会場のざわめきは、勝ち残る人数が減るにつれて質を変えていく。
数が減るのではない。
音の芯が変わるのだ。
最初のころは、ただ人が多い音だった。
子どもの声、保護者の声、受付の確認、椅子を引く音、あちこちで同時に鳴る駒音。
それらが雑多に重なって、祭りのような空気を作っていた。
だが三回戦を終えたあたりから、ざわめきの中に少しだけ“見定める気配”が混じり始める。
あの子が勝った。
この子は強い。
次はあっちの山がきつい。
そういう視線が、言葉になる前に会場を渡っていく。
私は椅子に座って紙コップのお茶を飲みながら、その変化を静かに受け止めていた。
身体は疲れている。
これは認めざるをえない。
三局続けての実戦は、いくら中身が元竜王でも楽ではない。
肩はこわばり、腰も少し重い。指先は熱を持ち、盤の升目を思い出すたび無意識にぴくりと動く。
だが、頭は冴えていた。
むしろ、さっきの月島美緒との一局が終わってから、妙に意識が澄んでいる。
ようやく“外の将棋”の輪郭に触れたからかもしれない。
大会にはちゃんと、自分で将棋を作り始めている子がいる。
教室の延長ではなく、自分の読みと好みで盤を曲げようとする相手がいる。
それは、嬉しかった。
そして少しだけ、安心もした。
もし現代の子ども将棋が、私の想像よりずっと薄かったなら。
もし大会の交流クラスなど、ただの入門の延長でしかなかったなら。
私はいずれどこかで油断していたかもしれない。
だが違う。
薄いなりに、ちゃんと深い。
浅いように見えて、その底に時代の速度が流れている。
そうであるなら、こちらも最初から本気で学び直す意味がある。
「しおり、もう少し休む?」 母が私の前にしゃがんで聞いた。 「……うん」 「足いたい?」 「ちょっと」 「だよねえ」 父が気の毒そうな顔をする。 「抱っこする?」 「……あるく」 「そっか」
私は父の申し出を断り、代わりに母の手へ自分の手を重ねた。
ひんやりしている。
会場の空調が少し効きすぎているのかもしれない。
母は私の指先を包み込み、そっと擦った。
「冷たいね」 「だいじょうぶ」 「緊張してると冷たくなるよ」 「ママも?」 私が聞くと、母は少し笑った。 「ママも」
その返事が妙に可笑しくて、私は少しだけ口元を緩めた。
父も「パパも」と勝手に便乗し、母に「聞いてない」と切られる。
そんなやり取りの中で、張りつめていた身体がほんの少しだけほどける。
ありがたい、と思う。
前世の私は、一局ごとの緊張を一人で抱えることに慣れすぎていた。
抱えきれなくなった時も、人に手渡す術を知らなかった。
今の私はまだ子どもで、こうして誰かの手に緊張の一部を預けられる。
この感覚は、きっと忘れてはいけない。
◇
四回戦の組み合わせ表が貼り出されると、人の流れがまた一度掲示板へ集まった。
父に抱き上げられ、私は自分の名前を探す。
四回戦 天羽しおり ― 御門凛々花
その瞬間、胸の奥で何かが強く鳴った。
名前だ。
さっき、会場の反対側で目が合った女の子。
あの、周囲と空気の芯が少し違っていた子。
彼女の名前が、ここにある。
御門凛々花。
凛、という字が入っていそうな響きだと、なぜか思った。
実際の表記をこの時点では知らない。ただ、名前だけで少し硬質な印象がある。
きらびやかで、でも強い音だ。
「女の子だね」 父がぽつりと言った。 「さっき見てた子じゃない?」 母が小声で続ける。
やはり二人も気づいていたらしい。
あの子の存在感は、将棋を深く知らない人間にも何かしら引っかかるものがあったのだろう。
「しおり、大丈夫?」 母が聞く。 「……うん」 私は短く答えた。
大丈夫だ。
少なくとも表面上は。
だが内心では、これまでとは質の違う緊張が生まれていた。
知らない相手と当たること自体には、もうある程度慣れ始めている。
問題はそこではない。
あの一瞬の目線だけで分かった。
御門凛々花は、こちらを見る目を持っている。
“小さい子がいる”という見方ではなく、
“盤を挟む相手がいる”という見方だ。
年齢の割に、視線がまっすぐすぎた。
そしてああいう目を持つ人間は、盤の前でもたいてい厄介だ。
――いい。
胸の奥で、別の感情が静かに熱を持つ。
怖い。
だが、嬉しい。
