滑らかな白い壁が窪んだ穴に身体ごと埋め込まれていた丸は追撃が来ないことを知り徐に顔を上げ、その先に映る白髪赤目の少年——夏目を見て口の端を吊り上げる。結局、彼に前も今回も死にかけた所を助けられた。丸からしてみれば命の恩人で、友達だ。
円型の黒い大型タイヤホイールのような乗り物……バイクに近い操縦席の上で夏目は、無事でいる丸を見てほほ笑む。
「夏目……! 助かったぜ!」
「うん……! 月川くんはさ、どうしていつも死にかけてるの?」
「何でだろうな、俺が弱いから?」
円型バイク……丸はガンツバイクと名付けることにする。に乗り、夏目は丸に近づいてきた。バイクを止めて、立ち上がって穴の中の丸に手を差し伸べてきたので、素直に手を受け入れた。今はその細い白い手が何より頼もしい。
「月川くんは強いよ? そんなことないと思うけど……」
「いいや、今はまだ弱い。だけど、強くなってやる……今のままじゃ全然足りねぇ。さっきも、やりきれなかった奴を慎重に確殺してればよかっただけだし、俺の努力不足だ……あいつらに、まだ届いてねえ」
握りこぶしを作り、強く力を込める。皺ができ、握った部分が白くなっていく。華凛に牛尾も、実力、覚悟、意識、努力も彼女らに全然足りていない。悔しい。男が女子に負けている、その情けない事実が男のプライドに傷をつける。
夏目がそんな丸を何かキラキラした、憧憬の視線を送っていた。
「だから、月川くんは強いんだね……」
「あ? 今の話聞いてたか夏目」
「普通死にかけたらみんな戦えないよ。自分が弱いって、まだ足りないってそう思ったら、逃げちゃうよ。僕は少なくともそうなっちゃうかな……。だけど、月川くんはまだ諦めてないし、まだ戦おうとしてる……んだよね......?」
「あ、あぁ……そうだ。まだ敵は残ってるんだから戦うしかねーだろ」
「うん。やっぱり、月川くんは、強いね……!」
「よく分かんねえ、どうなったらそうなる……おっ!?」
丸と夏目が会話している間に、走り寄ってきた千春先生が丸に勢いよく抱き着いた。大人の女性が漂わせる甘い汗の匂いが、丸の鼻腔をくすぐる。それに千春先生のほどよく大きい柔らかい胸が丸の顔に当たっていた。エロい……! 千春先生、合格だ。このサイズはCだ。間違いない。ガンツスーツ越しだ。これはもはや裸のおっぱいに顔が当たっているのと変わらないのでは? やはり、千春先生を助けてよかったと思う。しかしながら、少し息が苦しい。密接しすぎだ。だが、おっぱいで窒息死するなら本望!
と変な最期を送ろうとしていた丸は、千春先生の目から零れている涙を見て、動揺する。
「ち、千春せんせー? なんで泣いてるんだ?」
「……じゃう……かと……」
「ん? じゃうかと?」
「月川君が、死んじゃうかと思った……! 私のせいで……私を庇ったせいで……! ごめん、なさい……!」
「おぉ……う」
丸が千春先生を助け、庇って死にかけたこと。
涙の理由を知り、丸はそういうことかと納得する。自分が死んでも、別に誰もどうとも思わないと。クズな自分が死んだ所で、他人に影響を与えず何も変わらないと。そう思っていたが、彼女が担任だと思い出し、一生徒が死んだら悲しむのも普通か、と最終的にたどり着く。
「俺は生きてるよ、千春せんせー。だから泣くなって」
「でも……! 夏目君がいなかったら……来てくれなかったら、死んでた……前みたいに、気付かないうちに死んじゃって……また、そうなるって」
「前は、あの時は仕方ないしな……そうしなきゃ、みんな死んでた。今は、生きてるぞ。ほらスーツもまだ壊れてねえ」
「……だけど……」 尚も泣き続ける自分より大人な彼女を見て、丸がその顔を両手で少しだけ強く挟んで、唇が触れそうになるほどの距離に近づく。
「俺を見ろよ! 千春せんせー……俺は生きてる。俺は、生きてるだろ?」
「……はい」
「この先も死ぬ気なんてない。俺、強くなるから。千春せんせーを守れるくらい。守るとか……似合ってねーって思うかもしれないけどさ、俺……死ぬ気だけはねーから! 千春せんせー安心しろよ、授業ではサボってるダメな生徒が、ここだったら逆転して、せんせーのこと守ってやる」
「——変わったのね……月川君。貴方、前より見違えたわ」
「それって……さ、俺のこと好きってこと?」
