日本ダービーを勝ってから数日後、授業を終えて教室を出たところで、廊下の向こうから見慣れた栗色の髪がゆっくりこちらへ近づいてきた。
「ホワイトさん~」
「ブライト。どうしました?」
「今度のお休み、お暇でしょうか~?」
「今度? 特に予定はないですけど」
「それでしたら、メジロのお屋敷へいらっしゃいませんか~? お茶とお菓子をご用意して、ゆっくりお話しいたしましょう~」
「お茶会?」
「はい~」
「誰が来るんです?」
「私とホワイトさんです~」
「二人?」
「二人です~」
思わず聞き返したのは、前にメジロ家へ招かれた時にはドーベルもいたからだ。
メジロ家のお茶会と言われれば何人か集まるものだと思っていたのだけれど、今回は最初から二人きりらしい
。
「珍しいですね」
「あら~? そうでしょうか~?」
「だって、二人でわざわざ」
「ドーベルとは二人でお出かけされたのでしょう~?」
「しましたね」
「それでしたら、私とも二人でお出かけしてくださってもよろしいのでは~?」
「そういう理屈?」
「公平にいたしませんと~」
「なるほど」
なるほどと言ってから、本当にそうなのだろうかと少しだけ考えたけれど、別に断る理由はなかった。
ブライトとは入学してからずっと付き合いがあるし、友達以上のライバルである。
しかもメジロ家でお茶とお菓子まで用意してくれるというのだから、むしろ行かない理由を探す方が難しい。
「行きます」
「まあ~。ありがとうございます~」
「ちなみに、これってデート扱いです?」
「もちろんです~」
「即答」
「ドーベルとはデートをされたのに、私とはただのお茶会というのは不公平でしょう~?」
「ドーベルが聞いたら怒りそう」
「ふふ~。そうかもしれませんね~」
ブライトはいつもの調子で笑っている。
ただ、何となく誘われた時点で、少しだけ嫌な予感はした。
ブライトはぼんやりしているように見えて、実際には同期の中でもかなり人をよく見ている。
タイキは裏表なく分かりやすいし、ドーベルは本人が隠しているつもりでも感情がかなり顔へ出る。
それに対してブライトは、いつものんびり笑いながら相手のことをよく観察し、こちらが不用意なことを言えば柔らかい口調のまま正確に刺してくる。
つまり、ただ二人でお菓子を食べるだけでは終わらない気がする。
「まあ、いいですけど」
お菓子もあるし。
休日。
以前にも訪れたメジロ家の屋敷は、相変わらず大きかった。
門をくぐってから建物へ着くまでそれなりに歩き、使用人に案内されて庭を抜けた先で通されたのは、大勢を招くための広い客間ではなく、窓の向こうに庭園が見える落ち着いた小部屋だった。
「こちらです~」
「本当に二人なんですね」
「はい~。今日はホワイトさんとゆっくりお話ししたかったので~」
「なるほど」
丸いテーブルの上には紅茶の用意と、見るからに高そうな焼き菓子や小さなケーキ、果物を使った菓子までいくつも並べられている。
「すごい」
「たくさん召し上がってくださいね~」
「ブライトはいい人ですね」
「お菓子で判断していませんか~?」
「そんなことないですよ」
お菓子があることで評価がかなり上昇しているだけである。
向かい合って席につくと、ブライトが慣れた手つきで紅茶を淹れてくれた。
カップへ注がれた紅茶からいい香りが立ち上がる。
一口飲んでみれば、味の細かな違いなどよく分からないボクでも普通に美味しいと思える。
「美味しい」
「よかったです~」
「このケーキも食べていい?」
「もちろんです~」
一口食べる。
「……幸せ」
「ふふ~」
「何です?」
「ホワイトさんは、本当に分かりやすい方だと思いまして~」
「お菓子が好きなのは隠してませんからね」
「そういうところもかわいらしいです~」
「でしょう?」
「そこは相変わらずですわね~」
ブライトが楽しそうに笑う。
そこからしばらくは、本当に普通のお茶会だった。最近の授業のことやメジロ家のこと、オークスを勝ってからドーベルが妙に堂々としていること、タイキがNHKマイルで楽しそうに暴れていたことなどを話しながら菓子を食べ、二杯目の紅茶が半分ほどなくなったところで、ブライトがゆっくりカップを置いた。
「そういえば~」
「はい?」
「まだきちんと申し上げておりませんでした~。日本ダービー、おめでとうございます~」
「ありがとうございます」
「無敗の二冠ですわね~」
「はい」
「とても強かったです~」
「ブライトも怖かったですよ」
「あら~?」
「何です?」
「負けた私に、そのようなことを言ってくださるのですね~」
「だって実際怖かったですから。最後また来たでしょう」
「追いつけませんでしたけれど~」
