盤上に咲く幼竜   作:ぬっく~

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第八話 初めての大会

大会の日の朝は、空気が違った。

 

まだ家の中はいつも通りだ。

 冷蔵庫の低い音がして、カーテンの隙間から薄い光が差し込み、台所では母が湯を沸かしている。父は寝癖のついたまま洗面所とリビングを忙しく往復していて、いつも通りといえばいつも通りだ。

 

それでも違う。

 

人間は、何かを待っている朝には独特の落ち着かなさをまとう。

 足音が半歩ぶん速い。

 引き出しを閉める音が少し強い。

 声の高さが、ほんの少しだけ上ずる。

 

今日はまさにそういう朝だった。

 

「ハンカチ入れた?」  母が台所から聞く。 「入れた」  父が答える。 「水筒は?」 「入れた」 「参加票は?」 「……あ」 「ほら」 「今から入れる!」

 

私はリビングの椅子にちょこんと座り、そのやり取りを見ていた。

 大会に出るのは私のはずなのに、いちばんそわそわしているのは明らかに父だ。

 母も落ち着いているようで、確認項目の数がいつもより多い。

 たぶん二人とも緊張しているのだろう。

 私が初めて家の外で、教室の外で、知らない子どもたちと将棋を指す。その事実が、思っている以上に家全体の重みになっている。

 

「しおり、朝ごはんちゃんと食べようね」  母が私の前に小さな皿を置いた。 「……うん」

 

返事をしながらも、私は食卓の木目をぼんやり見つめた。

 木目を見ると、どうしても盤を連想する。

 今日、この先で何枚の盤が並ぶのだろう。

 どんな顔をした子どもたちがいて、どんな駒音がして、どんな空気が流れているのだろう。

 

胸の奥が、静かに熱い。

 

前世の私は、タイトル戦の朝にも食欲が落ちることがあった。

 緊張というより、意識がすでに盤へ行ってしまうのだ。勝てばどうなるか、負ければどうなるか、相手がどんな準備をしているか、自分はどこまで読めるか。そういうことを考えていると、食事の味は薄くなる。

 

今の私は子どもだ。

 それでも、どこか似ている。

 

ただ、前世と違う点が一つある。

 今の私の前には、母が「食べなさい」と小さく眉を寄せ、父が「少しでも入れとこうな」と気遣う顔がある。

 

この違いは大きい。

 

「緊張してる?」  父が私の顔を覗き込んだ。 「……ちょっと」 「そっか」 「あなたが一番緊張してるでしょ」  母が言う。 「してないよ」 「してる」 「してるかな」 「してるね」

 

私は思わず少し笑ってしまった。

 父もつられて笑い、母も口元をゆるめる。

 

その小さな笑いだけで、胸の中の張りつめたものが少しだけ和らいだ。

 ああ、と思う。

 こういうのが、今の私の初形なのだ。

 

前世の私は、自分一人の緊張として朝を迎えていた。

 今は違う。

 この朝には、父と母の緊張も混じっている。

 だからこそ、私はそのぶんまで勝ちたくなる。

 

 

会場は、市民文化センターの一室だった。

 

駅から少し歩いた先にある、ごくありふれた公共施設。

 ガラス張りの玄関、やや広いロビー、催し物の案内板。

 その二階の会議室をいくつかつなげて、今日の子ども将棋大会は開かれているらしい。

 

エレベーターを降りたところで、私はまず音に圧倒された。

 

子どもの声。

 保護者の声。

 受付で名前を確認する声。

 椅子を引く音。

 そして――駒音。

 

たくさんの盤が同時に鳴る音は、やはり独特だ。

 家や教室で数面ぶん聞こえるのとは、層の厚みが違う。

 同じ一枚の歩でも、急いで置く音、丁寧に置く音、ためらいの音、威勢のいい音、力みのある音がある。

 その全てが混ざり合って、会場の空気を作っていた。

 

懐かしい。

 そして、痛いほど新しい。

 

前世でも大会会場の音は何度も聞いた。

 だが今日の私は、そこへ“幼い身体”で立っている。視線が低い。周囲の子どもたちの背中が大きい。机の天板が高く感じられる。

 同じ将棋の空間なのに、見え方がまるで違った。

 

