えている。
私は一手だけ長く考えたふりをし、歩を打って受けた。
それだけではない。その歩は次に飛車を追い、こちらの反撃の起点にもなる。
健吾の眉が寄る。
先生が小さく頷く。
父の息を呑む気配がした。
数手後、形勢は完全にこちらへ傾いた。
相手の飛車が少し浮き、角も行き場を失っている。
私はその綻びを一つずつほどいていく。
決して急がない。
幼児が指している速度を守りながら、でも内容だけはきっちり仕留める。
最後は、飛車と金で逃げ道を消して詰みになった。
「ありがとうございました」 健吾が悔しそうに頭を下げる。 「……ありがとうございました」
私は礼を返した。
健吾は強い方だ。
少なくとも、この教室の中では。
その相手にきっちり勝ったことで、周囲の空気がまた少し変わるのを感じた。
私は顔を上げない。
見れば、たぶん父が誇らしそうにしていて、母が複雑そうにしていて、先生が“やっぱり”という目をしている。
その全部が、いまは少し眩しすぎた。
◇
次は翔太だった。
彼は最初から不機嫌そうだった。
さっき私が健吾に勝ったのを見て、余計に燃えているのだろう。
「ぼく、こんどは負けないから」 席に着くなり言う。 「……うん」 「ほんとに」 「……うん」
私はそれ以上何も言わない。
こういう時に余計な言葉は要らない。
前世でも、対局前に相手の気持ちが盤の外へはみ出している時ほど、こちらは静かでいた方がいい。感情に感情で応じると、局面まで荒れる。
「お願いします!」 翔太の声は大きかった。 「……おねがいします」
駒を並べる手からして、今日は違う。
荒いが、迷いが少ない。
教室へ通うたびに、彼はちゃんと変わっている。悔しさをそのまま放り出すのではなく、次の手つきへ少しずつ変えている。
そういう相手は、好きだ。
初手から翔太は前へ出てきた。
歩を突く。
飛車先を伸ばす。
角道も通し、こちらが少し整えるのを待たずに圧をかけてくる。
速い。
前よりも、明らかに速い。
雑なだけではなく、前に出る意図が通っている。
私はその変化に、胸の奥で静かな歓喜を覚えた。
やはりこの子は伸びる。
踏み込みを恐れない上に、悔しさを次へ繋げる術を覚え始めている。
怖い相手になる。
だからこそ、今のうちにきっちり勝つ。
翔太の角が切り込んでくる。
受けの位置が難しい。
下手に逃げれば飛車が走る。
飛車に構いすぎれば角の筋が通る。
初心者向けの盤面とはいえ、形としては十分に嫌だった。
私は盤上に指を伸ばしかけ、一度止める。
頭の中では答えが見えている。
だが、見えている答えをそのままの速度で指してしまえば、この教室ではもう隠せない。
――それでも、ここは手を抜けない。
私は銀を一枚引いた。
守りながら、角の利きを鈍らせる手。
同時に、次に金が上がれば玉の呼吸も繋がる。
「えー」 翔太が顔をしかめる。 「だめ?」 先生が笑う。 「だめじゃないけど……」 「強い受けだね」
翔太は口を尖らせながらも、すぐ次の手を考え始めた。
良い。
以前なら、このあたりで気分が折れていた。
今日は違う。
彼は飛車を横に利かせ、無理筋気味にでも攻めを繋げようとしてくる。
私は王の逃げ道を残しながら、ぎりぎりのところで受け切る。
一手違えば危ない。
これはもう、子どもの将棋だからと侮っていられる局面ではなかった。
周囲もそれを感じたのだろう。
近くの盤を指していた子たちまで、いつの間にかこちらへ視線を寄せている。
父も母も黙ったままだ。
先生だけが、必要以上の口を挟まない。
翔太の飛車が、ついに王手のラインへ入った。
「おうて!」
勢いのある声。
だが今度は、前より形がいい。
受け損なえば本当に嫌だ。
私はそこで、ようやく腹を括った。
自然さだの加減だの言っている場合ではない。
この一局は、きっちり勝ち切る。
私は飛車を見切り、歩を打った。
ただの受けではない。
相手飛車の退路を狭め、角の利きも鈍らせる、いわば細い毒だ。
「……え?」 翔太が固まる。
先生の眉がぴくりと動いた。
男性講師が、少し離れた場所からこちらを見た。
次の手で翔太は飛車を逃がすしかなくなり、そこへ私は銀を進める。
さらに金を寄せ、攻め駒同士の連携を切る。
ぱっと見には地味だ。
けれど、この数手で勝負は決した。
翔太はまだ諦めない。
最後の最後まで、飛車と角を振り回して王へ迫ってくる。
その姿勢自体は立派だった。
だが、届かない。
私は一手ずつ、逃げ道を消していく。
相手の王ではない。
相手の攻め筋の逃げ道を、だ。
攻めが続かないと分かった時点で、彼の王の周りには受けが足りなくなっている。
