大会の日の朝は、空気が違った。
まだ家の中はいつも通りだ。
冷蔵庫の低い音がして、カーテンの隙間から薄い光が差し込み、台所では母が湯を沸かしている。父は寝癖のついたまま洗面所とリビングを忙しく往復していて、いつも通りといえばいつも通りだ。
それでも違う。
人間は、何かを待っている朝には独特の落ち着かなさをまとう。
足音が半歩ぶん速い。
引き出しを閉める音が少し強い。
声の高さが、ほんの少しだけ上ずる。
今日はまさにそういう朝だった。
「ハンカチ入れた?」 母が台所から聞く。 「入れた」 父が答える。 「水筒は?」 「入れた」 「参加票は?」 「……あ」 「ほら」 「今から入れる!」
私はリビングの椅子にちょこんと座り、そのやり取りを見ていた。
大会に出るのは私のはずなのに、いちばんそわそわしているのは明らかに父だ。
母も落ち着いているようで、確認項目の数がいつもより多い。
たぶん二人とも緊張しているのだろう。
私が初めて家の外で、教室の外で、知らない子どもたちと将棋を指す。その事実が、思っている以上に家全体の重みになっている。
「しおり、朝ごはんちゃんと食べようね」 母が私の前に小さな皿を置いた。 「……うん」
返事をしながらも、私は食卓の木目をぼんやり見つめた。
木目を見ると、どうしても盤を連想する。
今日、この先で何枚の盤が並ぶのだろう。
どんな顔をした子どもたちがいて、どんな駒音がして、どんな空気が流れているのだろう。
胸の奥が、静かに熱い。
前世の私は、タイトル戦の朝にも食欲が落ちることがあった。
緊張というより、意識がすでに盤へ行ってしまうのだ。勝てばどうなるか、負ければどうなるか、相手がどんな準備をしているか、自分はどこまで読めるか。そういうことを考えていると、食事の味は薄くなる。
今の私は子どもだ。
それでも、どこか似ている。
ただ、前世と違う点が一つある。
今の私の前には、母が「食べなさい」と小さく眉を寄せ、父が「少しでも入れとこうな」と気遣う顔がある。
この違いは大きい。
「緊張してる?」 父が私の顔を覗き込んだ。 「……ちょっと」 「そっか」 「あなたが一番緊張してるでしょ」 母が言う。 「してないよ」 「してる」 「してるかな」 「してるね」
私は思わず少し笑ってしまった。
父もつられて笑い、母も口元をゆるめる。
その小さな笑いだけで、胸の中の張りつめたものが少しだけ和らいだ。
ああ、と思う。
こういうのが、今の私の初形なのだ。
前世の私は、自分一人の緊張として朝を迎えていた。
今は違う。
この朝には、父と母の緊張も混じっている。
だからこそ、私はそのぶんまで勝ちたくなる。
◇
会場は、市民文化センターの一室だった。
駅から少し歩いた先にある、ごくありふれた公共施設。
ガラス張りの玄関、やや広いロビー、催し物の案内板。
その二階の会議室をいくつかつなげて、今日の子ども将棋大会は開かれているらしい。
エレベーターを降りたところで、私はまず音に圧倒された。
子どもの声。
保護者の声。
受付で名前を確認する声。
椅子を引く音。
そして――駒音。
たくさんの盤が同時に鳴る音は、やはり独特だ。
家や教室で数面ぶん聞こえるのとは、層の厚みが違う。
同じ一枚の歩でも、急いで置く音、丁寧に置く音、ためらいの音、威勢のいい音、力みのある音がある。
その全てが混ざり合って、会場の空気を作っていた。
懐かしい。
そして、痛いほど新しい。
前世でも大会会場の音は何度も聞いた。
だが今日の私は、そこへ“幼い身体”で立っている。視線が低い。周囲の子どもたちの背中が大きい。机の天板が高く感じられる。
同じ将棋の空間なのに、見え方がまるで違った。