「何をどう勘違いしたらそうなるの!? そ、そんなわけないじゃない! 私は教師で、貴方は……」
もごもごとその先が途切れ、赤面する千春先生。冗談で言ったつもりだが、意外にいけるのか!? と丸は内心興奮する。
しかし、そんなラブコメのような状況を許す場所ではなかった。
広いショッピングモールの一階中央ホールに、姿を現す沢山の影。蠢くそれは、百体を超えている。いつの間に集まったのか。
モブ星人の群れ。
周囲に一般人は既にいなく、残されたのは丸、千春先生、夏目の三人だけ。
「何体いやがる……こいつらゴキブリみたいに何匹も現れやがって!」
「月川くんまずいよ……! ど、どうする?」
「イヤ、月川君……どうすればいいの……?」
二人の視線を一身に受けて丸は必死に頭を回転させる。
今の状況。モブ星人の大群に対し、こちらはスーツが生きてる丸、ガンツバイクと共に無傷の夏目、そしてスーツが壊れた生身の千春先生。絶望的な状況。おそらく物量で、勝てない。踏みつぶされる。一匹のモブ星人の攻撃ではスーツは壊れないが、それでも少ない威力だ。それが百体以上。
夏目が緊張からか汗を流し、千春先生の顔が青ざめて、縋るような二人の目線。
仮にこの二人が華凛とろっくのような二人なら、状況はまた変わったのだろう。けれど、今あるのは戦意を喪失するような圧倒的な物量差、戦力差。
その時、上階から何かがひび割れるような破壊音と共に、一人の黒い影が落ちてくる。かなりの速度で床に落ちて、鈍い音が近くに鳴る。
誰だ!? スーツを着ているから、ミッションメンバーのうちの一人だ。その顔を見て、驚く。
「神崎じゃねーか!」
「神崎君?」
丸と千春先生がそう呼ぶと、倒れていた神崎がゆっくりと上半身を起き上がらせて二人を仰ぎ見る。驚くような神崎の表情。
まだスーツのジョイント部が青く光っている事から、まだ戦えるのは幸いだ。戦力が増えた。少しだけ希望が見えてきたが、足手まといが増えたともいう。
「キミたちは……月川クンに、夏目クンに、千春さん」
「上から落ちてきたが、何があった? 神崎」
「そ、そうだ……上で藤堂さんと佐里ちゃんが残っていて危険だ……! あそこには敵が沢山いる!」
「佐里ちゃんが!?」
神崎が告げた言葉に、月川が大きく反応する。
佐里。この前に童貞を卒業してもらった相手。エロい女。痴女。
まだ一回しかセックスをしていないというのに、その女が死にかけている。佐里は華凛のように強くないし、戦えない。その場にろっくや華凛がいればいいが、そんな運のいい状況があるとは限らない。
藤堂というのは、あの元自衛隊だと名乗った男だろう。戦力にはなりそうだが、彼が佐里を守り切れるか不安だ。
だが、この場を離れるわけにもいかない。
目の前には百体以上のモブ星人の大群が迫ってきている。
この場を離れ、上階に向かえば佐里は助かるかもしれないが、今度はこの場に残っている人たちが死ぬ。
丸が二人いて、片方ずつで担当し、誰も彼もを救うことはできないのだ。丸は一人で、分身なんていう摩訶不思議の力はない。だとすれば今前にある敵を素早く撃破し、上階に向かう。百体以上の敵相手に生き残れるかどうかも分からない状況かつ、そもそも一階にいる敵だけで丸達は殺される。そんな未来を思い描いてしまう。
不可能。今の丸に上階に向かうだけの余裕は、ない。
それが分かって、そんな結論に反吐が出て、残酷なこの状況を呪う。
ふと近くにいる三人を見る。
千春先生。夏目。それに今合流したばかりの神崎。
周りには、溢れるほどの敵。モブ星人。
にやにやと丸達を見て、あざ笑っているような気がした。
詰み。
それが脳内を覆い尽くして、言葉が出てこない。
みんなを助ける。その言葉が、喉の奥で止まり、引っかかる。
あの装備の牛尾ならともかく、今の丸に全員を助けきる力はなかった。それが現実。丸が直視せざるを得ない圧倒的な壁。
今もなお告げ続ける自分の心の声に負けて、一人で逃げるという選択が頭にチラつく。
「月川クン——キミは、こんな時、どうする?」
「俺は……」
「困った時は東森さんがキミを一番に頼れと、言っていた……今がその時だ!」
ボロボロの神崎が、歳下の少年に縋るような声を送る。
東森華凛が、
月川丸を一番に頼れると言っていた。
その事実に、期待に胸が震える。
自然と口の端が笑みを作っていた。