そこへ飛車を切り込み、金を打ち、最後に角を通した。
「……詰み」 男性講師が小さく呟いた。
翔太は盤を見つめたまま、しばらく動かなかった。
私は黙って待つ。
こういう沈黙を急かしても意味はない。
数秒後、翔太はぎゅっと口を結び、顔を上げた。
「ありがとうございました」 「……ありがとうございました」
今日は泣かなかった。
悔しさは顔に出ている。
でも、涙にはならない。
私はその変化を、ほんの少し嬉しく思った。
◇
「いやあ……」
対局が終わったあと、父がそれだけ言って黙り込んだ。
褒めたいのだろう。
だが、褒め方が見つからないらしい。
母も今日は簡単には言葉を出さなかった。
先生たちの目が、いつもと少し違っていたからだろう。
“上手だね”だけでは済まない何かを感じている。
その空気は、将棋を深く知らない母にも伝わっているはずだ。
女性の先生が、私の前にしゃがんだ。
「しおりちゃん」 「……はい」 「将棋、好き?」 「すき」 「どのくらい好き?」 「……いっぱい」
先生は少し笑った。
その笑みは優しい。けれど、優しいだけではなかった。
何かを確かめたい大人の笑みだ。
「おうちでも、いっぱい考えてる?」 「……うん」 「どんなこと考えるの?」 問いは柔らかいが、芯がある。
私は一瞬だけ迷った。
どこまで言うべきか。
“頭の中で盤を並べて、古い将棋観と現代の速度の差を検証しています”などと言えるはずがない。
だが、何も言わないのも不自然だ。
「……つぎ」 「次?」 「どうしたら、つかまえるか」 私は自分の王を指し、それから相手玉の位置を指した。 「あと、にげる」
先生はゆっくり頷いた。
「そっか。逃げるのも、捕まえるのも、両方考えてるんだ」 「……うん」
それで十分だったらしい。
先生は深追いしなかった。
ただ立ち上がって、父と母の方を見る。
「しおりちゃん、かなり筋がいいです」 穏やかな声で、はっきりと言う。 「筋……」 父が鸚鵡返しにする。 「飲み込みが早い、というより、見えてる場所が少し違う感じです」 「そうなんですね」 母の声は丁寧だが、少しだけ硬い。 「ただ、まだ小さいですし、無理に上へ上げるよりは、楽しく続ける方が大事だと思います」 「はい」 「その上で……来月の大会、初心者クラスより一つ上の交流クラスでもいいかもしれません」 「えっ」 父が素直に驚く。 「大丈夫ですか?」 母がすぐ訊いた。 「勝ち負けだけの話なら分かりません。でも、同じくらいの子ばかりだと、しおりちゃんの方が退屈しちゃうかもしれなくて」
退屈はしない。
誰が相手でも油断するつもりはない。
だが、“同じくらいでは足りない”と大人から言われるのは、やはり少し危うい。
男性講師も近寄ってきた。
「一つ上でも、級位は自己申告に近いですし、交流寄りのクラスなら雰囲気もそこまで固くありません」 「そうなんですか」 父が頷く。 「ただ、初参加なら本人の気持ち優先でいいと思います」 「……しおり」 母が私を見る。 「どうする?」
教室の空気が、静かにこちらへ集まった気がした。
出る。
当然、出る。
しかも一つ上で構わない。
むしろ、その方がいい。
少しでも密度のある相手と指したい。
だがここで即答すると、また浮く。
私は少しだけ視線を泳がせ、盤を見て、それから先生を見上げた。
「……つよい?」 「強い子もいるよ」 「……いっぱい?」 「うん、いっぱいいる」
その答えを聞いて、私は小さく頷いた。
「いく」
父が息を呑み、母が一拍遅れて目を細めた。
先生は笑った。
男性講師も「分かりました」と頷く。
「じゃあ、エントリーの紙、あとでお渡ししますね」 「お願いします」 父が言う。 「ありがとうございます」 母も頭を下げた。
私はそのやり取りを見上げながら、胸の内に静かな熱が広がるのを感じていた。
ついに、教室の外だ。
◇
帰り道、父はいつものようにすぐ騒がなかった。
しばらく黙って歩き、商店街の角を曲がったところで、ようやくぽつりと漏らした。
「……しおり、すごいな」 「ほんとに」 母も今日は否定しなかった。
私は二人のあいだで手を引かれながら、少しだけ居心地が悪かった。
褒められるのは嫌いではない。
だが、“すごい”の中身が漠然と大きくなっていく時、人は勝手に期待も膨らませる。
期待は重い。
重いものは、ときに才能より先に子どもを潰す。
だから私は、できるだけ軽く返した。
「……しょうぎ、すき」 それだけ言う。
父が笑った。
母も少しだけ肩の力を抜く。
