夏合宿を終えたボクの次走として選ばれたのは、京都芝千六百メートル、G2デイリー杯ジュニアステークスだった。
函館のメイクデビューは千メートルだったので一気に六百メートル伸びることになる。
けれど、距離に対する不安はほとんどない。
無人島で山を走り、木材を運び、家を建て、一晩で育った野菜を収穫し、ダチョウと競走し、海賊と海上レースをしている間に、どういうわけか身体能力全般が大きく向上していたからだ。
「夏合宿前との比較では、速度、加速力、持久力、筋力、姿勢安定性のすべてで明確な向上が確認されています」
「無人島ってすごいですね」
「因果関係は確認されていません」
「まだ認めないんです?」
「建築、農作業、ダチョウとの競走、海賊との海上レース、および海面を蹴ったことで発生した現象について、競走能力向上との合理的な因果関係を説明できません」
「全部ものすごく頑張りましたよ」
「説明として不十分です」
ブルボンさんは無人島から帰ってきて以来ずっとこの調子だったけれど、本人が納得していなくても数字はきちんと伸びているし、何よりボク自身が走れば以前との違いをはっきり感じられる。
今までなら少し力を使って維持していた速度が自然に出せるようになり、コーナーで姿勢が乱れてもすぐに戻せるようになり、最後にもう一段上げようと思った時にも、身体が素直にそれへ応えてくれる。
「千六百メートルを走るための能力は?」
「十分です」
「今回勝てます?」
「出走予定者との比較では、高い勝率が予測されます」
「そこは一着と言い切ってくださいよ」
「競走結果の断定はできません」
「堅いですね」
「トレーナーですので」
正式な担当トレーナーだったと知ってからもブルボンさんは何一つ変わらず、ボクも最初こそ少し妙な感じがしたものの、結局は今まで通り走って、食べて、寝て、また走る生活を続けている。
その成果が公式の千六百メートルでどのくらい通用するのか、今回のデイリー杯はそれを確認するための一戦でもあった。
そして結果から言えば。
確認するまでもなかった。
G2ともなれば、メイクデビューとはパドックの空気から少し違い、周囲を歩いている子たちも明らかに落ち着いていて、身体つきも走り方もそれなりに完成している。
観客席から聞こえてくる声も変わっていて、以前なら「ライスシャワーの娘」という言葉が多かったのに、今は「函館で七バ身差をつけたピュアホワイト」というボク自身の実績を口にする人が増えていた。
「ちゃんとボク本人が有名になってきましたね」
「競走実績による認知度上昇と推定します」
「そのうちかわいさでも有名になります」
「今回の競走とは無関係です」
「長期目標です」
ゲートへ入る。
千六百メートル。
もうメイクデビューの時のように、これが公式戦なのだと妙に意識して落ち着かなくなることもない。
やることは分かっている。
今の身体で普通に走る。
そして勝つ。
ファンファーレが鳴り、少しだけ身体の奥が熱くなって、やがてゲートが開いた。
スタートは良好。
周囲も速いけれど、メイクデビューの時のように焦って前へ殺到する子はおらず、それぞれが無理のない範囲で位置を取りながら、自然に隊列が作られていく。
だからボクも特別なことはしなかった。
前へ出すぎず、下がりすぎず、周囲を見ながら一番走りやすそうな場所へ入り、コーナーでも余計な距離を走らない程度に内側を使いながら進んでいく。
残り八百。
楽。
残り六百。
まだ楽。
残り四百で直線へ向き、前には三人。
「じゃあ」
行こう。
身体を少し前へ預け、脚へ力を入れると、自分でも笑いたくなるくらい素直に速度が上がった。
一人。
二人。
それまで前を走っていた子たちをほとんど抵抗なく抜いていき、残り二百へ入る前には先頭へ並んでいる。
そこからさらにもう一段だけ上げる。
後ろの足音が遠くなる。