「それでもです」
皐月賞でも、日本ダービーでも、最後に最も怖かった相手はブライトだった。
皐月賞では中山の短い直線と最後の坂を利用して先に抜け出し、追いつかれる前に押し切った。
日本ダービーではもっと極端で、東京の長い直線で万全のブライトと勝負すること自体を嫌い、最初から全体をハイペースへ巻き込んで、最後の直線までにブライトの脚を削るレースを作った。
「普通に走ったら、一番怖いのはブライトなんですよね」
「……」
「ブライト?」
「もう一度お願いできますか~?」
「普通に走ったら一番怖いのはブライトです」
「まあ~」
露骨に嬉しそうな顔になった。
「そんなに嬉しいです?」
「はい~」
「でも負けたんですよ?」
「負けたことは、とても悔しいです~」
笑顔は変わらない。
けれど、その言葉だけは少し力が強かった。
「皐月賞も日本ダービーも、本当は私が勝ちたかったです~。皐月賞ではあと少し届きませんでしたし、日本ダービーでは私が一番得意な形へ持ち込むことすらさせていただけませんでした~」
「そこまで分かってました?」
「もちろんです~。あの大逃げ、私を疲れさせるためでしょう~?」
「正確にはブライトだけじゃないですよ。スズカもステゴも、後ろにいる全員を疲れさせるつもりでした」
「でも~」
ブライトが楽しそうにこちらを見る。
「一番の目的は、私だったのでしょう~?」
「……まあ、そうですね」
「やっぱり~」
「そんなに嬉しい?」
「とても~」
ますます嬉しそうになったので、こちらの方が困惑してしまう。敵として徹底的に警戒して潰しにいったという話なのに、ブライトにとっては悪い話ではないらしい。
「皐月賞を走って、普通に先行して東京の長い直線へ入ったら危ないと思ったんです。皐月賞ですらあそこまで来たのに、距離が四百伸びて直線も長くなって、その上ライアンさんに鍛えられたブライトとまともに末脚勝負なんてしたくなかったので」
「それで、逃げたのですか~?」
「はい。最後にブライトが伸びてくるなら、その最後に着くまでに疲れさせればいいと思いました。スズカより前へ出て速い流れを作れば、後ろが追ってくるなら早いうちから脚を使わせられるし、追ってこないならそのまま差を広げられる。どちらにしても、ブライトが余裕を持ったまま東京の直線へ入る形だけはなくせますから」
「全部、私に勝つために~?」
「一番大きな理由は、ブライトに勝つためですよ」
「……まあ~」
ブライトが両手を頬へ添えた。
本当にものすごく嬉しそう。
「敵として狙ってたって話ですよ?」
「分かっています~」
「それでも?」
「それでもです~。ホワイトさんが日本ダービーという大きな舞台で、どうすれば私に勝てるのかをずっと考えてくださったのでしょう~? 私がどこから来るのか、どのくらい伸びるのか、普通に走ればどのくらい怖いのかを考え、その上で私に勝つためにご自分の走り方まで変えてくださったのですよね~?」
「そうなります」
「でしたら、とても嬉しいです~」
「変なの」
「そうでしょうか~?」
ブライトは満足そうに紅茶を一口飲み、それから少しだけ目を細めた。
「私にとっては、ホワイトさんがそれだけ私を強いと思ってくださっているということですもの~。皐月賞でも、日本ダービーでも、ホワイトさんの中で一番大きな相手が私だったということでしょう~?」
「皐月賞とダービーでは、そうですね」
「……」
言った直後まずいと思った。
ブライトは笑っている。
いつもの柔らかな笑顔。
けれど、僅かに目が細くなった。
「そのお返事には、『今は』が付きそうですね~?」
「……鋭い」
「ホワイトさんは分かりやすいですもの~。何か、ほかに気になる方がいらっしゃるのでしょう~?」
もう誤魔化す意味もなさそうだった。
「マチカネフクキタルさんです」
「フクキタルさん?」
「はい」
「まだそれほど大きなレースには出ていらっしゃいませんよね~?」
「そうですね」
クラスメイトだから名前は知っている。
今はまだPre-Openクラスで、クラシックの中心として名前が出る立場ではない。少なくとも現在の実績だけを見れば、ブライトとは比べるまでもない。
ただボクは知っている。
前世で知っているマチカネフクキタルは、あの秋に突然と言っていいほど強くなった。
長い競走生活の中でも短い期間ではあったけれど、その時期だけを切り取ればとんでもなく強かったウマ娘として記憶している。
「何となく、秋に伸びてきそうな気がするんですよ」
「何となく~?」
「何となくです」
「そうですか~」
ブライトはカップへ視線を落とし、縁へ指を添えながらしばらく何も言わなかった。笑顔はまだ残っているし、機嫌を悪くしたようにも見えない。
