選抜レースを数日後に控えた放課後。
ボクはブルボンさんと一緒に、トレーニングルームの机へ向かっていた。
目の前にはトレセン学園のトレーニングコース芝1800メートルのコース図。
そして、その横には細かい数字がびっしり並んでいる。
「スタート後、最初の200メートルは十二・五秒を目標とします」
「はい」
「ただし外枠の場合は〇・三秒までの超過を許容します。第一コーナー進入時点で先頭を確保。以後四〇〇メートルごとのラップは、この範囲を維持してください」
「はい」
「向正面で後続が一バ身以内まで接近した場合、速度を一ハロンあたり〇・二から〇・四秒上昇。二バ身以上の場合は維持します」
「……はい」
「第三コーナーからは後続の位置に関係なく規定値へ移行。残り六〇〇メートルから加速を開始します。ただしサイレンススズカさんがそれ以前に前へ出ようとした場合は──」
「ちょっと待ってください」
思わず止めた。
ブルボンさんがこちらを見る。
「質問を受け付けます」
「いえ、ラップ走法そのものは知ってるんです」
「はい」
「ブルボンさんが一定のラップを正確に刻みながら走るのが得意なのも知っています」
「はい」
前世の知識にある。
ミホノブルボンといえば、鍛え抜かれた肉体と徹底したラップ走法。
決められたペースを崩さず、自分の走りを最後まで貫く。
だからブルボンさんからそれを教わること自体には何の異論もない。
むしろ、ぜひ教えてほしいと思っていた。
ただ。
「ここまで細かく決めるんです?」
「必要です」
「〇・二秒とか〇・三秒とかですよ?」
「はい」
「レース中ですよ?」
「はい」
「相手もいますよ?」
「当然考慮します」
ブルボンさんが端末を操作する。
さらに別の表が出てきた。
選抜レースの出走予定者。
それぞれについて、過去の計測データと予想される脚質までまとめられている。
当然、その中にはサイレンススズカの名前もある。
「サイレンススズカさんは前方を好みます。現状の傾向から、スタート後に先頭を確保しようとする可能性は九十七パーセントと推定します」
「九十七」
「ピュアホワイトさんが先頭を確保した場合、追走してくる可能性が高いと判断します」
「でしょうね」
それはボクも同意見だ。
スズカさんの走りは何度か見た。
とにかく前へ行きたがる。
まだ前世で知っている完成されたサイレンススズカには遠いけれど、その片鱗は十分すぎるほどある。
「なので先頭を取ります」
ブルボンさんが言った。
「異論はありません。逃げたい相手がいるなら、その前を走ればいいだけですから」
「同意します」
ブルボンさんの表情は変わらない。
「ただし、必要以上にサイレンススズカさんを意識してはいけません」
「前を譲らないのに?」
「はい。目的は彼女を抑えることではありません。ピュアホワイトさんが最も効率よく走り切ることです」
「なるほど」
「相手が速ければ速く走る。遅ければ遅く走る。それでは自分の能力を最大限に発揮できません」
コース図の上を指が動く。
「自分が最後まで維持できる最高効率のペースを設定し、それを守る。相手が前へ出るなら、設定範囲内でのみ対応します」
「設定範囲を超えてきたら?」
「行かせます」
「え」
そこは少し意外だった。
「追わないんです?」
「追えば予定が崩れます」
「でも先頭を取られますよ?」
「一時的にです。こちらの能力を最大限発揮した場合のペースを超えて抜いてくるのですから、確実に相手はもちません」
そういいながら説明は続く。
次の表。
第二案。
第三案。
第四案まであった。
「……ブルボンさん」
「はい」
「レースって、ここまで考えて走るものなんです?」
「私はそう教わりました」
恐るべし黒沼式。
いや。
恐るべしミホノブルボン。
知識としてラップ走法を知っていたつもりだった。
一定のペースで走る。
簡単に言えばそれだけだと思っていた。
違う。
一定のペースを刻むために、事前にありとあらゆる状況を想定している。
相手が来る。
来ない。
予定より速い。
遅い。
位置取りがずれる。
風が強い。
バ場が重い。
その全部に対して、どう修正するかまで用意している。
「なんか急に自分が雑に見えてきました」
「これまでのレース運びには改善余地があります」
「そこは否定してくださいよ」
「事実です」
厳しい。
でも。
面白い。
「覚えます」
「全てを暗記する必要はありません」
「え?」
「身体に覚えさせます」
ブルボンさんが立ち上がった。
「これより、設定ラップを再現するトレーニングを開始します」
「……何回?」
「誤差〇・一秒以下に収まるまでです」
「聞かなければよかった」
それから三日。
走った。
ひたすら走った。
「前半二〇〇、〇・二秒超過です」
「もう一回」
「はい」
「中間ラップ、〇・三秒不足です」
「もう一回」
「はい」
「終盤の加速開始が二十メートル早いです」
「もう一回」
「はい」
最初は数字なんて分かるかと思った。