「すごいねえ……」 母が小さく呟く。 「思ったより人多いな」 父も圧倒されている。
受付の前には列ができていた。
胸に名札をつけたスタッフが、参加票を確認し、クラスごとに案内している。
教室の先生が言っていた通り、初心者向けの交流クラスと、もう少し実戦寄りのクラスが分かれているらしい。段級位というほど明確ではないが、自己申告や教室側の見立てでおおよそ分ける形だろう。
「天羽しおりちゃんですね」 受付の女性が笑顔で言った。 「はい」 父が少し背筋を伸ばして返事をする。 「交流クラスです。こちらの名札をどうぞ」
小さな名札を受け取り、父がしゃがんで私の胸につけてくれる。
そこにひらがなで書かれた「しおり」という名前を見て、私は少しだけ不思議な気持ちになった。
前世では、名前の前に段位やタイトルがつくのが当たり前だった。
今はただ、しおり。
肩書きのない、むき出しの名前。
でも、嫌ではない。
嫌ではないどころか、むしろ清々しい。
「会場のルール説明、もうすぐ始まりますので」 受付の女性が言う。 「お子さんは前の方へどうぞ。保護者の方は後方から見学できます」
父と母が顔を見合わせる。
私はその間に、自分から小さく一歩前へ出た。
「しおり」 母が呼ぶ。 「だいじょうぶ」 私は短く答えた。
母の目が少しだけ揺れる。
父は驚いたように私を見て、それからうなずいた。
「うん。じゃあ、行っておいで」
その言葉に背中を押されるようにして、私は会場の前方へ歩いた。
◇
会場の前には、すでに何人かの子どもが集まっていた。
年上の男の子。
私と同じくらいか少し上に見える女の子。
落ち着かない様子で周囲を見回す子。
やけに堂々としている子。
保護者から離れた瞬間、急に口数が減る子。
みんなそれぞれに“初めて”を抱えている顔をしていた。
その中で、私は妙に静かだったと思う。
内心では心拍が速い。
けれど、その速さを外へ出すやり方を私は前世から知っている。
呼吸を浅くしすぎない。肩を上げない。目線を泳がせすぎない。
それだけで、人は随分落ち着いて見える。
「こんにちはー」 大会スタッフの男性が前に立ち、手を叩いた。 「これからルールの説明をします」
ざわついていた会場が、少しずつ静まる。
「まず、対局の前には“お願いします”、終わったら“ありがとうございました”を言いましょう」 子どもたちがばらばらに返事をする。 「“待った”はなしです。一回指して、駒から手を離したら変えられません」 「はーい」 「困ったことがあったら、手をあげてスタッフを呼んでください」
極めて基本的な説明だ。
だが、その基本こそが場を支える。
前世のプロの世界でも同じだった。ルールは高度になるほど細かく見えるが、土台にはこういう当たり前がある。
挨拶をする。
待ったはしない。
分からなければ呼ぶ。
子どもたちに向けられたやさしい言葉の形で、将棋の厳しさの最小単位が整えられていく。
私はそのことを、少しだけ愛おしいと思った。
「では、最初の対局カードを配ります」
紙が配られ始め、スタッフが名前を読み上げていく。
私の手にも一枚の紙が来た。
相手の名前は、佐伯陽斗。
知らない名前だ。
当然だ。
教室の外の大会なのだから、知らない相手ばかりで当たり前だ。
けれど、その“知らない”が胸を高鳴らせる。
前世では、大きな棋戦になればなるほど相手のことをよく知っていた。棋譜も性格も研究傾向も、嫌というほど頭に入る。
知らない相手と当たる機会は、むしろ若い頃の方が多かった。
今の私は、またその若い頃へ戻っている。
知らない相手。
知らない盤。
知らない空気。
いい。
とてもいい。
◇