「すごいねえ……」  母が小さく呟く。 「思ったより人多いな」  父も圧倒されている。

 

受付の前には列ができていた。

 胸に名札をつけたスタッフが、参加票を確認し、クラスごとに案内している。

 教室の先生が言っていた通り、初心者向けの交流クラスと、もう少し実戦寄りのクラスが分かれているらしい。段級位というほど明確ではないが、自己申告や教室側の見立てでおおよそ分ける形だろう。

 

「天羽しおりちゃんですね」  受付の女性が笑顔で言った。 「はい」  父が少し背筋を伸ばして返事をする。 「交流クラスです。こちらの名札をどうぞ」

 

小さな名札を受け取り、父がしゃがんで私の胸につけてくれる。

 そこにひらがなで書かれた「しおり」という名前を見て、私は少しだけ不思議な気持ちになった。

 

前世では、名前の前に段位やタイトルがつくのが当たり前だった。

 今はただ、しおり。

 肩書きのない、むき出しの名前。

 

でも、嫌ではない。

 嫌ではないどころか、むしろ清々しい。

 

「会場のルール説明、もうすぐ始まりますので」  受付の女性が言う。 「お子さんは前の方へどうぞ。保護者の方は後方から見学できます」

 

父と母が顔を見合わせる。

 私はその間に、自分から小さく一歩前へ出た。

 

「しおり」  母が呼ぶ。 「だいじょうぶ」  私は短く答えた。

 

母の目が少しだけ揺れる。

 父は驚いたように私を見て、それからうなずいた。

 

「うん。じゃあ、行っておいで」

 

その言葉に背中を押されるようにして、私は会場の前方へ歩いた。

 

 

会場の前には、すでに何人かの子どもが集まっていた。

 

年上の男の子。

 私と同じくらいか少し上に見える女の子。

 落ち着かない様子で周囲を見回す子。

 やけに堂々としている子。

 保護者から離れた瞬間、急に口数が減る子。

 

みんなそれぞれに“初めて”を抱えている顔をしていた。

 

その中で、私は妙に静かだったと思う。

 内心では心拍が速い。

 けれど、その速さを外へ出すやり方を私は前世から知っている。

 呼吸を浅くしすぎない。肩を上げない。目線を泳がせすぎない。

 それだけで、人は随分落ち着いて見える。

 

「こんにちはー」  大会スタッフの男性が前に立ち、手を叩いた。 「これからルールの説明をします」

 

ざわついていた会場が、少しずつ静まる。

 

「まず、対局の前には“お願いします”、終わったら“ありがとうございました”を言いましょう」  子どもたちがばらばらに返事をする。 「“待った”はなしです。一回指して、駒から手を離したら変えられません」 「はーい」 「困ったことがあったら、手をあげてスタッフを呼んでください」

 

極めて基本的な説明だ。

 だが、その基本こそが場を支える。

 前世のプロの世界でも同じだった。ルールは高度になるほど細かく見えるが、土台にはこういう当たり前がある。

 

挨拶をする。

 待ったはしない。

 分からなければ呼ぶ。

 

子どもたちに向けられたやさしい言葉の形で、将棋の厳しさの最小単位が整えられていく。

 私はそのことを、少しだけ愛おしいと思った。

 

「では、最初の対局カードを配ります」

 

紙が配られ始め、スタッフが名前を読み上げていく。

 私の手にも一枚の紙が来た。

 

相手の名前は、佐伯陽斗。

 

知らない名前だ。

 当然だ。

 教室の外の大会なのだから、知らない相手ばかりで当たり前だ。

 

けれど、その“知らない”が胸を高鳴らせる。

 

前世では、大きな棋戦になればなるほど相手のことをよく知っていた。棋譜も性格も研究傾向も、嫌というほど頭に入る。

 知らない相手と当たる機会は、むしろ若い頃の方が多かった。

 

今の私は、またその若い頃へ戻っている。

 

知らない相手。

 知らない盤。

 知らない空気。

 

いい。

 とてもいい。

 

 

佐伯陽斗は、私より二つほど上に見えた。

 

丸顔で、少し日に焼けていて、椅子に座っても足が落ち着かない。

 名札を何度も触り、机の端を指でとんとん叩き、盤の上の駒を並べる時だけ急に真剣な顔になる。

 

