冷たい雨が、容赦なく地面を打ち叩いていた。
カロス地方の一角。かつて栄華を極めたミラー家の屋敷の前に、パトカーの赤い警告灯が虚しく回転している。 警察官の手によって連行されていく家族の姿を、ノウゼン・ミラーはただ無言で見つめていた。
———フレア団事件
カロスを揺るがしたあの未曽有の事態の裏で、暗躍していた者たち。 昨日まで自分の家族だった者たちの頭上を叩く雨音が、ふっと遠のいた。
見上げると、使い古された一本の傘が自分を覆っていた。 傘を差していたのは、トレンチコートの裾をぐしょぐしょに濡らした一人の男。鋭い眼光の奥に、どこか情に厚そうな温かさを宿した男だった。
「‥‥‥君が、ノウゼン君かい?」
「‥‥‥誰ですか、あなたは。野次馬なら他を当たってください。もう見物料を取れるような見世物じゃありませんよ」
感情の抜け落ちた声で吐き捨てるノウゼンに、男は嫌な顔ひとつせず、名刺を差し出した。
「私は国際警察、ハンサムだ。‥‥‥急なことで、心が追いつかないのも無理はない。だが、この雨の中で立ち尽くしていても風邪を引くだけだぞ」
「警察‥‥‥。なら、俺も連行すればいいでしょう。ミラー家の人間なんだから」
「君が何も関与していないことは、調べがついている。罪を犯したのは君の親族だ。君が背負う必要はない」
ハンサムはそう言うと、ノウゼンの濡れた肩をぽんと力強く叩いた。
「行く当てがないのなら‥‥‥私のところへ来ないか」
「‥‥‥は?」
「うまいメシと、雨風を凌げる屋根くらいはある。どうだい?」
拒絶する気力すら湧かなかった。ノウゼンはただ静かに頷き、差し出されたその言葉に従うことにした。
行き着いた先は、ミアレシティのルージュ5番地にひっそりと佇む小さな事務所
——「ハンサムハウス」。
「さあさあ、まずは体を温めなさい! シャワーは奥だ。タオルはここにおいておくからね!」
ハンサムに半ば強引に浴室へ押し込まれ、温かいシャワーを浴びる。ようやく体と心に感覚が戻ってくるのを感じながらリビングへ戻ると、テーブルには湯気を立てる温かい料理が並べられていた。
「おお、さっぱりしたかい! さあ、冷めないうちに召し上がりなさい!」
「‥‥‥あの、ハンサムさん。俺は‥‥‥」
「言い訳も遠慮も後回しだ! 食事をとらない人間はろくな思考ができないぞ。それにほら、君の手持ちのポケモンたちにも、ちゃんとごはんを用意したからね」
ボールから自力で出てきたノウゼンのパートナーたち——ゾロアーク、アブソル、ゲッコウガ、ギルガルド、クロバット、そして大きなサザンドラ。 狭い事務所の部屋が一気にすし詰め状態になる。普段は威風堂々とした彼らも、ノウゼンを心配そうに覗き込み、擦り寄ってきた。
サザンドラが大きな巨体をもてあましながら、ノウゼンの頭を鼻先でこつんと小突く。
「‥‥‥悪かったよ、心配させて。‥‥‥ありがとな、みんな」
出されたポケモンフーズを、ポケモンたちは安心したように美味しそうに口にし始めた。 ノウゼンもまた、差し出された温かいスープを匙ですくい、口に運ぶ。出汁の味が、冷え切った身体の隅々にまで沁みわたっていくようだった。
「‥‥‥うまい、です」
「はっはっは! そうだろう!私のお気に入りの定食屋直伝のレシピでね!」
その様子を優しく見守っていたハンサムが、ふとコーヒーカップを置き、真面目な顔でノウゼンに向き直った。
「ノウゼン君。唐突な提案かもしれないが‥‥‥このハンサムハウスで、私の『助手』として働いてみないか?」
