黒沼トレーナーに担当してもらうことになった翌日。
指定された時間にトレーニング場へ向かったボクは、そこで少々予想外の人物と再会した。
「おはようございます、ピュアホワイトさん」
「……おはようございます。ミホノブルボンさん」
ミホノブルボン。
知っている。
もちろん知っている。
このウマ娘を知らないはずがない。
無敗のまま皐月賞、日本ダービーを制し、三冠を目前にした菊花賞でライスシャワーに敗れた名馬。
つまりママの最大のライバルの一人である。
その本人がなぜかジャージ姿で、黒沼トレーナーの隣に直立していた。
「本日より、私がピュアホワイトさんのトレーニングを補助します」
「補助?」
黒沼トレーナーを見る。
「聞いていないか」
「何も」
「そうか」
父。
大事なことはちゃんと説明してください。
黒沼トレーナーは腕を組んだまま、淡々と続けた。
「俺はもう以前のようには動けん。体調を崩してから現場からはほぼ退いている」
「……大丈夫なんですか?」
「今すぐ死ぬような病気じゃない」
そういう言い方をされると逆に心配になる。
だが本人は気にした様子もない。
「メニューは俺が組む。だが実際について指導するのはブルボンだ」
「なるほど」
納得した。
むしろこれ以上ない人選である。
黒沼式トレーニングを一番よく知っているのは、おそらく目の前のブルボン本人だ。
「ブルボンさん」
「はい」
「お手柔らかにお願いします」
「その要請は受理できません」
「ですよね」
即答だった。
知っていた。
そもそも優しくしてほしいなら、父に厳しいトレーナーを紹介してくれなどと言っていない。
「最初に確認する」
黒沼トレーナーがボクを見る。
「強くなりたいんだな」
「はい」
「楽ではないぞ」
「楽をして強くなれるならそうします」
「無理だ」
「お父様にも同じことを言われました」
やはりプロの見解としても無理らしい。
残念である。
「なら始めるぞ」
「はい」
黒沼トレーナーから端末を渡された。
今日のメニューが表示されている。
坂路。
短距離ダッシュ。
タイヤ引き。
筋力トレーニング。
ペース走。
そして最後に、もう一度坂路。
「……黒沼トレーナー」
「なんだ」
「これは一週間分ですか?」
「今日の午前分だ」
「午前」
午後もあるらしい。
なるほど。
「素晴らしいですね」
「そう言う奴は初めて見た」
「望んだものが出てきただけですから」
これくらいでなくては困る。
タイキより速くなりたい。
ドーベルより鋭くなりたい。
ブライトより長く脚を使えるようになりたい。
それを全部叶えようというのだ。
少しくらいきつくて当然である。
「では、開始します」
ブルボンがストップウォッチを構えた。
「最初は坂路五本。一本ごとに規定タイムを設定します」
「了解です」
一本目。
普通に走れた。
二本目。
まだ余裕がある。
三本目。
少し脚が重い。
四本目。
呼吸が荒くなる。
五本目。
「規定タイムを一・二秒上回りました」
「悪い方に?」
「肯定します」
「もう一回」
「予定では次のメニューへ移行します」
「でも失敗したでしょう」
「現在は記録測定も兼ねています」
「……なるほど」
不満はあるが従う。
次は短距離ダッシュ。
こちらは得意だ。
タイキには負けるが、それでも並のウマ娘には負ける気はない。
一本。
二本。
三本。
タイムは悪くない。
「加速性能、想定以上です」
「ふふん」
「ただし三本目から上体が僅かに浮いています」
「褒める時は褒めるだけにしません?」
「改善点の報告です」
「真面目ですね」
「恐縮です」
「褒めてません」
タイヤ引き。
これもできた。
筋力トレーニング。
できる。
なんだ。
確かに厳しいけれど、限界を超えるほど厳しいというほどではない。
「順調ですね」
「はい。初回としては高い達成率です」
ブルボンからもお墨付きをもらった。
「やっぱりボク、才能ありますね」
「その評価について否定材料はありません」
「でしょう?」
実に気分がいい。
そして昼。
別の意味で地獄が始まった。
「……これ全部ですか?」
「はい」
目の前に食事が並んでいる。
米。
肉。
魚。
卵。
野菜。
スープ。
果物。
そしてまだ何かある。
量がおかしい。
「誰か来るんです?」
「ピュアホワイトさん一名分です」
「ボク一人分?」
「はい」
「育ち盛りといっても限度があるでしょう」
「今後の運動量から必要摂取量を算出しています」
ブルボンの前にも山盛りの食事がある。
説得力がありすぎた。
「食事もトレーニングです」
「ママも同じこと言ってました」
「ライスシャワーさんの判断は適切です」
「ママが聞いたら喜びますね」
いただきます。手を合わせてから食べ始める。
最初はいい。
お腹も空いている。
肉がおいしい。
米も進む。
半分。
まだ余裕。
三分の二。
少しきつい。
四分の三。
「……」
箸が止まった。
「食事速度の低下を確認」
「実況しなくていいです」
「残量二十五パーセントです」
「見れば分かります」
食べる。
米。
肉。
野菜。
まだ米。
なぜ米が減らない。
「ブルボンさん」
「はい」
「ブルボンさんも、黒沼トレーナーに鍛えられていた頃もこれくらい?」
「より多い日もありました」
「……そうですか」
「ライスさんは私以上の食事をぺろりと食べてましたが」
「噓でしょ?」
これ以上……?