こういう子は、たぶん家族に勧められて始めたのではなく、自分で面白がってここまで来たタイプだ。

 落ち着きはない。

 けれど盤に向かうと急に集中の形が出る。

 

「お願いします」  陽斗が言った。 「……おねがいします」

 

礼をして、顔を上げる。

 その瞬間だけ、世界が静かになった気がした。

 

周囲にはまだざわめきがある。

 別の卓でも子どもたちが駒を並べている。

 保護者の小声、スタッフの足音、会場の空調音。

 何も消えていない。

 

それでも、盤を挟むと世界の中心が一点に絞られる。

 この感覚は、何度人生をやり直しても変わらないのだろう。

 

初手、相手は歩を突いた。

 素直な入りだ。

 私はそれに応じる。

 

交流クラスの簡略ルールに合わせ、持ち時間もほとんどないようなテンポで進んでいく。

 それでも将棋は将棋だ。

 駒の配置、利き、玉の位置、攻め駒の働き。

 見るべきものは変わらない。

 

陽斗は、思ったより手厚い。

 飛車をすぐ走らせるかと思ったが、まず金を寄り、玉の周囲を整えた。

 教室でしっかり教わっているのだろう。

 

私はその手つきを見ながら、少しだけ楽しくなる。

 

いい。

 簡単ではない方がいい。

 

もちろん、この程度で苦戦するつもりはない。

 だが、初戦からあまりに雑な相手では、大会に出た意味が薄い。

 知らない相手が知らない形で応じてくる、その感触こそが外の空気だ。

 

数手進んだところで、陽斗が角を使ってこちらの飛車先へ圧力をかけてきた。

 筋としては自然だ。

 ただ、少しだけ踏み込みが早い。

 

私は歩で受けるふりをして、実際には銀の位置を整えた。

 次の一手で相手の角筋がやや窮屈になる形だ。

 

「……あれ?」  陽斗の表情が曇る。

 

その反応だけで分かる。

 読んではいない。

 目の前の狙いに集中し、その先の形の変化までは追えていない。

 

悪くない弱点だ。

 子どもの将棋では珍しくない。

 そして現代の子ども将棋は、この“珍しくない弱点”がすぐ修正されるから怖い。

 

私は油断せず、駒を一つずつ働かせる。

 決して急がない。

 ただし、緩めもしない。

 

陽斗は焦ったのか、飛車を前へ押し出してきた。

 王手がかかる形ではない。だが、こちらの受けを乱せれば次がある。

 

私はそこで、少しだけ感心した。

 

いい手ではない。

 けれど悪いだけでもない。

 “困ったらとにかく飛車をぶつける”幼さではなく、“飛車を前へ出して局面を動かしたい”意図がある。

 局面を静かに受け入れて負けるより、何かを起こそうとしている。

 

前世の私なら、こういう将棋を軽んじた時期があった。

 形を乱すばかりで、筋が細いと。

 だが今は分かる。

 局面を動かそうとする意思そのものに価値がある。

 精度さえ育てば、それは怖い武器になる。

 

だからこそ、今はまだ勝っておかなければならない。

 

私は王の呼吸を確保しつつ、相手飛車の横利きを切る位置へ金を寄せた。

 地味な手だ。

 華もない。

 しかし、この一手で相手の狙いは半分消える。

 

陽斗が眉を寄せる。

 指が少しだけ止まる。

 彼の中で、用意していた筋が途切れたのだろう。

 

その隙を、私は見逃さない。

 

次の数手でこちらの角が通り、飛車の働きも増した。

 相手玉の周囲には、逃げ道が足りない。

 まだすぐ詰むわけではないが、将来が苦しい。

 

私はその“まだ”を正確に測る。

 急いで王手をかける必要はない。

 逃げられる王手は、子ども相手でもやはり甘い。

 

だからまず、金を寄る。

 次に歩を垂らす。

 それから飛車を一枚効率よく回る。

 

陽斗の顔色が、少しずつ変わっていく。

 さっきまでの勢いが消え、代わりに“どうしよう”が前へ出てくる。

 