こんな絶望的な状況だというのに、おかしい。
今は悲しむべきで、泣くべきで、恐怖に震えるべきだ。
だというのに、歓喜で震える。武者震い。それが一番正しい。
「夏目」
「……うん。何? 月川くん」
「そのバイクで、千春せんせーを連れて、佐里ちゃんとこ行け。神崎、もそのバイクの上に乗っていけ」
「でもそれじゃ……月川君、貴方は……どうなるの?」
「一人でここに残る。それが一番いい」
「そんな……!」
千春先生の悲鳴を、丸は笑い飛ばす。気にするなと。
「それに正直言って、みんながいると足手まといだ。一人だったら、なんとか生き残れる」
この大群を相手に、一人で生き残れると。確かに丸は口にして、三人が驚嘆する。
単純にして数は暴力だ。それを歴史が証明しているし、子供でも分かる算数の正体だ。
1よりも、10や100の方が大きい。
圧倒的な個がひっくり返すことができるが、正直に言って神崎は目の前にいるのが普通の背の低いどちらかというと弱そうな高校生に見えた。中学生にも見えるような気がした。
多分おそらく丸はウソをついているのだと思った。三人を活かすために、囮になると彼は言っているのだ。
「……いいのかい? 月川クン、キミを頼って」
「早く行け。クソイケメン。本当は死んだ方が世の為、俺の為なんだけどな……お前、絶対に、佐里ちゃんを助けろよ」
「分かった。キミの想いを無駄にしない。佐里ちゃんは必ず」
「任せたぞ」
丸は神崎から夏目に視線を移す。
夏目は困ったような顔をしていた。悲しむような、信じるような、どっちなんだという顔。
「夏目。そのバイク、マジでカッコイイぜ。どこで拾ったんだ?」
「違う教室にあったんだ。一個しかなかったけど……」
「そうか。夏目、信じてる」
「月川くんから信じられたら、裏切れないな……うん、分かったよ」
夏目との会話が終わり、最後は千春先生を見る。
千春先生は、泣きそうな顔をしていた。大人のくせして、泣き虫だなと思い、丸は笑う。
「なあ、千春せんせー。一個、お願いがあるんだけど」
「……何……? 月川君……」
「——もし俺が生きてて、このミッションが終わったら、エッチしてくれ」
「え……?」
丸のその突拍子もない言葉に、千春先生が唖然と口を開ける。
エッチ。セックス。大人である千春先生に分からない言葉でない。しかし、急すぎて脳が受け付けない。
こんな時に一体全体何を言い出すのだろう、と。
教師と生徒であるのだから、そんなことしていいはずがない。
きっと気のせいだろう。そうだ、そうに決まっている。
「だから、セックス! してくれ!」
「は、は……あっ!? 月川君、いきなり何を……」
千春先生はその言葉をようやく理解して、間違いなく目の前の子供は自分と交尾をしたがっていると分かり、一瞬で赤面する。
自分を助けてくれた、彼が自分を望んでいると知り、仮にそれが身体だけのことでも、嬉しいと千春先生は思ってしまう。
(私、生徒相手に、何を……!?)
だが、次はもう会えないかもしれないことを思うと、冗談でも嘘でも今は言う方が良い気がする。
「死ぬかもしれないんだ。それぐらい、望んだっていいだろ? ダメだったら別にいいけどな。よくないけど」
「月川君……分かったわ……胸でもお尻でもなんでも揉ませてあげるわよっ! だから、必ず生きてっ! また会いましょう!」
「ま、まじで? きたぜ! やっほう! 最高! やる気湧いてきた! 今だったら、何でもできる気がするぜ!」
これから死線を迎えるというのに、今が人生最高潮だと表情で見せる丸は、笑っている。
そんな生徒に千春先生は微笑む。そして、そんな少年が好きなのだと理解する。
「行け! 夏目!」
「うん! 月川くん、また戻ってくるから!」
「おう!」
モブ星人の大群が近づいてきたことで、丸が叫び、ガンツバイクに乗った夏目が千春先生を操縦席の後ろに乗せ、ホイールの上に神崎が乗りかかって、アクセルを入れる。かなりの速度で黒いバイクが、モブ星人の合間を縫って、壁を昇っていく。垂直の壁を、だ。
その性能に丸が驚き、そしてたった一人になったところで、深呼吸をした。
「ふぅ……これでようやく戦える。
——華凛。待ってろ。今目の前の奴らを殺して、合流してやるからな」
丸は、腰を低く落とし、ショッピングモールの床を力強く蹴った。