いやママは体型の割には食べるタイプだけど、これちょっと信じられない量だよ。
周りからも本気? みたいにみられてるじゃない。
恐ろしい。名ウマ娘は、才能だけで作られるわけではないらしい。
知識としては知っていた。
でも本人を前にすると重みが違う。
「ごちそうさまでした」
何とか完食。
「完食を確認しました」
「褒めてもらっていいですよ」
「予定通りです」
「厳しいなあ」
そして午後。
午前中に余裕だと思った自分を殴りたい。
長めのペース走を終え。
筋力トレーニングを終え。
再び坂路へ戻ってきた頃には、脚が鉛のように重くなっていた。
「残り三本です」
「さっきも三本って聞いた気がします」
「一本終了した時点で四本でしたので、現在三本です」
「言い方が詐欺師なんですよ」
ブルボンは真顔である。
悪意はない。
だから余計に困る。
走る。
一本。
きつい。
下って戻る。
もう一度。
脚が動かない。
「フォームが乱れています」
「分かって……ます!」
一歩。
もう一歩。
坂が長い。
朝はこんなに長かっただろうか。
「あと百五十」
「聞きたくなかったです!」
登る。
息が苦しい。
脚が痛い。
でもまだ動く。
頂上。
「規定タイムから四・八秒遅れ」
「……次」
「休憩を挟みます」
「いりません」
「必要です」
「まだ走れます」
「走れることと、トレーニングとして適切であることは別問題です」
言い返せない。
水を飲む。
呼吸を整える。
そして最後の一本。
走り出した。
最初から脚が重い。
半分。
まだ行ける。
三分の二。
「っ……」
脚が止まりかけた。
転びはしない。
でも一歩が出ない。
何だこれ。
さっきまで普通に走れていたのに。
「ピュアホワイトさん」
「……はい」
「中止を推奨します」
「嫌です」
「現状では規定タイム達成は不可能です」
「それでもゴールはできます」
ブルボンは少しだけ黙った。
「了解しました。安全限度を超えた場合はこちらの判断で中止します」
「お願いします」
また脚を出す。
遅い。
情けないほど遅い。
でも進む。
一歩。
一歩。
ようやく頂上へたどり着いた。
その場で膝へ手をつく。
「……はぁ……はぁ……」
「最終一本、規定タイムから十一・二秒遅れ」
「ひどいですね」
「はい」
「そこは慰めてください」
「トレーニングを完走した点は評価できます」
「最初からそう言ってください」
その日はそれで終わった。
正確には、走ることは終わった。
「夕食です」
「まだトレーニング残ってるじゃないですか」
食事が残っていた。
昼と同じような山盛り。
疲れ切った身体で見ると、それだけで心が折れそうになる。
「無理な場合は残して構いません」
「……いいんです?」
「食事も身体状態に合わせる必要があります」
ブルボンは当然のように言った。
別に完食を強制されていたわけではないらしい。
なら。
「食べます」
「無理をする必要はありません」
「食べます」
坂路はまともに走れなかった。
今日のメニューも全部完璧にはできなかった。
それならせめて。
目の前にあるものくらいは終わらせたい。
「いただきます」
食べた。
苦しい。
でも食べた。
最後の一口まで飲み込む。
「ごちそうさまでした」
「完食を確認しました」
「ふふん」
「誇る部分でしょうか」
「今日唯一完璧に達成できた課題ですよ?」
「なるほど」
ブルボンが少し考える。
「では、達成を評価します」
「ありがとうございます」
翌朝。
起きた。
正確には起きようとした。
「……」
身体が動かない。
「ピュアー! Good Morning!」
隣からタイキの元気な声。
「おはようございます」
「Morning Run行きマショー!」
「無理です」
「Why?」
「動けません」
「What!?」
タイキが飛んできた。
大げさに心配されたが、ただの筋肉痛である。
ただ、あまりに痛くて階段を下りるだけで地獄だった。
「本日のトレーニングは回復メニューへ変更します」
ブルボンは当然のように言った。
「走らないんです?」
「軽いジョギングとストレッチのみです」
「もっとできますよ」
「できても実行しません」
「どうして?」
「筋肉は負荷を与えれば即座に強化されるわけではありません。回復もトレーニングの一部です」
「……なるほど」
厳しいだけではない。
限界まで毎日追い込むわけでもない。
休む時は休ませる。
食べさせる。
寝かせる。
そして身体が戻ったら、また追い込む。
それが黒沼式らしい。
数日。
そして一週間。
毎日似たようなことを繰り返した。
走る。
食べる。
寝る。
鍛える。
また食べる。
最初は見るだけで嫌になった食事も、そのうち普通に腹が減るようになった。