私はその顔を見て、内心で少しだけ自分を戒めた。

 

勝ちが見えてからが危ない。

 子どもの将棋は最後の最後で形がひっくり返ることがある。

 受け損ね、駒の利きを見落とし、王手放置まがいの手を許して、妙な事故が起きる。

 そして私は、事故で黒星をつけるつもりなど一切ない。

 

「おうて」  私は小さく告げて、飛車を寄った。

 

陽斗はびくっと肩を揺らした。

 逃げ道は一つ。

 そこへ逃げれば、次で金が打てる。

 

彼はしばらく考え、指を伸ばし――別の駒を触って止まった。

 危ない。

 指が空中で迷っている。

 

スタッフがすぐに近寄ってきた。

 

「一回持っただけならまだ大丈夫だよ。置いて、手を離したらその手になるからね」

 

陽斗は顔を赤くして、結局王を逃がした。

 いい判断だ。

 慌てて変な受けを選ぶよりは、指し直せるうちに気づいた方がいい。

 

だが、もう遅い。

 

私は用意していた金打ちを放つ。

 逃げ道を塞ぎ、飛車の横利きと重ねる形。

 これで受けは足りない。

 

陽斗が盤を見つめる。

 数秒。

 もう数秒。

 

「……まけました」

 

幼い声だった。

 でも、ちゃんと自分で言った。

 

「……ありがとうございました」  私は頭を下げる。 「ありがとうございました」

 

終局。

 

初戦、勝ち。

 

当然だ、と思う自分がいる。

 同時に、初戦を落とさなかったことへ確かな安堵を覚える自分もいる。

 どちらも嘘ではない。

 

 

席を立つと、すぐ父が近寄ってきた。

 

「しおり!」  声が少し大きい。 「しーっ」  母がすぐ止める。 「あ、ごめん」 「教室じゃないんだから、なおさら」 「はい……」

 

父は声を落としたものの、顔は隠しようもなく明るい。

 母も母で、安心したように息を吐いている。

 

「よく頑張ったね」  母が言う。 「……うん」 「緊張した?」  父が聞く。 「……した」 「そっかあ」

 

父の“そっかあ”には、妙に実感がこもっていた。

 たぶん彼も一緒に緊張していたのだろう。

 自分が盤に座っていないのに、子どもの一局でこんなに落ち着かなくなるものなのか、と少し驚いている顔でもある。

 

私は父と母の間に立ちながら、少しだけ会場を見回した。

 

まだ何卓も対局が続いている。

 勝って戻ってきた子。

 負けて俯いている子。

 保護者に何かを必死に説明している子。

 スタッフにルール確認をしている子。

 その全部が、眩しかった。

 

大会だ。

 

教室とは違う。

 ここでは、同じ時間にたくさんの勝ち負けが発生している。

 誰かの喜びのすぐ隣で、誰かの悔しさが生まれている。

 その同時多発性が、大会を大会たらしめている。

 

前世では何度も見てきた光景だ。

 でも今は、その一つ一つが新鮮だった。

 

「次の組み合わせ、見に行こうか」  母が言う。 「うん」  父が頷く。

 

掲示板の前には人だかりができていた。

 スタッフが紙を貼り出し、保護者と子どもが名前を探している。

 私も父に抱き上げられて、自分の名前を探した。

 

二回戦 天羽しおり ― 桐山陸

 

知らない名だ。

 これも当然だ。

 

「またすぐだね」  父が言う。 「大丈夫?」  母が覗き込む。 「……だいじょうぶ」

 

私はそう答えながら、内心ではすでに次の盤へ意識を移していた。

 初戦の勝ちは終わった。

 次だ。

 

大会では、一局ごとに気持ちを切り替える速さも大事になる。

 前世の私はそれを身につけるまで少し時間がかかった。

 若い頃は、勝っても負けても一局を引きずることが多かった。

 だが今は違う。

 私はもう、一局の重さも、その重さを引きずる危険も知っている。

 

だから切る。

 次へ行く。

 

 

二回戦の相手、桐山陸は、初戦の陽斗よりさらに落ち着いた子だった。

 

