佐里は閉じた瞼をゆっくりと開いた。
視界に飛び込んできたのは、グレーの絨毯のような素材床。そして、ガラス張りのフェンスに囲まれた幅広の通路だった。通路の両脇には、お洒落なポーズを決めたマネキンたちが、洗練されたショーウィンドウの向こうからこちらを見下ろしている。色鮮やかな洋服、帽子、靴――高級ブランドのショップが幾重にも連なるその光景に、彼女は見覚えがあった。
「……ショッピングモール?」
それも、視界の端まで店舗が続くほどの大型店舗だ。
ガラスフェンスの先は円状の吹き抜けになっており、遥か下階まで見通せる。どうやらここは二階以上のフロアらしい。
状況を確かめようと佐里が柵の向こうへ歩き出そうとしたその時、背後から「佐里ちゃん」と名前を呼ばれた。
「丸くん!?」
期待を込めて勢いよく振り返る。しかし、そこにいたのは小柄な少年ではなく、誰もが目を奪われるほど端正な顔立ちをした男だった。不意のことに、胸がどきりと跳ねる。
そのイケメンは、全身を漆黒の特殊スーツ――ガンツスーツに包んで立っていた。自分もまた、同じ黒いスーツを着ている。一見すれば、奇妙なコスプレに身を包んだ二人組のようにも見えた。
「神崎蒼真……」
テレビや動画配信サイトで見ない日はない、いま破竹の勢いにある超有名芸能人だ。月9ドラマに映画、バラエティ、アイドル活動まで、その活躍は多岐にわたる。
最近同じくスターダムを駆け上がった女性タレント『ミズキ』と肩を並べ、メディアを席巻しているイメージが強い。
そんな雲の上の存在が、なぜ自分の目の前にいて、親しげに名前を呼ぶのか。激しい違和感が胸を突く。
普通の女子大生なら、あるいは大学の友人たちなら、狂喜乱舞してサインをねだるところだろう。だが、佐里にとって目の前の男は「ただの顔が良い男」でしかなかった。恋愛感情も結婚への憧れも、一ミリも湧いてこない。
いま、その優しい声で『佐里ちゃん』と呼んでほしいのは、自分をあの地獄から救い出し、「守る」と言ってくれた少年なのだ。
月川丸。髪がボサボサで小柄な高校生。女の子のように可憐な顔立ちの、風変わりな男の子。
謎の黒い球体――ガンツに翻弄され、理不尽なミッションを強制される絶望の中で出会った、彼女の英雄。
丸がいてくれたからこそ、二度の地獄を生き延びることができた。今回だって、きっと彼が助けてくれる。守ってくれる。
それなのに、目の前にいるのは頼れる少年ではなく、見ず知らずの芸能人。
落胆が波のように押し寄せたが、佐里はそれを表情に出さないよう、かろうじて踏みとどまった。
「フルネーム呼びかぁ、佐里ちゃんとはもう少し仲良くなれたと思ったんだけどね」
「神崎くん……ごめん、つい。ほら、いつもテレビで見てる人だから……」
「構わないよ。ボクも少しは有名になれたってことだしね。名前を覚えてもらえるのは、純粋に嬉しいよ」
「うん、ありがと……」
申し訳程度の言葉を返しつつ、佐里は周囲を見渡した。
そこにいたのは神崎だけではなかった。がっしりとした体格の元自衛官・藤堂、いかにも疲弊した風貌のサラリーマン・田中、そして隅の方でぶつぶつと小声で呟いている、陰気な雰囲気の少年。
全員が例の変態チックなガンツスーツを着用している。ほぼ裸同然の、身体のラインが浮き出る異様な衣服だ。誰もが羞恥心を抱いたはずだが、それでも全員が着用しているということは、古参の東森華凛が必死に説得した成果なのだろう。
(ガンツスーツがあれば、最低限の身は守れる……)
怪物からの攻撃を受けても、身体へのダメージを劇的に軽減してくれる仕組み。しかし、それは絶対ではないと東森は厳しく言っていた。『スーツを過信するな、極力攻撃は回避しろ』と。それができれば苦労はしないのだが……。
