ゴーン……ゴーン……
夕暮れ時のヒヨクシティ・マリン・ポート。 港の鐘楼から打ち鳴らされる重厚な金属性の音が、海風に乗って街中に響き渡る。
その音波が石畳を揺らした瞬間——路地裏の深い影が、ぬるりと動いた。
パン屋の裏口。開け放たれた小さな小窓のフチに、氷のように冷たい小さな手がかけられる。 カチリ、と硬い音が響く。机の上に置かれていたのは、店主が大切にしている真鍮製の懐中時計だ。夕日を反射してギラリと眩しい光を放つそれを、影の中の二筋の瞳が見つめていた。
ゴーン……
最後の鐘が響き渡り、人々の注意が音へ逸れた一瞬。 シャキーンと硬い爪が伸び、時計を引っ掻くように奪い去る。
「……ッ!?」
部屋の中に漂う、一瞬のひんやりとした冷気。 店主が異変に気づいて振り返った時には、すでに窓枠にうっすらと白い霜がついているだけで、時計の姿も犯人の影も、風のように消え去っていた——。
◇
カロス地方の北部に位置する風光明媚な港町・ヒヨクシティ。その沿岸部から少し離れた古く静かな港集落「マリン・ポート」へ、修行の旅の途中で訪れていたマチエールとノウゼン。 穏やかな波音が響く街の雰囲気とは裏腹に、石畳の路地裏では人々の困惑した声が飛び交っていた。
「参ったなぁ……また持っていかれたよ。父さんの形見の銀時計だったのに」
パン屋の店主が頭を抱えて溜息をつく。話を聞くと、ここ数日、街では住人や船乗りたちの「光る金属製の貴重品」ばかりが相次いで消える連続泥棒事件が発生しているのだという。 警察も捜査に乗り出しているが、犯行は一瞬。目撃証言は「青い影が風のように走り去った」というあやふやなものばかりで、手がかりは完全に途絶えていた。
「よし……あたしたちの出番だね、ノウゼン!」
マチエールは胸に飾られた、少し古びた金属製のバッジをキリッと指で弾いた。ハンサムから受け継いだ、大切な「ハンサムハウス」のバッジだ。
「ハンサムハウス2代目所長・マチエール! ハンサムおじさんに恥ずかしくないよう、この街の事件を解決してみせるんだから!」
「ニャパッ!」
もこおもやる気満々で前足を突き上げる。ノウゼンは呆れ半分、頼もしさ半分の温かな眼差しをマチエールに向け、静かに頷いた。
「わかったよ、所長。『助手』の俺はサポートだな」
マチエールは街を奔走し、被害に遭った人々への丁寧な聞き込みを開始した。 ハンサムから叩き込まれた「現場を自分の足で歩き、人の心に寄り添う」という泥臭くも確実な聞き込み調査。マチエール持ち前の親しみやすさと素直さに、街の人々も次々と口を開いていく。
「盗まれたのは、銀時計に、真鍮の古い鍵、船乗りさんの真鍮製コンパス……どれも小さくて、ギラギラ光る金属ばかり……」
聞き込みノートをめくりながら、マチエールはう〜んと首をひねる。
夢中になるあまり、昼過ぎから一度も休憩を取っていないことすら忘れていた。
ぐぅ〜〜〜っ……
静かな路地裏に、可愛らしくも大きなお腹の音が響き渡る。
「あ……」
マチエールが真っ赤になってお腹を押さえると、後ろからついてきていたノウゼンが、呆れたように小さく息を吐きながら歩み寄ってきた。
「夢中になるのはいいが、腹が減っては思考も鈍るぞ、所長」
ノウゼンが渡してきたのは、清潔な紙に包まれたあたたかいパン。先ほど聞き込みの途中で、ノウゼンが静かに買っておいてくれた街の名物のクロワッサンだ。
「はい。片手で食べられる。聞き込みを続けながらでも噛めるだろう」
「あ……ありがと、ノウゼン……! でも、ノウゼンは買ってるヒマなんてあったの?」
「所長が真剣に聞き込みをしている間にな。助手の仕事だ」
そう言って、ノウゼンはマチエールの鼻先を指で軽く突っついた。 近すぎる距離と、彼の綺麗な顔から漂う心地よい香りに、マチエールの胸が思わず跳ね上がる。
「〜〜っ! いただき……ますっ!」