髪は短く整えられ、名札もまっすぐ、駒を並べる手つきも丁寧。

 ぱっと見の印象だけなら、今日ここにいる子どもたちの中でもかなり“将棋っぽい”空気を持っている。

 視線が盤から無駄に外れないのもいい。

 

「お願いします」 「……おねがいします」

 

礼をして、対局が始まる。

 

陸の将棋は、初手から堅い。

 玉の周囲を意識し、飛車先も突きすぎない。

 教室で基礎をかなり叩き込まれているのだろう。

 初心者向けの交流クラスにいるとはいえ、明らかに一段上の手つきだった。

 

私はそのことを嬉しく思う。

 大会に出る意味が、ちゃんとある。

 

数手進む。

 陸は簡単に駒をぶつけてこない。

 こちらの誘いにも安易には乗らない。

 子どもの将棋でありがちな“早く王手したい”が薄い。

 

――嫌だな。

 

私は内心でそう思った。

 嫌というのは、もちろん悪口ではない。

 こういう相手は、年齢より少し厄介だ。

 

華はない。

 だが崩れにくい。

 崩れにくい相手は、こちらに精度を要求する。

 

私は少しずつ駒を捌きながら、相手玉の薄いところを探す。

 まだ見えない。

 ならば無理をしない。

 子どもの将棋で“無理をしない”は案外難しい。攻めたい気持ちが先に立つからだ。

 だが私は、その誘惑がどれほど危険かを知っている。

 

前世の晩年、私は何度も「ここで踏み込めば昔なら勝てた」と思って指し、そして現代将棋の精度に咎め返された。

 だから今は、踏み込みたい時ほど一呼吸置く。

 

陸が歩を打ち、こちらの銀を圧迫した。

 良い手だ。

 銀を引けば飛車筋が通り、前へ出れば角の利きが気になる。

 

私はそこで、初めて少し長く考えた。

 

周囲の音が遠くなる。

 父と母の気配も、いまは意識の外へ追いやる。

 盤だけを見る。

 

銀は引ける。

 だが普通に引けば、相手の狙い通り少し窮屈になる。

 前へ出るのは危険だ。

 ならば――。

 

私は歩を一枚、相手の角筋へ垂らした。

 地味だが厄介な手だ。

 銀そのものを助けるわけではない。

 代わりに、相手が次にどこへ駒を動かしても角の働きが少し鈍る。

 

陸の指が止まった。

 

読んでいなかったのだろう。

 この手を“ただの歩”として軽く見ていたら、次の連携が崩れる。

 

私はその一瞬に、静かな手応えを得た。

 前世の感覚そのままではない。

 もっと今の私らしい、小さく嫌らしい手だ。

 こういう手を積み上げられるなら、二度目の将棋はちゃんと前へ進んでいる。

 

陸は少し考え、予定を変えるように飛車を回った。

 悪くない修正だ。

 だが修正を強いられた時点で、流れはわずかにこちらへ傾いている。

 

私はそこから急がず、一枚ずつ働きを足していく。

 飛車の利き、角の通り、玉の呼吸。

 どれもまだ薄い。

 けれど、薄いまま積むのが将棋だ。

 

中盤に入った頃には、会場の何卓かがすでに終局していた。

 子どもたちのざわめきが増し、保護者の足音が近くを横切る。

 それでも陸はあまり揺れない。

 盤を見ている。

 

強い。

 

いまの段階では、かなり強い方だろう。

 だからこそ、私は少しだけ本気の熱を出したくなる。

 

陸がこちらの飛車先を突き捨て、手を作りにきた。

 私はそれを同歩とは取らず、別の地点で圧力をかけた。

 

「えっ」  陸が思わず声を漏らす。

 

前世でも、こういう顔は何度も見た。

 目の前の手に反応してもらえると思っていたのに、こちらは別の場所から局面全体を見ていたと気づいた時の顔だ。

 

相手の狙いへ真正面から付き合わない。

 これは将棋の基本であり、同時に高度な感覚でもある。

 子どものうちからそれを身体で覚えられれば、先で大きい。

 

私はそこから一気に手を広げた。

 飛車を押さえ、角を通し、玉の逃げ道を確保しながら、相手陣の一番薄い一点へ向かう。

 

陸は受けた。

 さらに受けた。

 受けながら、逆襲の含みも残す。

 

