宝塚記念を勝ったサクラローレル先輩が、秋は日本にいないらしい。
その話を聞いたのは、日本ダービーを終えて少し経ち、夏合宿の日程がそろそろ固まり始めた頃だった。
天皇賞春で、それまで絶対王者として君臨していたナリタブライアン先輩を競り落とし、その勢いのまま宝塚記念まで制したローレル先輩。
国内の中長距離路線ではもう誰かを追いかける立場ではなく、追われる側に立っている。
そんな中、彼女が次に選んだ舞台は秋の天皇賞でもジャパンカップでも有馬記念でもなく、ずっと以前から口にしていた、海の向こうにある遠いレースだった。
凱旋門賞。
「本当に行くんですね」
「うん。行くよ」
夕方のトレセン学園、少し外れたところにあるベンチに並んで座りながらそう尋ねると、ローレル先輩はいつもの穏やかな笑顔で頷いた。
練習を終えた直後なのだろう、髪にはまだ少しだけ汗の名残があって首にはタオルを掛けている。
天皇賞春ウマ娘。
宝塚記念ウマ娘。
そしてこれから、凱旋門賞へ向かうウマ娘。
「宝塚、改めておめでとうございます」
「ありがとう」
「強かったです。天皇賞春でブライアン先輩に勝った時も驚きましたけど、宝塚も最後まできっちり強かったですし」
「きっちり、なんだ」
「褒めてますよ」
「ふふ、分かってる」
ローレル先輩が小さく笑う。
宝塚記念は、ボクにとってどうしても普通のGⅠではない。
ママが最後に走った場所で、そこで大きな事故に遭い、レースだけでなく、自分の脚で歩くことまで失った場所だ。
だからといって宝塚記念そのものを怖がったり嫌ったりするつもりはないし、そこで走る誰かへ勝手にママを重ねるつもりもないけれど、それでもあの舞台だけは、どうしても少し特別に見えてしまう。
「それで」
「うん?」
「わざわざボクに声をかけたのは、宝塚のお祝いを言わせるためじゃないですよね」
「鋭いね」
「それくらい分かります」
「じゃあ、何の話だと思う?」
「凱旋門賞」
「正解」
やっぱりだった。
ローレル先輩は前を向き、まだ何人かが走っている夕暮れのトレーニングコースを眺める。
遠くで地面を蹴る音が一定の間隔で響いていて、さっきまで賑やかだった学園が少しずつ夜へ近づいていく時間は、不思議なくらい静かだった。
「前にも言ったよね。私はいつか海外で走りたいって」
「聞きました」
「その時、ホワイトちゃんにも一緒に来ないって誘った」
「誘われましたね」
「その時も断られたけど」
「まだ日本でやることがありましたから」
「今も?」
「今もです」
「即答だね」
「そこは即答しますよ」
ローレル先輩が笑う。
「でも、まだちゃんと誘ってないよ」
「結果は変わりません」
「それでも聞いてくれる?」
「もちろん」
少しだけ間が空いた。
答えは分かっているはずなのに、ローレル先輩は急がず、こちらを真っ直ぐ見て、それから静かに口を開いた。
「ホワイトちゃん、一緒に行かない?」
「凱旋門賞に?」
「うん。今年、一緒に」
「……」
分かっていた言葉なのに、改めて正面から言われると、思っていたより少しだけ重かった。
「ローレル先輩と?」
「そう。私は今年、凱旋門賞へ行く。昔からずっと夢だった場所が、今はようやく手を伸ばせば届くところにあるから、もう待つ理由がないんだ」
「はい」
「だから行く。でもね、せっかくなら一人より、強い子と一緒に行きたいなって思った」
「それでボク?」
「皐月賞と日本ダービーを無敗で勝った二冠ウマ娘だもの」
「そう言われると結構すごいですね、ボク」
「自分で言う?」
「事実ですから」
「ふふ」
ローレル先輩は笑ったけれど、その後すぐ、少しだけ真面目な顔に戻った。
「それにね、ホワイトちゃんが海外でどんなふうに走るのか、見てみたいんだ。日本とは全然違う場所で、知らないコースを走って、知らない相手に囲まれて、それでもいつもみたいに勝つって言うのかなって」
「言うと思います」
「やっぱり?」
「レースに出るなら勝ちたいので」
「そうだよね」
多分、この人は最初から分かっている。
ボクが断ることも。
断る理由も。
「でも、行きません」
「うん」