「助手‥‥‥? 俺がですか?」
「そうだ! 恥ずかしながら、私は事務作業や事件の記録整理がからっきしでね! 君のような聡明な青年が手伝ってくれれば百人力なのだよ!」
「‥‥‥俺は、没落して犯罪者に落ちた貴族の落胤ですよ。そんな人間を事務所に置いて、貴方の評判に傷がつくんじゃ‥‥‥」
「誰もそんなことは気にしない!」
ハンサムは大きな手でノウゼンの両肩をガシッと掴んだ。
「過去がどうあれ、君は君だ。君のその綺麗な目が、何も悪いことをしていないと証明している! ‥‥‥それにだな、ノウゼン君」
ハンサムは少しだけ照れくさそうに鼻の下を掻いた。
「一人で食べる飯より、誰かと食べる飯の方が、ずっとうまいじゃないか!」
「‥‥‥っ」
ノウゼンは一瞬目を見開き、それから静かに視線を落とした。胸の奥に溜まっていた冷たい塊が、すうっと溶けていくような感覚がした。
「‥‥‥ハハ、無茶苦茶な論理ですね。‥‥‥分かりましたよ。掃除に書類整理、何でもやります。その代わり、家賃代わりにおいしい飯毎日食べさせてもらいます」
「おお! 受けてくれるか! よし、任せなさい! 私の特製料理を毎日振る舞おう!」
「あ、貴方の料理じゃなくて、レシピ教えてもらって俺が作ります。さっきキッチン見たら、調味料の配置がめちゃくちゃだったので」
「ぬおおっ!? 君は案外、言うときにハッキリ言うタイプだな!?」
寄り添うゾロアークやアブソルたちが、呆れたように、けれど嬉しそうに声を上げて笑う。 雨音の響く小さな事務所で、ノウゼンの新しい日常が動き出したのだった。
◇
「——よし、これでミアレシティ北側ルートの事件録、および押収品リスト整理完了です。ハンサムさん、警察本部への提出書類、ここに置いておきますね」
整然と書類が並べられたデスクの向こうで、トレンチコートを着た男——国際警察のハンサムが、目を丸くして感心したように声を上げた。
「いやあ、素晴らしい! 素晴らしいよノウゼン! 私がたった数行の報告書で頭を抱えていたというのに、君はわずか一時間で現場検証の記録から犯人の供述書まで完璧に分類してしまうとは‥‥‥! 君は本当に、まだ19歳の若者なのかい?」
「何度も言わせないでください。19歳です。それとハンサムさん、褒めてくれるのはありがたいですが、その報告書、提出期限が昨日の17時になってますよ」
「ぬおおおおっ!? げ、言われてみれば日付が昨日のものだーっ! ど、どうしようノウゼン、警視にまた大目玉を喰らってしまうーっ!」
「はあ‥‥‥大丈夫です。事前に遅延の理由と概要だけ先に連絡を入れて、了解を取ってありますから。今すぐ持っていけばギリギリセーフ扱いにしてもらえるはずです」
「神よ‥‥‥! いや、ノウゼン神よ! 君がこのハンサムハウスに来てくれてからというもの、私の生活水準と事件解決率が劇的に跳ね上がっているぞ!」
あの冷たい雨の日から、1ヶ月。
ミラー家の没落という絶望の淵から救い出されたノウゼン・ミラーは、いまやハンサムハウスの『優秀すぎる第一助手』として不可欠な存在となっていた。育ちの良さから来る高い知性と事務処理能力、そして何より——
「ギャアアアッ! 助けてくれえ! 不気味なポケモンたちが‥‥‥っ!」
事務所の広場で、ミアレシティを荒らしていた路上強盗犯がガタガタと震えて命乞いをしていた。その周囲を取り囲むのは、ノウゼンの自慢の手持ちたちだ。