――いい。

 

思わずそう感じるほどには、彼はしぶとかった。

 

だが、しぶといだけでは足りない。

 私は最後に金を打ち込み、相手玉の呼吸を奪う。

 

陸は盤を見つめる。

 逃げ道を数え、駒の利きを数え、もう一度数え――やがて肩を落とした。

 

「負けました」 「……ありがとうございました」

 

二回戦も、勝ち。

 

私は静かに礼を返した。

 だが胸の中では、わずかに汗のようなものが滲んでいた。

 

危なかった、というほどではない。

 それでも、初戦よりずっと密度があった。

 こういう相手がいる。

 交流クラスでも、ちゃんといる。

 

やはり大会はいい。

 こうでなくては意味がない。

 

 

二回戦を終えると、母がしゃがんでハンカチで私の手を拭いてくれた。

 

「手、ちょっと冷たい」 「……へいき」 「頑張ってる証拠だね」  父が嬉しそうに言う。 「あなたは静かに褒めて」 「難しい注文だなあ……」

 

私は二人のやり取りを聞きながら、少しだけぼんやりした。

 対局中は頭が鋭くなる。

 終わると、一気に身体の幼さが戻ってくる。

 

疲れた。

 腹も少し減った。

 足もだるい。

 

当然だ。

 中身がどうであれ、身体は子どもなのだ。

 前世の感覚で平然と何局も指せると思う方が間違っている。

 

「少し休もうか」  母が言う。 「次の発表まで時間あるし」  父も頷く。

 

会場の端の椅子に座り、水筒からお茶を飲む。

 冷たさが喉を通ると、少しだけ意識がゆるんだ。

 

周囲には、泣いている子もいた。

 初戦で負けたのだろう。

 保護者が背をさすり、スタッフが優しく声をかけている。

 別の場所では、勝って走り回ろうとして叱られている子もいる。

 大会の明暗は極端だ。

 

私はその光景を見つめながら、胸の中に妙な静けさが広がるのを感じた。

 

負けるのが嫌いだ、と私は言った。

 それは本当だ。

 でも、負けた子を見て優越感に浸るほど浅くもない。

 

悔しいのだろう。

 泣くほどに。

 その悔しさは、よく分かる。

 

前世では、泣きたくても泣けない負けが増えていった。

 立場がある。見ている人がいる。敗者としての作法まで求められる。

 子どものように泣ける負けは、ある意味では贅沢だ。

 

だが今の私は、しばらくその贅沢を味わうつもりはない。

 負けないと決めている。

 それも、ただ圧勝するのではなく、絶体絶命の気配を嗅ぎながら最後に勝つのが私の将棋だ。

 

初めての大会でも、それは変わらない。

 

 

三回戦の組み合わせが出た時、会場の空気が少しだけ変わった。

 

勝ち残った子どもが絞られ始めるからだ。

 名前を探す親たちの目も、どこか真剣になる。

 子どもたちも、なんとなく“ここから先はちょっと違う”と感じ始める。

 

父に抱えられたまま掲示を見上げた私は、自分の名前を見つけた。

 

三回戦 天羽しおり ― 月島美緒

 

女の子だ。

 

それ自体は珍しくない。

 将棋大会では男の子の比率が高いことが多いが、女の子がいないわけでは当然ない。実際、この会場にも数人は見かけている。

 

ただ、その名前を見た瞬間に、私はなぜか少しだけ意識を研ぎ澄ませた。

 

理由は分からない。

 ただの直感だ。

 

月島美緒は、対局席に着いた時から空気が違った。

 

年齢は私より少し上、たぶん一年か二年。

 黒髪を肩で切り揃え、姿勢がいい。

 駒を並べる手が静かで、無駄がない。

 周囲のざわめきにほとんど反応せず、ただ盤だけを見ている。

 

――ああ。

 

私はその一瞬で理解した。

 この子は、強い。

 

まだ将来のライバルではない。

 名前も違う。

 けれど、こういう気配を持つ子がいるのだ。

 同年代、あるいは近い世代の中に。

 盤を前にした時だけ急に世界の焦点が細くなる子が。

 

「お願いします」  美緒が言った。 「……おねがいします」

 

対局が始まる。

 

