皐月賞を勝った。
だからといって、翌日から急に人生が変わるわけではない。
授業はあるし、ブルボンさんのトレーニングもあるし
ただ、周囲から向けられる視線と、名前を呼ばれる回数だけは明らかに増えた。
久しぶりに実家へ帰った休日。
「皐月賞のお姉ちゃんだー!」
父の仕事場へ顔を出した途端、子供たちに囲まれた。
「はい。皐月賞のお姉ちゃんですよ」
「テレビで見た!」
「最後すごかった!」
「ブライトに勝った!」
「はいはい。全部ボクです」
「お前、子供相手でも遠慮なく調子に乗るんだな」
「事実を分かりやすく説明しているだけですよ、お父様」
呆れた顔をしている父は、今日も子供ウマ娘向けのトレーニング教室でコーチをしている。
本来ならボクは家で休んでいてもよかったのだけれど、せっかく帰ってきたので様子を見に来た。
ママも一緒で車椅子を止め、子供たちに囲まれている。
「ライス先生もテレビ出てたよ!」
「えっ、ライス?」
「ホワイトお姉ちゃんが勝った時、泣いてた!」
「うぅ……見られてたんだ……」
ゴール後の観客席が中継に抜かれていたらしい。
両手を胸の前で握って泣いていたママは、全国へしっかり放送されていたと聞いている。
「でもホワイトちゃん、本当にすごかったんだよ。最後の坂もずっと先頭で……」
「ママ、それ家でも三回くらい聞きました」
「だってすごかったから」
「そうですよね」
「お前も否定しないのな」
「勝ったので」
今日は四回目を聞いてもいい。
何しろママが嬉しそうである。
一人の小さなウマ娘がボクの服を引っ張った。
「ねえねえ」
「はい?」
「どうしたらホワイトお姉ちゃんみたいに速くなれる?」
「そうですね」
正直に答えるとする。
「まず毎日限界ぎりぎりまで走って、坂路も――」
「待て」
「何です?」
「お前の基準を子供に教えるな」
「まだ最初ですよ」
「最初から駄目なんだよ」
父に止められた。
「じゃあブルボンさん方式で、トレーニング後に大量の栄養を――」
「もっと普通のことを言え」
「注文多いですね」
仕方がない。
しゃがんで、目線を合わせる。
「いっぱい食べて、いっぱい寝て、コーチの言うことをちゃんと聞いてください」
「いっぱい走るのは?」
「それも。でも無理して怪我したら走れなくなるので、そこはお父様に聞いてください」
「はーい!」
素直。
「……ちゃんと教えられるじゃないか」
「ボクを何だと思ってるんです?」
「自分の基準を他人にも適用し始めたら止めなきゃいけない娘」
「失礼ですね」
横からママが嬉しそうに頷いている。
「ホワイトちゃん、小さい子に教えるの上手だね」
「ママまで」
「お姉ちゃんだもんね」
「そうですね。立派なお姉ちゃんです」
「自分で言うな」
そのまま練習を見ることになった。
子供たちが短い距離を何本か走り、父がフォームを直す。
ボクも横から少しだけ口を出したけれど、思ったより難しい。
自分なら感覚でできる。
トレセン学園の生徒ならその感覚が大体共有できる。
まだ身体のできていない子にはそのまま教えられない。
「ピュアお姉ちゃんも走って!」
「いいですよ」
「おい」
「軽くですよ」
「絶対だぞ」
スタート地点へ並ぶ。
ボクの左右には小さな子供たち。
「勝ったら?」
「ボクに?」
「うん!」
「勝たせませんよ」
「そこは勝たせてやれよ」
「競走ですよ?」
父の顔が引きつった。
「位置についてー!」
合図。
子供たちが走る。
もちろんボクはほとんど力を入れない。
ちょうど横へ並ぶくらいに速度を調整する。
「ピュアお姉ちゃん遅ーい!」
「今のうちですよ」
「負けないよ!」
最後の十メートル。
少しだけ前へ。
「はい、一着」
「あー!」
「ずるい!」
「何もずるくないです」
「お前なあ……」
半バ身差できっちり勝った。
「子供相手に最後差す奴があるか」
「最後まで諦めないことの大切さを教えました」
「教育的っぽい言い訳するな」
「でもみんな楽しそうだよ、お兄さま」
「ライスがそう言うと何も言えないんだよな……」
父がため息を吐く。
ママは笑っている。
子供たちはもう一回と騒いでいる。
悪くない休日だった。
練習が終わった後は、三人で少し遅めの昼食を取った。
父が作った料理を食べながら、当然のように話題は次のレースになる。
「次、日本ダービーだね」
「はい」
「東京二千四百」
「ママ、詳しいですね」
「ライスだって走ってたんだよ?」
「知ってますけど」
忘れるはずがない。
父が食器を置く。
「ブライトは皐月賞より怖くなるぞ」
「でしょうね」
「皐月賞は中山だった。お前は先に動いて、短い直線と坂を使って押し切れた」
「そうですね」
「東京はそうはいかない」
「直線が長い」
「ああ」
「ブライトがずっと追ってくる」
「多分な」
「嫌ですねぇ」
「顔が笑ってるぞ」
「だって楽しみなので」
あの末脚。
皐月賞でも、坂で勢いが鈍らなければ危なかった。
次は東京。
ブライトが追いかけてくる時間は、もっと長い。
「ホワイトちゃん」
「はい?」
「無理しすぎないでね」
「しませんよ」
「本当?」
「ブルボンさんが止めます」
「自分で止まれよ」
お父様は注文が多い。
「でも」
ママが少し笑う。
「去年はブライアンさんのダービー、一緒に見に行ったよね」