照れ隠しにクロワッサンを大きく頬張るマチエール。サクサクの生地と甘いバターの風味が口いっぱいに広がり、思わず笑みがこぼれた。
「ふは〜、おいひい……! 元気でてきた!」
「食べながら喋るなと言っているだろう」
ノウゼンは苦笑しながらも、マチエールの頭をポンポンと優しく撫でる。その手つきの暖かさに、マチエールは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「よし……! お腹もいっぱいになったし、もう一踏ん張りだよ!」
「お金そのものじゃなくて、光る金属なら何でもいいみたい。犯人は光るものが大好きな……ヤミカラスとかかな?」
「いい着眼点だな、所長」
後ろからついてきていたノウゼンが、そっと影から声をかけた。
「だが、ヤミカラスなら空から侵入するはずだ。被害に遭ったパン屋の窓は小さく、室内には鋭い爪でつけられたような傷跡と、冷気を含んだ泥の足跡が残っていた。それに……『盗まれた時間』に共通点は?」
「時間……?」
マチエールはノートのメモを指でなぞった。
「パン屋さんはお昼の12時……。時計屋さんは夕方の5時……。船乗りさんは朝の8時……。あっ! 全部『大きな鐘が鳴る時間』だ!」
「つまり犯人は、鐘の音で人間の注意が逸れる瞬間、あるいは侵入音を消せる時間を狙っている。……冷気を操り、鋭い爪を持ち、素早く影に紛れるポケモン。」
ノウゼンは口元をわずかに緩め、マチエールに先を促すように目線を送った。
「犯人のポケモンの正体に、心当たりはないか?」
マチエールは目を細め、記憶の中にある知識と、現場の状況を頭の中で必死につなぎ合わせた。
「……素早くて鋭い爪……あっ、判った! 犯人は……『ニューラ』だ!」
◇
「でも……どこに逃げたんだろう? 街中を探しても見つからなかったのに……」
犯人の正体を突き止めたものの、潜伏場所に思い至らずマチエールは眉をひそめた。 ノウゼンはすぐには答えを提示せず、ゆっくりと視線を街の一番高い場所——港を見下ろす古い木造の鐘楼へと向けた。
「ニューラは高所や、暗くて狭い場所を好む。そして……あの鐘楼からは、街全体の『鐘の鳴る時間』が一番よく聞こえるはずだ」
「鐘楼……! そうか、あそこがアジトなんだ!」
マチエールたちはすぐさま港の鐘楼へと駆け出した。 石造りの土台から伸びる古い木造階段には、薄っすらと白く凍りついた小さな爪痕と、高山特有の冷気を含んだ泥の足跡が残されていた。
「足跡がある……! ノウゼンの言う通り、ここに逃げ込んだんだね!」
「焦るな。足元に注意しろ」
階段を駆け上がり、巨大な銅鐘が吊るされた最上階の天井裏へ忍び込む。そこは打ち捨てられた物置のようになっており、薄暗い部屋の奥には、盗まれた銀時計や真鍮のコンパス、光るコインがキラキラと山のように積み上げられていた。
「シャーッ!」
積み上がったお宝の陰から、素早い動きで飛び出してきたのは、やはり一匹の『ニューラ』だった。鋭い爪をシャキーンと立て、侵入者を威嚇してくる。高山から降りてきた個体らしく、その体表からは冷気が漂い、吐く息が白く煙っていた。
「やっぱりニューラだ! 返してもらうよ、みんなの大切な宝もの!」
ゴーン……ゴーン……
その時、ちょうど夕方5時の鐘が街中に響き渡った。 巨大な銅鐘が激しく振動し、重低音が部屋中に充満する。ニューラはその音の渦に紛れるようにフッと姿を消した。
「消えた……!? どこ……どこから来るの……!?」
頭上か、背後か。鐘の音で足音が完全に消され、マチエールは焦りで視線を泳がせる。 だが、ノウゼンは手を出さず、落ち着いた静かな声でマチエールに語りかけた。
「落ち着け。目に惑わされるな。ハンサムさんならどうする? 相手の『習性』を考えるんだ。ニューラが次に狙うのは……どこだ?」
(ハンサムおじさんなら……! 相手の習性、光るもの……そして、この部屋で一番輝いているものは……!)