「驚かないんですね」
「だってホワイトちゃんだもの」
「どういう意味です?」
「今、一番日本を離れられない子でしょ」
その通りだった。
ボクにはまだ残っている。
「菊花賞があります」
「うん」
「皐月賞を勝って、日本ダービーも勝った。残るのは一つだけです」
クラシック三冠。
あと一つ。
京都三千メートルを勝てば届く。
「凱旋門賞に興味がないわけじゃありません。海外で走ってみたいとも思いますし、ローレル先輩と一緒に遠征するのだって、きっと楽しいと思います」
「うん」
「でも、今年は無理です」
「うん」
ローレル先輩は残念そうな顔をしなかった。
いや、きっと残念ではあるのだろう。それでも、それ以上に納得しているのだと思う。
「ボク、ここまで来て菊花賞を捨てて海外へ行ったら、多分ずっと後悔します」
「そうだね」
「ローレル先輩だって、今ここで凱旋門賞を諦めてくださいって言われたら嫌でしょう?」
「絶対に嫌」
「でしょう?」
今度はボクが笑った。
「だから同じです」
「そっか」
「はい」
「なら、仕方ないね」
「最初から分かってたんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、どうして誘ったんです?」
「誘いたかったから」
「断られるのに?」
「断られるって分かってても、言いたいことってあるよ」
「そういうものです?」
「そういうもの」
よく分からない。
でも少しだけ、分かるような気もした。
誘わなければ、ボクが自分からついていくと言い出すことはない。
その結果が分かっていたとしても、自分の口で一緒に来てほしいと伝えること自体に意味があるのだろう。
「それに、今年が最後じゃないから」
「凱旋門賞が?」
「うん」
ローレル先輩は少し顔を上げ、夕焼けに染まり始めた空を見つめる。その向こうには海があって、そのさらに向こうには、今まで見たこともない国とレース場がある。
「今年は私が先に行ってくるよ」
「偵察?」
「そういうことにしておこうかな」
「でも勝つ気ですよね」
「もちろん」
即答だった。
「それなら偵察にならないですね」
「勝っても負けても、どんな場所だったかはちゃんと教えられるよ」
「負ける可能性も考えてるんですね」
「考えてるよ」
「意外」
「ホワイトちゃん、私を何だと思ってるの?」
「凱旋門賞勝つって言う人」
「それは言うよ」
「でしょう」
「でも、勝つつもりで行くことと、勝てると決めつけることは違うから」
その言葉は、少し意外だった。
ローレル先輩は夢を語る。
でも夢に酔っているわけではない。
「怖くないんです?」
「怖いよ」
「そうなんですか」
「当たり前でしょ。初めて走るコースで、今まで会ったこともない強い子たちと戦うんだから、何が起きるか分からないもの」
「それでも行く」
「うん」
「どうして?」
「夢だから」
短かった。
でも、それ以上はいらなかった。
「……いいですね」
「何が?」
「そういうの」
「ホワイトちゃんにもあるでしょ」
「夢?」
「今は三冠」
「三冠は目標ですね」
「夢じゃない?」
「夢っていうほど遠くないですから」
「ずいぶん言うね」
「二つ取ってますし」
「それはそうだ」
笑い合う。ローレル先輩にとっての凱旋門賞は、ずっと遠くにあった夢で、今ようやく手が届き始めたものなのだろう。
一方、ボクにとっての三冠は、最初は遠くにあったけれど、今はあと一つまで近づいた目標だ。どちらが偉いとか大きいとか、そういう話ではなくて、今はただ、お互いが自分の欲しいものへ手を伸ばしている。
「ホワイトちゃん」
「はい」
「菊花賞、勝ってね」
「もちろん」
「三冠ウマ娘になって」
「はい」
「そのあと、また誘うよ」
「海外に?」
「うん」
「しつこいですね」
「だって、まだ一度も一緒に行ってないもの」
「その時の予定次第ですよ」
「じゃあ、予定を空けてもらえるくらいすごい話を持って帰ってくる」
「凱旋門賞勝利?」
「それくらい」
「自分でハードル上げてますよ」
「夢だからね」
軽く言っているけれど、冗談ではない。
本気で勝ちに行くのだろう。