ふと、周囲に目を向けると、そこには買い物袋を下げた親子連れや腕を組んで歩くカップルなど、無数の一般人が行き交っていた。
ミッションのエリアに、一般人がいる? 今までとは明らかに状況が違う。
東森からは『ガンツに関することは絶対に周囲に露見させてはならない』と口酸っぱく言われていたため、佐里は慌てて身を隠そうとしたが、時すでに遅し。一人の女性客が、彼女のすぐ傍を通り過ぎようとしていた。
だが、その女性は佐里の姿など視界に入っていないかのように、完全に無視して通り過ぎた。他の人々も同様に、黒いスーツの集団を気にかける様子すらなくスルーしていく。
「あれ? ……みんなあたし達のこと無視してる?」
「佐里ちゃんも気づいた? 彼らには、ボクたちの姿が認識できていないみたいだ。これは異常だよ……」
「神崎、やはりこちらから話しかけても反応しないぞ」
大柄な藤堂が、険しい表情で神崎に告げた。
「やっぱりおかしいね。ガンツってヤツが、ボクたちを一般人の視界から認識しないようにしている……そう考えるのが自然かな」
神崎は顎に手を当て、キザな仕草で思案の声を漏らす。普通の男がやれば痛々しいポーズだが、彼ほどの美貌があると、それすら絵になってしまうのが憎らしい。
「いひひ……、ひひひひひ!」
「な、なに?」
佐里が短い悲鳴をあげる。
それまで一言も発していなかった陰気な少年が、突如として奇妙な高笑いを始めたのだ。背筋が凍るような、粘り気のある不気味な笑い声。
不穏な空気を察した藤堂が、少年に歩み寄る。
「どうしたんだ、お前……名前は黒木だったな? 急に笑い出してどうした、気が触れたか」
「いひひひひっ、ひひっ! 違うよ……おじさんたち、分からないの? ここはあの世なんだよ! ずっと悪質なドッキリか何かだと思ってたけど、あのワープも、変な武器も、ほら、あいつら一般人が反応しないのも全部説明がつく! ここなら、何をしたっていいんだ! 盗んでもバレない、誰の身体に勝手に触ってあんなことやこんなことをしたって、誰にも咎められない! ひひ……ひひひひ! 自殺して大正解だった! こここそが、僕の楽園だ!」
「黒木………完全に狂ったか」
「黒木クン……」
ただの大人しい少年だと思っていたが、中身は完全に壊れている危険人物だった。
佐里は強烈な嫌悪感を覚え、黒木から距離を置こうと足を引きかける。しかし、ここで単独行動をとれば、敵に遭遇した瞬間に死ぬ。その恐怖が足を縛った。
この少年からは、かつて自分をストーカーし、前回のミッションで無惨に死んだ石黒という男と同じ、酸鼻な拒絶反応を覚える。単独行動だけは避け、いざという時は藤堂や神崎が守ってくれることを期待するしかなかった。
「俺も……自殺したんだ。練炭自殺だ」
ここで初めて、サラリーマンの田中が虚ろな口を開いた。黒木の狂気に当てられたように、堰を切ったように言葉が漏れ出す。
「妻に浮気されて、もう何もかも終わりだった……。やっぱり、ここはあの世なんだな……誰も俺を見てないんだもんな……」
「いひひ……おじさん、ここは自由にしていいんだよ! あの辛いクソ現実はもう終わった! 楽園はここにある」
「楽園……? ここが……?」
「そうだよ! おじさん、過去の辛いことは全部忘れて、好き放題しようよ……一緒にさあ」
「……そうだな……もう、あれで、全部なかったことになったんだもんなあ、俺も楽しんでいいのか。あはは、ハハハハ」
黒木に同調し、壊れた人形のように笑い出す田中。
駄目だ、この二人はもう戦力にならない。敵に遭遇する前に、精神が崩壊してしまっている。
(――私も、丸くんがいなかったら、現実逃避してこの人たちみたいに壊れていたのかな)
そう思うと、佐里には彼らを冷徹に突き放す資格などないように思えた。