苦しくないわけではないけれど、以前なら最後に少し乱れていたフォームも崩れず、まだ身体には余裕が残っている。
「……まだ出ますね」
そのままゴール。
一着。
圧勝だった。
速度を落としながら後ろを見ると、二着の子はまだかなり遠く、メイクデビューより相手の完成度が明らかに上がっているのに、結果としてはむしろ簡単に勝てたように感じる。
「強くなりましたね、ボク」
素直にそう思った。
函館では相手が序盤に飛ばしすぎたり、コーナーで外へ膨らんだりしたところを上手く利用して勝ったけれど、今日はそんな必要すらなかった。
相手は普通に走った。
ボクも普通に走った。
そして普通に大きく離した。
「ピュアホワイトさん」
「はい」
「一着を確認しました」
「見れば分かります」
「千六百メートルでの走行内容も良好です。最終区間の速度、速度維持時間、走行後の余力、すべて夏合宿前の記録を上回っています」
「つまり?」
「身体能力について、十分な成長を確認しました」
「無人島」
「認めません」
「頑固ですね」
とはいえそこまでは大満足だった。
二戦二勝。
G2も圧勝。
千六百メートルにも問題なし。
夏合宿で強くなった身体は、少なくとも普通のジュニア級相手なら十分以上に通用する。
そして次に待っているのは、朝日杯フューチュリティステークス。
相手は。
タイキシャトル。
学園へ戻った翌日、ブルボンさんと一緒に、まずは現在の能力を改めて比較することになった。
「身体能力だけを比較した場合、現状では大きな差はありません」
「本当に?」
「はい」
端末を見る。
速度。
加速力。
持久力。
瞬発力。
それぞれ多少の得意不得意はあるけれど、全体として見ればほぼ五分と言っていい。
「夏合宿前は、タイキの方が結構上でしたよね」
「はい」
「追いつきましたね」
「身体能力については」
「またそこ強調します?」
「重要な点です」
分かっている。
数字が並んだからといって同じレースをすれば同じように走れるわけではない。
「差があるのはマイル」
「はい」
「もっと正確には?」
「マイル競走におけるセンスです」
「ですよね」
タイキは千六百メートルを走るのが異常に上手い。
天才である。
どういう速度で入ればいいのか。
どこにいればいいのか。
前の子との距離をどのくらい取ればいいのか。
どこで速度を上げればいいのか。
誰かが動いたらどうするのか。
そういうことをいちいち考えているようには見えない。
「自然に正解引くんですよね」
「ほぼ間違いなく最適な判断を選択しています」
「本人に聞いても『いい感じだったから』としか言わないんですけどね」
タイキは頭が悪いわけではない。
ただレースになると考えるより先に身体が答えを選ぶ。
それがすべて正しい。
「ボクは?」
「高水準です」
「タイキは?」
「上です」
「はっきり言いますね」
「事実です」
「まあ、知ってます」
直線だけ全力で走れば。
今なら多分ほぼ互角。
ボクが勝つ時もあれば、タイキが勝つ時もあるくらいまで来ていると思う。
でも千六百メートルという一つのレースにすると。
まだタイキの方が強い。
「同じ能力でも、使い方が上手い」
「その認識で問題ありません」
「才能ですね」
「先天的要素と経験による学習の両方が含まれていると推定します」
「一か月くらいで同じところまで行けます?」
「保証できません」
「ですよね」
ならそこを何かで埋めるしかない。
タイキがレース中の一瞬で選べるなら。
ボクはその前に考える。
タイキが勘で答えを出せるなら。
ボクは準備しておく。
戦略。
戦法。
トレーニング。
使えるものは何でも使う。
「それで」
「はい」
「タイキの一番面倒なところなんですけど」
ホワイトボードへ書く。
『先行』
「これですよね」
「はい」
タイキの基本的な走り方。
前へ行く。
ただし逃げるほど前ではない。
何人かを前に置き、いつでも動ける場所にいて、直線へ入ればそこから加速する。
