夏合宿が終わり、菊花賞へ向けた秋が始まった。
クラシック最後の一冠まで残り二か月ほど。
春に皐月賞と日本ダービーを勝ち、無敗の二冠ウマ娘になったボクにとって、当然ながら次の目標は一つしかない。
菊花賞、京都芝三千メートル。
そこを勝てばクラシック三冠であり、距離が一気に伸びることも、ブライトがマックイーンさんから長距離の走り方を教わっていることも全部ひっくるめて楽しみだった。
ただしその秋には一人だけボクがずっと気にしていたウマ娘がいた。
「神戸新聞杯、見に行かれますか」
「行きます」
ブルボンさんに聞かれ、即答する。
「出走者の確認ですか」
「主に二人ですね」
「サイレンススズカさんと」
「マチカネフクキタル」
「はい」
マチカネフクキタル。
春までなら、同期の中でも特別目立つ存在ではなかった。
実力がないわけではないし、走ればそれなりに強いけれど、ボクやタイキ、ドーベル、ブライト、スズカたちと並んで世代の中心として語られるような存在ではない。
最近ようやく勝ち上がってきた程度で、少なくとも表向きの評価なら菊花賞候補の筆頭に名前が挙がるような子ではなかった。
それでもボクは知っている。
前世の競走馬として走っていたマチカネフクキタル。
そしてあの菊花賞。
テレビ越しではあったけれど、見たことがある。
秋に突然と言っていいほど強くなった。
神戸新聞杯。
京都新聞杯。
そして菊花賞。
そこだけ切り取れば、本当に何かに取り憑かれたような勢いで勝ち続けた。
「……来るんですかね」
「何がでしょうか」
「いえ。こっちの話です」
前世の通りになる保証はない。
むしろ今まで散々違ってきた。
タイキは本来よりずっと早く完成しているし、スズカだってボクと出会った影響で明らかに前倒しで強くなっている。
ステゴも史実とは比べ物にならないほど順調に勝っているし、何よりライスシャワーに娘がいる時点で、歴史をそのまま信じる方がどうかしている。
だからこそ確認したかった。
阪神芝二千メートル。
神戸新聞杯。
パドックで最初に目を引いたのは、やはりスズカだった。
「……仕上がってますね」
「はい。春季と比較して筋出力、フォームの安定性ともに向上しているように見えます」
「ですよね」
細いでも弱々しくはない。むしろ鋭い日本刀のようだ。
無駄がなく、前へ進むためだけに身体が整えられているように見える。
弥生賞、皐月賞、日本ダービーと何度も一緒に走ってきたから分かるけれど、春より明らかに完成度が高い。
しかも二千メートル。
スズカにはかなり合う。
前へ出て、自分のリズムで走り続け、後ろに捕まる前に押し切る。今のスズカにとって、かなり勝ちやすい条件のはずだった。
そして
「フクキタル」
いた。
いつものフクキタル。
見た目だけなら特別変わったようには見えない。
少し緊張しながら、それでもどこか楽しそうに周囲を見回し、時折何かを拝むように手を合わせている。
「……普通ですね」
「何を基準とした評価でしょうか」
「雰囲気」
「定量化困難です」
「でしょうね」
ただ少しだけ身体が違う。
春より締まっている。
歩き方も軽い。
何というか妙に調子が良さそうだった。
「来た?」
「何でしょうか」
「何でもありません」
そしてゲートへ。
ボクは観客席から見る。
スタート。
スズカが出る。
『サイレンススズカ、好スタート! そのまま先頭へ!』
「ですよね」
自然に、誰かに押し出されたわけでも、無理に前へ出たわけでもなく、最初からそこが自分の場所だったかのように先頭へ立つ。
前世の競走馬サイレンススズカが走った神戸新聞杯を覚えている。
騎乗の問題もあった。
本来の持ち味を十分に出せたとは言いにくいレースだった。
でも今日のスズカは違う。
誰かに抑えられているわけでもない。
迷ってもいない。
自分の意思で前へ行き、自分のリズムで走っている。
「これは」
強い。
ペースも悪くない。
春よりずっと上手に、自分の速さを使えている。