それなのに
「ホワイトさん。その方のことを、ずいぶん気になさっているのですね~」
「レース相手としてですよ」
「分かっています~」
柔らかく笑う。
そして
「でも、私は嫌です」
「……」
声が変わった。
いや声だけではない。
話し方も語尾が伸びていない。
「本当に嫌なんですね」
「はい」
また伸びない。
「どうして?」
「皐月賞でも、日本ダービーでも、ホワイトさんは私のことを見ていてくださったのでしょう。私がどこから来るのか、どれくらい伸びるのか、どうすれば私に勝てるのかを考えて、私を一番怖い相手だと思ってくださったのでしょう?」
「そうですね」
「私は、それがとても嬉しかったのです」
怒っているわけではないし、声を荒らげてもいない。ただ普段の間延びした調子だけが完全に消えていて、それだけでブライトが本気で話していることが分かった。
「負けたことは悔しいです。皐月賞も日本ダービーも、本当に勝ちたかった。最後にホワイトさんを追い抜いて、私の方が強いと証明したかったです。でも、負けても、ホワイトさんが一番強い相手として私を見てくださっているなら、次があります」
「菊花賞」
「はい」
ブライトが真っ直ぐこちらを見る。
「三千メートル。今度こそ、私が勝ちます。そしてホワイトさんにとって一番のライバルは私だと、今度こそ証明します」
「自信ありますね」
「あります~」
そこでいつもの話し方が少し戻った。
「皐月賞は二千、日本ダービーは二千四百、次は三千ですもの~。距離がどんどん私向きになっておりますね~」
「嫌ですねぇ」
「でも、楽しそうです~」
「強い相手と走るのは好きなので」
「でしたら~」
ブライトは笑っている。
でも、その言葉の中身は軽くなかった。
「私だけを見ていてくださればいいのに~」
「それはまた」
「難しいですか~?」
「レースなので、強い相手なら全員見ますよ」
「分かっています~。でも、それとは少し違うのです~」
ブライトが静かに首を振った。
「フクキタルさんが本当に強くなるなら、それを警戒すること自体は仕方ありません~。でも、まだ何もしていない方をホワイトさんが今から気にしているということが、私は面白くないのです~」
「嫉妬?」
「はい~」
「認めるんですね」
「今さら隠しても仕方ありませんもの~」
あっさり認めた。
「私は、ホワイトさんに一番気にしていただきたいです~。一番怖い相手だと思ってほしいですし、一番たくさん私のことを考えてほしいですし、どうすれば私に勝てるのかと、また頭を抱えていただきたいです~」
「欲張りですね」
「はい~」
「そこも認める」
「だって、日本ダービーのお話を聞いてしまいましたもの~」
ブライトが少し身を乗り出す。
「あのレースを見た時、最初は驚きました~。ホワイトさんがいきなりスズカさんより前へ行って、そのまま飛ばし続けるなんて、今までとは全然違いましたから~。でも今日、それが私に勝つためだったと聞いてしまいました~」
「一番大きな理由は、ですけどね」
「それで十分です~。私に勝つために、ホワイトさんがいつもの走りを捨ててまで考えてくださった。それほど私はホワイトさんにとって大きな存在だったのだと思ったら、とても嬉しくなってしまいました~」
なるほど。
ブライトにとっては、ボクが自分を対策したことそのものが重要なのではなく、そのためにどれだけ考えたかが重要らしい。
「だから、次もその場所にいたい?」
「はい~。誰にも譲りたくありません~」
「フクキタルにも?」
「もちろんです~」
「ドーベルにも?」
「……」
一瞬笑顔が固まった。
「それは、レース以外のお話でしょう~?」
「そうですね」
危ない。
今は言わない方がよさそうだ。
ブライトはじっとこちらを見てから、テーブルのケーキを一口分切り、フォークをボクの方へ差し出した。
「ホワイトさん~」
「はい?」
「あーんです~」
「自分で食べられますよ?」
「知っています~」
「じゃあ何で?」
「デートですので~」
「そういうもの?」
「ドーベルにもしていただいたのでしょう~?」
「新聞?」
「はい~」
「あれ、かなり覚えてますね」
「とてもよく~」
「根に持ってる?」
「嫉妬深いと、もう認めました~」
「そうでした」
口を開けるとケーキを入れられる。
「美味しい」
「よかったです~」
「ブライトも優しいですね」
「もっと言ってくださってもよろしいですよ~」
「かわいい」
「まあ~」
「綺麗」
「ふふ~」
「お菓子もくれる」
「そこは別にしてください~」
「大事ですよ」
もう一口食べさせられ、少しだけ空気が柔らかくなった。