研ぎ澄まされた刃を光らせるギルガルド、鋭い眼光で威嚇するアブソル、影から静かに圧力をかける漆黒のゲッコウガ、空を舞うクロバット、そして巨大な三つの頭を揺らすサザンドラ。ゾロアークがクスリと妖しく笑いながら犯人の腕をひねり上げ、あっさりと縄で縛り上げる。
「荒事になっても、俺の手持ちたちが一瞬で相手を制圧しますからね。‥‥‥はい、強盗犯確保。ジューサーさんたちに引き渡してきます」
「完璧だ‥‥‥完璧すぎるぞノウゼン! 事務所の清掃から料理、情報収集に犯人の捕縛まで‥‥‥君は一体何者なんだ!?」
「ただの助手です。‥‥‥まあ、ハンサムさんがドジを踏むたびにフォローさせられる俺の身にもなってほしいですけど」
ノウゼンが呆れたように息を吐いた。
——それは、ノウゼンがこの事務所に来てちょうど2ヶ月が経った頃のことだった。ある日ハンサムハウスの扉が勢いよく開き、ハンサムが一人の少女を伴って戻ってきた。少女は薄汚れた服を着ているものの、興味津々といった様子で部屋を見回している。対照的に、彼女の肩に乗ったニャスパーは毛を逆立て、ノウゼンたちを強く警戒していた。
「ノウゼン! 路地裏で路頭に迷っていた少女を連れてきたぞ!」
「へえ、ここが探偵事務所? 思ってたより広くて面白そうなところじゃん!」
マチエールはハンサムの後ろから身を乗り出すと、好奇心に満ちた目で室内を見渡した。しかし、その肩に乗るニャスパー——もこおは「にゃーっ!」と耳を伏せ、威嚇するようにノウゼンと巨大なサザンドラたちを睨みつけている。
「‥‥‥ハンサムさん。勝手に路地裏の子供を連れ込んできたんですか? それにそのニャスパー、すごい警戒してますよ」
「まあまあ! 彼女は路地裏でたくましく生きていたのだが、温かい飯と屋根のある場所に興味を示してくれてね!」
「だって、おじさんが『うまいスープがある』って言ったんだもん! タダでご飯食べさせてくれるなら拒む理由なんてないでしょ?」
マチエールはニシシと悪戯っぽく笑うと、腰に手を当ててノウゼンを見上げた。
「あたしはマチエール! こっちは相棒の『もこお』! ……もこお、そんなにシャーシャー言わなくても大丈夫だってば」
「ニャー‥‥‥っ」
マチエールとなだめられても、もこおはノウゼンの鋭い目つきや、後ろに控える威圧感たっぷりのポケモンたち(特にサザンドラやアブソル)から目を離さず、マチエールの首元にギュッとすり寄っている。
(‥‥‥噂には聞いていたが。ニャスパーと路地裏で暮らし、ストリートギャングたちを腕っぷしだけでまとめていた孤児。本人は図太そうだが、ポケモンの方は随分と繊細らしい)
「ハンサムさん。そうやって見境なく保護して……事務所の食費、また増やすつもりですか」
「ぬ‥‥‥っ! それは‥‥‥ノウゼンのやりくりでなんとか……!」
「なんとかするのは俺なんですね」
「路地裏のリーダー様か。飯につられてついてくるとは、随分と警戒心が薄いな」
「なによ! 美味しいものに惹かれるのは当然でしょ! それにあんた、ひょろひょろした見た目の割に難しそうな顔して‥‥‥何歳なの?」
「ひょろひょろと言うな。これでも鍛えてるし、19歳だ」
「ええっ!? 19歳!? 嘘でしょ‥‥‥綺麗な顔して落ち着きすぎだし、どこかの育ちが良い『お坊ちゃま』かと思った!」
「‥‥‥お坊ちゃまと言うな」
「だって、服装もピシッとしてるし、難しい顔して気取ってるんだもん! もっと気難しいお兄さんかと思った!」
「気取ってなどいない!身だしなみは基本だろ!」