マチエールの頭の中で、パチッと何かが繋がった。 ニューラの鋭い視線が、暗闇の中からマチエールの胸元——夕日に照らされてギラリと光る『ハンサムハウスの金属バッジ』に注がれていることに気づいたのだ。
「狙いはあたしのバッジだね! ……もこお、胸の前にバリアを!」
「ニャーッ!」
もこおが折りたたんでいた両耳を浮かせた。その耳の隙間から、抑えきれない濃密な紫色のサイコパワーの光がバチバチと漏れ出し、マチエールの胸の前に見えないエスパーの壁を展開する。
直後、暗闇から飛びかかってきたニューラの鋭い爪がバリアに激突。激しい金属音とともにニューラは体勢を崩し、床へと落下した。
「今だよ! モココ、『でんじは』!」
「モーッ!」
モンスターボールから解き放たれたモココの痺れ薬のような麻痺の電撃がニューラを包み込み、ニューラはその場に崩れ落ちて降参の意を示したのだった。
◇
盗まれた貴重品はすべて無事に持ち主の元へ戻った。
警察の手で応急手当を受けたニューラは、本来住んでいた高山へと返されることになった。街の外れで身構えるニューラに対し、マチエールはそっと膝をつき、目線を合わせて優しく語りかけた。
「寂しかったんだよね。山から降りてきて、街の灯りや綺麗なお宝が珍しかったんだと思う。……でもね、盗んじゃダメなんだ。これ、持っていきなよ」
マチエールはポケットから、進化の石も取り扱っている宝石店で買ってきたキラキラと輝く綺麗なひかりいしと甘いきのみを取り出し、ニューラの小さな手に手渡した。
「これからは山で、自分だけのとっておきの宝ものを探そうね!」
「ニュー……」
ニューラは受け取った石を愛おしそうに見つめると、マチエールに小さく鳴いて感謝を伝え、脱兎のごとく山奥へと駆け去っていった。その背中を、マチエールは満面の笑みで見送る。
マリン・ポートの広場は、そんな探偵の優しさと手腕を称える歓喜に包まれていた。
「ありがとう、若い名探偵さん! 父さんの時計が戻ってきたよ!」
パン屋の店主が感激した様子でマチエールの手を握りしめ、出来立ての香ばしい焼きたてパンが詰まった大きな紙袋を差し出す。
「うちの店の鍵も無事だったわ。本当にすごいわねぇ、ハンサムハウスの所長さん!」
おばあさんや船乗りたちがマチエールを囲み、「名探偵!」「ありがとう!」と口々に絶賛の声を送る。マチエールは「へへっ、あたしなんてまだまだだよ〜」と照れくさそうに頭を掻きながらも、誇らしさと嬉しさで胸をいっぱいにさせていた。
そんな歓声の輪から少し離れた建物の陰で、長身のノウゼンはその光景を見つめていた。
いつもは厳格で冷徹なまでに隙のないノウゼンだが、今の彼の瞳には、我が子の成長を見守る親のような、あるいは頼もしい相棒を称えるかのような、温かく深い光が宿っていた。
(……良い仕事だったな。ハンサムさんがお前に後を託した理由が、今ならよく解る)
人々から贈られたたくさんの特産品を抱えて照れるマチエールの姿に、ノウゼンは口元を穏やかに緩め、誰も気づかないほど小さく頷いたのだった。
◇
その後、二人はポケモンセンターのテレビ型ホロキャスターへ立ち寄り、別地方にいるハンサムへ事件解決の報告を行った。
画面の向こうで、ハンサムはお馴染みのトレンチコート姿で大泣きしながら画面に顔を寄せていた。