佐伯陽斗は、私より二つほど上に見えた。
丸顔で、少し日に焼けていて、椅子に座っても足が落ち着かない。
名札を何度も触り、机の端を指でとんとん叩き、盤の上の駒を並べる時だけ急に真剣な顔になる。
こういう子は、たぶん家族に勧められて始めたのではなく、自分で面白がってここまで来たタイプだ。
落ち着きはない。
けれど盤に向かうと急に集中の形が出る。
「お願いします」 陽斗が言った。 「……おねがいします」
礼をして、顔を上げる。
その瞬間だけ、世界が静かになった気がした。
周囲にはまだざわめきがある。
別の卓でも子どもたちが駒を並べている。
保護者の小声、スタッフの足音、会場の空調音。
何も消えていない。
それでも、盤を挟むと世界の中心が一点に絞られる。
この感覚は、何度人生をやり直しても変わらないのだろう。
初手、相手は歩を突いた。
素直な入りだ。
私はそれに応じる。
交流クラスの簡略ルールに合わせ、持ち時間もほとんどないようなテンポで進んでいく。
それでも将棋は将棋だ。
駒の配置、利き、玉の位置、攻め駒の働き。
見るべきものは変わらない。
陽斗は、思ったより手厚い。
飛車をすぐ走らせるかと思ったが、まず金を寄り、玉の周囲を整えた。
教室でしっかり教わっているのだろう。
私はその手つきを見ながら、少しだけ楽しくなる。
いい。
簡単ではない方がいい。
もちろん、この程度で苦戦するつもりはない。
だが、初戦からあまりに雑な相手では、大会に出た意味が薄い。
知らない相手が知らない形で応じてくる、その感触こそが外の空気だ。
数手進んだところで、陽斗が角を使ってこちらの飛車先へ圧力をかけてきた。
筋としては自然だ。
ただ、少しだけ踏み込みが早い。
私は歩で受けるふりをして、実際には銀の位置を整えた。
次の一手で相手の角筋がやや窮屈になる形だ。
「……あれ?」 陽斗の表情が曇る。
その反応だけで分かる。
読んではいない。
目の前の狙いに集中し、その先の形の変化までは追えていない。
悪くない弱点だ。
子どもの将棋では珍しくない。
そして現代の子ども将棋は、この“珍しくない弱点”がすぐ修正されるから怖い。
私は油断せず、駒を一つずつ働かせる。
決して急がない。
ただし、緩めもしない。
陽斗は焦ったのか、飛車を前へ押し出してきた。
王手がかかる形ではない。だが、こちらの受けを乱せれば次がある。
私はそこで、少しだけ感心した。
いい手ではない。
けれど悪いだけでもない。
“困ったらとにかく飛車をぶつける”幼さではなく、“飛車を前へ出して局面を動かしたい”意図がある。
局面を静かに受け入れて負けるより、何かを起こそうとしている。
前世の私なら、こういう将棋を軽んじた時期があった。
形を乱すばかりで、筋が細いと。
だが今は分かる。
局面を動かそうとする意思そのものに価値がある。
精度さえ育てば、それは怖い武器になる。
だからこそ、今はまだ勝っておかなければならない。
私は王の呼吸を確保しつつ、相手飛車の横利きを切る位置へ金を寄せた。
地味な手だ。
華もない。
しかし、この一手で相手の狙いは半分消える。
陽斗が眉を寄せる。
指が少しだけ止まる。
彼の中で、用意していた筋が途切れたのだろう。
その隙を、私は見逃さない。
次の数手でこちらの角が通り、飛車の働きも増した。
相手玉の周囲には、逃げ道が足りない。
まだすぐ詰むわけではないが、将来が苦しい。
私はその“まだ”を正確に測る。
急いで王手をかける必要はない。
逃げられる王手は、子ども相手でもやはり甘い。
だからまず、金を寄る。
次に歩を垂らす。
それから飛車を一枚効率よく回る。
陽斗の顔色が、少しずつ変わっていく。