「うん、知ってる」 「大好きだもんね」 「……うん」
好き。
今はそれでいい。
それ以上の言葉は、まだ要らない。
好きだから考える。
好きだから勝ちたい。
好きだから負けない。
その全部を今の年齢で説明する必要はない。
ただ、好きだと言って盤の前に座り、結果として勝つ。
それを積み重ねていけば、いずれ誰にも説明は要らなくなる。
◇
家に帰ると、母は少し疲れたようにソファへ座った。
父は冷蔵庫から麦茶を出し、三つのコップを用意する。私のぶんは当然小さい。
「おつかれさま」 父が言う。 「あなたもね」 母が答える。 「しおりも」 「……ん」
麦茶を飲みながら、リビングに静かな時間が落ちた。
いつもならここで父が「じゃあ将棋やるか!」と言い出すところだが、今日はさすがに言いづらい空気らしい。
教室で見たものが、父の中でもまだ整理しきれていないのだろう。
「大会……出るんだね」 母がぽつりと呟く。 「うん」 「緊張する?」 父が聞く。
私は少し考えた。
緊張する。
もちろんする。
初めての大会だ。知らない相手、知らない会場、知らない空気。
しかも一つ上のクラス。
舐めてかかるつもりは一切ない。
でも、それ以上に心の中にあるのは別の感情だった。
「……たのしみ」 私は答えた。
それは本音だった。
怖い。
緊張する。
でも、楽しみだ。
現代の子ども将棋が、もっと密度を持ってこちらへぶつかってくる。
家の中でも、教室の中でもない場所で、私はどこまで通じるのか。
前世の遺産と今の身体、その両方でどこまで勝てるのか。
試せる。
ようやく試せる。
父が嬉しそうに笑い、母は少しだけ複雑そうに、それでも優しく頷いた。
「そっか」 「無理しないでね」 「……うん」
無理はする。
心の中でだけそう訂正する。
勝負に出る以上、無理をしないで勝てるほど甘くはない。
だが、その無理を家族に見せる必要はない。
守られている場所では、守られていていい。
盤の前でだけ、私は別の顔をすればいい。
◇
その夜、私はいつもより長く盤を並べた。
実物の盤だ。
父が何も言わず、そっと私の前に出してくれた。
たぶん練習させたいのだろうし、たぶん自分でも何か考えたいのだろう。
母は向かいのソファで洗濯物をたたみながら、時々こちらを見るだけだった。
私は静かに駒を並べる。
今日の健吾。
翔太。
角の利き。飛車の圧。受けの位置。
そして先生たちの目。
――小さな化け物。
誰かがそう呼んだのを、私はもう一度思い出す。
不愉快ではある。
だが完全に否定もできない。
中身だけ見れば、たしかに私は子どもではない。
終盤の気配も、負け筋の匂いも、栄光の軽さも知っている。
でも、それでも。
私は駒をつまみ、王の逃げ道を作る一手を置いた。
今の私は、天羽しおりだ。
この家で生まれ、父と母に手を引かれ、将棋教室へ通う小さな子ども。
その事実まで偽物にしたくはない。
前世の記憶があるからといって、今の私まで借り物ではない。
笑う時はちゃんと笑うし、褒められれば嬉しいし、母が疲れていれば落ち着かない。
それは演技じゃない。
ちゃんと、この人生で生まれた感情だ。
前世の私と、今の私。
その両方で勝たなければ意味がない。
私は飛車を寄せ、角を通し、最後に王を詰ませた。
とん。
小さな駒音が、静かなリビングに響く。
「できた?」 父が小声で聞く。 「……うん」 「そっか」
父はそれ以上踏み込まず、ただ少し嬉しそうに笑った。
母も洗濯物をたたむ手を止めず、「えらいね」とだけ言う。
軽い。
やさしい。
ありがたい。
期待があるのは分かる。
でも二人とも、まだそれを重たくはしない。
そのことに、私は救われる。
大会は近い。
初めての外の勝負。
そこで私はきっと、もっとはっきりと“異物”になる。
ちっちゃいくせに強い子。
詰みを早く見る子。
年上相手にも怯まない子。
将棋教室の小さな化け物。
好きに呼べばいい。
ただし、盤の上では勝つ。
どれだけ怪物扱いされようと、どれだけ警戒されようと、どれだけ絶体絶命に追い込まれようと、最後には私が立っている。
それが天羽しおりの将棋だ。
それが、時代に負けた元竜王の、二度目の矜持だ。
私は盤上の王を見つめ、胸の中で静かに誓う。
次も勝つ。
大会でも勝つ。
そして、もっと外へ行く。
父の手も、母の手も、教室の駒音も、全部抱えたままで。
夜は静かに更けていく。
その静けさの中で、私はまた一つ、誰にも聞こえない速度で次の一手を読み始めた。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!