「隙が少ないんですよね」
「先行策は展開による不確定要素を比較的受けにくい戦法です」
「後ろから来る子なら、まだいいんですけど」
どれだけ強くても後ろにいれば。
前が壁になるかもしれない。
仕掛けが一瞬遅れるかもしれない。
前が思ったより止まらないかもしれない。
紛れがある。
でもタイキは最初から前にいる。
「逃げみたいにずっと風を受けるわけでもない」
「はい」
「進路も見つけやすい」
「はい」
「何かあればすぐ動ける」
「はい」
「そのくせ最後がものすごく速い」
「はい」
「ずるくないです?」
「不公平とは評価できません」
「知ってます」
問題はどうするか。
「逃げます?」
書く。
『逃げ』
「タイキより前へ行って、そのまま捕まらない」
「実行可能です」
「お」
「ただし、タイキシャトルさんがピュアホワイトさんの後方を利用する可能性があります」
「ああ」
ボクが先頭。
風を受ける。
ペースも作る。
タイキはその後ろ。
「ボクが頑張って走りやすいレース作ってあげることになりますね」
「その可能性があります」
「嫌ですね」
却下まではしないけれど。
候補としては弱い。
次。
『後方』
「最後に全部抜く」
「実行可能です」
前半を控えて最後に一気に加速する。
走り自体はできる。
「……でも展開上の不確定要素が増加します」
「ですよね」
わざわざ。
前にいる一番強い相手へ。
距離を与えてどうする。
次。
『超スロー』
「最後だけにします?」
「タイキシャトルさんの加速力を最大限活用する可能性があります」
「ボクも速いですよ」
「はい」
「でもセンスが向こう」
「はい」
「じゃあタイキが一番気持ちよく走る可能性ありますね」
「高いと推定します」
「嫌です」
次。
『ハイペース』
「最初から速くして、余計な判断する暇なくします?」
「身体能力がほぼ同等である以上、ピュアホワイトさんも同程度の負荷を受けます」
「最後は?」
「マイル競走におけるペース判断ではタイキシャトルさんが優位です」
「むしろ向こうが得しそう」
「可能性があります」
次。
『途中でペース変更』
「速くして、遅くして、また速く」
「検証します」
走った。
「……疲れました」
「消耗量増加を確認しました」
「タイキなら?」
「変化を察知し、追従するか、あえて追従しない判断を選択する可能性があります」
「どっちすると思います?」
「状況によります」
「本人は?」
「感覚的に選択すると推定します」
「一番嫌な答えですね」
つまり。
罠を仕掛けても勘で避けてくるかもしれない。
次。
『早めスパート』
「コーナーから一気に行く」
「長い速度勝負になります」
「身体能力は五分」
「はい」
「その場合?」
「五分です」
「センス差を消せる?」
「開始位置をピュアホワイトさん側から選択できる点は利点です」
「お」
「ただしタイキシャトルさんが即座に反応した場合、その利点は逆転しかねません」
「ですよね」
次。
内を取る。
外から行く。
少し前へ出る。
タイキの前に入る。
離れた位置から走る。
コーナーで先に動く。
直線まで動かない。
いろいろ試した。
実際に走ってみる。
ブルボンさんが記録する。
終わったら話す。
「これなら?」
「タイキシャトルさんが早期に反応した場合――」
「ああ、追いつかれる」
「はい」
「じゃあこっち」
「タイキシャトルさんが先に前方へ進出する可能性があります」
「それもやりそう」
「はい」
「難しいですねぇ」
案を出して。
走って。
消す。
また考える。
そうしていくうちに分かったことがある。
「タイキを、作戦通り動いてくれる相手だと思ったら駄目ですね」
「理由を」
「普通、こっちが何かしたら、相手がどう反応するか考えるでしょう?」
「はい」
「でもタイキ、こっちの予想と違うことを普通にやりそうです」
「同意します」
ボクが逃げた。
なら追う。