「冷静になれ! どんな極限状態であれ、正気を保つことが最優先だ! 黒木、田中!」
「そうだよ、まだここが楽園だと決まった訳じゃない。ミッションの事忘れてないよね? 二人とも」
「ミッション? あぁ……あのモブ星人って奴? 出ないんじゃんか! どこにも! いひひひ! それにあんなのチー牛でしょ!? 出ても弱いって! いひひひひ!」
「もう嫌なんだ、全て思い出すのが……楽しいことだけ考えよう……あははははは」
男たちが言い争う背後で、佐里の視線は周囲の雑踏へと注がれていた。
行き交う一般人の波をじっと見つめていた彼女の視界に、それは映り込んだ。十メートルほど先。生存本能が、誰よりも早くそれを捉えたのだ。二度の地獄を潜り抜けた経験が、彼女の直感を極限まで研ぎ澄ましていた。
買い物客の雑踏に紛れ込み、平然と歩く、一人の短髪で眼鏡をかけた男。
ガンツの部屋のディスプレイに映し出されていた、ターゲット。
――モブ星人の顔、そのものだった。
逃げなきゃ。
誰かに伝えないと。そうだ、神崎くんに。
しかし、恐怖で喉がからからに干上がって、言葉が出ない。過呼吸気味に呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほど打ち鳴らされる。視界がぐにゃりと歪んだ。
「大丈夫? 佐里ちゃん。顔が真っ青だけど……それに呼吸も荒い」
「は……はぁ……かん、ざき……くん……言いたい、ことが……」
「何? 聞くよ……ボクに相談していいよ、安心して」
柔らかく、聞くものが安心する声音で、表情で倒れそうになる身体を支える神崎。
こんなにイケメンで、性格も優しいとなれば、モテるのだろうと思った。
一瞬佐里も心を預けたくなってしまいそうだった。丸の事を思い出さなければそうなっていた。
呼吸が掛るほどの近い距離で、神崎は佐里の事を見つめる。
「——て、敵……があそこに、いる」
「敵……? まさか」
神崎はそれを聞き、素早く振り返る。
驚いたように目を見開いて、敵の事を探しあてた。
「いるね……あれが本当に敵? 宇宙人だって聞いたけど……?」
「多分、そう……ふつうの、人間だって思うかもだけど……」
「分かった……みんなに言わないとね」
神崎はすぐに残りの三人に敵の存在を告げた。
藤堂の表情が一気に緊張で引き締まり、黒木は口元を醜く歪めて笑い、田中だけは他人事のように虚空を見つめていた。
モブ星人がこちらへ近づいてくる。
距離、残り五メートル。一般人と何ら変わらない無表情のまま、歩を進めてくる。こちらを攻撃する素振りはなく、まだ気づいていないのか、あるいは関心がないのか。
「みんな……本当にこれがドッキリじゃなく、命を懸けた戦いだというなら――やろう」
神崎が決然とした眼差しでXガンを構えた。
「今でも信じ難いが、何らかのテロに巻き込まれている可能性はある。ならば先制して脅威を排除する、それが自衛隊での教えだ……神崎、合わせるぞ!」
藤堂が慣れた手つきでXガンをホールドし、正確に照準を定める。
「お、お前ら……大真面目にやるわけ? いひひ、馬鹿じゃねえの! まあいいや、弱そうだし、ちょっとしたゲーム感覚で一発くれてやるか、ひひっ!」
黒木はニヤニヤと笑いながら、片手で雑にXガンを突き出した。
「もう、どうにでもなれ……」
田中はただ、その場に棒立ちのままだ。
佐里は……震えるだけで、Xガンを構えられなかった。
トラウマ。死のトラウマが、佐里の身体を縫い付け、硬直させた。
——戦いたい。……あたしだって、初めての人たちが戦おうとしてるんだ。あたしだって……、なのに身体が思うように動かない。
「死ねよ、チー牛がっ!」
何の前触れもなく、黒木がトリガーを引いた。
――ギョーン!
