朝、目が覚めて見慣れない天井を見上げた瞬間、昨日までとは少し違う感覚が胸の奥から湧いてきた。
「……今日ですね」
函館のホテル。
メイクデビュー当日。
別に眠れなかったわけではなく、ブルボンさんから指定された時間にはきちんと寝たし、夜中に目を覚ますこともなく、朝までぐっすり眠ることができた。
身体も軽く、脚にも違和感はない。
体調はかなりいい。
それでも少し落ち着かないのは、今日走るレースが初めて正式な戦績として記録されるからなのだろう。
入学試験も走った。
選抜レースも走った。
タイキやスズカさんたちとも何度も競った。
でも、それらはどれだけ速く走ってもピュアホワイトという競走ウマ娘の戦績には残らない。
今日からだ。
「一戦目」
口にすると、急に実感が湧いてくる。
ベッドから降りて、軽く身体を伸ばす。
脚を曲げ、腰を回し、腕を伸ばしてから窓の外を見ると、函館の朝は東京より少し涼しく感じられた。
朝食は自分で少しだけ控えめにした。
「量が通常より少ないですね」
向かいに座るブルボンさんがすぐに気づく。
「はい。今日はこれくらいでいいです」
「理由を確認します」
「レース前にお腹いっぱいなの、嫌なので」
普段のボクなら朝からかなり食べる。
育ち盛り。
トレーニング量も多い。
食べなければ身体がもたない。
でも今日は千メートル。短いとはいえ全力で走る。
「必要な栄養は昨日までに取ってますし、終わったら食べますよ」
「レース後の補給は予定されています」
「なら問題ないでしょう?」
ブルボンさんが少しだけ考える。
「現在の摂取量であれば許容範囲です。ただし水分は減らさないでください」
「はい」
そこは素直に従う。
「終わったら海鮮ですよね?」
「夕食です」
「昼も食べます」
「必要量を摂取してください」
「勝ったらいっぱい食べます」
「勝敗と摂取量に相関はありません」
「気分の問題です」
勝って食べる。
完璧である。
函館レース場へ着くと、昨日下見した時とはまるで違う場所に感じられた。
人がいる。
歓声が聞こえる。
場内放送が流れている。
芝の向こうではすでに別のレースへ向かうウマ娘たちが動いていて、観客席からは絶えずざわめきが降ってくる。
「……いいですね」
「緊張していますか?」
「少し」
でも嫌な緊張ではない。
「早く走りたいです」
「確認しました」
ブルボンさんは相変わらずだった。
まず装鞍所へ向かう。
名前を確認され。
出走レースを確認され。
ゼッケン。
競技用ウェア。
シューズ。
装飾品。
髪や尻尾が走行を邪魔しないようになっているかまで、一つずつ確認される。
「六番、ピュアホワイト。問題ありません」
「ありがとうございます」
時間をかけて選んだ競技用ウェアの着心地は抜群である。来ている違和感がなさ過ぎて全裸のように感じる問題があるだけだ。
選ぶ時にはずいぶん悩んだが。
「やっぱりこれで正解でしたね」
「走行性能については問題ありません」
「見た目も」
「評価対象外です」
「まだ言うんです?」
軽く屈伸。
足首。
膝。
腰。
肩。
その場で数度跳ねてから、短く腿を上げて動きを確認する。
「違和感なし」
「心拍数は正常範囲です」
「はい」
「体調は?」
「かなりいいです」
「確認しました」
この辺りまで来ると、少しずつ頭がレースへ切り替わっていく。
余計なことを考えなくなる。
パドックへ出る。
歓声が一段大きくなった。
「……おお」
何度もテレビ越しに見た光景。
参加者が周回してその日の状態を観客が見る場所。
でも今歩いているのはボクだ。
今日の出走者は十二人。
全員メイクデビュー。
全員まだ公式戦績はゼロ。
周囲を見る。
かなり緊張している子。
何度も深呼吸している子。
逆に興奮しているのか、脚取りが少し速くなっている子。
前を行くウマ娘へ妙に近づいてしまい、係員に少し間隔を空けるよう言われている子もいる。
「……」
初戦。
ボクだけではない。
みんな初めてなのだ。
「あれ、ピュアホワイトじゃない?」
「ライスシャワーの娘」
「白いね」