私がこの大会に出て初めて、本当に出会うべき相手に近づいている気がした。
◇
対局まで少し時間があった。
会場の端に設けられた待機椅子に、私は一人で座っていた。
父と母は少し離れた場所にいる。飲み物を買いに行くと言っていたが、本当は私に少し一人の時間を与えたかったのかもしれない。
母はそういう気遣いをする。父はたぶん半分くらい無自覚だ。
私は膝の上に両手を置き、呼吸を整えた。
御門凛々花。
さっきから、その名前が頭の中で何度も反響している。
名前だけで相手を大きく見すぎるのは危険だ。
将棋は盤の上で決まる。
どれだけ存在感があろうと、実際に指してみなければ分からない。
そう自分へ言い聞かせながらも、意識は研ぎ澄まされていく。
「あなたが、天羽しおり?」
不意に声をかけられた。
私は顔を上げた。
そこにいたのは、やはりさっきの少女だった。
近くで見ると、思っていたよりも華やかだ。
黒髪は光をよく拾い、目元はきつすぎないのに妙に強い。
幼い顔立ちのはずなのに、視線の置き方ひとつで印象が変わる。
可愛い、だけでは片づけづらい。
まっすぐで、どこか触れたら切れそうな空気がある。
「……そう」 私は答えた。
少女は私を上から下まで一度見て、それから少しだけ眉を上げた。
「ほんとに小さいのね」 「……わるい?」 「別に」 彼女は肩をすくめた。 「でも、みんなが騒いでるから、もっと変なのかと思ってた」 「……変?」 「将棋教室の小さな化け物、って」
やはり、そう呼ばれているらしい。
しかも教室の外でも伝わっている。
私は少しだけ目を細めた。
「あなたも?」 「え?」 「こわい、とか思ってる?」 気づけば、そう聞いていた。
少女は一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。
その笑い方が、妙に綺麗で、妙に腹が立つ。
「思ってない」 「……どうして」 「怖がるほど、まだ何も知らないもの」
その言葉に、私は内心で小さく息を呑んだ。
正しい。
ひどく正しい答えだ。
将棋で本当に怖いのは、噂でも、戦績でも、見た目でもない。
盤を挟んで初めて見えるものだ。
この子はそのことを、年齢の割に分かりすぎている。
「御門凛々花」 少女は自分の胸の名札を指した。 「りりか、でいいわ」 「……しおり」 「知ってる。次、当たるんでしょ」
その口ぶりに、私は少しだけ笑いそうになった。
会話というより確認だ。
なれなれしいのに、距離は詰めすぎない。
妙な人間だ。
「あなた、強いの?」 私は聞いた。 「強いわ」 凛々花は即答した。 「負けるの嫌いだし」 「……わたしも」 「ふうん」
その“ふうん”には、値踏みの色があった。
私も同じように相手を見ているのだろうから、お互い様だ。
「でも」 凛々花が言う。 「あなた、勝っても楽しそうに見えない時がある」 「……そう?」 「そうよ。さっき見てたけど、詰ます時の顔、ぜんぜん笑ってなかった」 「将棋で笑うの?」 「私は笑わない」 「……じゃあ、おなじ」 「全然違うわ」
彼女はそう言って、少しだけ顎を上げた。
「私は、勝ちたいから静かになるの。あなたは、最初から勝つ気で静かな顔してる」
胸の奥が、どくりと鳴った。
この子は目がいい。
いや、“人の将棋を見る目”がいい。
結果ではなく、将棋を指している時の呼吸や表情の差から、心の傾きを拾っている。
厄介だ。
そして、面白い。
「りりかちゃん」 少し離れた場所から、大人の女性の声がした。 「そろそろ席へどうぞ」 「はーい」
凛々花は返事をし、私へもう一度視線を戻す。
「しおり」 「……なに」 「泣かないでね」 「……あなたが?」 「あなたが」
そう言って、彼女は先に歩き出した。
その背中を見送りながら、私は胸の内で静かに笑った。
いい。
実にいい。
初対面で、ここまで気に食わない相手は久しぶりだった。
そして同時に、初対面で、ここまで盤を挟みたくなる相手も。
◇
対局席は、会場の中央寄りにあった。
勝ち残りが減ったぶん、周囲の卓との間隔が少し広くなっている。
保護者たちの視線も自然と集まりやすい。
私は椅子へ座り、盤を見た。
凛々花は向かいで、すでに背筋を伸ばしている。
駒を並べる手つきが綺麗だった。