「じゃあ、ボクも三冠取っておきます」
「約束?」
「約束です」
「お互い、大変だね」
「ローレル先輩の方が大変でしょう」
「そうかな?」
「海外ですよ」
「ホワイトちゃんは菊花賞でしょ?」
「そうですけど」
「ブライトちゃん、かなり強いよ」
「……」
「距離も伸びるし」
「嫌なところを突きますね」
「先輩だから」
「関係あります?」
「あることにして」
メジロブライト。
三千メートルになれば、皐月賞や日本ダービーよりさらに怖くなる。しかも、ボクにはもう一人気になっている相手がいる。
マチカネフクキタル。
今はまだ大きな実績を残していない。
それでも前世の記憶が正しければ、秋に何かが変わる。
「まあ、それでも」
考えることは同じだ。
「勝ちますよ」
「うん」
「ボク、三冠欲しいので」
「知ってる」
「ローレル先輩も勝ってください」
「凱旋門賞?」
「はい」
ローレル先輩は少しだけ目を丸くした後、いつものように柔らかく笑った。
「うん。勝ってくる」
「それで帰ってきたら?」
「また誘う」
「そこ確定なんですね」
「もちろん」
夕日はかなり低くなっていて、そろそろ戻らないとブルボンさんに何か言われそうな時間になっていた。二人でベンチから立ち上がり、並んで学園の方へ戻りながら、出発の日程や向こうでの滞在予定について聞く。
「いつ出発です?」
「夏のうち。もうすぐだよ」
「本当にすぐですね」
「うん。準備も始まってる」
「見送りは?」
「来てくれる?」
「時間が合えば」
「じゃあ、待ってる」
「期待しすぎないでくださいね」
「絶対来てくれるって思っておく」
「人の話聞いてます?」
「聞いてるよ」
楽しそうに笑う。
少し歩いたところで、道が分かれる。ボクは寮の方へ、ローレル先輩はまだトレーナーさんと話があるらしく別の棟へ向かうらしい。
「じゃあ、また」
「うん」
「海外で無茶して怪我しないでくださいね」
「ホワイトちゃんに言われると、不思議な感じがするなあ」
「何でです?」
「自分が一番無茶するタイプだから」
「ボクは安全管理完璧ですよ」
「ブルボンさんが、でしょ?」
「……」
「図星?」
「否定はしません」
また笑われた。
「大丈夫」
ローレル先輩は笑みを少しだけ柔らかくし、さっきより静かな声で続けた。
「ちゃんと帰ってくるよ」
「ならいいです」
「ホワイトちゃんも、ちゃんと三冠ウマ娘になって待っててね」
「もちろん」
「約束?」
「約束です」
「よかった」
それで話は終わったと思った。
ボクも踵を返そうとした。
「ホワイトちゃん」
「はい?」
呼び止められ、振り返る。
ローレル先輩が、一歩こちらへ近づいた。
「何か忘れ――」
最後まで言えなかった。
頬ではなく、唇に。
ほんの一瞬。
柔らかい感触が重なった。
「……」
離れる。
近かった顔が少しずつ遠ざかっていく。
「……ローレル先輩?」
「うん」
「今、キスしました?」
「したね」
あまりにも普通に認められたので、逆に言葉が続かなかった。
「何で?」
「お守り」
「お守り?」
「私の」
「ローレル先輩のお守りをボクに付けてどうするんです?」
「違うよ」
ローレル先輩が少しだけ笑う。
「私が持っていくの」
「……?」
よく分からない。
でも、ローレル先輩は説明するつもりがないらしい。
「ホワイトちゃん」
「はい」
「次に誘う時は」
いつもの穏やかな声なのに、その言葉だけ妙に耳へ残った。
「レースの予定だけじゃなくて、私のことも少しは断りにくい理由になってると嬉しいな」
「……それ、どういう意味です?」
「帰ってきたら教えてあげる」
「今教えてくださいよ」
「やだ」
「子供ですか」
「行ってきます」
「あ、逃げた」
ローレル先輩はそのまま数歩先へ進み、振り返る。
「ホワイトちゃん」
「はい?」
「三冠、取ってね」
「取ります」
「私も、勝ってくるから」
「はい」
「じゃあ」
軽く手を振る。
「次は、お互いもっとすごいウマ娘になってから会おうね」
そのまま今度こそ、ローレル先輩は歩いていった。
ボクはしばらくその場に残り、無意識に自分の唇へ指を触れた。