さっきまでの勢いが消え、代わりに“どうしよう”が前へ出てくる。
私はその顔を見て、内心で少しだけ自分を戒めた。
勝ちが見えてからが危ない。
子どもの将棋は最後の最後で形がひっくり返ることがある。
受け損ね、駒の利きを見落とし、王手放置まがいの手を許して、妙な事故が起きる。
そして私は、事故で黒星をつけるつもりなど一切ない。
「おうて」 私は小さく告げて、飛車を寄った。
陽斗はびくっと肩を揺らした。
逃げ道は一つ。
そこへ逃げれば、次で金が打てる。
彼はしばらく考え、指を伸ばし――別の駒を触って止まった。
危ない。
指が空中で迷っている。
スタッフがすぐに近寄ってきた。
「一回持っただけならまだ大丈夫だよ。置いて、手を離したらその手になるからね」
陽斗は顔を赤くして、結局王を逃がした。
いい判断だ。
慌てて変な受けを選ぶよりは、指し直せるうちに気づいた方がいい。
だが、もう遅い。
私は用意していた金打ちを放つ。
逃げ道を塞ぎ、飛車の横利きと重ねる形。
これで受けは足りない。
陽斗が盤を見つめる。
数秒。
もう数秒。
「……まけました」
幼い声だった。
でも、ちゃんと自分で言った。
「……ありがとうございました」 私は頭を下げる。 「ありがとうございました」
終局。
初戦、勝ち。
当然だ、と思う自分がいる。
同時に、初戦を落とさなかったことへ確かな安堵を覚える自分もいる。
どちらも嘘ではない。
◇
席を立つと、すぐ父が近寄ってきた。
「しおり!」 声が少し大きい。 「しーっ」 母がすぐ止める。 「あ、ごめん」 「教室じゃないんだから、なおさら」 「はい……」
父は声を落としたものの、顔は隠しようもなく明るい。
母も母で、安心したように息を吐いている。
「よく頑張ったね」 母が言う。 「……うん」 「緊張した?」 父が聞く。 「……した」 「そっかあ」
父の“そっかあ”には、妙に実感がこもっていた。
たぶん彼も一緒に緊張していたのだろう。
自分が盤に座っていないのに、子どもの一局でこんなに落ち着かなくなるものなのか、と少し驚いている顔でもある。
私は父と母の間に立ちながら、少しだけ会場を見回した。
まだ何卓も対局が続いている。
勝って戻ってきた子。
負けて俯いている子。
保護者に何かを必死に説明している子。
スタッフにルール確認をしている子。
その全部が、眩しかった。
大会だ。
教室とは違う。
ここでは、同じ時間にたくさんの勝ち負けが発生している。
誰かの喜びのすぐ隣で、誰かの悔しさが生まれている。
その同時多発性が、大会を大会たらしめている。
前世では何度も見てきた光景だ。
でも今は、その一つ一つが新鮮だった。
「次の組み合わせ、見に行こうか」 母が言う。 「うん」 父が頷く。
掲示板の前には人だかりができていた。
スタッフが紙を貼り出し、保護者と子どもが名前を探している。
私も父に抱き上げられて、自分の名前を探した。
二回戦 天羽しおり ― 桐山陸
知らない名だ。
これも当然だ。
「またすぐだね」 父が言う。 「大丈夫?」 母が覗き込む。 「……だいじょうぶ」
私はそう答えながら、内心ではすでに次の盤へ意識を移していた。
初戦の勝ちは終わった。
次だ。
大会では、一局ごとに気持ちを切り替える速さも大事になる。
前世の私はそれを身につけるまで少し時間がかかった。
若い頃は、勝っても負けても一局を引きずることが多かった。
だが今は違う。
私はもう、一局の重さも、その重さを引きずる危険も知っている。
だから切る。
次へ行く。
◇
二回戦の相手、桐山陸は、初戦の陽斗よりさらに落ち着いた子だった。