速すぎない。
だが迷いも少ない。
置く時の音が軽い。
年齢のわりに、手元がよく整っている。
私はそこでひとつ理解した。
この子は、家でも相当指している。
ただ好きなだけではなく、駒に触れている時間が長い手だ。
「お願いします」 凛々花が先に言った。 「……おねがいします」
頭を下げる。
顔を上げる。
盤の中へ入る。
初手から、嫌だった。
凛々花の駒組みは、月島美緒よりさらに“自分で選んでいる”匂いがした。
基礎は守る。
だが、要所で迷いなく前へ出る。
教わった形をただ再現しているのではない。
自分がいま、この局面で何をしたいかが手に乗っている。
私は数手進んだだけで、背筋の奥に冷たいものを感じた。
速い。
この子の将棋は、速い。
別に持ち時間の消費が速いわけではない。
局面の意味づけが速いのだ。
どこをぶつければこちらが嫌か、どこを開ければ景色が変わるか、その嗅覚が鋭い。
凛々花は飛車先を伸ばしながら、角道を通した。
ただし、そこで普通に仕掛けてくるわけではない。
一度こちらの応手を見て、それから銀の位置を変える。
私は内心で舌を巻いた。
その銀か。
年齢の割に、嫌な場所へ置く。
こちらの角筋と王の呼吸、両方に小さな圧がかかる。
今すぐ危ないわけではない。
だが、数手先で嫌になる形だ。
周囲の音が遠くなる。
父と母の気配も、今はもう盤の外に置いてある。
私は一手だけ、少し長く考えた。
受けるなら自然手はある。
だが自然手すぎて、相手の狙い通りでもある。
前へ出る手もある。
ただし、その場合はこちらの玉形が少し薄い。
――どちらでもない。
私は歩を一枚、端に近いところへ突いた。
盤面全体から見れば地味な一手。
だがこの歩が、数手後に玉の呼吸を増やし、さらに相手飛車の横利きに小さな楔を打つ。
凛々花の目が、一瞬だけ細くなった。
読んでいなかったのだろう。
だが驚いたというより、面白がっている目だった。
「へえ」
小さく漏れたその声に、私は内心で少しだけぞくりとした。
この子は、相手に予想外の手を指されると嫌がるより先に嬉しくなるタイプだ。
勝負師だ。
危ない相手だ、と改めて思う。
◇
中盤へ入るころには、局面は完全に凛々花の将棋になりかけていた。
表面的な駒得損は大きくない。
形勢を数字で出せるなら、まだ互角かもしれない。
だが盤上の呼吸は、明らかに向こうのものだ。
こちらが受けを選ぶたび、凛々花は次の嫌味を足してくる。
こちらが整えれば、その整いを外すように別の地点へ火をつける。
子どもの将棋とは思えないほど、攻めの焦点がぶれない。
前世の晩年、私はこういう相手に苦しめられた。
無理攻めではない。
ただし、こちらにとって気持ちよく受けさせてくれない攻め。
形が悪いようで悪くない。
荒いようで、芯だけは外していない。
そういう将棋は厄介だ。
凛々花の飛車が走った。
王手ではない。
だが次に角と連動すれば、一気にこちらの玉頭が薄くなる。
私は盤面を見つめながら、胸の奥で静かに認めた。
――強い。
本当に強い。
これまで当たった子たちとは種類が違う。
月島美緒が“自分の将棋を作り始めている子”だとしたら、御門凛々花は“自分の将棋に酔える子”だ。
それは危険で、魅力的で、何より伸びる。
私は一手、金を寄せた。
受けだ。
だが守るだけでは足りない。
ここから先は、受けながら流れを奪い返さなければならない。
凛々花はすぐに角を打ち込んできた。
鋭い。
盤面の一部だけ見れば、やや無理気味だ。
けれどこちらが最善を外せば、その瞬間だけ真理になる。
そういう踏み込みだ。
私は幼い身体の奥で、久しぶりに心臓が強く打つのを感じた。
絶体絶命、という言葉が頭をかすめる。
もちろん本当に詰みがあるわけではない。
だが気分としては近い。
ここで一手誤れば、そのまま相手の流れが本流になる。
――いい。
私は胸の中でそう呟いた。
いい局面だ。
怖いが、悪くない。
こういう将棋を指さなければ、私はまた時代に置いていかれる。
角の利き。
飛車の位置。
銀の支え。
王の逃げ道。
全部を数える。
そして私は、一見すると弱そうな一手を選んだ。
歩打ち。
ただの歩。
相手の角道へ、ちょこんと置かれる小さな一枚。
派手さも、格好良さもない。