「はっはっは! いいぞいいぞ、賑やかになって実に素晴らしい!」
初対面とは思えないほど物怖じせずズケズケと言い放つマチエールに、ノウゼンが本気で額に青筋を立てる。そのやり取りを見て、ハンサムが腹を抱えて大笑いした。
初対面とは思えないほど物怖じせずズケズケと言い放つマチエールに、ノウゼンが本気で額に青筋を立てる。そのやり取りを見て、ハンサムが腹を抱えて大笑いした。
「ちょっとハンサムさん、笑い事じゃありません! こいつ、いきなり———!」
「‥‥‥っていうか、本当にすっごくいい匂いがする‥‥‥!」
マチエールはお腹を『ぐ〜〜〜っ』と鳴らしながら、キッチンの鍋に目を輝かせた。
「おお、ノウゼン特製のポークシチューだぞ! 温かいぞ〜!」
「シチュー‥‥‥! 路地裏じゃそんなの滅多に食べられないよ!」
目を輝かせるマチエールに、ノウゼンは呆れつつも器に温かいシチューを盛りつけ、スプーンと一緒に差し出した。
「‥‥‥ほら、食え。冷めないうちに」
「やったー! いただきます!」
「‥‥‥それと、もこお、だったか? お前にはこれだ」
ノウゼンは警戒を解かないニャスパーの前に、優しくかがみ込むと、特製のポケモンフーズを小さなお皿に入れて差し出した。 もこおはマチエールの肩から恐る恐る降りると、クンクンと匂いを嗅ぎ、ノウゼンの顔とご飯を交互に見つめる。
「毒なんて入ってないよ。ほら」
ノウゼンが目線を柔らかくして促すと、もこおは「にゃぱ‥‥‥」と小さく鳴き、意を決したようにフーズを一口口にした。その途端、瞳を輝かせて夢中で食べ始める。
「あはは! もこお、すっごく気に入ってる! あんた、見た目は厳しそうだけど良い奴じゃん!」
「‥‥‥ノウゼンだ。名前くらい覚えろ」
シチューを嬉しそうに頬張るマチエールと、警戒を解いて夢中でご飯を食べるもこお。 フッと小さく口元を緩めるノウゼン。
雨の日にハンサムに拾われ、居場所を得たノウゼン・ミラー。 そして今日、同じように路地裏から連れて来られ、温かい飯に目を輝かせるマチエール。
後にミアレシティの平和を共に守り、生涯の相棒となる二人の出会いだった。
◇
ミアレシティの夜は、どれほど街灯が華やかに灯ろうとも、一歩路地裏へ入れば深い闇が潜んでいる。
ハンサムハウスの二階、くたびれたソファに腰掛けたノウゼンは、手にしたマグカップから立ち上る湯気を眺めていた。安物のインスタントコーヒーの香りが、古びた紙の匂いと混ざり合っている。
対面では、国際警察のトレンチコートを脱ぎ捨てたハンサムが、机の上に散らばった書類をまとめながら大きなため息をついていた。
「‥‥‥で? 昼間のマチエールの様子はどうだったんだ、ノウゼン」
ハンサムが疲れた顔で尋ねる。ノウゼンは背筋を正し、コーヒーをひとくち口にしてから苦笑いを浮かべた。
「どうだったもこうだったもないですよ。俺が『少しは休んだらどうだ』って言ったら、『働かざる者食うべからずだ』なんて言って、路地裏で拾ってきた怪しい部品を磨こうとしてました。相変わらず殺伐としてますね、あの子は」
「うぐっ‥‥‥やはりそうか‥‥‥」
ハンサムは頭を抱えた。
マチエールをこのハンサムハウスに保護して、まだそれほど日が経っていない。幼い見た目とは裏腹に、彼女の目には過過酷な街を生き抜いてきた者特有の冷たさと鋭さが残っていた。先日も、ハンサムを侮辱したガラ悪そうなトレーナーに対し、幼い体で容赦のない圧力をかけて追い散らしたばかりだ。ハンサムがそれを本気で叱ると、彼女はただ黙って唇を噛み締めていた。