「小さいな」
「選抜でかなり速かったって聞いたけど」
声が聞こえる。
思ったより名前を知られている。
「有名ですね、ボク」
ちょっと嬉しい。
ただ。
「千メートルなら厳しいんじゃない?」
「身体小さいし」
そういう声もある。
「……」
構わない。
十数分後には分かる。
身体をほぐしながら、周囲の歩き方を見る。
今日の距離は千メートル。
短い。
最初から速度が出る。
そのせいか、明らかに前へ行きたそうな子が多い。
一人。
二人。
三人。
「結構飛ばしそうですね」
ブルボンさんが柵越しにこちらを見る。
「ピュアホワイトさん」
「はい」
「他者への観察時間が長くなっています」
「ばれました?」
「自身の状態を優先してください」
「了解です」
脚。
問題なし。
呼吸。
問題なし。
身体も軽い。
パドックを終え、地下通路からコースへ出る。
視界が一気に開ける。
緑の芝。
観客席。
函館の空。
そして、そこから降ってくる大きな歓声。
「……これですね」
さっきまでとは違う。
ここは走る場所だ。
芝へ脚を入れる。
一歩。
二歩。
昨日確認した感触と大きくは変わらない。
軽く速度を上げる。
「っ」
数十メートル。
まだ流す程度。
脚の回転。
腕振り。
重心。
問題ない。
少しだけ加速してすぐ戻す。
「いいですね」
身体がもっと走りたがっている。
「まだです」
自分へ言う。
今本気で走ってどうする。
ブルボンさんを見る。
小さく頷いている。
最後の確認。
「作戦の変更は?」
「ありません」
「自由に?」
「展開を観察し、自身で判断してください」
「先頭に行っても?」
「問題ありません」
「控えても?」
「問題ありません」
「最内に突っ込んでも?」
「安全を確保できる場合に限ります」
「了解です」
つまり自分で考えろ。
好きである。
ゲートへ向かう。
六番。
一人ずつ入っていく。
中へ入るとさすがに少し狭い。
「……」
左右の呼吸が聞こえる。
隣の子は明らかに緊張していて、身体に少し力が入りすぎている。
反対側は前しか見ていない。
ボクも正面を見る。
千メートル先のゴール。
やがてファンファーレが鳴った。
「……っ」
少しだけ鳥肌が立つ。
自分が走るレースのファンファーレ。
これはいい。
自然に口元が緩んだ。
ゲートの中。
一瞬。
全部が静かになったように感じる。
そして開いた。
「っ!」
スタート。
身体を前へ。
出はいい。
「速っ」
左右から一気に三人が出る。
さらに外から一人。
最初から明らかに速い。
速すぎる。
ボクは五番手につける。
「……」
追わない。
いや。
追う必要がない。
千メートルだから遅れたら終わる。
そう思っているのだろう。
前の四人が競うように加速する。
一人が前へ出る。
もう一人が抜き返そうとする。
外の子までさらに前へ。
「速すぎますね」
身体の中の時計が言っている。
ブルボンさんに何度も何度も叩き込まれた感覚。
今の速度は速い。
ボクより速いという意味ではない。
千メートルを走る速度として序盤から力を使いすぎている。
第三コーナーへ入る。
前の一人が焦ったようにさらに速度を上げた。
「そこで?」
コーナーに入りながら加速。
当然、身体には外向きの力、遠心力がかかる。
「っ!」
その子が外へ膨らむ。
さらに隣を走っていた子までそれに合わせるように外へ逃げた。
二人。
三人。
コーナーなのに外側へ。
「もったいない」
外へ膨らめばその分だけ長く走る。
それでも前へ行きたいからさらに力を使う。
悪循環だ。
ボクが選ぶのは
「ここですね」
最内。
みんなが外にぶれたおかげで前が空いた。
スパートの姿勢に入る。
ただ、全力では加速しない。
身体を内側へ少し傾け重心を落とす。
足の置き場所。
一歩。
次の一歩。
コーナーは速く走るだけでは駄目だ。
どこへ脚を置くか。
どこへ身体を預けるか。
どの角度で入ってどこから立ち上がるか。
ブルボンさんと何度やったと思っている。
「よし」
最内の最短距離。
前の一人を抜く。
四番手。