だがこの歩が、凛々花の攻め駒同士の呼吸を半拍ずらす。
凛々花の指が止まった。
その止まり方で分かる。
嫌なのだ。
この一手が。
取れる。
取れるが、取ると飛車の利きが少し逸れる。
無視もできる。
だが無視すると、こちらの銀が働き始める。
小さな歩が、局面の温度を一度だけ下げた。
「……やるじゃない」 凛々花が小さく言った。
褒め言葉なのか、腹立ち紛れなのか、判然としない。
どちらでもよかった。
私はそこでようやく、ほんの少しだけ流れを取り戻した。
◇
将棋は不思議なもので、流れが一度戻ると景色まで変わる。
さっきまで窮屈だった玉形に、わずかな空間が見える。
こちらの遊び駒にも仕事が生まれる。
相手が圧力をかけていた線が、今度は逆に薄さを抱え始める。
もちろん、それだけで勝てるわけではない。
凛々花はすぐに攻め方を変えてきた。
飛車の直線ではなく、今度は銀を前へ出す。
角との連携を意識しながら、こちらの金の根元を狙う。
これも嫌な手だった。
私はまた受ける。
凛々花はまた攻める。
受ける。
攻める。
その応酬の中で、会場の空気が少しずつこちらへ寄ってくるのを感じた。
観戦している子どもがいる。
保護者も何人か、立ち止まっている。
スタッフですら、ときどきこちらを見ている。
長いからだろう。
このクラスにしては珍しく、どちらも簡単には崩れない。
父と母の姿も視界の端にあった。
父は明らかに息を止めている時間が長い。
母は表情を動かさないが、指先がバッグの持ち手をぎゅっと握っている。
――心配をかけているな。
そう思った瞬間、少しだけ心が揺れた。
まずい。
盤外へ意識を持っていかれると、こういう局面は危ない。
私はすぐに呼吸を整え直し、盤の中へ戻った。
凛々花は、そういう隙すら嗅ぎ取るように踏み込んできた。
飛車がさらに前へ。
ここで受けを誤れば、本当に玉頭が破れる。
私は一瞬だけ、前世の自分を呼ぶ。
最後まで読め。
見えていないのではなく、怖くて見たくないだけの筋がある。
それを見ろ。
盤面の上で、細い線が一本だけ浮かんだ。
角を切る。
普通なら子どもの将棋で選びにくい手だ。
駒損の匂いが濃いし、直感的に損に見える。
だが、その角を切ることで飛車の利きが歪み、次に銀が捌ける。
私は迷った。
迷いは本物だ。
演技ではない。
この年齢、この大会、この局面で、本当にその角切りを選ぶべきか。
選べば、さすがに“見えすぎ”かもしれない。
だが選ばなければ、苦しい。
勝つために自然さを装うか。
自然さを捨ててでも勝ちを取りにいくか。
答えは決まっていた。
私は角を切った。
会場の何人かが、小さく息を呑む気配がした。
凛々花の目が、はっきりと見開かれる。
「うそ」
小さな声。
しかしそこに怯みは少ない。
むしろ、血が騒ぐ音に近い。
凛々花はすぐに取り、私は用意していた銀を打つ。
銀が要の地点へ刺さり、相手の飛車と王の間に見えない棘が立つ。
さらに一手、金を寄せる。
景色がひっくり返った。
さっきまで私の玉へ向いていた圧力線が、今度は凛々花の陣に跳ね返っている。
完全な逆転ではない。
まだ細い。
だが、こちらの勝ち筋が初めて現実の形を持った。
凛々花は盤を睨んだまま、長く黙った。
その沈黙の中で、私は彼女の息づかいを聞いていた。
荒れてはいない。
でも浅い。
興奮しているのだ。
この子はやはり、追い詰められるほど将棋に熱を出す。
それが分かる。
「……まだよ」 やがて凛々花が言った。
負け惜しみではない。
本当に、まだなのだ。
彼女は受けた。
しかも、かなり良い受けだった。
こちらの銀に当て、同時に王の逃げ道を一つ増やす。
大人でも雑に処理しがちな局面で、その手を選ぶのは立派だ。
私はそこで、ほんの少しだけ笑いそうになった。
嬉しかったからだ。
強い。
本当に強い。
初めての大会で、こんな相手に当たれるのなら、今日は来た価値がありすぎる。
◇
終盤は、ほとんど息の奪い合いだった。
こちらが王手を含みにして迫れば、凛々花は受けながら嫌味を返してくる。
向こうの飛車はまだ生きている。
こちらの玉も、完全に安全ではない。
細い。
どちらの道も細い。
だが私は、こういう局面を知っている。
前世で何千局も潜ってきた。