『サイレンススズカ、快調に飛ばしていきます! 後続との差は五バ身、六バ身!』
「かなりいいですね」
「はい」
「これなら」
勝つ。普通なら。
そう思った。
三コーナー。
四コーナー。
スズカの脚は鈍らない。
後ろとの差もある。
直線へ。
『サイレンススズカ先頭! まだ差がある!』
「……」
その時。
外から一人すごい勢いで伸びてきた。
『外からマチカネフクキタル!』
「……来た」
来た。しかも
「速っ」
想像していたよりずっと速い。
スズカは止まっていない。
むしろ伸びている。逃げて差すの実践だ。
相手が夏前のボクやブライトだったらこのまま押し切ってもおかしくないくらいの走りをしている。
なのにフクキタルが
一歩
一歩
明らかに差を詰めてくる。
『マチカネフクキタルが迫る! サイレンススズカ粘る!』
「スズカ!」
思わず声が出た。
残り二百。
並ぶ。
いや。
並んだ瞬間もう違う。
『マチカネフクキタル先頭!』
「……」
抜いた。
しかもそのまま離す。
『強い! マチカネフクキタル! サイレンススズカを一気にかわして先頭!』
一バ身。
二バ身。
ゴール。
『マチカネフクキタル一着! サイレンススズカを相手に完勝!』
「……」
ボクの中だけ静かになる。
周囲は大歓声。
「ブルボンさん」
「はい」
「スズカ、ミスしてました?」
「ミスは確認できません」
「ペースは?」
「許容範囲内です」
「最後、ばてました?」
「まったく。伸びていて想定以上でした」
「つまり」
「サイレンススズカさんは、概ね自身の力を発揮したと判断します」
「ですよね」
分かっていた。
聞いただけ。
確認したかっただけ。
今日のスズカは失敗していない。
油断もしていない。
能力もかなり仕上がっていた。
しかも二千メートルという得意な距離。
それを真正面からぶち抜いた。
「……来たなぁ」
「何がでしょうか」
「秋のフクキタル」
思わず口に出た。
「秋季における能力向上を指していますか」
「そんな感じです」
怖い。
かなり。
ボクの前世知識が全力で警報を鳴らしている。
神戸新聞杯の次は京都新聞杯。
その前に……
「ブルボンさん」
「はい」
「ボクの前哨戦」
「京都新聞杯を第一候補としていました」
「変更できます?」
「理由を確認します」
「セントライト記念にしましょう」
「中山芝二千二百メートルです」
「はい」
「菊花賞とはレース場が異なります」
「知っています」
「京都新聞杯を回避する合理的理由を」
「……」
言いたくない。
でも
「フクキタルが怖いです」
「承知しました」
「そこはもっと何か言ってくださいよ」
「戦術的回避も選択肢の一つです」
「逃げじゃない?」
「勝利確率を高めるためのローテーション変更です」
「ですよね」
よし。
戦略的撤退。
逃げではない。
ボクは二冠ウマ娘である。
無敗である。
だからこそ前哨戦でわざわざ今一番訳の分からない相手へ突っ込む必要はない。
勝ち目がないと言っているわけでもない。
ただ今は情報が足りない。
「というわけで」
セントライト記念。
中山芝二千二百メートル。
『ピュアホワイト一着! 二冠ウマ娘、秋初戦を快勝!』
「よし」
危なげなく勝利を収める。
前哨戦としては完璧に近い。
負荷も大きすぎない。
身体の状態もいい。
菊花賞へ向けて順調。
「勝ちました」
「はい」
「やっぱりこっちでよかったですね」
「結果論としては肯定できます」
「結果がすべてです」
「本番は菊花賞です」
「分かってます」
そしてその後。
「ブライト、行くんですね」
「はい~」
「京都新聞杯」
「はい~」
「フクキタルいますよ」
「いますね~」
「神戸新聞杯見ました?」
「もちろんです~」
「怖くない?」
「怖いですよ~」
「じゃあセントライト記念に来ればよかったのに」
「ホワイトさんが逃げたところへですか~?」
「戦略的撤退です」
「ふふ~」
笑われた。
「私は行きます~」
「本気?」
「はい~」
ブライトはいつも通りふわふわ。
でも目は笑ってない。