時計を見ながら走っているわけではない。
なのにブルボンさんは、呼吸、脚の回転、歩幅、身体へかかる負担
それらを基準にして時間を覚えろと言う。
無茶だと思った。
ところが。
「今回の誤差、〇・一秒です」
「……おお」
できた。
何度も繰り返すうちに、分かるようになってきた。
この速度ならこの呼吸。
この歩幅ならこのくらい。
あと少し速い。
少し遅い。
身体の中に時計を埋め込まれたような感覚だ。
「再現性が向上しています」
「ふふん」
「しかし本番では他のウマ娘が存在します」
「分かってます」
だから選抜レースが大事なのだ。
実際に誰かと走った時、それでもこの走りを維持できるのか。
試す時が来た。
トレーニングコースでの芝1800メートル。
選抜レース。
ゲートへ向かいながら、隣を見る。
サイレンススズカ。
栗色の髪が風に揺れている。
視線は真っ直ぐ前。
やっぱりこの人、先頭しか見てませんね。
「よろしくお願いします」
「……よろしく」
短い返事。
集中しているらしい。
いい。
こちらも集中する。
入学試験の時とは違う。
あの時は相手を見た。
相手がどう動くのかを見て、それを利用した。
今日は違う。
見るのは自分だ。
自分がどれだけ正確に走れるか。
それだけ。
ゲートへ入る。
呼吸を整える。
脚へ力を込める。
ブルボンさんから教えられた最初の二〇〇メートルを頭の中でなぞる。
大外一八番であることから考えて、誤差プラス〇・三秒の十二秒八。
そこから少し落とす。
第一コーナーまでに先頭。
以降は一定。
残り六〇〇から加速。
単純だ。
単純にするために、散々複雑なことを覚えさせられた。
ゲートが開く。
「っ!」
出る。
ベストのスタートだ。
隣からスズカさんも速い。
やはり先頭へ行くつもりだ。
でも。
今日は譲らない。
一歩。
二歩。
三歩。
前へ。
最初の二〇〇。
少し速い。
ほんの少しだけ落とす。
内からスズカさんが来る。
分かっている。
こちらのペースを守る。
第一コーナー。
ボクが先頭。
すぐ後ろにスズカさん。
さらに後方へ他のウマ娘たち。
『先頭はピュアホワイト! サイレンススズカが二番手!』
生徒がしていると思われる実況が聞こえる。
無視。
今必要なのは音ではない。
呼吸。
脚。
身体。
自分の速度。
少し速い。
修正。
向正面へ。
後ろから足音が近づく。スズカさんだ。
分かりやすい。
前へ出たいのだろう。
こちらの半身後ろまで来る。
さらに。
並びかける。
「……っ」
来ましたね。
少しだけ速度を上げる。
ほんの少し。
ブルボンさんに叩き込まれた許容範囲。
スズカさんも上げる。
足音が消えない。
横へ来る。
速い。
やっぱり速い。
この人の本領はまだ先だと分かっているのに、今の時点でも十分すぎる。
でも。
だから何だ。
こちらも速くなった。
入学試験の時より。
タイキと最初に走った時より。
ドーベルやブライトに負けた時より。
確実に。
身体が違う。
脚が動く。
息が続く。
何より、自分が今どれくらいの速度で走っているのか分かる。
スズカさんがもう一度前へ出ようとする。
こちらはさらに〇・二。
それ以上は上げない。
抜けるならどうぞ。
進路は空いている。
妨害もしない。
ただ。
ボクより速く走らないと前には出られませんよ。
第三コーナー。
まだ先頭。
スズカさんが一バ身以内。
後ろは。
知らない。
見る必要がない。
今は前だけ。
第四コーナー。
『ピュアホワイト先頭! サイレンススズカが食らいつく! 後続は離れた!』
残り六〇〇。
予定通り。
ここから。
「行きます」
誰に言うでもなく呟いた。
加速。
脚の回転を上げる。
身体を前へ。
スズカさんも来る。
やっぱり来る。
直線へ。
横を見る必要はない。
音で分かる。
すぐ後ろ。
半バ身。
さらに近づく。
『サイレンススズカが迫る! 二人が抜けた! 後ろは大きく離れている!』
速い。
本当に速い。
このペースで最初から走って、それでもまだついてくる。
前世で知っていた姿が一瞬頭をよぎる。
大逃げ。
誰にも届かない先頭の景色。
いつかこの人は、もっと速くなる。
でも。
今日は。
「ボクが先頭です」
さらに踏む。
残り四〇〇。
苦しい。
当然だ。
ブルボンさんに設定されたのは、楽に走り切れるペースでは当然ない。
ぎりぎり最後まで持つラインを見極めた限界を振り絞るペースだ。
全力を正確に使い切るためのラップだ。
残り三〇〇。
スズカさんが並びかける。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
視界の端に栗色が入った。
「っ……!」
速い。
でも。
こちらにはまだ脚がある。
予定通り。
全部予定通り。
最後の二〇〇。
解放する。
もうラップはいらない。
ここから先は全部使う。
「はぁっ!」
踏み込む。
伸びる。
身体が前へ出る。
スズカさんも伸びる。
離れない。
でも抜かせない。
一バ身。