そして晩年には、こういう局面で一手届かなくなって苦しんだ。
だからこそ、今は絶対に外さない。
凛々花が王を逃がす。
私は金を寄せる。
凛々花が飛車を打ち、最後の抵抗を見せる。
私は王をかわしつつ、次の詰みの形を読む。
詰み筋はある。
だが一直線ではない。
一歩間違えればこちらが嫌になる。
慎重に、しかし遅れずに。
最後の局面で、私は一枚の歩を打った。
また歩だ。
今日何度目か分からない、小さな歩。
けれどこの歩で、凛々花の王の逃げ道が完全に縛られた。
飛車でも角でもない。
金でも銀でもない。
最後に局面を殺すのは、やはり歩なのだ。
凛々花は盤を見つめたまま、しばらく動かなかった。
悔しそうだった。
でも、泣かなかった。
唇を結び、目を逸らさず、逃げ道を最後まで数えている。
その姿が、どうしようもなく美しいと思った。
「……負けました」
ようやく出た声は、小さいのに不思議とよく通った。
「……ありがとうございました」 私は頭を下げる。 「ありがとうございました」
終局。
勝った。
勝ったのに、息がすぐには整わない。
胸の奥で何かが激しく鳴っている。
身体の幼さもあって、本当にめまいに近い疲労が一気に押し寄せた。
でも、それ以上に強かったのは、別の感情だ。
見つけた。
そう思った。
勝った相手としてではなく、
初めて会った強敵としてでもなく、
もっと長く、自分の将棋の横を歩く存在として。
この子は、特別だ。
◇
席を立とうとした時、凛々花が先に口を開いた。
「次は勝つ」 それだけ言った。
私は少しだけ目を瞬かせる。
普通なら、悔しい、とか、惜しかった、とか、また指したい、とか、そういう順で言葉が出る。
この子は違う。
最初に出てくるのが、次は勝つ、だ。
私は思わず口元を緩めた。
「……うん」 「ほんとに」 「……わたしも、つぎも勝つ」 「生意気」
凛々花はそう言って、でも少しだけ笑った。
その笑顔は、さっきまでの鋭い顔とは別人みたいに幼かった。
年相応の、でも年相応に収まりきらない華がある。
負けたばかりなのに、完全には沈まない。
悔しさをちゃんと燃料に変えられる顔だ。
「りりか!」 遠くから保護者らしき女性の声がした。 「はい」 凛々花は返事をして立ち上がる。
けれど去る前に、一度だけ私へ振り返った。
「しおり」 「……なに」 「あなた、将棋好きでしょ」 「……すき」 「よかった」
それだけ言って、彼女は今度こそ去っていった。
よかった、の意味を私はすぐには測れなかった。
でも、少し考えて分かる。
好きな相手でよかった、ということだ。
勝ち負けだけの相手ではなく、盤そのものを好きな相手でよかった、と。
私も同じだった。
◇
父と母のところへ戻ると、二人ともすぐには言葉を出せなかった。
父は明らかに興奮している。
母は明らかにほっとしている。
だがどちらも、さっきまでの一局が簡単に「すごかったね」で済ませられないことを感じている顔だった。
「しおり」 母が先にしゃがんで、私の頬に手を当てた。 「大丈夫?」 「……だいじょうぶ」 「ほんと?」 「……つかれた」 「だよね」 父がようやく息を吐いた。 「いや……すごかった」
その“すごかった”は、今までより少し重い。
単に勝った負けたではなく、何かの境目を見た人の声だった。
「お水飲もう」 母が言う。 「うん」 私は素直に頷いた。
椅子に座って水を飲む。
喉を通る冷たさで、ようやく身体が今ここに戻ってくる。
対局中は完全に盤の中へ入っていた。
凛々花の将棋に、こちらも深く引きずり込まれていた。
「相手の子、強かったね」 父がぽつりと言う。 「……うん」 「なんか、雰囲気あった」 母も静かに言った。
私は水筒を両手で抱えたまま、小さく頷いた。
強かった。
本当に強かった。
あれで終わりではない。
きっと次に会う時は、もっと強くなっている。
負けた悔しさを、そのまま次の将棋へ持っていける子だ。
しかも、ただ悔しがるだけではなく、相手の将棋をちゃんと見ている。
恐ろしい。
そして、たまらなく楽しみだ。
「おともだちになれそう?」 父が無邪気に聞いた。
私は少しだけ考えた。
友達。
そう呼べるのかもしれない。
けれど、それだけでは足りない気もした。
盤の前では敵だ。
でもただの敵とも違う。
