コミュ障ヒキニート、誰とも話したくないので不眠不休でダンジョンに潜る〜自称美少女AIオペレーターの無断配信でいつの間にか有名になっていた件〜 作:shortsword
薄暗い六畳間の床に座り、ユウトはプロテインの粉末を溶かしたシェイカーをゆっくりと傾けた。
ほうれん草とバナナ、それに豆乳を混ぜた冷たい液体が喉を通っていく。探索を始めてから定着した朝の習慣だった。かつて自室に閉じこもっていた頃は、空腹を紛らわせるためだけにインスタント麺を啜るか、セイイチが作り置いてくれた料理をただ機械のように胃袋へ流し込むだけだった。
だが、今は違う。魔物と命を削り合うダンジョンでは、筋肉の一瞬の反応遅れが生死を分ける。必要な栄養を計算し、欠かさず身体へ送り込むことは、盾の手入れと同じくらい不可欠な生存の技術だった。
「ごちそうさま……」
空になった容器を台所の流しで手早く洗い、水切り籠へ伏せる。
壁際には、前日の激戦を物語る傷のついたライオットシールドと、黒光りするタクティカルメイスが整然と立てかけられていた。ノールに裂かれた左太ももの傷は、ダンジョン順応の力によって跡形もなく塞がっている。鈍い痛みすら残っていない。
机の上でスリープ状態になっていたスマホの画面をタップすると、アイの端正な声が静かに響いた。
『おはようございます、旦那様。体調や筋肉の張りに異常はありませんか?』
「おはよう、アイちゃん。うん、全然平気。傷も完全に塞がってるし、腕の重さもないよ」
『素晴らしい回復力です! ですが、細胞修復によって体内資源は消費されていますから、水分とアミノ酸の補給は今日も細かく意識してくださいね』
「わかった」
ユウトは息を吐き、昨夜送金した画面の記憶を思い出した。
1,000,000円。
通帳の数字が減ったことへの未練は欠片もなかった。10年間、セイイチに寄生し続けて費消させてしまった莫大な金額――アイと試算した約900万円という現実に比べれば、ほんの最初の一歩にすぎない。それでも、自分の力で魔石を換金し、後ろめたさの塊だった過去へわずかでも支払いができたという事実は、鉛のように重かったユウトの心へ確かな軽さをもたらしていた。
(今日も、準備ができたらダンジョンに行こう。少しでも早く、残りを稼いで……)
そう呟き、探索着の襟元を整えようとした、その時だった。
トントン、と遠慮がちなノックの音が、薄い木製のドアを震わせた。
ユウトの身体が、条件反射で硬直した。
郵便受けがカタカタと鳴るような配達の音ではない。宅配便ならインターホンを押すはずだが、この築古アパートの呼び鈴は壊れたままだ。誰かが直接、ドアの板を拳で叩いている。
アイの画面がふっと暗くなり、通話と配信の外部出力を即座に遮断した。私的な領域への侵入者を前に、アイは完全に沈黙を保っている。
「……ユウト、いるか? 俺だ」
板越しに届いた落ち着いた声を聞いた瞬間、ユウトの心臓が跳ね上がった。
(おじさん……!?)
昨夜のメッセージを見て飛んできたのだと、すぐに理解できた。慌てて玄関へ向かい、掛け金を外してドアを引く。
「お、おじさん、どうし……」
言葉が途中で喉に引っかかった。
セイイチのすぐ斜め後ろに、整った身なりの女性が立っていたからだ。長い髪を後ろでまとめ、落ち着いたジャケットを着たミレイが、少し困ったような、だが穏やかな笑みを浮かべて小さく会釈をした。
「急にごめんね、ユウトくん。朝早くから押しかけちゃって」
「あ……ミ、ミレイ、さん……」
ユウトの視線が激しく揺れ、思わず靴脱ぎの段差へ後ずさった。
セイイチとは短い会話ができるようになっていたが、ミレイと顔を合わせるのはアパート探しの手伝いをしてもらった日以来だった。外資系コンサルタントとして第一線で働く彼女の理知的な佇まいは、社会から10年も脱落していたユウトにとって、眩しすぎて直視できない存在だった。
「ユウト、立ち話もなんだから、入ってもいいか? これ、昨日の晩の残りなんだけど、温め直せば食えると思ってな」
セイイチが掲げた布包みからは、出汁と煮込み料理の微かな匂いが漏れていた。
「あ、はい……汚い、部屋ですけど……どうぞ」
二人が靴を揃えて狭い玄関を上がる。部屋を見回したセイイチは、壁際の盾やメイス、無機質に積まれたプロテインの袋に一瞬だけ目を留めたが、詮索を入れることはしなかった。ただ探索者になったのだということは瞬時に理解した。怪我をしている様子もなく、肌の血色が良い甥の姿を見て、まずは微かに安堵したように息をついた。