『おおお……! さすが我が二代目、マチエール! ポケモンの心まで救うとは、見事な探偵ぶりだぞ! そしてノウゼン君、陰ながらサポートしてくれて本当にありがとうな!』
「へへっ、ハンサムおじさん! あたし、もっと頑張るからね!」
ハンサムの熱苦しくも温かいエールに、マチエールとノウゼンは顔を見合わせ、フッと笑い合った。
◇
熱狂が去った夕暮れ時。 港の波止場に腰掛け、海を赤く染める夕日を眺めながら、マチエールはもらったパンを口一杯にほおばっていた。
「ふは〜、おいひい……! やっぱり事件解決の後のごはんは最高だね!」
「そうだな‥‥‥!」
隣に腰掛けたノウゼンが、呆れつつもハンカチを出してマチエールの口元を優しく拭ってくれた。 高い背丈、男らしく引き締まった体躯でありながら、どこか浮世離れした中性的な美しい顔立ち。その圧倒的な容姿を持つノウゼンが見せる甲斐甲斐しい手つきと、鼻をくすぐる落ち着いた香りに、マチエールの胸がキュンと甘く跳ね上がる。
「ねえ、ノウゼン……。今日のあたし、ちゃんと『探偵』できてたかな?」
マチエールは少し不安そうにノウゼンを見上げた。
「ノウゼンがヒントをくれなかったら、きっと犯人もアジトも分からなかったよ。あたし、まだまだ一人前には遠いよね……」
ノウゼンは海を見つめたまま、しばらく沈黙した。
そして、ゆっくりとマチエールの頭の上に大きな手を乗せると、いつもの厳格な表情を柔らかく崩した。
夕日に照らされた彼の端正な顔立ちに、今まで見たこともないほど愛おしそうで、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「何を言っている、マチエール? 犯人が『ニューラ』だと気づいたのも、自分のバッジを囮にして罠を張ったのも、すべてお前自身の洞察力と直感だ。俺は何もしていない」
ノウゼンはマチエールの目をまっすぐに見つめ、優しく語りかけた。
「……良い推理だったよ、所長」
「〜〜〜〜〜っ!?」
ノウゼンの口から贈られた、本気の称賛。そして、至近距離で向けられた、胸が苦しくなるほどに美しく温かい「本気の微笑み」。
マチエールの顔は、一瞬で夕日よりも真っ赤に染まった。 胸の中で渦巻いていた「男の人としてのノウゼン」への強い意識が、ストレートに胸を撃ち抜いてきたのだ。
「あ……う……ありがと……ノウゼン……っ」
恥ずかしさのあまり、マチエールはパンで顔を覆って俯いてしまった。
その瞬間——ノウゼンの胸の中でも、何かが小さく跳ねた。
(……あ)
真っ赤になって耳まで染め上げ、小さく身を縮めるマチエール。夕風に揺れる髪と、夕日に照らされてどこか大人びて見えるその横顔に、ノウゼンは一瞬息を呑んだ。
いつの間にか、守るべき「年下の少女」から、眩しいほどの魅力を持った「一人の女性」へと成長している——。 無意識のうちに芽生えたその胸のざわめきに、ノウゼン自身も戸惑うようにそっと視線を海へと戻し、照れ隠しをするように小さく咳払いをした。
「……さあ、明日街のみなさんにお礼を言ったら、次の街へ出発するぞ。頼りにしているぞ、名探偵」
「う、うん……! 任せてよ……!」
マチエールの膝の上にいるもこおや、勝手に出てきたゾロアークがすべてを見透かしたように意地悪く微笑む。
赤く染まるヒヨクの海。 互いに隠しきれない胸の高鳴りを抱えながら、マチエールとノウゼンは並んで立ち上がり、新たな一歩を踏み出すのだった。