ボクが下がった。
なら前へ出る。
ボクが早く動いた。
ならついてくる。
そう決まっていれば。
対策もできる。
でも。
「その場で一番よさそうなことを選びますよね」
「はい」
「しかも理由は」
「『そちらの方が良いと感じたため』となる可能性があります」
「嫌ですねぇ」
閃き。
勘。
センス。
こっちが何時間も考えた策を。
一瞬で崩される可能性がある。
「戦略、戦法、準備で埋めるつもりなのに、戦略に頼りすぎると逆にタイキのセンスに捕まりそうですね」
「その可能性は考慮すべきです」
「じゃあ」
どうする。
しばらくホワイトボードを見る。
書いて。
消して。
また書いた跡ばかり。
「ブルボンさんなら、どうします?」
「私ですか」
「はい。今のボクでタイキに勝つなら」
ブルボンさんが少し考える。
そして。
今まで書いた案とは別に新しく一つ。
『マーク』
と書いた。
「……マーク」
「はい」
「タイキを?」
「タイキシャトルさんをレース全体の基準とし、可能な限り近い位置を維持します」
「ずっと見る」
「はい」
「タイキが動いたら?」
「追従します」
「仕掛けたら?」
「その動きを確認して判断します」
「なるほど」
少し考える。
「それ」
「はい」
「タイキのセンスを利用できますね」
「その通りです」
タイキがいい位置を選ぶ。
なら近くにいる。
タイキがこのタイミングだと判断する。
なら見逃さない。
「本人が正解を選ぶなら」
「はい」
「ボクがそれを見る」
「はい」
「ずるいですね」
「戦法です」
「褒めてます?」
そしてブルボンさんは続けた。
「マーク戦法はライスさんが得意としていた戦法でもあります」
「ママが」
「はい」
もちろん知識としては知っている。
前世の知識もある。
でもブルボンさん本人の口から聞くと少し違う。
「私も一度、その戦法によって敗北しています」
「……ああ」
説得力が急にものすごくなった。
「ライスシャワーさんは最も警戒すべき相手を定め、その相手との位置関係を維持しながら走ることを得意としていました。相手が動いた際にも反応が早く、最後まで標的から離れません」
「ママ、結構いやらしいですね」
「高い集中力と観察力を必要とする戦法です」
「褒めてます?」
「はい」
「本人に言ったら否定しそう」
「可能性があります」
多分『ライス、そんな怖いことしてないよ?』とか言う。
「ボクには?」
「高い適性があると判断します」
「観察?」
「はい。周囲を観察しながら自身のペースを維持する能力、位置取り、距離感覚、そして集中力。いずれも高水準です」
「……」
タイキの近くへつく。
見る。
あの子のセンスを。
直接。
「有力ですね」
「はい」
それは今まで考えた中でもかなり。
「ただ」
「はい」
「最後は?」
「ピュアホワイトさん自身が勝ってください」
「そこは結局そうなるんですね」
「最終局面では自身の能力が必要です」
「まあ」
身体能力はほぼ五分。
なら。
最後に並べれば。
「勝てる可能性はある」
「はい」
「でも、タイキが一番気持ちよく走れる位置にずっと付き合うことにもなる」
「その側面はあります」
「……」
悪くない。
かなりいい。
ママが使った。
ブルボンさんを倒した。
ボクにも適性がある。
しかも。
タイキのマイルセンスを利用できる。
「考えておきます」
「推奨します」
その文字は消さなかった。
『マーク』
ホワイトボードに残る。
デイリー杯ジュニアステークス。
圧勝。
二戦二勝。
身体能力はかなり強くなった。
タイキとももうほとんど五分。
でもマイルで走るセンスは向こうが上。
その差をどう埋めるか。
逃げ。
後方。
ペース。
早仕掛け。
そして。
マーク。
どれもできる。
どれも絶対ではない。
「難しいですね」
「はい」
「朝日杯まで、まだありますよね」
「はい」
なら。
もう少し考える。
答えは。
まだ出さなかった。