髪は短く整えられ、名札もまっすぐ、駒を並べる手つきも丁寧。
ぱっと見の印象だけなら、今日ここにいる子どもたちの中でもかなり“将棋っぽい”空気を持っている。
視線が盤から無駄に外れないのもいい。
「お願いします」 「……おねがいします」
礼をして、対局が始まる。
陸の将棋は、初手から堅い。
玉の周囲を意識し、飛車先も突きすぎない。
教室で基礎をかなり叩き込まれているのだろう。
初心者向けの交流クラスにいるとはいえ、明らかに一段上の手つきだった。
私はそのことを嬉しく思う。
大会に出る意味が、ちゃんとある。
数手進む。
陸は簡単に駒をぶつけてこない。
こちらの誘いにも安易には乗らない。
子どもの将棋でありがちな“早く王手したい”が薄い。
――嫌だな。
私は内心でそう思った。
嫌というのは、もちろん悪口ではない。
こういう相手は、年齢より少し厄介だ。
華はない。
だが崩れにくい。
崩れにくい相手は、こちらに精度を要求する。
私は少しずつ駒を捌きながら、相手玉の薄いところを探す。
まだ見えない。
ならば無理をしない。
子どもの将棋で“無理をしない”は案外難しい。攻めたい気持ちが先に立つからだ。
だが私は、その誘惑がどれほど危険かを知っている。
前世の晩年、私は何度も「ここで踏み込めば昔なら勝てた」と思って指し、そして現代将棋の精度に咎め返された。
だから今は、踏み込みたい時ほど一呼吸置く。
陸が歩を打ち、こちらの銀を圧迫した。
良い手だ。
銀を引けば飛車筋が通り、前へ出れば角の利きが気になる。
私はそこで、初めて少し長く考えた。
周囲の音が遠くなる。
父と母の気配も、いまは意識の外へ追いやる。
盤だけを見る。
銀は引ける。
だが普通に引けば、相手の狙い通り少し窮屈になる。
前へ出るのは危険だ。
ならば――。
私は歩を一枚、相手の角筋へ垂らした。
地味だが厄介な手だ。
銀そのものを助けるわけではない。
代わりに、相手が次にどこへ駒を動かしても角の働きが少し鈍る。
陸の指が止まった。
読んでいなかったのだろう。
この手を“ただの歩”として軽く見ていたら、次の連携が崩れる。
私はその一瞬に、静かな手応えを得た。
前世の感覚そのままではない。
もっと今の私らしい、小さく嫌らしい手だ。
こういう手を積み上げられるなら、二度目の将棋はちゃんと前へ進んでいる。
陸は少し考え、予定を変えるように飛車を回った。
悪くない修正だ。
だが修正を強いられた時点で、流れはわずかにこちらへ傾いている。
私はそこから急がず、一枚ずつ働きを足していく。
飛車の利き、角の通り、玉の呼吸。
どれもまだ薄い。
けれど、薄いまま積むのが将棋だ。
中盤に入った頃には、会場の何卓かがすでに終局していた。
子どもたちのざわめきが増し、保護者の足音が近くを横切る。
それでも陸はあまり揺れない。
盤を見ている。
強い。
いまの段階では、かなり強い方だろう。
だからこそ、私は少しだけ本気の熱を出したくなる。
陸がこちらの飛車先を突き捨て、手を作りにきた。
私はそれを同歩とは取らず、別の地点で圧力をかけた。
「えっ」 陸が思わず声を漏らす。
前世でも、こういう顔は何度も見た。
目の前の手に反応してもらえると思っていたのに、こちらは別の場所から局面全体を見ていたと気づいた時の顔だ。
相手の狙いへ真正面から付き合わない。
これは将棋の基本であり、同時に高度な感覚でもある。
子どものうちからそれを身体で覚えられれば、先で大きい。
私はそこから一気に手を広げた。
飛車を押さえ、角を通し、玉の逃げ道を確保しながら、相手陣の一番薄い一点へ向かう。
陸は受けた。
さらに受けた。
受けながら、逆襲の含みも残す。
――いい。