負けてほしくないが、自分には負けてほしい。
強くなってほしいが、自分より先へは行かせたくない。
そんな相手を、何と呼べばいいのか、まだ私は知らない。
「……わかんない」 結局そう答えると、父は「そっか」と笑った。 「でも、また会いそうだね」 母が言う。
私はその言葉に、今度ははっきり頷いた。
「……うん」
また会う。
間違いなく会う。
今日の一局だけで終わる相手ではない。
教室が違っても、住む場所が少し離れていても、大会のどこかで必ずまたぶつかる。
そういう確信があった。
たぶん、長くなる。
長く、互いを見失えない関係になる。
◇
その後の対局について、私はあまり鮮明には覚えていない。
もちろん勝った。
勝って、この大会を優勝した。
それは事実だ。
けれど記憶に強く残っているのは、表彰の瞬間でも、賞状を受け取った時でもない。
御門凛々花と向かい合っていた時間の方だ。
表彰台の下から、彼女はじっとこちらを見ていた。
悔しそうで、でも目は死んでいない。
むしろあの悔しさを丸ごと燃やして、次に持ち込む気配がある。
私は賞状を抱えながら、その視線を受け止めた。
負けない。
次も。
その次も。
胸の中でそう誓う私に対し、凛々花もまた同じことを考えているのだろうと思った。
会場を出る頃、夕方の光がガラス越しに長く伸びていた。
父は上機嫌を抑えきれず、母はそんな父を半分あきれながらもどこか誇らしげに見ている。
私は二人の間を歩きながら、賞状の端を指でなぞった。
優勝。
初めての大会。
黒星なし。
結果だけ見れば、きれいな一日だ。
だが中身は違う。
ギリギリだった。
とくに凛々花との一局は、わずかに受けを誤れば、そのままこちらが苦しくなる筋がいくつもあった。
いい。
それでいい。
私はそういう将棋を求めている。
楽勝ではなく、絶体絶命の気配を嗅ぎながら最後に勝つ将棋を。
そうやってでしか、前世の古さを削れない気がするからだ。
「しおり、今日は頑張ったね」 母が言った。 「……うん」 「えらかった」 父も言う。 「……うん」
短く返事をしながら、私は会場の入口をもう一度振り返った。
人の流れの向こう。
ガラスの反射の奥。
そこに凛々花の姿はもう見えなかった。
けれど、不思議と寂しくはない。
いないのに、また会うと分かっているからだ。
将棋の世界は広いようで狭い。
特に強い者同士は、嫌でもぶつかる。
まして、あれだけ濃い視線を持つ相手ならなおさらだ。
御門凛々花。
その名前を、私は胸の中で静かに繰り返した。
気に食わない。
強い。
華がある。
負けず嫌いだ。
そして、将棋が好きだ。
最悪で、最高の出会いだった。
父の手が私の頭をそっと撫でる。
母が歩幅を合わせる。
夕方の風は少し涼しく、戦いの熱をゆっくりさらっていく。
私は二人の温かい手の間で、初めてはっきり理解した。
この先、私は一人ではない。
家族がいる。
そして盤の上には、ずっと追いかけてくる誰かがいる。
それはきっと、強くなるということだ。
ただ上へ登るのではなく、隣に並ぶ影を持ちながら進むこと。
天羽しおりの二度目の将棋人生は、この日、初めて本当の意味で始まったのかもしれない。
勝つだけではなく、
追われ、追い、測られ、測り返す長い物語として。
私は夕焼けの中で小さく拳を握る。
次も勝つ。
でも、次は今日よりもっと難しくなる。
あの子がいる限り、きっとそうだ。
それでいい。
むしろ、その方がいい。
御門凛々花。
長く、共に戦うことになる名を胸に刻みながら、私は静かに家路へついた。
### あとがき
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。
また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。
「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。
いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。
それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!