初手から、嫌だった。

 

美緒の駒組みは速すぎない。

 だが、こちらの形を見ながら要所だけを押さえてくる。

 序盤の一手一手に“教わった通り”ではない匂いがある。

 自分の中で咀嚼している。

 

私はそれに、内心でぞくりとした。

 

これだ。

 私はこれを探していた。

 ただ強いだけでも、よく覚えているだけでもない。

 盤を前にして、自分の将棋を作ろうとする相手。

 

子どもの将棋は、まだ借り物の手が多い。

 先生に教わった手、本で見た手、親が褒めた手。

 それ自体は悪くない。

 むしろ最初は当然だ。

 

だが、その借り物の中から“自分で選んでいる手”が混じり始める瞬間がある。

 美緒には、それがあった。

 

数手進んだところで、私は初めてはっきりと形勢の危うさを感じた。

 こちらが悪いわけではない。

 しかし相手の手順が自然で、こちらにだけ微妙な受けの判断を迫ってくる。

 

前へ出るか。

 受けるか。

 角筋を通すか。

 玉を寄るか。

 

幼い身体に、じわりと汗が滲む。

 これまでの二局より、明らかに濃い。

 

いい。

 とてもいい。

 だが、危ない。

 

私はそこで一度、胸の奥の前世へ触れた。

 こういう時こそ、慌てるな。

 相手が自然に見える時ほど、どこかに細い綻びがある。

 なければ作れ。

 作れないなら、受けて待て。

 

私は美緒の飛車先にすぐ応じず、玉の呼吸を一手だけ広げた。

 地味な手。

 観戦している父には意味が分からないかもしれない。

 母もたぶん「守ったのかな」くらいの理解だろう。

 

だがこの一手がなければ、数手後の攻防でこちらの王が窒息する。

 

美緒は少しだけ目を細めた。

 その表情を見て、私は小さく確信する。

 やはり読んでいる。

 この子は、自分の狙いが単純には通らないと分かるだけの眼を持っている。

 

そこからの数手は、今日いちばん濃かった。

 

相手の角が通る。

 こちらの銀が圧迫される。

 飛車の横利きが嫌な形になる。

 受けるだけなら足りる。

 だが受けるだけでは、いずれ細くなる。

 

私はそこで、歩を一枚捨てた。

 小さな歩だ。

 けれど、その歩で角筋を変え、飛車の利きが少しだけ狂う。

 

美緒の指先が止まった。

 

その一拍の停止が、私にはたまらなく嬉しかった。

 相手の思考に、こちらの手が食い込んだ証拠だ。

 

私はさらに一手、金を寄せる。

 受けながら、次の反撃の形。

 美緒は受けずに前へ出た。

 いい判断だ。

 だからこそ、こちらも腹を括る。

 

会場の空気が遠のく。

 駒の音だけが近い。

 角の利き、飛車の位置、玉の逃げ道、歩の頭。

 全部が一点へ収束していく。

 

――勝てる。

 

細い。

 だが、勝てる。

 

私は飛車を回り、相手の玉へ直接ではなく、その横の逃げ道へ圧力をかけた。

 美緒の目がわずかに見開く。

 次の一手で彼女は受けに回るしかない。

 受ければ、こちらの角が通る。

 受けなければ、金が打てる。

 

将棋は、玉を追うだけではない。

 逃げ道の質を下げることで、相手に選びたくない手を選ばせる。

 それが出来た時、勝ちは近い。

 

美緒は受けた。

 最善に近い。

 だが、こちらにはさらに一枚ある。

 

私は銀を打った。

 派手さのない、しかし鋭い一手。

 飛車と角と金の利きが重なり、相手玉は急に息苦しくなる。

 

美緒は黙ったまま盤を見つめた。

 長い。

 子どもの将棋としては、かなり長い沈黙だ。

 

その沈黙を見て、私は初めて少しだけ“本当の将棋をしている”感覚に触れた。

 これはもう、ただの初心者大会の一局ではない。

 少なくとも、私の中では。

 

やがて美緒は、受けの一手を指した。

 鋭い。

 かなり良い。

 だが、足りない。

 

私は最後に飛車を寄り――

 

「おうて」

 

小さく告げた。

 