思わずそう感じるほどには、彼はしぶとかった。
だが、しぶといだけでは足りない。
私は最後に金を打ち込み、相手玉の呼吸を奪う。
陸は盤を見つめる。
逃げ道を数え、駒の利きを数え、もう一度数え――やがて肩を落とした。
「負けました」 「……ありがとうございました」
二回戦も、勝ち。
私は静かに礼を返した。
だが胸の中では、わずかに汗のようなものが滲んでいた。
危なかった、というほどではない。
それでも、初戦よりずっと密度があった。
こういう相手がいる。
交流クラスでも、ちゃんといる。
やはり大会はいい。
こうでなくては意味がない。
◇
二回戦を終えると、母がしゃがんでハンカチで私の手を拭いてくれた。
「手、ちょっと冷たい」 「……へいき」 「頑張ってる証拠だね」 父が嬉しそうに言う。 「あなたは静かに褒めて」 「難しい注文だなあ……」
私は二人のやり取りを聞きながら、少しだけぼんやりした。
対局中は頭が鋭くなる。
終わると、一気に身体の幼さが戻ってくる。
疲れた。
腹も少し減った。
足もだるい。
当然だ。
中身がどうであれ、身体は子どもなのだ。
前世の感覚で平然と何局も指せると思う方が間違っている。
「少し休もうか」 母が言う。 「次の発表まで時間あるし」 父も頷く。
会場の端の椅子に座り、水筒からお茶を飲む。
冷たさが喉を通ると、少しだけ意識がゆるんだ。
周囲には、泣いている子もいた。
初戦で負けたのだろう。
保護者が背をさすり、スタッフが優しく声をかけている。
別の場所では、勝って走り回ろうとして叱られている子もいる。
大会の明暗は極端だ。
私はその光景を見つめながら、胸の中に妙な静けさが広がるのを感じた。
負けるのが嫌いだ、と私は言った。
それは本当だ。
でも、負けた子を見て優越感に浸るほど浅くもない。
悔しいのだろう。
泣くほどに。
その悔しさは、よく分かる。
前世では、泣きたくても泣けない負けが増えていった。
立場がある。見ている人がいる。敗者としての作法まで求められる。
子どものように泣ける負けは、ある意味では贅沢だ。
だが今の私は、しばらくその贅沢を味わうつもりはない。
負けないと決めている。
それも、ただ圧勝するのではなく、絶体絶命の気配を嗅ぎながら最後に勝つのが私の将棋だ。
初めての大会でも、それは変わらない。
◇
三回戦の組み合わせが出た時、会場の空気が少しだけ変わった。
勝ち残った子どもが絞られ始めるからだ。
名前を探す親たちの目も、どこか真剣になる。
子どもたちも、なんとなく“ここから先はちょっと違う”と感じ始める。
父に抱えられたまま掲示を見上げた私は、自分の名前を見つけた。
三回戦 天羽しおり ― 月島美緒
女の子だ。
それ自体は珍しくない。
将棋大会では男の子の比率が高いことが多いが、女の子がいないわけでは当然ない。実際、この会場にも数人は見かけている。
ただ、その名前を見た瞬間に、私はなぜか少しだけ意識を研ぎ澄ませた。
理由は分からない。
ただの直感だ。
月島美緒は、対局席に着いた時から空気が違った。
年齢は私より少し上、たぶん一年か二年。
黒髪を肩で切り揃え、姿勢がいい。
駒を並べる手が静かで、無駄がない。
周囲のざわめきにほとんど反応せず、ただ盤だけを見ている。
――ああ。
私はその一瞬で理解した。
この子は、強い。
まだ将来のライバルではない。
名前も違う。
けれど、こういう気配を持つ子がいるのだ。
同年代、あるいは近い世代の中に。
盤を前にした時だけ急に世界の焦点が細くなる子が。
「お願いします」 美緒が言った。 「……おねがいします」
対局が始まる。
初手から、嫌だった。