「上がらせてもらうよ」
六畳間に置かれた小さな折りたたみ机の前に、セイイチとミレイが腰を下ろす。ユウトは正座し、畳の目に視線を落としたまま、固く両手を握りしめた。部屋の空気が張り詰めている。
セイイチがポケットから真新しい銀行の封筒をすっと差し出した。
「これ、受け取れない」
封筒の厚みを見るまでもなく、昨夜振り込んだばかりの100万円だと分かった。
ユウトの胸に、冷たい氷を押し当てられたような衝撃が走った。拒絶されたのだと思った。自分の汚れた稼ぎなど、受け取ってもらえないのではないかという恐怖が首筋を這い上がってくる。
「ど、どうして……ですか……? 足りなかった、でしょうか……もちろん、これは、最初の一部で……残りの分も、ちゃんと働いて、少しずつ返すつもりで……」
消え入りそうな声で訴えながら、ユウトは必死に頭を振った。
「受け取って、ください。俺が……俺が叔父さんに迷惑をかけてきた分です。食べさせてもらって、部屋を使わせてもらって、保険や年金まで払ってもらってた……そのお金を返したいんです」
「ユウト、俺はお前に金を貸した覚えはない」
セイイチの声は低く、優しかった。怒りではなく、深い困惑と痛ましさが滲んでいた。
「お前が家を出て、自分で稼げるようになったのは本当に嬉しい。健康そうにしているのも見て安心した。だが、生活費を返すなんて話は最初からしていないだろう。この100万は、お前が自分の身体を張って稼いだ金だ。これからの生活費や、万が一の蓄えとして持っておくべきだ」
「でも、それじゃ……!」
ユウトは畳に爪を立てた。
セイイチの優しさは痛いほど知っている。責めないことも、最初から無償で養ってくれていたことも分かっている。だからこそ、その優しさに甘え続けてきた自分が許せなかった。
「叔父さんが良くても……俺が駄目なんです。俺がいるせいで、叔父さんはずっと自由になれなかった。それに……叔父さんだけじゃなくて、ミレイさんだって……」
ユウトは視線を上げられず、畳の縁を見つめたまま言葉を絞り出した。喉が張り裂けそうだった。
「二人は、結婚したばかりじゃないですか。これから、結婚式を挙げたり、新婚旅行に行ったり……家を買ったり、子供のことだって……お金がいくらあっても足りないはずです。なのに、俺が何年間も叔父さんのお金を食いつぶして、何百万円も穴を開けたままで……二人の新しい生活を、俺のせいで我慢させたくないんです。削らせたくないんです……!」
言った途端、息が詰まった。
他人の家庭の懐事情に踏み込むような、無礼で厚かましい言葉だったかもしれない。それでも、この恐怖だけは消せなかった。自分の存在が、新しく始まる二人の幸せに影を落とし、目に見えない足枷になっているという妄想が、ユウトの心を締めつけ続けていたのだ。
セイイチが眉を寄せ、慌てて口を開いた。
「ユウト、そんなこと――」
「セイイチさん、少し私に話させて」
静かな、だが芯のある声が重なった。
ミレイだった。彼女はセイイチの腕にそっと手を添えて制すると、ユウトの方へまっすぐに身体を向けた。
ユウトは肩を強張らせ、叱責を待つ子供のように縮こまった。自分のような出来損ないが踏み込んでいい領域ではなかったのだと、後悔が押し寄せる。
だが、ミレイから発せられたのは、冷たい拒絶でも、富裕層の余裕を見せつけるような自慢でもなかった。
「ユウトくん。顔を上げて、私の目を見てくれる?」
促され、ユウトは恐る恐る視線を持ち上げた。
ミレイは穏やかな瞳で、正面からユウトを見つめていた。ビジネスの場で見せるような鋭さはなく、一人の人間として対話しようとする真摯な光が宿っていた。
「心配してくれて、ありがとうね。私たちのこれからのことを、そこまで真剣に考えてくれていたんだって分かって、すごく嬉しかった」
「あ……」
「でもね、ユウトくん。その心配は、いらないの」
ミレイは落ち着いた口調で、丁寧に言葉を紡いだ。
「私たちね、結婚するときに、これからの暮らしについて何度も話し合ったの。住む場所も、働き方も、お金の使い方も。セイイチさんが今までユウトくんと暮らしてきたことも、全部知った上で、私はこの人と一緒にいることを選んだのよ」
ユウトの胸が小さく脈打った。
「私たちの生活はね、二人で働いて、二人で十分に成り立っているの。結婚式も、旅行も、これからの住まいのことも、私たちが納得できる形でちゃんと計画を立てて進めているわ。誰かに何かを遠慮して諦めたり、我慢したりしていることなんて、一つもないの」