外ではまだ二人が横並びで走っている。
さらに一人。
三番手。
「っ!?」
外側のウマ娘がこちらを見る。
多分、どうして抜かれたのか分からなかったのだろう。
ボクはほとんど加速していない。
ただ内側を無駄なく走っただけ。
それだけで、それまで彼女らが頑張って気づいたリードは無に帰した。
コーナー出口。
「ここ」
身体を起こす。
直線へ。
外には二人。
ただし
「もう苦しいでしょう」
一人は肩が上がっている。
もう一人も脚の回転が乱れている。
残り200。
函館の直線は短い。
だが
「行きます」
十分だ。
本格的に力を入れる。
地面を蹴る。
一歩。
速度が上がる。
二歩。
前との差が縮む。
三歩。
並ぶ。
「っ!」
抜く。
二番手。
先頭の子がさらに前へ行こうとする。
でももう。
序盤に使いすぎた。
「お疲れさまです」
横へ。
そして抜いた。
先頭。
残り百。
「……」
前に誰もいない。
視界が開く。
スズカさんが好きな景色。
「なるほど」
確かに。
いい。
でも今日は景色を楽しみに来たわけではない。
「まだありますよ」
全開。
脚を回す。
もっと。
もっと。
後ろから足音が遠ざかっていく。
『ピュアホワイト先頭!』
実況が聞こえる。
『内を鮮やかに抜けて先頭! 後続との差を広げる!』
「っ!」
フォーム。
崩さない。
腕。
腿。
背中。
呼吸。
ブルボンさんから散々言われた。
疲れた時ほど。
雑にしない。
『五バ身!』
まだ。
『六バ身!』
ゴールが近づく。
「――っ!」
そのまま駆け抜けた。
ゴール。
「……」
数歩。
速度を落とす。
「はっ……はっ……」
息は上がっている。
でもまだ余裕がある。
振り返る。
次の子が今ゴールした。
「……結構つきましたね」
勝った。
分かっていた。
「勝ちましたね」
口にすると少し違う。
選抜じゃない。
模擬でもない。
正式な一勝。
「一戦一勝」
自然に笑った。
「いいですね」
観客席の前を通る。
歓声。
「ホワイトちゃーん!」
「……」
聞こえた。
「声大きいですね」
絶対ママだ。
探す。
いた。
車椅子のママ。
隣にお父さん。
ママ。
もう泣いている。
「早いでしょう」
まだメイクデビューだ。
お父さんは片手を上げている。
ボクも上げる。
ママは両手を大きく振っている。
「……まあ」
悪くない。
戻るとブルボンさんが待っていた。
「お疲れさまでした」
「はい」
「一着を確認しました」
「見れば分かりますよ」
「走行内容を確認します」
「まず褒めるところじゃないです?」
「スタート反応、良好」
「はい」
「序盤、前方四名のオーバーペースを認識」
「はい」
「追走せず、予定範囲内の速度を維持」
「はい」
「第一コーナーで前方三名が外側へ逸走」
「逸走ってほどじゃないでしょう」
「走行ラインの乱れです」
「はい」
「ピュアホワイトさんは最内を維持」
「はい」
「コーナリング時の速度低下、想定以下」
「つまり?」
「良好です」
「もっと褒めても」
「さらに、コーナー出口からの加速開始位置も適切でした」
「完璧?」
「設定した課題はすべて達成しています」
「つまり完璧」
「非常に良好です」
「ほぼ完璧ですね」
それでいい。
「着差は?」
「七バ身です」
「おお」
思ったよりついた。
「コーナーで稼げましたね」
「はい。純粋な最高速度差だけではありません」
「でしょう?」
そこは大事だ。
「前方の選手は序盤に過剰な加速を行い、さらにコーナーで外へ膨らんだことで距離的損失も発生しています」
「ボクは内」
「はい」
「つまり技術の勝利」
「身体能力差も大きく影響しています」
「そこは言わなくても」
「事実です」
「はいはい」
でも満足だ。
速いだけではない。
今までやったことがちゃんと使えた。
「ホワイトちゃん!」
「来ましたね」
ママ。
お父さんが車椅子を押している。
「ホワイトちゃん! すごかった!」
「ありがとうございます」
「速かった!」
「知ってます」
「コーナーすごかった!」
「そこ見てました?」
「見てたよ!」
ママが興奮している。