美緒の駒組みは速すぎない。
だが、こちらの形を見ながら要所だけを押さえてくる。
序盤の一手一手に“教わった通り”ではない匂いがある。
自分の中で咀嚼している。
私はそれに、内心でぞくりとした。
これだ。
私はこれを探していた。
ただ強いだけでも、よく覚えているだけでもない。
盤を前にして、自分の将棋を作ろうとする相手。
子どもの将棋は、まだ借り物の手が多い。
先生に教わった手、本で見た手、親が褒めた手。
それ自体は悪くない。
むしろ最初は当然だ。
だが、その借り物の中から“自分で選んでいる手”が混じり始める瞬間がある。
美緒には、それがあった。
数手進んだところで、私は初めてはっきりと形勢の危うさを感じた。
こちらが悪いわけではない。
しかし相手の手順が自然で、こちらにだけ微妙な受けの判断を迫ってくる。
前へ出るか。
受けるか。
角筋を通すか。
玉を寄るか。
幼い身体に、じわりと汗が滲む。
これまでの二局より、明らかに濃い。
いい。
とてもいい。
だが、危ない。
私はそこで一度、胸の奥の前世へ触れた。
こういう時こそ、慌てるな。
相手が自然に見える時ほど、どこかに細い綻びがある。
なければ作れ。
作れないなら、受けて待て。
私は美緒の飛車先にすぐ応じず、玉の呼吸を一手だけ広げた。
地味な手。
観戦している父には意味が分からないかもしれない。
母もたぶん「守ったのかな」くらいの理解だろう。
だがこの一手がなければ、数手後の攻防でこちらの王が窒息する。
美緒は少しだけ目を細めた。
その表情を見て、私は小さく確信する。
やはり読んでいる。
この子は、自分の狙いが単純には通らないと分かるだけの眼を持っている。
そこからの数手は、今日いちばん濃かった。
相手の角が通る。
こちらの銀が圧迫される。
飛車の横利きが嫌な形になる。
受けるだけなら足りる。
だが受けるだけでは、いずれ細くなる。
私はそこで、歩を一枚捨てた。
小さな歩だ。
けれど、その歩で角筋を変え、飛車の利きが少しだけ狂う。
美緒の指先が止まった。
その一拍の停止が、私にはたまらなく嬉しかった。
相手の思考に、こちらの手が食い込んだ証拠だ。
私はさらに一手、金を寄せる。
受けながら、次の反撃の形。
美緒は受けずに前へ出た。
いい判断だ。
だからこそ、こちらも腹を括る。
会場の空気が遠のく。
駒の音だけが近い。
角の利き、飛車の位置、玉の逃げ道、歩の頭。
全部が一点へ収束していく。
――勝てる。
細い。
だが、勝てる。
私は飛車を回り、相手の玉へ直接ではなく、その横の逃げ道へ圧力をかけた。
美緒の目がわずかに見開く。
次の一手で彼女は受けに回るしかない。
受ければ、こちらの角が通る。
受けなければ、金が打てる。
将棋は、玉を追うだけではない。
逃げ道の質を下げることで、相手に選びたくない手を選ばせる。
それが出来た時、勝ちは近い。
美緒は受けた。
最善に近い。
だが、こちらにはさらに一枚ある。
私は銀を打った。
派手さのない、しかし鋭い一手。
飛車と角と金の利きが重なり、相手玉は急に息苦しくなる。
美緒は黙ったまま盤を見つめた。
長い。
子どもの将棋としては、かなり長い沈黙だ。
その沈黙を見て、私は初めて少しだけ“本当の将棋をしている”感覚に触れた。
これはもう、ただの初心者大会の一局ではない。
少なくとも、私の中では。
やがて美緒は、受けの一手を指した。
鋭い。
かなり良い。
だが、足りない。
私は最後に飛車を寄り――
「おうて」
小さく告げた。
逃げ道は一つ。
そこへ逃げても、次で金が打てる。
別の受けは、角が通る。
美緒は盤を見て、もう一度見て、そしてそっと息を吐いた。