「今日、少なくありません?」
「規定量です」
「そうですか」
慣れとは恐ろしい。
坂路も同じだった。
最初は五本目で大きくタイムを落とした。
次は少しマシ。
その次はさらにマシ。
身体は正直だ。
やった分だけ少しずつ変わっていく。
「本日は、初日のメニューを再実施します」
一週間後。
ブルボンからそう告げられた。
「最初から最後まで?」
「はい」
「面白いですね」
すぐに意味は分かった。
初日にまともに完遂できなかったメニュー。
今ならどこまでできるか。
坂路。
短距離ダッシュ。
タイヤ。
筋力。
ペース走。
体幹。
そしてまた坂路。
前より楽だ。
いや。
楽ではない。
きつい。
それでも初日ほどではない。
一本目。
二本目。
三本目。
最後の坂路へ入る。
「残り一本です」
「その言葉、最近好きになってきました」
「心境の変化を確認しました」
「冗談ですよ」
最後。
脚は重い。
息も苦しい。
でも。
初日とは違う。
ちゃんと動く。
「……っ!」
蹴る。
前へ。
坂を登る。
あの日止まりかけた場所を越える。
タイキの背中を思い出す。
ドーベルの切れ味。
ブライトの伸び。
全部欲しい。
全部追いつきたい。
全部追い越したい。
だったら。
「これくらい……!」
できなければ困る。
最後まで走り切った。
「全メニュー終了」
ブルボンの声が聞こえる。
その場に大の字で寝転んだ。
「……終わった」
「はい」
「全部?」
「全行程を完遂しました」
「タイムは?」
「初日と比較して全項目が改善しています」
自然と口元が緩んだ。
「ふふん」
「満足そうですね」
「当然です」
できなかったことができるようになった。
それ以上に分かりやすい成長があるだろうか。
「ブルボンさん」
「はい」
「ブルボンさんも、最初から全部できたんですか?」
少し気になった。
ブルボンは首を横に振る。
「いいえ」
「そうなんです?」
「マスターの設定した課題を達成できないことは何度もありました」
「意外です」
「不足している能力を特定し、訓練によって補う。それを繰り返しました」
淡々とした言葉だった。
でも。
少し嬉しかった。
あのミホノブルボンも。
歴史に名前を残した名ウマ娘も。
最初から完成していたわけではない。
「なら、ボクももっと強くなれますね」
「可能性は高いと判断します」
「そこは断言してくれてもいいんですよ?」
「未来の確定は不可能です」
「真面目ですねえ」
ブルボンさんらしい。
トレーニング場の端で、黒沼トレーナーがこちらを見ていた。
最近は最初ほど姿を見せない。
体調の問題もあるのだろう。
「ブルボン」
「はい、マスター」
「今後はお前に任せる」
突然だった。
「了解しました」
「え?」
ボクだけが驚く。
「黒沼トレーナーは?」
「元々そのつもりだった。俺が毎日ここへ来るのは無理がある」
「そうなんですか」
「トレーニングも、そのほかのトレーナーに必要なことも、ブルボンに全部叩き込んである」
ブルボンが小さく頷く。
「ピュアホワイトさんの状態に合わせ、必要な調整を行います」
「……なるほど」
黒沼トレーナーを見る。
「せっかく担当してもらったのに」
「担当した覚えはない」
「え?」
「お前の父親に頼まれたのは、面倒を見られる奴を紹介してほしい、だ」
「騙された」
父。
今度帰ったら文句を言おう。
「不満か?」
「いえ」
ブルボンを見る。
毎日こちらのタイムを測り。
フォームを確認し。
食事まで見張り。
一緒に走ってくれる。
何より。
この人自身が、ボクが目標にしたい歴史的名ウマ娘の一人である。
「むしろ大歓迎です」
黒沼トレーナーが少しだけ笑った。
「そうか」
それだけ言って、歩いていく。
「体調には気をつけてくださいね」
「お前に言われるまでもない」
最後まで愛想のない人だった。
でも、父が信頼している理由は少し分かった気がする。
そしてその日から。
ボクのトレーニングを実際に見るのは、ブルボンさんだけになった。
「では、明日から負荷を一段階上げます」
「……今なんて?」
「負荷を一段階上げます」
「今日やっと全部できるようになったんですが?」
「はい。ですので次の段階へ移行可能です」
「少し達成感に浸らせてもらえません?」
「三分間の休息を設定します」
「そういう意味じゃないです」
黒沼トレーナー。
この人、本当にあなたの教えを正確に受け継いでいますよ。
嫌になるくらいに。
「三分後、食堂へ移動します」
「食事ですか?」
「はい。本日の夕食量は前回比一〇パーセント増です」
「待って」
ブルボンは待ってくれなかった。
強くなるというのは。
どうやらボクが思っていた以上に大変らしい。
まあ。
それでもやめる気は全くないのだけれど。