銃口から独特の不気味な動作音と共に、青い閃光が迸る。唐突な射撃に神崎と藤堂が息を呑んで標的を見つめたが、着弾の瞬間、モブ星人の身体には何の変化も起きなかった。
「な、何も起きないぞ……?」
「おもちゃか? やっぱり悪質なドッキリ――」
「う、うぉw」
モブ星人が奇妙な声を漏らした直後、その頭部が内側から爆発するように激しく弾け飛んだ。
悍ましい緑色の血液が、脳漿と共に周囲の床や壁へ派手にぶちまけられる。頭部を失ったモブ星人の肉体は、糸の切れた人形のように無造作に崩れ落ちた。
凄惨きわまる光景に、その場の全員が凍りついた。
本当に殺した。死んだのだ。
あまりにもリアルな死の現実が、そこにあった。
佐里は咄嗟に視線を逸らした。胃の底から駆け上がってくる嘔吐感を必死に堪える。二度も経験したはずなのに、この生々しい死の感覚にはどうしても慣れることができない。
「う……本当に……本当に死んだ……」
神崎が口元を押さえ、顔を歪める。
「実銃……いや、未知の兵器か。自衛隊でもこんな破壊をもたらす武器は見たことがない……」
藤堂が己の持つXガンを戦慄の目で見つめた。
「いひ……いっひひひひ! マジで死んだ! 殺したぞぉ! よっわ! きたねえよ! チー牛! 雑魚すぎ! モブ星人って、まじでモブかよ!? いひひひひひ!」
黒木は腹を抱えて狂ったように笑い転げた。
「は、はは……な、なんだ……何なんだ……う、うぉえええええ」
田中がその場に膝をつき、床に激しく嘔吐した。
凄惨な死体が転がっているというのに、行き交う一般人たちは何事もないかのように通り過ぎていく。楽しげに笑う親子、手を繋ぐ恋人たち、買い物袋を抱えて先を急ぐ女性。彼らは、床に広がる不気味な緑色の血溜まりを何の躊躇もなく踏み抜き、通り過ぎていく。気づくこともなく。幸せそうに。
黒木が死体に近づき、頭部のない肉体を乱暴に蹴り飛ばした。何度も、何度も、歓喜の声をあげながら。
「よっわ! カス! 雑魚! モブ! 気持ち悪いんだよ! いひひひ! 楽しい! さいこー! あの世最高!」
「辞めよう、黒木クン……それは、不謹慎だよ……。敵を倒したら、それでいいんじゃないのかな」
「不謹慎? 神崎ぃ! 芸能人か知らないけどよ! お前もやればいいじゃん! 楽しいよぉ、ほらっ、人体蹴る経験なんてそうそう来ないし! ほらっ、この野郎! おら!」
「辞めとくよ。ボクにそんな趣味はない……人として、してはいけないんだよ。そんなことも分からなくなったか、黒木クン……それは人じゃない、獣と変わらない」
「神崎ぃ……僕に、何て言った今? 獣……だとぉ? 僕は、人間だっ! 獣扱いするな!」
「——っ」
黒木は蹴るのをピタリと止め、Xガンの銃口を神崎の顔面に突きつけた。
一撃で星人の頭部を粉砕した未知の凶器が、今度は仲間である人間に向けられる。神崎はすでに銃口を下げており、ここから構え直すのでは到底間に合わない。
神崎の額を、冷たい汗が伝う。
(あれが本当に同じ人間なの……?)
佐里の脳裏に最悪の疑念がよぎる。何かの間違いで、あの黒木という少年自体がモブ星人の擬態なのではないかとすら思えた。
「やめろ、黒木! 武器を収めろ!」藤堂の怒声が響く。
「うるさい! 神崎ぃ……謝ったら許してやるよ、頭下げて、地面に充ててさあ……早くしろよっ!?」
「神崎くん……」
「分かってる……するよ、今から」
神崎が静かに身動きをしようとした瞬間、黒木がそれを遮るように叫んだ。
「待て! Xガンは床に捨てろ! 隙を見て撃ってくるかもしれないからな……」
「……分かった。警戒させて悪かったね」
神崎はゆっくりとXガンを床へ滑らせ、両膝を突いた。そして、プライドを投げ捨てるように額を絨毯に押し当てる。
「獣呼ばわりして、本当に申し訳なかった……」
「いいんだよ……最初からそうやって素直に謝ってくれればさぁ……いひっ、僕だって別に喧嘩したいわけじゃ――うごふっ!?」
突如、黒木の身体が真横に凄まじい勢いで吹き飛んだ。背後のアパレルショップのショーウィンドウに頭から突っ込み、激しい音を立てて強化ガラスを粉々に粉砕する。
誰もが予想し得なかった事態。
直後、静まり返った通路に、無数の足音が響き渡った。
一人や二人ではない。数十、いや、それ以上の足音が、地鳴りのように迫ってくる。
黒木を除く全員が、弾かれたように音のする方角を振り返った。
――そこに、奴らがいた。
一体。
二体。
三体。
四体。
五体。
六、七、八、九、十――いや、そんなものではない。
通路の奥を埋め尽くすように、横一列に整列したその数は、少なくとも三十体以上。
すべてが全く同じ顔、同じ服装をした『モブ星人』の集団が、死んだような無表情で佐里たちを見据えている。
先頭列の十体が、一斉に機械的な動作で右手の指を突き出してきた。
「「「「「「「「「うぉwビーム」」」」」」」」」