「みんな外に行ったのに、ホワイトちゃんだけ内からすーって!」
「ふふん」
よく見ている。
「かっこよかった!」
「知ってます」
「かわいかった!」
「それも知ってます」
「全部自分で認めるのか」
お父さん。
「事実ですから」
ママの目はやっぱり赤い。
「泣きました?」
「ちょっとだけ」
「早いですよ」
「だって」
ママが笑う。
「ホワイトちゃんの最初の一勝だもん」
「……」
そう言われると。
「そうですね」
これから。
何勝するかは知らない。
十。
二十。
もっと。
でも。
最初の一勝は。
今日だけだ。
「お父さんは?」
「よかった」
「お」
珍しく素直。
「特にコーナーだな」
「でしょう?」
「前に釣られなかったのもいい」
「はい」
「昔なら追いかけただろ」
「昔のボクを何だと思ってるんです?」
「前にいる奴は全部抜きに行く奴」
「今も抜きますよ」
「タイミングを考えるようになったって話だ」
「なるほど」
それなら。
成長している。
「次はもっと強い相手と走ることになるぞ」
「もちろん」
それがいい。
「ところでホワイトちゃん」
「はい?」
「この後ライブだよね?」
「……」
そうだった。
「ウイニングライブ」
「センターだね!」
ママが嬉しそう。
「……」
レースより。
少し緊張してきた。
「ホワイトちゃん?」
「走るのはいいんですけど」
「うん」
「なんで勝った後に歌って踊るんです?」
「今さら!?」
分かっている。
トゥインクル・シリーズの文化。
上位入着者による。
ウイニングライブ。
授業でも練習した。
でも
「実際自分がやるとなると変な感じですね」
数時間後。
ライブ用の衣装へ着替える。
へそや太ももがまぶしい衣装だ。
「……」
鏡を見る。
「似合いますね」
「さっきも言ってなかった?」
二着だった子が横から言う。
「似合うので」
「すごいね、その自信」
「便利ですよ」
三着の子はかなり緊張している。
「無理かも……」
「大丈夫ですよ」
「一着の人が一番平気そう」
「ボクも少し緊張してます」
「嘘」
「本当です」
レースとは違うからね。
ステージ袖。
観客の声が聞こえる。
さっきまで一緒に走って勝負して。
今度は一緒に歌う。
「変な感じですね」
「初めてだとそうかも」
「二人も初めてでしょう」
「あ」
全員メイクデビューだった。
顔を見合わせる。
「……頑張りましょうか」
「うん」
「はい」
音楽が始まる。
「行きます」
ステージへ出る。
眩しい。
歓声。
「……」
センター。
ここが今日勝ったボクの場所。
一度息を吸う。
曲が始まる。
身体を動かす。
歌う。
踊る。
思ったよりちゃんと動く。
レースとは違うが使っている身体は同じだ。
「……楽しいですね」
観客がいる。
手を振る。
歓声が返ってくる。
名前を呼ばれる。
走っている時とは全く違う。
でもこれはこれでかなりいい。
客席を見る。
ママ。
また泣いている。
「……」
今日何回泣くつもりだろう。
干乾びないか心配だ。
お父さんは笑っている。
なら。
振り付けの中で観客席へ手を伸ばす瞬間。
少しだけママの方を見る。
笑う。
「――♪」
遠くても分かった。
ママ。
さらに泣いた。
「……まあいいか」
嬉し泣きなら。
曲が終わる。
ポーズ。
大きな歓声。
「ピュアホワイト!」
「……」
自分の名前が聞こえる。
悪くない。
いやかなりいい。
ステージから下がる頃には最初の緊張など消えていた。
「ウイニングライブ」
小さく呟く。
「結構好きかもしれません」
「さっきまで嫌そうだったのに」
二着の子が笑う。
「やってみないと分からないこともあります」
「またセンターやりたい?」
「もちろん」
即答。
「じゃあまた勝たないとね」
それは非常に分かりやすい。
ホテルへ戻った後、公式記録を見る。
ピュアホワイト。
一戦一勝。
昨日まではゼロだった。
今日ついに一つ増えた。
「いいですね」
今まで覚えてきたことを全部使って勝った。
「次も」
そしてその次も。
この数字を増やしていく。