彼女の声には、何の虚飾もなかった。ただ揺るぎない現実として、自分たちの自立した生活への誇りと責任が語られていた。
「だからね、ユウトくんの送金で埋めなければいけない不足なんて、私たちの家計には最初から存在しないのよ。もしユウトくんが『二人の生活を助けるために』って無理をしてそのお金を差し出してくれるのだとしたら……それは私たちの生活にとって、必要な支えではないの。私たちは、ユウトくんのお金がなくても、ちゃんと二人で幸せに暮らせているから」
「そ、そんな……でも……」
ユウトは唇を震わせた。
セイイチ一人に「気にするな」と言われた時は、自分を気遣って無理をしているのではないかという疑念が拭えなかった。だが、新しく家族になった当事者であるミレイが、自らの尊厳をかけて「私たちの暮らしは完全に成り立っている」と告げたのだ。
これ以上「あなたたちのために返さなければならない」と言い張ることは、彼女たちの自立や人生の選択そのものを否定することになってしまうのではないか。
そのことに気づいた瞬間、ユウトの中で頑なだった思い込みの楔が、音を立てて外れ始めた。
「……本当に、困って……ないんですか」
「困ってないわ。誓ってもいい」
ミレイは微笑み、セイイチの顔を見た。セイイチも力強く頷いた。
「ユウト。ミレイの言う通りだ。俺たちは二人でちゃんとやっていける」
セイイチは机の上の封筒を指先でトントンと叩いた。
「なあ、ユウト。お前が俺に感謝してくれているのは、痛いほど分かった。俺の作った飯を覚えていてくれたことも、無駄じゃなかったと思ってる。だがな、恩返しっていうのは、無理に元凶の相手へ送り返すものじゃないんだ」
「え……?」
「受けた親切を、同じ相手にそのまま突き返す必要はない。もしお前に、誰かに返したいと思うだけの余力があるなら――それは、今まさに困っている誰かのために使ってやってくれないか」
「困っている、誰か……」
「そうだ」
セイイチは真っ直ぐにユウトを見据えた。
「俺やミレイは、もう自分で立って歩けている。だが世の中には、かつてのお前と同じように、あるいは別の形で、どうしようもなく助けを求めている人がたくさんいる。お前が身体を鍛えて、外に出て、自分の力で立てるようになったのなら……その力は、俺たちの懐を肥やすためじゃなく、そういう人たちを守ったり助けたりするために使ってほしい」
ミレイも静かに言葉を添えた。
「受け取った親切を、次の人へ渡していく。そうやって回していく方が、きっと素敵だと思うな。セイイチさんがユウトくんにしてきたことも、元を辿れば誰かから受け取った優しさだったはずだから」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
過去の穴を埋めることばかり考えていた。自分が消費した金額を計算し、マイナスをゼロに戻さなければ、自分には生きている価値がないと思い詰めていた。
けれど、叔父もミレイも、最初から自分を借金まみれの罪人だなどと思っていなかった。ゼロに戻してほしいのではなく、前を向いて歩いてほしいと願っていたのだ。
「……わかり、ました」
震える声だったが、今度は迷いのない言葉だった。
その後の会話は、驚くほど穏やかだった。セイイチは持ってきた料理を小分けにして冷蔵庫へ収めてくれ、ミレイは部屋の陽当たりの良さを褒めてくれた。ユウトが朝からプロテインを飲み、健康的な食事も心がけていることを伝えると、二人は心から安堵した笑顔を見せた。
ユウトがどんなダンジョンで、どれほど無謀な戦い方をしているのかまでは、二人は気づかなかった。朝早くから顔色良く迎え、しっかりと受け答えができた甥の姿を見て、もう心配する時期は過ぎたのだと信じたのだ。
「じゃあ、行くよ。あんまり無理するなよ」
「体に気をつけてね、ユウトくん」
「はい。ありがとうございました」
玄関先で見送ると、二人は並んで階段を下りていった。初夏の風がアパートの外廊下を吹き抜け、ユウトの頬を撫でた。
借りを返すための義務感ではなく、背中を押されたような温かい軽さが、そこには残っていた。
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ドアを閉め、鍵をかけると、机の上のスマホが震えた。
画面が点灯し、アイの落ち着いたアバターが映し出される。
『お疲れ様でした、旦那様。……素晴らしいご家族ですね』