「ノウゼン、私は心配なのだ‥‥‥。あの子がここにいることに、本当は強いストレスを感じているのではないかと。元々路地裏で仲間たちと自由に暮らしていた身だ。いきなり大人に囲まれて『勉強しろ』『良い子にしろ』と言われても、押し付けられた居場所に息が詰まっているんじゃないか?」
ハンサムの言葉には、あたたかくも切実な保護者としての苦悩が滲んでいた。ノウゼンはマグカップをコトンとテーブルに置くと、少し呆れたように息を吐いた。
「ハンサムさん、考えすぎですよ。あいつがピリピリしてるのはストレスじゃなくて『警戒心』です。今まで『タダで優しくしてくれる大人』なんて見たことがなかったんでしょう。だから、ハンサムさんのその熱い善意をどう受け止めていいか分からないだけです」
「む‥‥‥熱い善意か。だが、私としてはただあの子に……」
「わかってますよ。だからこそ、今俺たちがちゃんと教えなきゃダメなんです」
ノウゼンは背もたれに深く体を預け、天井の薄汚れた電球を見上げた。
「あいつがこの先、俺たちがそばにいなくなっても、自分の足でちゃんと立って生きていけるように。読み書きも、計算も、世の中の仕組みも‥‥‥全部叩き込んでやる必要があります。あんな顔のまま大人にさせちゃ、拾った大人として不甲斐ないですよ」
「ノウゼン‥‥‥」
ハンサムの表情が緩む。
「‥‥‥君は言葉こそ少しドライだが、本当に面倒見が良いな。国際警察にスカウトしたいくらいだ」
「勘弁してください。俺は警察なんて絶対に向きませんよ」
ノウゼンはフッと笑い、コーヒーを飲み干した。
「よし、明日はスパルタで行きますよ。あいつ、昨日『文字なんて読めなくてもポケモンと会話できれば十分だ』なんて抜かしてましたからね。まずは算数と計算ドリルからです」
◇
「‥‥‥だから! ここは5をかけてから、10を足すんだよ!」
「なんでそんな面倒なことするのさ! 普通に指で数えたほうが早いじゃんか!」
翌日の午後。ハンサムハウスの一階では、ノウゼンとマチエールの不毛な言い争いが飛び交っていた。
机の上には、ノウゼンが古本屋で買ってきた小さな算盤と、手書きの計算問題用紙が並んでいる。マチエールは額に青筋を立てながら、木製の玉を弾こうとしていたが、力が入リすぎて「パチーン!」と勢いよく玉を弾き飛ばしてしまった。
「あ! ほら見ろ、玉が飛んでっただろ!」
「ノウゼンが変なやり方教えるからでしょ! あたしはもこおの毛を数えるみたいに一個ずつ数えたいの!」
「お前な、木の実を千個仕入れる時に一個ずつ数えてたら日が暮れるだろうが! 商売でも生活でも、速い計算は自分を守る武器なんだよ!」
二人の様子を、物陰からハンサムが冷や冷やしながら見守っている。
「ま、まあまあ二人とも、落ち着きなさい‥‥‥。マチエール、ノウゼンの言うことも一理あるぞ。文字や数字は、自分を守るための鎧であり、未来を開く鍵なのだから」
「ハンサムおじさんはノウゼンの味方すんの!? ひどい!」
マチエールはぷっと頬を膨らませてそっぽを向いた。ノウゼンはため息をつき、マチエールのとなりにドカッと腰を下ろした。
「はあ‥‥‥。マチエール、お前さ、昨日の字の練習はどうした?」
「‥‥‥書いてみたよ。これでしょ」
マチエールが差し出したノートには、ミミズがのたくったような、だが一生懸命に書かれた文字が並んでいた。そこには『ハンサムさん』『ノウゼン』『もこお』という単語が、何度も何度も練習された跡があった。