逃げ道は一つ。

 そこへ逃げても、次で金が打てる。

 別の受けは、角が通る。

 

美緒は盤を見て、もう一度見て、そしてそっと息を吐いた。

 

「……負けました」

 

私は礼を返す。

 

「……ありがとうございました」 「ありがとうございました」

 

三回戦、勝ち。

 

だがその瞬間、私は勝利の喜びより先に、別の感情をはっきりと覚えていた。

 

いる。

 やはり、いるのだ。

 

この時代にも。

 この世代にも。

 盤の前で世界を狭められる子が。

 

そして私は、その事実を嬉しいと思ってしまっている。

 

 

「大丈夫?」  席を離れた途端、母が膝をついて私の顔を覗き込んだ。 「顔、ちょっと赤いよ」 「……へいき」 「でも、さっき長かったね」  父も心配そうだ。

 

私はこくりと頷いた。

 平気だ。

 身体は疲れている。

 けれど頭は冴えている。

 

さっきの月島美緒との一局が、胸のどこかを鋭く刺したのだ。

 初戦や二回戦とは違う。

 “外に出た意味”が、ようやく本当に形になった感覚がある。

 

「しおり、少し休もう」  母が言う。 「次までまだあるから」 「……うん」

 

椅子に座り、お茶を飲む。

 父はまだ興奮気味だが、母に目で制されて声量を抑えている。

 二人のそういうやり取りが、いまは妙にありがたかった。

 

もし一人だったら、私はたぶんもっと尖っていた。

 勝った興奮も、相手の鋭さも、全部を一人で抱えて、次の盤へそのまま持ち込んでいたかもしれない。

 でも今は違う。

 

お茶を渡してくれる手がある。

 汗を拭いてくれるハンカチがある。

 「休もう」と言ってくれる声がある。

 

それだけで、一局を切ることができる。

 

前世にはなかった切り替え方だ。

 そして、きっと悪くない。

 

 

会場の反対側で、小さなざわめきが起きた。

 

子どもたちが一方向を見ている。

 保護者の何人かも、つられて視線を向けている。

 何だろうと思い、私はそちらを見た。

 

一人の女の子が、対局を終えたところだった。

 

年齢は、私と同じくらいか、少し上。

 長い髪を高い位置で結んでいる。

 姿勢が良く、顔立ちは可愛いというよりきりっとしていて、終局したばかりなのに涙も汗も見せず、相手へきっちり頭を下げていた。

 

その子の周囲だけ、空気が少し違って見えた。

 

「すご……」  近くの誰かが小さく呟く。 「また勝ったの?」 「早かったよね」

 

私はその子から目を離せなかった。

 

ただ強いからではない。

 ただ目立つからでもない。

 

盤を離れたあとも、なお将棋の熱をまとっている。

 それが分かったからだ。

 

その子はふと顔を上げ、こちらを見た。

 

ほんの一瞬。

 視線が合う。

 

鋭い目だった。

 幼いのに、妙にまっすぐで、遠慮がない。

 こちらを“ちいさい子”として見る目ではない。

 盤の前に座るかもしれない相手を見る目だ。

 

私の胸が、どくりと鳴った。

 

まだ名前は知らない。

 話したこともない。

 けれど、その一瞬だけで分かる。

 

この子は、いつかこちらへ来る。

 

私が息を潜めて見つめていると、その子はわずかに顎を上げ、それから何事もなかったように保護者の元へ戻っていった。

 

「しおり?」  父の声で、私は我に返る。 「……うん」 「どうした?」 「……なんでもない」

 

嘘だ。

 何でもなくない。

 

何かが始まる前の気配。

 そういうものを、私はよく知っている。

 

初めての大会。

 初めての知らない相手たち。

 初めての連戦。

 そして、初めての“同じ匂い”を持つ誰か。

 

私は小さく息を吸い、胸の奥で静かに思った。

 

次だ。

 次に進めば、きっともっとはっきりする。

 

あの子の名前も。

 この時代の将棋の深さも。

 そして、私がここでどこまで勝てるのかも。

 

大会はまだ終わっていない。

 けれど、天羽しおりの本当の“最初の大会”は、たぶん今ようやく始まりかけていた。




### あとがき

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