「見てたの、アイちゃん?」
『マイクの入力は切っておりましたが、旦那様の心拍や呼吸の変化から、とても有意義な対話が行われたことは十分に推測できました』
アイは微笑むようなトーンで言った。ユウトは部屋の中央へ戻り、畳の上に腰を下ろした。
「アイちゃん。俺……おじさんに言われたんだ。受けた恩は、困っている誰かに返せって」
『はい。その通りだと思いますよ』
「でも、俺には特別な才能なんてない。できることといえば、この3週間で身につけたことくらいだ。ダンジョンに潜って、魔物を倒して、魔石を拾うこと……。こんな力でも、もっと誰かの役に立てるのかな」
自己を過小評価する癖は、まだ完全には消えていない。
だが、アイは即座に、確信に満ちた声で答えた。
『旦那様、ご自身の実績を過小評価なさらないでください。すでに旦那様は、数え切れないほどの人々を救っておられますよ』
「え……俺が?」
『はい。以前攻略されていた第37号・イチカワ廃ビルダンジョンの公的データを照会いたしました。あそこは発生する魔物の危険度が低く、得られる魔石の価値も小さいため、民間の上位探索者がほとんど立ち入らない「安定期」のダンジョンでした』
アイは画面にシンプルなグラフを表示させた。
『安定期のダンジョンは、放置されると内部で魔物が過剰に増殖し、地上へ溢れ出る危険性が常に存在します。そのため本来であれば、地方自治体が多額の予算を投じて上位ハンターを雇い、定期的な「間引き」を行わなければならないのです』
「間引き……」
『ええ。ですが旦那様が約3週間にわたり、毎日徹底的にゴブリンを討伐し続けた結果、第37号ダンジョン内の魔物密度は安全基準値を大幅に下回り、行政による間引き作業は完全に不要となりました。旦那様は知らず知らずのうちに、周辺地域の安全を守り、税金の無駄遣いを防ぐという多大な社会貢献を果たされていたのです!』
ユウトは目を見張った。
自分はただ、生きるため、過去の負債を返すためだけに必死でメイスを振るっていた。だがその泥臭い作業が、巡り巡って街の人々の平穏を守っていたというのだ。
「そうだったんだ……。誰かを直接助け出せなくても、魔物を間引くだけで、役に立てるんだな」
『その通りです、旦那様! そして現在、同じような状況に陥っているダンジョンは、近郊にいくつも存在します』
アイは手際よくマップを開いた。画面上に、いくつかの赤いマーカーが点灯する。
『現在、旦那様は実績条件をクリアし、正式にEランク区域への入場資格をお持ちです。これ以上のDランク以上へ進出するには厳格な審査やチーム登録が必要ですが、FおよびEランク区域であれば、通常の個人探索者として自由に討伐活動を行えます』
「他のダンジョンも、同じように魔物が増えて困ってるの?」
『はい。例えば、隣駅の旧地下鉄連絡路である「第42号ダンジョン」、それに工業地帯の地下排水路に繋がる「第7号ダンジョン」。どちらもEランク以下のモンスターの個体数が基準値を上回っており、間引き要請の検討リストに入っています』
ユウトの胸に、新しい火が灯るのを感じた。
これまでは一つのダンジョンに籠もりきりだった。だが、複数のダンジョンを計画的に巡回して間引きを行えば、より多くの場所で危険を未然に防ぐことができる。
「アイちゃん。その二つのダンジョン、巡回ルートを組めるかな?」
『お任せください、旦那様! すでに第42号と第51号を結ぶ最適な移動経路と食料品店を経由する補給スケジュールを算出済みです』
無償のボランティアになるわけではない。魔石は社会に必要なエネルギー資源であり、それを換金して自分の生活を維持しながら、間引きによって街の安全を守る。
誰かに施しを返すためではなく、自分の足で立ち、自分の力で誰かの役に立つための道が、目の前に開けていた。
『では、明日から巡回を開始できるよう、必要な消耗品のリストアップを行いますね!』
「ありがとう、アイちゃん」
ユウトは立ち上がり、壁際の装備に歩み寄った。
左腕にライオットシールドを装着し、ベルトの締め具合を確かめる。右手でタクティカルメイスを握り、ゆっくりと構えを取った。
重みは変わらない。だが、心にかかっていた重圧は消え去り、澄んだ静けさが満ちていた。
「よし……準備をしよう」
誰かから受け取った温もりを、別の誰かの平穏へと繋ぐために。
ユウトは力強くメイスを握り直し、次なる戦場への備えを始めた。
──すれ違いを経て歪んだ自己犠牲と献身をより深め、ユウトの探索行は続く。