ノウゼンはそのノートを手に取り、じっと見つめた。
「‥‥‥。相変わらず汚い字だな。『ノウゼン』の『ゼ』の点が一個足りないぞ。俺はノウセンじゃない」
「うぐっ‥‥‥! だって難しかったんだもん!」
「だがまあ‥‥‥」ノウゼンはマチエールの頭にポンと手を置くと、がしがしと雑に撫で回した。
「『ハンサムさん』の字は間違えてないな。合格だ」
「へ‥‥‥?」
「最初は誰だって読めないし書けないよ。俺だって昔は本なんて一ページも読めなかった。文字を見るだけで眠くなったからな。だけどな、読めるようになると世界が広がるんだ。遠くの街の劇の脚本も読めるし、美味しい料理のレシピも解読できる。お前が一人でどこに行っても困らないように、俺とハンサムさんで全部教え込んでやるから、歯食いしばってついてこい」
ノウゼンがフッと柔らかく笑うと、マチエールはハッとしたように目を見張り、それから照れくさそうに顔を背けた。
「‥‥‥ノウゼンのバカ。なによ、偉そうに‥‥‥」
その様子を見ていたハンサムは、お玉を手に取ったまま目を細め、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(‥‥‥大丈夫だ。この子は少しずつ、人間らしい温もりを取り戻している。ノウゼンがいてくれて本当によかった)
その夜、ハンサムハウスのテーブルには、ノウゼンが買ってきた甘いタルトと彼特製のスープが並んでいた。
マチエールも器用にフォークを使って、もこおとタルトを頬張っていた。
「んむ‥‥‥おいしい‥‥‥!」
「だろう? ノウゼン君が奮発してノースサイドの有名な店で買ってきたのだぞ」
「ハンサムさん、余計なこと言わないでくださいよ。たまたま賞味期限間近で安くなってただけですから」
ノウゼンは照れくさそうに言いながら、自分の分のコーヒーを啜った。
「あ、そうだ。マチエール。これやるよ」
ノウゼンがポケットから取り出したのは、一冊の小さな革表紙のノートと、新品の万年筆だった。
「なにこれ‥‥‥?」
「お前専用のノートだ。今日からの日記でもいいし、覚えた言葉を書き留めてもいい。全部埋まったら、新しいのを買ってやる」
マチエールは目を見張り、恐る恐るそのノートを受け取った。高級感のある表紙をなでると、甘い革の匂いがした。
「‥‥‥あたしに、くれるの?」
「お前以外に誰がいるんだよ。ただし! 毎日一ページは必ず書くこと。字が汚かったら厳しいチェックが入るからな」
「もう‥‥‥ノウゼンったら、すぐ先生ぶるんだから!」
マチエールはプイッと横を向いたが、その口元は嬉しさに緩んでいた。
彼女はさっそく万年筆のキャップを外し、ノートの第一ページ目に、今日覚えたばかりの綺麗な文字で書き始めた。
『きょうは、タルトをたべた。おいしかった。ノウゼンとハンサムさんは、ばかだけど、だいすきです。』
「おい、マチエール。ちょっと見せろ……って、おい! 『ばか』って書くな『ばか』って!」
「いいじゃん! 本音だもん!」
「こらノウゼン、年下の書くものにいちいちイチャモンをつけるんじゃない。どれどれ、私にも見せなさい‥‥‥む! 『ハンサムおじさんはかっこいい』とは書いていないのか!?」
「ハンサムおじさんまで何言ってるのさ!」
にぎやかな声が、ハンサムハウスの窓からミアレシティの夜空へと溶けていく。
ノウゼンは二人のやり取りを微笑ましく眺めながら、ふと窓の外の遠い空を見上げた。