ブライトもさっきまでより楽しそうに見えるけれど、嫉妬そのものが消えたわけではないらしく、ボクが紅茶へ手を伸ばしたところで、もう一度名前を呼ばれた。
「ホワイトさん~」
「はい?」
「菊花賞では、私を一番警戒してくださいますか~?」
「それは約束できませんね」
「あら~」
「レースですから。ブライトが一番強ければ、一番警戒します」
「……」
一瞬黙る。
それから
「それなら簡単ですね~」
「簡単?」
「私が一番強くなればいいだけです~」
「おお」
「フクキタルさんがどれだけ強くなっても、それ以上に私が強ければ、ホワイトさんは嫌でも私を見てくださるでしょう~?」
「まあ、そうなりますね」
「では、そうします~」
「さらっと言いますね」
「皐月賞よりも、日本ダービーよりも、もっとホワイトさんを困らせて差し上げます~」
「それは嫌ですね」
「でも楽しみでしょう~?」
「……まあ」
「ふふ~」
すっかり機嫌を直したらしい。
そう思った。
「でも」
また伸びなかった。
「レース以外では、それだけでは足りません」
「……ブライト」
「はい」
さっきまでの「はい~」ではない。
「また語尾なくなってますよ」
「気づいてくださったのですね」
「二回目なのでさすがに」
「でしたら、こちらも気づいてください」
「何に?」
「私が何を嫌がっているのか、です」
ブライトが椅子から立ち上がり、テーブルの横をゆっくり回ってこちらへ近づいてくる。
「レースでは、私が一番強ければホワイトさんは私を見てくださいます。でも、それ以外ではそうはいきません」
「それ以外?」
「ホワイトさんはドーベルとは何度も二人でお出かけして、先ほどはまだ活躍もしていないフクキタルさんのことを気になるとおっしゃいました」
「レースの話ですよ?」
「分かっています」
やっぱり伸びない。
「でも、私は嫌です」
「ブライト、結構嫉妬深いですね」
「はい」
「そこまで素直に」
「もう隠すつもりはありません」
ブライトがボクの目の前で止まる。
「私はホワイトさんが好きです」
「知ってますよ」
「……」
「ボクもブライトは好きですし」
「そういう意味ではありません」
「?」
顔が近づく。
「ホワイトさんは、レースではあれだけ私のことを考えてくださるのに、どうしてこういうことになると分からないのでしょう」
「どういう――」
言葉が止まった。
ブライトがもう一歩近づき、そのまま唇へ柔らかい感触が重なったからだ。
「……」
ほんの一瞬。
けれど、間違いなくキスされた。
すぐに離れたブライトを見る。
「……ブライト?」
「はい~」
語尾が戻っている。
「今」
「キスしました~」
「しましたね」
「はい~」
にこにこしている。
でも頬ははっきり赤くなっていた。
「何で?」
「嫉妬です~」
「そこにつながる?」
「つながります~」
「フクキタルに?」
「それもあります~」
ブライトは元いた向かい側へは戻らず、そのままボクの隣の椅子へ座った。
「ホワイトさんが私を一番警戒してくださっていたと知って、本当に嬉しかったのです~。皐月賞でも日本ダービーでも、私のことを考えて、私に勝つために作戦を考え、そのために走り方まで変えてくださったのでしょう~?」
「はい」
「でしたら、私もそれに見合うくらいホワイトさんの中で特別になりたいです~」
「ライバルとしてなら十分特別ですよ」
「ですから」
また。
「それだけでは嫌なんです」
「……」
短い。
ブライトがこちらを真っ直ぐ見る。
「レースでは一番強い相手でいたいです。ホワイトさんがどうすれば私に勝てるのかと一日中考えるくらい、強い相手でいたい。でも、レースが終わった後も私のことを考えてほしいです」
「それでキス?」
「はい~」
「大胆ですね」
「私も少し驚いております~」
「本人も?」
「はい~」
いつもの笑顔に戻っているけれど、頬の赤みだけはなかなか消えない。
「でも、これで今日は私のことをたくさん考えてくださいますよね~?」
「それは」
唇に意識が行く。
さっきの感触が妙に残っている。
「……まあ、考えるでしょうね」
「まあ~」
ものすごく満足そう。
「でしたら成功です~」
「何が?」
「今日のデートが、です~」
「そういう判定?」
「はい~」
よく分からない。
でもさっきからブライトの顔を見るたびに唇まで見てしまうので、少なくとも作戦としては大成功なのだろう。
「ホワイトさん~」
「はい?」
「誰のことを考えていらっしゃいます~?」
ここで下手なことを言えばまずい。
それくらいはもう分かった。
「ブライトのことですよ」
「……」
「何です?」
「いえ~」
ブライトが嬉しそうに笑った。
「それなら十分です~」