「ああ」
思い出す。
ナリタブライアン。
去年の日本ダービー。
圧倒的だった。
観客席からその走りを見て、すごいと思った。
面白いと思った。
そして
いつか自分も走りたいと思った。
「一年ですね」
「うん」
「去年は客席」
「今年は走る側だな」
「しかも皐月賞ウマ娘です」
「それ言いたかっただけだろ」
「大事なところですよ」
立場は変わった。
「緊張してる?」
「全然」
「だろうな」
「楽しみです」
「それも知ってる」
昼食を終え、もう少しママと話してから学園へ戻った。
夕方。
トレーニングコースの近くを通った時。
「……」
一人走っている。
見覚えのある黒い影。
「ブライアン先輩」
ナリタブライアン。
去年ボクが観客席から見ていた日本ダービーの勝者。
そしてつい先日
天皇賞春でサクラローレルに負けた。
それまでこの世代で絶対王者のように扱われていたウマ娘。
そのブライアンが負けた。
ローレル先輩は強かった。
最後まで二人で競り合って
ほんの僅かローレル先輩が前に出た。
「……」
でも。
目の前を走るブライアンは
落ち込んでいるようには見えなかった。
むしろ……
「怖っ」
闘志が沸き上がっている。
前より怖い。
速度を落とす。
こちらへ来る。
「ピュアホワイト」
「はい」
「皐月賞、勝ったな」
「見てたんです?」
「少し」
「ありがとうございます」
ブライアンがこちらを見る。
「走るか」
「はい?」
「今」
「……」
突然。
でも
「いいですよ」
「即答か」
「去年のダービーウマ娘に誘われて断る理由あります?」
むしろこちらから頼みたい。
「距離は?」
「決めてない」
「適当ですね」
「走れればいい」
「……」
なるほど。
「ローレル先輩に負けたから?」
「……」
少しだけ目が細くなる。
「悪いか?」
「全然」
「足りない」
「何が?」
「走っても」
ブライアンがコースを見る。
「飢える」
「……」
変な表現。
でも何となく分かる。
「じゃあ付き合います」
「ああ」
二人でスタート地点へ。
勝負ではない。
正式なレースでもない。
ただの併走。
最初はゆっくり並ぶ。
「行くぞ」
「はい」
走り出す。
最初は普通。
でも少しずつ速くなる。
「……」
ブライアンは大きい。
脚が強い。
一歩ごとに速度が上がる。
こちらも合わせる。
速度が上がる。
まだブライアンの速度が上がる。
「ちょっと!」
「遅い」
「言いましたね!」
強く踏み込む。
追いかけて並ぶ。
そこからまたブライアンが前へ。
「っ!」
強い。
単純に強い。
速いというより獰猛。
こちらも負けない。
脚を回す。
横に並ぶ。
また離される。
「まだか」
「まだです!」
そのままもう一周。
いつの間にか普通の併走ではなくなっている。
「ブライアン先輩!」
「何だ」
「これ何本やるんです!?」
「足りるまで」
「いつ足りるんです!?」
「知らん」
「でしょうね!」
でも楽しい。
最初に決めた地点まで全力。
「行くぞ」
「はい!」
ブライアンは速い。
こちらも食らいつく。
直線で並ぶ。
前へ
前へ
「っ……!」
追う差が縮む。
でも最後はほんの少し届かない。
ブライアンが先。
「……はぁっ」
「悪くない」
「それ、褒めてます?」
「ああ」
「なら受け取ります」
悔しい。
でも公式戦ではない。
そして
相手は
ナリタブライアン。
怪物の名にふさわしいウマ娘。
「やっぱり強いですね」
「ローレルには負けた」
「一回でしょう」
「一回でも負けは負けだ」
「……」
ブライアン。
それでこんなに走っている。
「悔しい?」
「当たり前だ」
「ですよね」
ボクも負けたら
多分同じ。
いやもっと走るかもしれない。
「ピュアホワイト」
「はい」
「次、ダービーだな」
「はい」
「勝てるか」
「勝ちます」
「……」
ブライアンが少し笑った。
「去年、そこを勝ったのは私だ」
「知ってます。現地で見てました」
「なら」
「?」
「東京の最後が長いことも知ってるな」
「嫌というほど」
「そうか」
それだけ助言らしい助言は何もない。
「ブライトが怖いんですよ」
「メジロの?」
「はい。最後、ずっと伸びるので」
「なら先に行け」
「簡単に言いますね」
「捕まるなら、もっと先へ行けばいい」
「……」
雑。
ものすごく雑。
「ブルボンさんが聞いたら怒りそうですね」
「知らん」
「でしょうね」
でも嫌いじゃない。
「見に来ます?」
「ダービー?」
「はい」
「気が向けば」
「じゃあ来てください」
「何故」
「去年ボクが見たので。今年はブライアンさんが見る番です」
「……」
ブライアンが少し考える。
「ああ」
「おお」
「何だ」
「素直」
「もう一本走るか?」
「何でそうなるんです?」
ブライアンが先へ歩く。
少しして振り返る。
「楽しませろ」
「……」
「任せてください」
去年は観客席。
ナリタブライアンが圧倒的な強さで
駆け抜けるところを見ていた。
今年はボクが圧倒的な強さを
見せつけたい。
「……いいですね」
ピュアホワイトとして。
メジロブライトにも
サイレンススズカにも
ステイゴールドにも
誰にも
譲らない。
休みの日なのに結局いっぱい走ってしまった。
帰ったらいっぱい食べていっぱい寝よう。
子供たちにそう教えたばかりなのだから。