悪い意味ではない。
本気だ。びっくりするぐらい本気だ。
「フクキタルさんがあれだけ強いなら、菊花賞の前に一度走ってみたいです~」
「怖いですよ」
「ホワイトさんも怖いのでしょう~?」
「かなり」
「でしたら」
笑う。
「私が先に、どのくらい強いのか見てまいります~」
「偵察?」
「勝つつもりです~」
「でしょうね」
ブライトはこういうところが強い。
ボクは逃げた。
でもブライトは真正面から行く。
「勝てそう?」
「勝ちます~」
「自信ありますね」
「夏にいっぱい鍛えましたから~」
「マックイーンさんにも?」
「はい~」
「……」
「何です~?」
「フクキタルも怖いけど、ブライトも十分怖いなって」
「まあ~」
嬉しそう。
「では、見ていてくださいね~ 私の方がよほど怖いってこと」
「わかりました」
そして京都新聞杯。
ボクは観客席。
今度はブライト。
そしてフクキタル。
ゲートが開く。
レースが始まる。
前半は普通。
極端な流れではない。
ブライトは後方。
フクキタルも中団から後ろ。
お互い慌てない。
「似てますね」
「どちらも終盤の伸びを武器としています」
「だから最後」
「はい」
「真正面からですね」
四コーナーで動く。
まずはブライト。
外から長く加速。
『メジロブライトが上がっていく!』
「来た」
いつものブライト。
いやいつもより
「速い」
マックイーンさんやライアンさんに鍛えられた夏合宿が全部効いている。
動き始めてから無駄がない。
長くそして力強い。
『メジロブライト、外から進出!』
「これ」
勝ったと一瞬思った。
直線でブライトは先頭へ。
『メジロブライト先頭!』
本当にかなり強い。
春のブライトより圧倒的に、明らかに上。
その時。
『しかし外から!』
「……」
来た。
『マチカネフクキタル!』
「来ましたね」
フクキタルが外から追う。
ブライトは前でさらに伸びる。
しかしその差が徐々に縮まっていく。
「ブライト!」
残り三百。
差は二バ身。
一バ身半。
ブライトはさらに伸びる。
「まだ!」
マックイーンさん仕込みの走法。
最後までフォームが崩れないし速度は落ちない。
なのに
「何で」
フクキタルとの差が縮まる。
『マチカネフクキタルが迫る! メジロブライト粘る!』
残り二百で並ぶ。
そこから熾烈な競り合い。
本当に末脚同士。
ブライトが一歩。
フクキタルが一歩。
どちらも止まらない。
「ブライト!」
頑張れと祈る。
でも残り百。
『マチカネフクキタル前へ!』
「……」
半バ身。
ブライトが追いすがる。
差しか縮まらない。
フクキタルがさらに一歩加速する。
『マチカネフクキタル一着!』
そのままゴール。
『二着メジロブライト! 一バ身差!』
「……」
完勝。
そう言っていい。
ブライトは失敗していない。
むしろかなり強かった。
春より明らかに強い。
そのブライトと真正面から末脚勝負して勝った。
「……ブルボンさん」
「はい」
「ブライト、ちゃんと走ってましたよね」
「はい」
「仕掛けも」
「問題は確認できません」
「最後も」
「メジロブライトさん自身の速度低下はありませんでした」
「ですよね」
つまり
「フクキタルが」
「はい」
「強い」
「その通りです」
「……」
困った。
本当に困った。
「これ」
どうする。
菊花賞でフクキタルは前世でも勝った。
「……」
勝てる。
そう言いたい。
いつもなら言える。
でも今普通に走った場合。
勝ち筋が見えない。
「ブルボンさん」
「はい」
「一回、全部考え直しましょう」
「同意します」
「普通に勝負したくないです」
「戦術立案を開始します」
「お願いします」
秋のフクキタルを知っていた。
前世から知っていた。
でも知識として知っていることと実際に目の前で見ることは全然違う。
「こんなに強かったんです?」
答えはない。
ただ結果だけはある。
神戸新聞杯。
一着。
京都新聞杯。
一着。
次は菊花賞。
「何も思いつかないですね」
それが一番困っていた。