半バ身。
また一バ身。
ゴール板が近づく。
『ピュアホワイト! ピュアホワイト先頭! サイレンススズカ追う!』
最後まで。
先頭。
そのまま。
ゴール。
駆け抜ける。
少しして速度を落とす。
「……はぁ」
息が荒い。
入学試験とは全然違う。
余裕なんてない。
全部をきっちり使った。
後ろを見る。
スズカさんがいる。
着差は。
『一着、ピュアホワイト! 二着サイレンススズカ、一バ身差!』
「……一バ身」
勝った。
『なお三着以下は大きく離れています! 二人だけが完全に抜け出す結果となりました!』
振り返る。
ようやく三着がゴールする。
大差。
なるほど。
どうやら思っていた以上に、ボクたちは速かったらしい。
「負けました」
隣から声。
スズカさんだった。
「はい」
「……ずっと先頭でしたね」
「そのつもりでしたから」
「私より前を」
少し不思議そうな顔をしている。
「嫌でした?」
「……分かりません」
スズカさんがゴールの向こうを見る。
「でも、もっと前へ行きたいと思いました」
ああ。
この顔。
前世の知識があるボクには、少しだけ分かる気がした。
この人はこれからなのだ。
「次は簡単に前を譲りませんよ」
「私もです」
短い。
でも十分だった。
レース場から戻ると、ブルボンさんが待っていた。
「お疲れさまでした」
「勝ちました」
「確認しています」
「一バ身差です」
「確認しています」
「三着は大差ですよ?」
「確認しています」
「褒めてもらっていいですよ」
ブルボンさんが一度瞬きをした。
「前半六〇〇メートル、設定値との差〇・二秒。中間八〇〇メートル、差〇・一秒。サイレンススズカさん接近時の速度調整も許容範囲内です」
「はい」
「第三コーナーからの加速開始も予定通り。最終二〇〇メートルで最大出力へ移行」
「はい」
「総合的に、高精度でレースプランを再現できています」
少し間。
「良い走りでした」
「ふふん」
嬉しい。
何というか。
ブルボンさんにそう言われると、普通に勝つより嬉しいかもしれない。
「ただし」
「まだあるんです?」
「第四コーナー出口で予定より〇・二秒加速が早まっています」
「勝ったんですからいいでしょう」
「改善可能です」
「本当に厳しいですね」
「ありがとうございます」
「褒めてません」
そんなやり取りをしていると、少し離れたところから声がした。
「ピュア!」
タイキだ。
ドーベルとブライトも一緒にいる。
「Very Fastデース!」
「ありがとうございます」
「……また速くなってない?」
ドーベルが眉を寄せている。
「そうですか?」
「入学試験の時と全然違うでしょ」
「毎日鍛えてますから」
「そんな簡単に……」
ドーベルが何とも言えない顔をする。
ブライトはいつものようににこにこしている。
「ホワイトさん、最後まで速度が落ちませんでしたねぇ~」
「ブルボンさんに散々叩き込まれました」
「しかも最後、まだ伸びてました~」
「少しは」
「少しですかぁ?」
にこにこ。
でも。
目が少し違う。
以前、入学試験でこちらの駆け引きに気づいた時と同じ目。
見ている。
ちゃんと。
「……面白そうですねぇ~」
「何がです?」
「いえ~」
ブライトはそれ以上言わなかった。
ドーベルももう一度コースを見る。
そしてボクを見る。
「私もちゃんとトレーナー探さないと」
「まだ決めてなかったんです?」
メジロから推薦されているトレーナーなんて片手で済まないぐらいいるだろうに。
決まっていないとは思わなかった。
「候補はいるわよ。でも……」
そこで言葉を切る。
「もっとちゃんと選ぶ」
どうやら少し本気になったらしい。
「ワタシもTrainer探し、頑張りマース!」
タイキも楽しそうに手を上げる。
「ピュア、次はワタシとOfficial Raceデース!」
「望むところです」
面白い。
本当に面白い。
入学試験の時。
タイキより遅かった。
ドーベルより切れなかった。
ブライトより伸びなかった。
でも。
ボク自身も伸びている。
しかもどうやら。
思っていたより速い速度で。
タイキを見る。
ドーベルを見る。
ブライトを見る。
それぞれの顔に、前より少しだけ強い競争心が見える。
いい。
みんなもっと強くなればいい。
歴史的名バなのだから。
その方が。
勝った時、絶対に楽しい。
「ピュアホワイトさん」
「はい?」
ブルボンさんが呼ぶ。
「本日のレースデータを基に、明日からトレーニング内容を修正します」
「……明日から?」
「はい」
「今日くらい休ませてくれても」
「本日の夕食は通常比一五パーセント増量です」
「そっちも増えるんですか!?」
「消費量が想定を上回りました」
やっぱり。
強くなるというのは大変である。
まあ。
ゴール版を過ぎた時に見える先頭の景色。
そんな景色を見られるなら。
悪くない。
いや。
かなりいい。
次も。
その次も。
できればずっと。
スタートからゴールまで、一番前を走っていたいものである。