「……負けました」
私は礼を返す。
「……ありがとうございました」 「ありがとうございました」
三回戦、勝ち。
だがその瞬間、私は勝利の喜びより先に、別の感情をはっきりと覚えていた。
いる。
やはり、いるのだ。
この時代にも。
この世代にも。
盤の前で世界を狭められる子が。
そして私は、その事実を嬉しいと思ってしまっている。
◇
「大丈夫?」 席を離れた途端、母が膝をついて私の顔を覗き込んだ。 「顔、ちょっと赤いよ」 「……へいき」 「でも、さっき長かったね」 父も心配そうだ。
私はこくりと頷いた。
平気だ。
身体は疲れている。
けれど頭は冴えている。
さっきの月島美緒との一局が、胸のどこかを鋭く刺したのだ。
初戦や二回戦とは違う。
“外に出た意味”が、ようやく本当に形になった感覚がある。
「しおり、少し休もう」 母が言う。 「次までまだあるから」 「……うん」
椅子に座り、お茶を飲む。
父はまだ興奮気味だが、母に目で制されて声量を抑えている。
二人のそういうやり取りが、いまは妙にありがたかった。
もし一人だったら、私はたぶんもっと尖っていた。
勝った興奮も、相手の鋭さも、全部を一人で抱えて、次の盤へそのまま持ち込んでいたかもしれない。
でも今は違う。
お茶を渡してくれる手がある。
汗を拭いてくれるハンカチがある。
「休もう」と言ってくれる声がある。
それだけで、一局を切ることができる。
前世にはなかった切り替え方だ。
そして、きっと悪くない。
◇
会場の反対側で、小さなざわめきが起きた。
子どもたちが一方向を見ている。
保護者の何人かも、つられて視線を向けている。
何だろうと思い、私はそちらを見た。
一人の女の子が、対局を終えたところだった。
年齢は、私と同じくらいか、少し上。
長い髪を高い位置で結んでいる。
姿勢が良く、顔立ちは可愛いというよりきりっとしていて、終局したばかりなのに涙も汗も見せず、相手へきっちり頭を下げていた。
その子の周囲だけ、空気が少し違って見えた。
「すご……」 近くの誰かが小さく呟く。 「また勝ったの?」 「早かったよね」
私はその子から目を離せなかった。
ただ強いからではない。
ただ目立つからでもない。
盤を離れたあとも、なお将棋の熱をまとっている。
それが分かったからだ。
その子はふと顔を上げ、こちらを見た。
ほんの一瞬。
視線が合う。
鋭い目だった。
幼いのに、妙にまっすぐで、遠慮がない。
こちらを“ちいさい子”として見る目ではない。
盤の前に座るかもしれない相手を見る目だ。
私の胸が、どくりと鳴った。
まだ名前は知らない。
話したこともない。
けれど、その一瞬だけで分かる。
この子は、いつかこちらへ来る。
私が息を潜めて見つめていると、その子はわずかに顎を上げ、それから何事もなかったように保護者の元へ戻っていった。
「しおり?」 父の声で、私は我に返る。 「……うん」 「どうした?」 「……なんでもない」
嘘だ。
何でもなくない。
何かが始まる前の気配。
そういうものを、私はよく知っている。
初めての大会。
初めての知らない相手たち。
初めての連戦。
そして、初めての“同じ匂い”を持つ誰か。
私は小さく息を吸い、胸の奥で静かに思った。
次だ。
次に進めば、きっともっとはっきりする。
あの子の名前も。
この時代の将棋の深さも。
そして、私がここでどこまで勝てるのかも。
大会はまだ終わっていない。
けれど、天羽しおりの本当の“最初の大会”は、たぶん今ようやく始まりかけていた。
### あとがき
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